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2014年7月18日 (金)

充満する失われた恋/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

「山羊の歌」の「秋」の章は
「秋」
「修羅街輓歌」
「雪の宵」
「生い立ちの歌」
「時こそ今は……」
――の5作構成で
「秋」はこれも唐突であるかのように
死ももう、とおくはないのかもしれない……
――と僕の死が歌われる第1節に続いて
僕が死んでしまった後で
それを見届けた女性と死んだ僕との会話で作る第2節となります。

死が詩の前面に浮かんできた「秋」の章です。

忌まわしき過去への挽歌を歌い(修羅街輓歌)
別れた女は思い出となり(雪の宵)
半生を振り返る(生い立ちの歌)のは自然の成り行きですから
「時こそ今は……」の恋は
絶頂を歌っているようでありながら
過去へと遠のいていることに気づかねばなりません。

詩人の恋は
ではいったい春があり夏があったのでしょうか。

「山羊の歌」では
はじめから終わりまで
失われた恋ばかりが歌われたのではないか。
――という疑問が生じます。

疑問の目で「黄昏」や「深夜の思い」あたりまで遡ると
すでに恋は失われていることを知らされるのです。

ではもっと前に作られた
「朝の歌」や
「臨終」や
「春の夜」や
「サーカス」や
「月」はどうなのか。

これらの詩に失われた恋は充満しているともいえるのに
なぜそのように読まないかが不思議に思えてきます。

どんどん脱線していくようですが
詩(人)論の詩の系譜は
恋愛詩の系譜とクロスするのですから
脱線とはいえないことがやがてわかります。

しかし結論を急ぐのはやめて
「山羊の歌」の最終章「羊の歌」の詩(人)論の詩を追うことにしましょう。

「羊の歌」という章は
「詩(人)論」の詩の集大成のように捉えられることが多いのですが
それはどういうことかを見ることになります。

「羊の歌」は、

「秋」で歌った死を継ぐかのように
のっけから「死の時」を歌う詩です。

この詩ににはじまる「羊の歌」の章の詩については
すでに立ち入った読みを試みました。

「羊の歌」は
「冬の時代へ」ではじまる計6回のシリーズ、

「憔悴」は
「雌伏中に歌った」ではじまる計7回のシリーズ、

「いのちの声」は
「詩集の最終詩」ではじまる計15回のシリーズでしたから
参照してみてください。

途中ですが今回はここまで。

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