身も世もない恋の残骸/面白い!中也の日本語
(前回からつづく)
ひっぱったゴムを手離したように
――というのは
いったんは手元において制御しておいた気持ちを
好きなようにしなさいとばかりに手離して
解放するという意味合いでしょうか。
こうして自分に帰った詩人ですが
やっぱり何か世間の人のするようなことをしなければと思うと
百貨店の配達人(の物腰)を見てさえ驚嘆し(感心)するほど
(誠実そうで小心そうな気持ちを装ってみたりして)
気持ちの底はゴミゴミゴミゴミ懐疑の屑だらけ。
解放感とゴミゴミ感とのジレンマ(二律背反)が
憔悴の元になるのです。
◇
恋愛詩よりましな詩境を求めて
もっといい詩を作りたいとあがく行為は
それ自体が詩(人)論になるのですが
「憔悴」という詩に恋愛詩論は歌われていても
恋愛は歌われていないことにふとここで気づいてしまい
目が開かれる思いです。
恋愛詩はどこで途絶えたのだろう?
――という眼差しで「山羊の歌」を見ると
「憔悴」になく
「いのちの声に」なく
「羊の歌」が最後であることを発見します。
「羊の歌」の第3節、
9歳の子供がありました
――にはじまる6行3連と
もう一つは第4節
さるにても、もろに侘しいわが心
――ではじまる第4節が
集中で最後の恋愛詩になるのです。
◇
第3節を恋愛詩と見なすことができるのは
ボードレールのエピグラフ、
我が生は恐ろしい嵐のようであった、
其処此処に時々陽の光も落ちたとはいえ。
――があるので間違いないことでしょう。
恐ろしい嵐のような人生にも
陽の光が落ちたことがあるというのは
遠い日の恋を指している以外に考えられませんから。
9歳の女の子と過ごした
完全無垢な恋の時間がここで歌われましたが
この恋が泰子との恋でない理由は見当たりません。
◇
そして第4節こそ
「山羊の歌」の最後の恋愛詩ですが
そこに歌われるのは
身も世もない恋の残骸!
凍(こご)える詩人の声が聞こえてくるばかりです。
その声が破調を孕んだ五七のリズムの中に刻まれました。
◇
最後の行に
ながる涙は、人恋うる涙のそれにはもはやあらず……
(流れる涙は、人を恋する涙ではもはやない……)
――とあるのは
恋愛が完全に消えて無くなったことを歌っていますが
この詩が恋愛の消滅を歌った恋愛詩であることに変わりはありません。
◇
ここに「羊の歌」の第3節と第4節だけを
掲出しておきましょう。
Ⅲ
我が生は恐ろしい嵐のようであった、
其処此処に時々陽の光も落ちたとはいえ。
ボードレール
九歳の子供がありました
女の子供でありました
世界の空気が、彼女の有であるように
またそれは、凭(よ)っかかられるもののように
彼女は頸(くび)をかしげるのでした
私と話している時に。
私は炬燵(こたつ)にあたっていました
彼女は畳に坐っていました
冬の日の、珍(めずら)しくよい天気の午前
私の室には、陽がいっぱいでした
彼女が頸かしげると
彼女の耳朶(みみのは)陽に透(す)きました。
私を信頼しきって、安心しきって
かの女の心は密柑(みかん)の色に
そのやさしさは氾濫(はんらん)するなく、かといって
鹿のように縮かむこともありませんでした
私はすべての用件を忘れ
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味(じゅくどくがんみ)しました。
Ⅳ
さるにても、もろに佗(わび)しいわが心
夜(よ)な夜なは、下宿の室(へや)に独りいて
思いなき、思いを思う 単調の
つまし心の連弾(れんだん)よ……
汽車の笛(ふえ)聞こえもくれば
旅おもい、幼(おさな)き日をばおもうなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思わず
旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……
思いなき、おもいを思うわが胸は
閉(と)ざされて、醺生(かびは)ゆる手匣(てばこ)にこそはさも似たれ
しらけたる脣(くち)、乾きし頬(ほう)
酷薄(こくはく)の、これな寂莫(しじま)にほとぶなり……
これやこの、慣れしばかりに耐えもする
さびしさこそはせつなけれ、みずからは
それともしらず、ことように、たまさかに
ながる涙は、人恋(ひとこ)うる涙のそれにもはやあらず……
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
◇
今回はここまで。
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