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2014年8月

2014年8月31日 (日)

帰郷・「氷島」メモ7/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

朔太郎が妻・稲子と離別したのは昭和4年。
2児を引き取ったのですが
両親に預かってもらうことになり前橋に一時帰郷しましたが
まもなく単身上京し
アパ-ト乃木坂倶楽部に住みはじめました。

 

「氷島」の配列が
「乃木坂倶楽部」
「殺せかし! 殺せかし!」
「帰郷」
――となっていて
詩人の足取りと前後しているのは
詩篇の制作順であるからなのかもしれません。

 

 

となると
「殺せかし!」で歌った女性は
妻(であった)稲子の可能性も出てきますが
断定できるものではありません。

 

詩に現われる女性が
現実の女性をモデルにしていたとしても
モデルと詩の中の女性は別のものですし。

 

これらの想像は蛇足です。

 

 

ところが「詩篇小解」は
「帰郷」
「乃木坂倶楽部」
「品川沖観艦式」
――の順になっていますから
こちらは実際の足取りに沿って解説を加えたようなのです。

 

読者に向けた解説ですから
詩篇を時系列で辿ったほうが分かりやすいという配慮が働き
そのうえで「恋愛詩4篇」と再録した「郷土望景詩」を別項としたのでしょう。

 

 

「帰郷」は
「漂泊者の歌」を序詩とし
「遊園地にて」
「乃木坂倶楽部」に連なる
「氷島」本体の流れの4番目の詩ということになります。

 

 

帰郷
    昭和4年の冬、妻と離別し2児を抱えて故郷に帰る

 

わが故郷に帰れる日
汽車は烈風の中を突き行けり。
ひとり車窓に目醒むれば
汽笛は闇に吠え叫び
火焔(ほのお)は平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。
夜汽車の仄暗き車燈の影に
母なき子供等は眠り泣き
ひそかに皆わが憂愁を探(さぐ)れるなり。
鳴呼また都を逃れ来て
何所(いずこ)の家郷に行かむとするぞ。
過去は寂寥の谷に連なり
未来は絶望の岸に向えり。
砂礫(されき)のごとき人生かな!
われ既に勇気おとろえ
暗憺として長(とこし)なえに生きるに倦みたり。
いかんぞ故郷に独り帰り
さびしくまた利根川の岸に立たんや。
汽車は曠野を走り行き
自然の荒寥たる意志の彼岸に
人の憤怒(いきどおり)を烈しくせり。

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。歴史的かな遣いを新かな・新漢字に、漢数字は洋数字に改めました。ブログ編者。)

 

 

けり
せり

なり

かな
たり
……にはいずれも詠嘆の気持ちが込められています。

 

「過去・完了」や「断定」の助動詞をともない
詠嘆が強調されているといえます。

 

冒頭詩「漂泊者の歌」からずっと続いていることですが
詠嘆は激越になっています。

 

 

私小説を読むような
リアルな凄(すご)みを感じるといえば的を外すしょうか?

 

 

汽車が烈風を切り裂いて速度をあげれば
故郷は近づきます。

 

しかしこの故郷は、
鳴呼また都を逃れ来て
何所(いずこ)の家郷に行かむとするぞ。
――と歌われて安楽の地ではないことを読者は知らされます。

 

そして、
過去は寂寥の谷に連なり
未来は絶望の岸に向えり。
――と歌われ

 

いかんぞ故郷に独り帰り
さびしくまた利根川の岸に立たんや。
――と歌われ

 

ついには
人の憤怒(いきどおり)を烈しくせり。
――と爆発寸前の怒りへとせりあがってゆく心の動きが歌われるのです。

 

かたわらに「眠り泣(く)」の子らの
置いてけぼりの様子が対照的です。

 

 

これが「氷島」の帰郷です。
憤怒をともなった帰郷なのです。

 

 

中原中也の「帰郷」となんと違うことでしょう!

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年8月30日 (土)

昨日にまさる恋しさの・「氷島」メモ6/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

「氷島」は
すべての芸術的意図と芸術的野心を廃棄し、単に「心のまま」に、自然の感動に任せて書いたのである
――と「自序」に記されてあるように
詩の完成度とか意匠とか趣向とか技巧とかを目指していません。
それらを究極の目標とはしていません。

 

では何のねらい(目的)であるか。

 

芸術品であるよりも、
実生活の記録であり
心の日記であるのだろう
――と「自序」が断言をひかえて「あるのだろう」と続ける意図を
割り引いて考える必要もないことでしょう。

 

中に第一級の芸術品があったとしても。

 

 

あらゆる芸術品は
つまるところ
「消えゆく時」を捉えようとした記録(であり日記)でもあるのですから。

 

 

昨日にまさる恋しさの

昨日にまさる恋しさの
湧きくる如く高まるを
忍びてこらえ何時までか
悩みに生くるものならむ。
もとより君はかぐわしく
阿艶(あで)に匂える花なれば
わが世に一つ残されし
生死の果の情熱の
恋さえそれと知らざらむ。
空しく君を望み見て
百たび胸を焦すより
死なば死ねかし感情の
かくも苦しき日の暮れを
鉄路の道に迷い来て
破れむまでに嘆くかな
破れむまでに嘆くかな。
           ――朗吟調小曲――

