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2014年7月13日 (日)

詩論・詩人論を歌う/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

「春の日の夕暮」は風景である以上に
詩が生まれ出るメカニズム(からくり)の比喩(メタファー)でもありました。

ということは
「夕暮が前進していった静脈管」というメタファーが
指し示すもの(領域)の存在を示しています。

それは詩(や詩人)が生まれる過程の
懊悩(おうのう)や思索や祈りのようなものまでを含み
詩論であり詩人論であるケースがほとんどです。

詩人として生きることを決意した中也は
日々、詩人とは何か詩とは何かを考える必要に迫られていたのです。

詩論の詩や詩人論の詩は
必要から生まれた歌でした。

優れた小説がいつも「小説とは何か」という問いを含み
その答えが小説の中に準備されるというケースは
音楽や絵画や建築などあらゆる芸術作品に見られることですが
それは詩についてもいえることでしょう。

「音楽とは何か」
「絵画とは何か」
……という問いを作者が立て
それに答えようとした苦闘の痕(あと)が
その作品の中に現われるのは
創作者がいま作っている作品の限界へと自己を追い込み
それ以上踏み込むとそれは作品ではなくなってしまうギリギリの前線にあるからで
それは必要に迫られた結果です。

中也の詩にも
「詩とは何か」という問いに答えた詩の流れがあります。

「山羊の歌」の「初期詩篇」には
詩論や詩人論を歌った詩群が大きな流れを作っています。

「秋の一日」は、

ぽけっとに手を突込んで
路次(ろじ)を抜け、波止場(はとば)に出(い)でて
今日の日の魂に合う
布切屑(きれくず)をでも探して来よう。
――ともろに詩の言葉の布(きれ)くずを探しに出かける
詩人の出発を歌います。

「黄昏」は、

――竟(つい)に私は耕やそうとは思わない!
じいっと茫然(ぼんやり)黄昏(たそがれ)の中に立って、
なんだか父親の映像が気になりだすと一歩二歩歩(あゆ)みだすばかりです
――と突然意を決して歩みはじめる姿を歌います。

蓮池の蓮の葉群に囲まれてたたずんでいた詩人は
失われた過去を思ってぼんやり悲しみに沈んでいたのです。

これも詩人の出発です。

「帰郷」は、

ああ おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云(い)う
――の「なに」は「詩」の仕事のことです。
詩(人)としての仕事の何事も成し遂げていない自分に
奮い立つ詩人の心の内を歌っています。

詩人は後悔しているのではなく
逸(はや)る心を抑えています。

「逝く夏の歌」は、

風はリボンを空に送り、
私は嘗(かつ)て陥落(かんらく)した海のことを 
その浪(なみ)のことを語ろうと思う。

騎兵聯隊(きへいれんたい)や上肢(じょうし)の運動や、
下級官吏(かきゅうかんり)の赤靴(あかぐつ)のことや、
山沿(やまぞ)いの道を乗手(のりて)もなく行く
自転車のことを語ろうと思う。
――と繰り返される「語ろうと思う。」が
作ろうとしている詩の内容を明かしています。

父の思い出は
詩人が歌おうとした大きな領域でした。

途中ですが
今回はここまで。

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