充満する失われた恋/面白い!中也の日本語
(前回からつづく)
「山羊の歌」の「秋」の章は
「秋」
「修羅街輓歌」
「雪の宵」
「生い立ちの歌」
「時こそ今は……」
――の5作構成で
「秋」はこれも唐突であるかのように
死ももう、とおくはないのかもしれない……
――と僕の死が歌われる第1節に続いて
僕が死んでしまった後で
それを見届けた女性と死んだ僕との会話で作る第2節となります。
死が詩の前面に浮かんできた「秋」の章です。
忌まわしき過去への挽歌を歌い(修羅街輓歌)
別れた女は思い出となり(雪の宵)
半生を振り返る(生い立ちの歌)のは自然の成り行きですから
「時こそ今は……」の恋は
絶頂を歌っているようでありながら
過去へと遠のいていることに気づかねばなりません。
◇
詩人の恋は
ではいったい春があり夏があったのでしょうか。
「山羊の歌」では
はじめから終わりまで
失われた恋ばかりが歌われたのではないか。
――という疑問が生じます。
疑問の目で「黄昏」や「深夜の思い」あたりまで遡ると
すでに恋は失われていることを知らされるのです。
ではもっと前に作られた
「朝の歌」や
「臨終」や
「春の夜」や
「サーカス」や
「月」はどうなのか。
これらの詩に失われた恋は充満しているともいえるのに
なぜそのように読まないかが不思議に思えてきます。
◇
どんどん脱線していくようですが
詩(人)論の詩の系譜は
恋愛詩の系譜とクロスするのですから
脱線とはいえないことがやがてわかります。
しかし結論を急ぐのはやめて
「山羊の歌」の最終章「羊の歌」の詩(人)論の詩を追うことにしましょう。
「羊の歌」という章は
「詩(人)論」の詩の集大成のように捉えられることが多いのですが
それはどういうことかを見ることになります。
◇
「羊の歌」は、
「秋」で歌った死を継ぐかのように
のっけから「死の時」を歌う詩です。
この詩ににはじまる「羊の歌」の章の詩については
すでに立ち入った読みを試みました。
◇
「羊の歌」は
「冬の時代へ」ではじまる計6回のシリーズ、
「憔悴」は
「雌伏中に歌った」ではじまる計7回のシリーズ、
「いのちの声」は
「詩集の最終詩」ではじまる計15回のシリーズでしたから
参照してみてください。
◇
途中ですが今回はここまで。
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