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

詩集「氷島」の最終詩に
この恋愛詩が配置されていることの意味は
極めて大きいものがあるはずです。

 

その意図が人々に伝わっているかは別として
詩人のメッセージの重大な部分がここにあるという
合図のはずです。

 

それは「氷島」の全詩を読み終えて
はじめて発見できるものでしょうから
いまは何もいえることではありません。

 

この詩をいまはテキストに沿って読むことしかないのですが
最終詩であることに何らかの意味があるのなら
最終詩にいたるすべての詩が読まれないことには
最終詩であること自体が意味をなさないわけです。

 

 

「昨日にまさる恋しさの」は
句点「。」で分けられた3連の詩として読むことができるでしょう。

 

第1連に
恋しさが次第次第に高まり
忍耐する時がいつまでも続き
その果てることのない悩みを
これからも生きていかなければならないのだろうか
――と哭(な)くような私が現われるのは
これも過去のある時点を歌った歴史的現在でしょうか。

 

その時にここでも
詩(人)は入り込んでいます。

 

 

君ははじめて見たときから
かぐわしく
阿艶に匂う花だったので
忘れられなくなって
私の人生にただ一つ残された
生きるか死ぬか情熱をかける恋になるとは
知りようになかったものだった。

 

恋さえそれと知らざらむ。
――は恋さえ恋(それ)と知ることができなかった、か。

 

花やかな女性のイメージですが
阿艶(あで)には「婀娜(あだ)」のニュアンスが混じります。

 

可憐、楚々としたというよりも
あでやかな。

 

 

むなしく君を遠くから見ているだけで
百度も胸を焦がすより
死ねるものなら死んでしまえという気持ちで
こんなにも苦しい日の暮れ方を
線路に迷い出てみたものの死ねずにいる私は
破裂するほどの嘆きを嘆いている――。

 

 

「氷島」を制作した頃に
この恋は存在しなかったのだとしても
この恋をオーロラの幻燈として見る詩人が厳然としてあったのです。

 

それを記録したのですが
今は存在しなくても
かつて確かにあった恋を遠く思い出す心が失せてしまったわけではありませんでした。

 

「氷島」に
恋愛詩を配置した意図が
ぼんやりと見えてくるようですが。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年8月29日 (金)

地下鉄道にて・「氷島」メモ5/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

詩集の配列に従わずに詩篇を読むことに
若干の抵抗がありますが
「恋愛詩4篇」と詩人自らくくっているということで
「殺せかし! 殺せかし!」の次には
第13番の「地下鉄道にて」を読みます。

 

4篇の恋愛詩を昭和5―7年の作と「小解」は案内していますから
制作は乃木坂倶楽部時代(昭和4年)の後のことになりますが
1度破棄し日記に埋もれていたエピソードであるため
内容が昭和5―7年の現実であるとは限りません。

 

再生ということになりますが
詩が陽の目をみるのに
このようなことはよくあることです。

 

乃木坂時代の経験かもしれないのですが
そうと断定もできない
もっともっと古い時代のことかもしれない
恋の残影が歌われたということになります。

 

 

地下鉄道(さぶうぇい)にて

 

ひとり来りて地下鉄道(さぶうぇい)の
青き歩廊(ほーむ)をさまよいつ
君待ちかねて悲しめど
君が夢には無きものを
なに幻影(まぼろし)の後尾燈
空洞(うつろ)に暗きトンネルの
壁に映りて消え行けり。
壁に映りて過ぎ行けり。

 

     「なに幻影(まぼろし)の後尾燈」「なに幻影(まぼろし)の恋人を」に通ず。掛け詞。

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

恋の残影といいましたが
それは今、この詩を歌っているその時に存在するわけですから
残影というより
今現在ある恋です。

 

その恋は
君が夢には無きものを
――と詩人のうちに諦められているものですが
ついついそこにあるかのように思う恋です。

 

暗闇に消えていく車両の
後尾燈に恋人がかぶさるのを
後尾燈(コウビトウ)に恋人(コイビト)を掛けていると
後注にわざわざ説明している遊びのある詩でもあります。

 

 

このような恋歌は
「侘しき極光(オーロラ)の幻燈」に過ぎないものですが
「小解」は「氷島」の中に置いた意図をそれ以上に説明していません。

 

 

「氷島」の詩は
これら恋愛詩を含めてすべてが
実生活の記録とか心の日記(「自序」)とされているのです。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年8月28日 (木)

殺せかし!殺せかし!・「氷島」メモ4/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

第4番「殺せかし! 殺せかし!」は
奇っ怪な詩です。

 

奇っ怪すぎて
単独で読むには糸口がつかめないので
ほかの詩に応援を求めたくなります。

 

単独で読むと
読み間違えてしまいそうです。

 

 

そこで「詩篇小解」で恋愛詩4篇としてくくられて
その一つに挙げられている詩であることをたよりに
まとめてこの4篇を読んでみることにします。
「遊園地(るなぱーく)にて」はすでに1度読みましたが。

 

そうだからといって
この詩を読めるか自信はありません。

 

 

殺せかし! 殺せかし!

