お経の文句/面白い!中也の日本語
(前回からつづく)
ひろごりて たいらかの空、
土手づたい きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。
――の「土手づたい」という言葉使いに引っかかり
そこに「違和感」を感じること自体が
繊細といえば繊細、ナイーブといえばナイーブです。
大岡昇平はこの繊細かつナイーブな言語感覚で
この言葉使いは
中也が「独創のしるし」としたものであり
「破格」として詩の中に残したものと推定、
すなわち肯定的に認知しました。
関口隆克も大岡も
最後には中也のこうした言葉使いに
了解の意思を表明したというところが
とても面白いことであります。
◇
ちなみに大岡は
こうも記していることを付け加えておきましょう。
少年時から我々に馴染み深いこういう句を、中原はダダの時代から慣用していたから、お経の文句が坊主の口から出て来るように、すぐ筆に乗って来たに相違ない。
――と。
「土手づたい」のようなフレーズが
「お経の文句」のように中也の口から出たというのは
ダダイスト高橋新吉を中也に重ねているからで
「言葉の機関銃みたい」(ランボー)とはいわない裏ハラのようでもあり
小骨が喉につっかえる感覚が少し残ります。
◇
大岡は後に(1969年)、
中也が1934年に制作し
死のふた月前(1937年8月)に発表した「道化の臨終」に関する論評を書き
これまた詳細に「中也のダダイズム」を検証し
結局は「しかしこれらはもっと慎重に検討すべき問題である。」という1行で閉じたのですが
このことを思い出させても面白いです。
◇
大岡は
「朝の歌」の論評の段階では
「土手づたい」というフレーズをめぐって
中也のダダイズムを明確に認知しながら
晩年の中也の詩「道化の臨終」のダダイズムには
結論を出さずに終わりました。
こういうところが面白いというのは
みんな発端は
中也の詩(言葉使い)だからです。
◇
今回はこれまで。
ここでは「道化の臨終」を掲出しておきましょう。
◇
道化の臨終(Etude Dadaistique)
序 曲
君ら想(おも)わないか、夜毎(よごと)何処(どこ)かの海の沖に、
火を吹く龍(りゅう)がいるかもしれぬと。
君ら想わないか、曠野(こうや)の果(はて)に、
夜毎姉妹の灯ともしていると。
君等想わないか、永遠の夜(よる)の浪、
其処(そこ)に泣く無形(むぎょう)の生物(いきもの)、
其処に見開く無形の瞳、
かの、かにかくに底の底……
心をゆすり、ときめかし、
嗚咽(おえつ)・哄笑一時(こうしょういっとき)に、肝(きも)に銘(めい)じて到(いた)るもの、
清浄(しょうじょう)こよなき漆黒(しっこく)のもの、
暖(だん)を忘れぬ紺碧(こんぺき)を……
* *
*
空の下(もと)には 池があった。
その池の めぐりに花は 咲きゆらぎ、
空はかおりと はるけくて、
今年も春は 土肥(つちこ)やし、
雲雀(ひばり)は空に 舞いのぼり、
小児(しょうに)が池に 落っこった。
小児は池に仰向(あおむ)けに、
池の縁(ふち)をば 枕にて、
あわあわあわと 吃驚(びっくり)し、
空もみないで 泣きだした。
僕の心は 残酷(ざんこく)な、
僕の心は 優婉(ゆうえん)な、
僕の心は 優婉な、
僕の心は 残酷な、
涙も流さず 僕は泣き、
空に旋毛(つむじ)を 見せながら、
紫色に 泣きまする。
僕には何も 云(い)われない。
発言不能の 境界に、
僕は日も夜も 肘(ひじ)ついて、
僕は砂粒(すなつぶ)に 照る日影だの、
風に揺られる 雑草を、
ジッと瞶(みつ)めて おりました。
どうぞ皆さん僕という、
はてなくやさしい 痴呆症(ちほうしょう)、
抑揚(よくよう)の神の 母無(おやな)し子、
岬の浜の 不死身貝(ふじみがい)、
そのほか色々 名はあれど、
命題・反対命題の、
能(あた)うかぎりの 止揚場(しようじょう)、
天(あめ)が下(した)なる 「衛生無害」、
昔ながらの薔薇(ばら)の花、
ばかげたものでも ござりましょうが、
大目(おおめ)にあずかる 為体(ていたらく)。
かく申しまする 所以(ゆえん)のものは、
泣くも笑うも 朝露(あさつゆ)の命、
星のうちなる 星の星……
砂のうちなる 砂の砂……
どうやら舌は 縺(もつ)れまするが、
浮くも沈むも 波間の瓢(ひさご)、
格別何も いりませぬ故(ゆえ)、
笛のうちなる 笛の笛、
――次第(しだい)に舌は 縺れてまいる――
至上至福(しじょうしふく)の 臨終(いまわ)の時を、
いやいや なんといおうかい、
一番お世話になりながら、
一番忘れていられるもの……
あの あれを……といって、
それでは誰方(どなた)も お分りがない……
では 忘恩(ぼうおん)悔(く)ゆる涙とか?
ええまあ それでもござりまするが……
では――
えイ、じれったや
これやこの、ゆくもかえるも
別れては、消ゆる移(うつ)り香(か)、
追いまわし、くたびれて、
秋の夜更(よふけ)に 目が覚めて、
天井板の 木理(もくめ)みて、
あなやと叫び 呆然(ぼうぜん)と……
さて われに返りはするものの、
野辺(のべ)の草葉に 盗賊の、
疲れて眠る その腰に、
隠元豆(いんげんまめ)の 刀あり、
これやこの 切れるぞえ、
と 戸の面(おもて)、丹下左膳(たんげさぜん)がこっち向き、
――狂った心としたことが、
何を云い出すことじゃやら……
さわさりながら さらばとて、
正気の構えを とりもどし、
人よ汝(いまし)が「永遠」を、
恋することのなかりせば、
シネマみたとてドッコイショのショ、
ダンスしたとてドッコイショのショ。
なぞと云ったら 笑われて、
ささも聴いては 貰(もら)えない、
さればわれ、明日は死ぬ身の、
今茲(ここ)に 不得要領……
かにかくに 書付(かきつ)けましたる、
ほんのこれ、心の片端(はしくれ)、
不備の点 恕(ゆる)され給(たま)いて、
希(ねが)わくは お道化(どけ)お道化て、
ながらえし 小者(こもの)にはあれ、
冥福(めいふく)の 多かれかしと、
神にはも 祈らせ給え。
(一九三四・六・二)
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
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