いかなればかくも気高く
優しく 麗わしく 香(かぐ)わしく
すべてを越えて君のみが匂いたまうぞ。
我れは醜き獸(けもの)にして
いかでみ情の数にも足らむ。
もとより我れは奴隷なり 家畜なり
君がみ足の下に腹這い 犬の如くに仕えまつらむ。
願くは我れを踏みつけ
侮辱し
唾(つば)を吐きかけ
また床の上に蹴り
きびしく苛責し
ああ 遂に――
わが息の根の止まる時までも。

我れはもとより家畜なり 奴隷なり
悲しき忍従に耐えむより
はや君の鞭の手をあげ殺せかし。
打ち殺せかし! 打ち殺せかし!

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

気高く
優しく 
麗わしく 
香(かぐ)わしく
すべてを越えて君のみが匂いたまう
――という女性も
今やオーロラの幻なのでしょう、きっと。

 

すべての詩行が現在形で書かれてあるからといって
これが現在進行中の恋なのではありません。

 

 

この女性の前では
私=詩人は醜い獣でしかなく
女性の情のおよぶところではありません。

 

家畜であり奴隷であることを思い知るのですが
家畜であり奴隷であることは
いまにはじまったことでもありません。

 

我れはもとより家畜なり 奴隷なり
――であったのであり
どうやらそれは忍従に耐える悲しみの中にあった私のことと知らされます。

 

悲しき忍従に耐えむより
はや君の鞭の手をあげ殺せかし。
――という詩行を
このように読んでよいものか。

 

そのような過去があり
その女性によって
殺されてしまいたいと願うほどその女性を崇拝したことがあった、と。

 

 

家畜は
前作「乃木坂倶楽部」に
今も尚家畜の如くに飢えたるかな。
――と歌われた飢えの中にある詩人のことでもあります。

 

この家畜と同様のものかは
断定できませんが。

 

無縁とはいえないでしょう。

 

今も家畜のように飢えている詩人は
何物をも喪失せず
また一切を失い尽した
――という漂泊の果ての今日というある日には
白昼の街の酒場に酔いを求めます。

 

 

この飢えが
殺せかし!の叫びにつながるのでしょうか?

 

 

氷島の上に独り住み居て、そもそも何の愛恋ぞや。
過去は恥多く悔い多し。
――と「小解」は記したあとに

 

これもまた北極の長夜に見たる、侘しき極光(オーロラ)の幻燈なるべし
――と続けています。

 

「殺せかし!」という叫び(愛恋)もまた
アイスランド(氷島)をさすらう詩人が見る
幻光の一つでした。

 

 

この詩の現在形は
いわゆる歴史的現在です。

 

遠い遠い昔のことなのかもしれません。

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

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2014年8月27日 (水)

乃木坂倶楽部・「氷島」メモ3/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

「氷島」第3番は「乃木坂倶楽部」です。
この詩は朔太郎晩年に朔太郎自身が朗読した肉声が保存されていて
それが国立国会図書館のサービス「近代デジタルライブラリー」で聞けますので
まずそれを聞いてみてください。

 

「乃木坂倶楽部」と「火」は「氷島」に所収、
「沼沢地方」は「青猫(以後)」に所収の詩です。

 

 

乃木坂倶楽部

十二月また来れり。
なんぞこの冬の寒きや。
去年はアパートの五階に住み
荒漠たる洋室の中
壁に寝台(べっと)を寄せてさびしく眠れり。
わが思惟するものは何ぞや
すでに人生の虚妄に疲れて
今も尚家畜の如くに飢えたるかな。
我れは何物をも喪失せず
また一切を失い尽せり。
いかなれば追わるる如く
歳暮の忙がしき街を憂い迷いて
昼もなお酒場の椅子に酔わむとするぞ。
虚空を翔け行く鳥の如く
情緒もまた久しき過去に消え去るべし。

十二月また来れり
なんぞこの冬の寒きや。
訪うものは扉(どあ)を叩(の)っくし
われの懶惰を見て憐れみ去れども
石炭もなく暖炉もなく
白亜の荒漠たる洋室の中
我れひとり寝台(べっと)に醒めて
白昼(ひる)もなお熊の如くに眠れるなり。

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

詩を声を通じて聞けるなんて
あたかも詩の中に入り込むような経験ですね。

 

しかもその詩を自作した朔太郎の肉声で聞けるなんて!

 

草野心平が中也の「サーカス」を録音しなかったことを悔やんでいるのが
思い出されてしまいます。

 

 

「乃木坂倶楽部」には
やや長めの「小解」があります。
全文を読みましょう。

 

 

乃木坂倶楽部 乃木坂倶楽部は麻布一連隊の附近、坂を登る崖上にあり。我れ非情の妻と別れてより、二児を家郷の母に托し、暫くこのアパートメントに寓す。連日荒妄し、懶惰最も極めたり。白昼(ひる)はベットに寝ねて寒さに悲しみ、夜は遅く起きて徘徊す。稀れに訪う人あれども応えず、扉(どあ)に固く鍵を閉せり。我が知れる悲しき職業の女等、ひそかに我が孤寠を憫む如く、時に来りて部屋を掃除し、漸く衣類を整頓せり。一日辻潤来り、わが生活の荒蕪を見て唖然とせしが、忽ち顧みて大に笑い、共に酒を汲んで長嘆す。

 

 

昭和4年、朔太郎は妻・稲子と離別し二人の子を引き取りましたが、
この子らを前橋に住む母親に預けるために一時帰郷。
まもなく単身上京して住んだのが
赤坂区檜町の乃木坂倶楽部という名のアパートでした。

 

荒妄、懶惰極めたという独身生活のなかで生まれた詩が幾つかあり
これもその一つです。

 

 

ダダイスト辻潤が訪れて
朔太郎の生活の猛者(もさ)ぶりにいったんは唖然とするのですが
瞬時に親しみを覚えて大笑い
二人は酒を酌み交わしては長いため息をついたとわざわざ記す日もありました。

 

詩にこの訪問そのものは歌われていませんが。

 

訪ねてきた者の多くはドアをノックし
詩人の荒妄し懶惰な生活を見て憐れみ去ってしまいます
――と「小解」が記した実際の生活がそのままであるかはわかりません。

 

 

石炭も暖炉もない洋室の中で
わたしはひとりベッドに醒めて夜を過ごし
白昼には熊のように眠るのだ
――と詩は歌うのですが、

 

我れひとり寝台(べっと)に醒めて
――には、
遊び呆(ほお)けていたばかりではない詩人の生活がしのばれます。

 

夜の時間の大部分は
詩作に費やされたのでしょう。

 

真昼に熊のように眠る詩人は
真夜中を眠らない創作者であったのです。

 

「小解」に
夜は遅く起きて徘徊す。
――とあるように
毎夜が作詩の時間でなかったとしても。

 

 

思惟はそこにありました。

 

すでに人生の虚妄に疲れ
今も家畜のように飢え

 

何物をも喪失せず
また一切を失い尽した

 

――と振り返らざるをえない時間がそこにありました。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年8月26日 (火)

遊園地にて・「氷島」メモ2/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

「氷島」2番目の詩「遊園地(るなぱーく)にて」は
「詩篇小解」によれば「恋愛詩」のグループになりますが
配列にしたがってここで読むことにしました。

 

 

遊園地(るなぱーく)にて

 

遊園地(るなぱーく)の午後なりき
楽隊は空に轟き
回転木馬の目まぐるしく
艶めく紅(べに)のごむ風船
群集の上を飛び行けり。

 

今日の日曜を此所に来りて
われら模擬飛行機の座席に乗れど
側へに思惟するものは寂しきなり。
なになれば君が瞳孔(ひとみ)に
やさしき憂愁をたたえ給うか。
座席に肩を寄りそいて
接吻(きす)するみ手を借したまえや。

 

見よこの飛翔する空の向うに
一つの地平は高く揚り また傾き 低く沈み行かんとす。
暮春に迫る落日の前
われら既にこれを見たり
いかんぞ人生を展開せざらむ。
今日の果敢なき憂愁を捨て
飛べよかし! 飛べよかし!

 

明るき四月の外光の中
嬉嬉たる群集の中に混りて
ふたり模擬飛行機の座席に乗れど
君の円舞曲(わるつ)は遠くして
側へに思惟するものは寂しきなり。

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

2度現われる「側へ」は
「カタエ」または「ソバエ」と発声しますが
現代かな遣いでも「へ」と記して「エ」と読む習いですから
「へ」を生かして表記しました。

 

原詩を歴史的かな遣い(歴史的表記)で読みたい場合には
青空文庫を参照してください。

 

 

この遊園地が東京のものであることは
この詩が作られた昭和初期に
「模擬飛行機」を有する遊園地が
前橋にはなかったであろうと想像されることからの推測ですが
あるいはこの推測は間違っているかもしれません。

 

遊園地が東京のものか
前橋のものであるか。
ここでもそれは大きな問題ではないでしょう。

 

 

「詩篇小解」に、
我れの如き極地の人、氷島の上に独り住み居て、そもそも何の愛恋ぞや。過去は恥多く悔多し。これもまた北極の長夜に見たる、侘しき極光(おーろら)の幻燈なるべし。
――とあるのは
「自序」に、
著者の過去の生活は、北海の極地を漂い流れる、侘しい氷山の生活だった。その氷山の嶋嶋から、幻像(まぼろし)のようなオーロラを見て、著者はあこがれ、悩み、悦び、悲しみ、且つ自ら怒りつつ、空しく潮流のままに漂泊して来た。
――とあるのに呼応しています。

 

 

恋もまた
それが遠い過去にあったものであっても
北極の夜に見たオーロラの幻のようなものであったのです。

 

その幻を
あこがれ悩み悦び悲しみ怒りつつ
むなしくも漂流してきたというのは
詩人が永遠の漂泊者であり
どこにも帰るべき家郷を持たない「ハイマート・ロス(故郷喪失者)」であることの自覚の表明です。

 

「自序」がそのように表明していることを
一つひとつの詩は
手を変え品を変え歌います。

 

 

「遊園地にて」でも
幻のオーロラが歌われました。

 

 

なになれば君が瞳孔(ひとみ)に
やさしき憂愁をたたえ給うか。
(どうして君はその瞳にやさしい憂愁の表情を浮かべたのでしょうか。)

 

座席に肩を寄りそいて
接吻(きす)するみ手を借したまえや。
(座席に肩を近づけてキスする手を貸してごらん。)
――には
恋が頂点に達しようとした瞬間があったことが歌われました。

 

 

われら既にこれを見たり
――の「これ」が何を指示するものか。

 

地平が高くあがりまた傾き低く沈み行こうとする
その落日を前にして見たのが「これ」のようですが。

 

側へに思惟するものは寂しきなり。
――に求められるのでしょうか。

 

 

いかんぞ人生を展開せざらむ。
(どうにかして人生を展開できないものか。)

 

今日の果敢なき憂愁を捨て
(今日のはかない憂愁を捨て去り)
飛べよかし! 飛べよかし!
(飛べよ! 飛べよ!)
――には、しかし、この沈滞から
立ち上ろうとして自らを励ます詩人の肉声があります。

 

 

にもかかわらず
もう一度、
側へに思惟するものは寂しきなり。
――と繰り返されてこの詩は閉じるのですから
ここに詩人の現在はあるといわねばならないでしょう。

 

 

もう一息のところで
恋を追いやってしまうのは
詩人の思惟なのでしょうか。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年8月25日 (月)

漂泊者の歌・「氷島」メモ1/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

「氷島」には25篇の詩が収められています。

 

それを大きく二つに分けることができるかどうか。
作者=詩人が一つにまとめた詩の集まりを
わざわざ分解して分析する意味はないのかもしれませんが
ここではなんの取っ掛かりもないので
便宜的に分類するということにします。

 

その印にしたのは
詩に歌われた場所です。

 

一つは東京での景物を扱ったグループ、
もう一つが生地・前橋を歌ったグループです。

 

繰り返しますが
あくまでも便宜的な分類です。

 

 

……とここまで書いてきて
「詩篇小解」に「恋愛詩4篇」とあるのを知り
やや尻込みしてしまいますが
詩人が「恋愛詩」と呼ぶ
「遊園地(るなぱーく)にて」
「殺せかし! 殺せかし!」
「地下鉄道(さぶうぇい)にて」
「昨日にまさる恋しさの」
――の4篇は「トポス(場所)」を選びませんから
この際気にしないことにします。

 

別に一括(ひとくく)りして読めばよいことにしましょう。

 

あえていえば、
「殺せかし! 殺せかし!」は
トポス(場所)を示す詩語はなく
「遊園地(るなぱーく)にて」
「地下鉄道(さぶうぇい)にて」
――は東京グループ
「昨日にまさる恋しさの」
――は前橋グループといえるかもしれません。

 

 

東京から前橋へと
詩が歌う場所は変化するのですが
その底流にあるものは同じです。

 

どこにあろうと
詩人は氷(こおり)の島を行くさすらい人でした。

 

 

漂泊者の歌

日は断崖の上に登り
憂いは陸橋の下を低く歩めり。
無限に遠き空の彼方
続ける鉄路の棚の背後(うしろ)に
一つの寂しき影は漂う。

ああ汝 漂泊者!
過去より来りて未来を過ぎ
久遠の郷愁を追い行くもの。
いかなれば蹌爾として
時計の如くに憂い歩むぞ。
石もて蛇を殺すごとく
一つの輪廻を断絶して
意志なき寂寥を踏み切れかし。

ああ 悪魔よりも孤独にして
汝は氷霜の冬に耐えたるかな!
かつて何物をも信ずることなく
汝の信ずるところに憤怒を知れり。
かつて欲情の否定を知らず
汝の欲情するものを弾劾せり。
いかなればまた愁い疲れて
やさしく抱かれ接吻(きす)する者の家に帰らん。
かつて何物をも汝は愛せず
何物もまたかつて汝を愛せざるべし。

ああ汝 寂寥の人
悲しき落日の坂を登りて
意志なき断崖を漂泊(さまよ)い行けど
いずこに家郷はあらざるべし。
汝の家郷は有らざるべし!

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

冒頭詩「漂泊者の歌」は
そのさすらい(漂泊)を歌い
詩集序としています。(「詩篇小解」)

 

その第1連、

 

日は断崖の上に登り
憂いは陸橋の下を低く歩めり。
無限に遠き空の彼方
続ける鉄路の棚の背後(うしろ)に
一つの寂しき影は漂う。

――のここがどこであるか
「陸橋」や「鉄路」が東京のものか前橋のものか
きっとどちらでもよいことでしょう。

 

きっとどちらでもあります。

 

どちらにあっても
さすらい人から寂寥が去ることはないはずですし。

 

石もて蛇を殺すごとく
一つの輪廻を断絶して

 

――という、この意志なき寂寥を
詩人は踏み切らねばならなかったのですし。

 

 

「蹌爾(そうじ)として」は
「卒爾(そつじ)ながら」などと使われる「爾」(※断定をあらわす助詞)を
「蹌踉(そうろう)として」などと使われる「蹌」に連ねたもので
「ふらふらと彷徨(さまよ)う」様子を表わそうとしたものでしょう。

 

第1連に「漂う」とあり
最終連に「漂泊い」(さまよい)とあるのに通じています。

 

漢語の使用が多いといわれますが
難解にならないように詩人は配慮しています。

 

 

意志なき寂寥(第2連)
意志なき断崖(第4連)
――と二つ現われる「意志なき」をどう読むか。

 

「こんなはずではなかった」「自ら望んだわけではないのに」というニュアンスを
「意志なき」に読み取れなくはありませんが
寂寥や断崖に「意志」があるわけではないということなのでしょうか。

 

 

愛せざるべし。(第3連)
あらざるべし。(最終連)
有らざるべし!(同)
――のような平明な文語表現には
いっそう注意を要するところでしょう。

 

 

ここは、
愛さななかったであろう。
あらなかったであろう。(なかっただろう。)
有らなかったであろう!(なかったであろう!)
――と読んでおきます。

 

とすれば、

 

かつて何物をも汝は愛せず
何物もまたかつて汝を愛せざるべし。
――は
むかしは何ものをもお前は愛することができなかったし
何ものもまたむかしはお前を愛することができなかっただろう

 

いずこに家郷はあらざるべし。
汝の家郷は有らざるべし!
――は
どこにも家郷はなかっただろう。
お前に家郷はなかったのだ!
――と読むことになります。

 

「!」をつければ
「べし」は断定に変化します。

 

 

家郷はないのですが
氷の島だけが家郷であるかのように聞こえてきます。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年8月24日 (日)

割れる「氷島」評価/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

萩原朔太郎が第6詩集「氷島」を出したのは
昭和9年(1934年)6月、48歳のことでした。
前年、世田谷・代田に自ら設計した家に住みはじめています。

 

中原中也は前年に
青山二郎の所有する新宿・花園アパートに暮らしはじめました。

 

第6詩集というのは
月に吠える
青猫
蝶を夢む
純情小曲集
萩原朔太郎詩集
氷島
定本青猫
宿命
――という三好達治選「萩原朔太郎詩集」の考えによるものです。

 

 

評価の割れる「氷島」については
詩一つひとつを丹念に読むことが
後にも先にも求められていることでしょうから
詩集そのものをひもといてみます。

 

 

まずは「萩原朔太郎全集 第2卷」(筑摩書房)で
目次をみておくと――。

 

氷島

 

自序

 

我が心また新しく泣かんとす 冬暮れぬ思いお越せや岩に牡蠣

 

漂泊者の歌
遊園地(るなぱーく)にて
乃木坂倶楽部
殺せかし! 殺せかし!
帰郷
波宜亭
家庭
珈琲店 酔月
新年
晩秋
品川沖観艦式

地下鉄道(さぶうぇい)にて
小出新道
告別
動物園にて
中学の校庭
国定忠治の墓
広瀬川

無用の書物
虚無の鴉
我れの持たざるものは一切なり
監獄裏の林
昨日にまさる恋しさの

 

詩篇小解

 

――という構成です。
(※新漢字に直しました。以下同じです。)

 

詩集タイトル
自序
エピグラフ(自作俳句)
詩篇25篇
――のほかに「詩篇小解」というミニ解説が付されているのが目を引きます。

 

巻頭の蕪村的な俳句は
岩にしみいる蝉の声(芭蕉)――と反響しているでしょうか。

 

 

なんといっても重要なのは
詩篇25篇のうち5篇が
「純情小曲集」の「郷土望景詩」からの再録詩篇であることでしょう。

 

その点について自序は次のように述べています。

 

 

因に、集中の「郷土望景詩」5篇は、中「監獄裏の林」の1篇を除く外、すべて既刊の集に発表した旧作である。此所にそれを再録したのは、詩のスタイルを同一にし、且つ内容に於ても、本書の詩篇と一脈の通ずる精神があるからである。換言すればこの詩集は、或る意味に於て「郷土望景詩」の続篇であるかも知れない。

 

 

「続篇であるかも知れない」という背後には
詩集「氷島」は
「郷土望景詩」の続編として読んでもらってかまわないし
読んでほしいし
そのように編んだ詩集といいたいばかりのメッセージが潜んでいるかのようです。

 

 

そして「郷土望景詩」から再録した詩篇については
「詩篇小解」に、

 

 郷土望景詩(再録)  郷土望景詩五篇、中「監獄裏の林」を除き、すべて前の詩集より再録す。「波宜亭」「小出新道」「広瀬川」等、皆我が故郷上州前橋市にあり。我れ少年の日より、常にその河辺を逍遥し、その街路を行き、その小旗亭の庭に遊べり。蒼茫として歳月過ぎ、広瀬川今も白く流れたれども、わが生の無為を救ふべからず。今はた無恥の詩集を刊して、再度世の笑ひを招かんとす。稿して此所に筆を終り、いかんぞ自ら懺死せざらむ。

 

著者は東京に住んで居ながら、故郷上州の平野の空を、いつも心の上に感じ、烈しく詩情を敍べるのである。それ故にこそ、すべての詩篇は「朗吟」であり、朗吟の情感で歌はれて居る。読者は声に出して読むべきであり、決して黙読すべきではない。これは「歌ふための詩(うた)」なのである。

 

――と案内しています。

 

「監獄裏の林」は「純情小曲集」には収録されなかったものですが
第5詩集「萩原朔太郎詩集」(第一書房)に発表されていたものです。

 

これを含めて再録詩篇は
「波宜亭」
「小出新道」
「中学の校庭」
「広瀬川」
――の5篇ということです。

 

 

「氷島」でもう一つ見逃せないのは
自序に、

 

 著者の過去の生活は、北海の極地を漂ひ流れる、侘しい氷山の生活だつた。その氷山の嶋嶋から、幻像(まぼろし)のやうなオーロラを見て、著者はあこがれ、惱み、悦び、悲しみ、且つ自ら怒りつつ、空しく潮流のままに漂泊して來た。著者は「永遠の漂泊者」であり、何所に宿るべき家郷も持たない。著者の心の上には、常に極地の侘しい曇天があり、魂を切り裂く氷島の風が鳴り叫んで居る。さうした痛ましい人生と、その實生活の日記とを、著者はすべて此等の詩篇に書いたのである。
――と「氷島」というタイトルのいわれなどを説明しているところでしょう。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年8月22日 (金)

憤激に満ちた故郷憧憬詩

(前回からつづく)

 

萩原朔太郎が「純情小曲集」の自序で書いたことは
二つあります。

 

一つは「愛憐詩篇」についてで
もう一つは「郷土望景詩」についてです。

 

 

「愛憐詩篇」については
やさしい純情にみちた過去の日を記念するために、この葉っぱのような詩集を出すことにした
――と書き、
この詩集を世に出すのは、改めてその鑑賞的評価を問うためではなく、まったく私自身への過去を追憶したいためである
――と重ねてこれらの詩篇はすでに過去の産物であることを強調しています。

 

ここに謙遜があったとしても
「郷土望景詩」との違いを打ち消すものではありません。

 

 

「郷土望景詩」に関しては、
私のながく住んでいる田舎の小都邑と、その付近の風物を咏じ、あわせて私自身の主観をうたひこんだ。

 

この詩風に文語体を試みたのは、いささか心に激するところがあって、語調の烈しきを欲したのと、一にはそれが、詠嘆的の純情詩であったからである。

 

ともあれこの詩篇の内容とスタイルとは、私にしては分離できない事情である。

 

――と「文語」を使った理由を記しますが
詩内容への掘り下げた自己評価へ発展することはなく
むしろ敢えてそれは避けられているように見受けられます。

 

 

そしてまた最後に、
この詩集は、詩集である以外に、私の過去の生活記念でもある故に、
――と過去のものであることが繰り返して述べられるのです。

 

ここで幾つか読んでみましょう。
「新かな・新漢字」にして読みやすくしたものです。

 

 

小出新道

ここに道路の新開せるは
直(ちょく)として市街に通ずるならん。
われこの新道の交路に立てど
さびしき四方(よも)の地平をきわめず
暗鬱なる日かな
天日家竝の軒に低くして
林の雜木まばらに伐られたり。
いかんぞ いかんぞ思惟をかえさん
われの叛きて行かざる道に
新しき樹木みな伐られたり。



新前橋駅

野に新しき停車場は建てられたり
便所の扉(とびら)風にふかれ
ペンキの匂い草いきれの中に強しや。
烈烈たる日かな
われこの停車場に来りて口の渇きにたえず
いずこに氷を喰(は)まむとして売る店を見ず
ぼうぼうたる麦の遠きに連なりながれたり。
いかなればわれの望めるものはあらざるか
憂愁の暦は酢え
心はげしき苦痛にたえずして旅に出でんとす。
ああこの古びたる鞄をさげてよろめけども
われは痩犬のごとくして憫れむ人もあらじや。
いま日は構外の野景に高く
農夫らの鋤に蒲公英の茎は刈られ倒されたり。
われひとり寂しき歩廊(ほーむ)の上に立てば
ああはるかなる所よりして
かの海のごとく轟ろき 感情の軋(きし)りつつ来るを知れり。

 



公園の椅子

人気なき公園の椅子にもたれて
われの思うことはきょうもまた烈しきなり。
いかなれば故郷(こきょう)のひとのわれに辛(つら)く
かなしきすももの核(たね)を噛まむとするぞ。
遠き越後の山に雪の光りて
麦もまたひとの怒りにふるえおののくか。
われを嘲けりわらう声は野山にみち
苦しみの叫びは心臓を破裂せり。
かくばかり
つれなきものへの執着をされ。
ああ生れたる故郷の土(つち)を踏み去れよ。
われは指にするどく研(と)げるナイフをもち
葉桜のころ
さびしき椅子に「復讐」の文字を刻みたり。

 

 

これが朔太郎のいう
「いささか心に激するところ」の
「語調の烈しき」
「詠嘆的の純情詩」です。

 

なんという激越な!
これほど憤激に満ちた故郷憧憬詩は
朔太郎のほかに類例を見つけることは困難です。

 

犀星の序にしても
「郷土望景詩」の激情(その現代性)に一言も触れていません。

 

「郷土望景詩」は
2014年現在という「時代の眼差し」で見れば(見ても)
「月に吠える」よりも優れた詩集であるかもしれないのにもかかわらず。

 

 

どうも朔太郎の評価は
好悪を含めて
真っ二つに割れる傾向があるようです。

 

「郷土望景詩」を評価する眼差しは
三好達治を待つほかになかったのでしょうか?

 

この詩集が世に現われた当時
とりわけ「郷土望景詩」を激賞した芥川龍之介のような読者は
ほかに現われなかったのでしょうか?

 

詩壇内部にいた詩人たちは
どのように「郷土望景詩」を受容(または拒否)したのでしょうか?

 

 

関心がそちらのほうへ傾くのを押さえることができませんが
ここでは三好達治の発言に耳を傾けておきましょう。

 

 

さて二つの主著「月に吠える」「青猫」の後に、後者の拾遺に引続く「郷土望景詩」11篇(「純情小曲集」後半、大正14年作)は、その簡潔直截なスタイルと現実的即事実的な取材において、従ってまたその情感のさし逼った具体性において、この詩人の従前の諸作から遥かに埒外に出た、篇什こそ乏しけれ一箇隔絶した詩風を別に鮮明にかかげたものであった。

 

この独立した一小頂点の標高は、あるいは前二著に卓(ぬき)んでていたかもしれない。しかしながらこの詩風の一時期は、極めて短小な時日の後に終息した。それはそういう性質のものであったから、それが当然でもあったが、その事自身への何か渇きのようなものをさえ持越させはしなかったであろうか。
(略)

 

(三好達治選「萩原朔太郎詩集」あとがきより。)

 

 

このあとがきが書かれたのは
昭和26年11月のことでした。

 

朔太郎没後10年になろうとしていた時期です。

 

朔太郎の生前、
詩集「氷島」(昭和9年発行)をめぐって
三好と朔太郎は真っ向から意見を異にしたことは有名です。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年8月21日 (木)

遠きにありて思う「郷土」

(前回からつづく)

 

「夜汽車」とともに
「朱欒(ザムボア)」の大正2年5月号に掲載された詩は
みな「抒情小曲集」の「愛憐詩篇」に収められています。

 

「夜汽車」を含め
「こころ」
「女よ」
「桜」
「旅上」
「金魚」
――の6篇です。

 

「夜汽車」以外の5篇にも
ここで目を通しておきましょう。

 

 

こころ

こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

こころはまた夕闇の園生のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
ああこのこころをばなににたとへん。

こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。

 

 

心というものを何に喩えたらよいのだろう。

 

心はアジサイの花に似て
また公園の吹き上げ(泉水)に似ているけれど。

 

二人の旅人みたいなものかなあ。
一人は片言もものをしゃべらず
いつもさびしい二人。

 

そのどっちもが僕の中にいるよ。

 



女よ

うすくれなゐにくちびるはいろどられ
粉おしろいのにほひは襟脚に白くつめたし。
女よ
そのごむのごとき乳房をもて
あまりに強くわが胸を圧するなかれ
また魚のごときゆびさきもて
あまりに狡猾にわが背中をばくすぐるなかれ
女よ
ああそのかぐはしき吐息もて
あまりにちかくわが顏をみつむるなかれ
女よ
そのたはむれをやめよ
いつもかくするゆゑに
女よ 汝はかなし。

 

 

ゴムのごとき乳房が忘れられなくなる詩ですね。
そしてどこかつくりものめいた肉感があるのは
「月に吠える」への繋がりを思わせますが。

 

中也の「女へ」への反響はどうでしょうか?





桜のしたに人あまたつどひ居ぬ
なにをして遊ぶならむ。
われも桜の木の下に立ちてみたれども
わがこころはつめたくして
花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ。
いとほしや
いま春の日のまひるどき
あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。

 

 

花見花見と
人はなにを騒ぐのだろうか。
僕も桜の木の下に立ってみたけれど
うかれない。
散る花びらに涙がこぼれるだけ。
悲しいものを見ているわけでもないのに。



旅上

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。

 

 

フランスへ行きたいと思うけど
フランスはあまりに遠い
せめて新調した背広を着て
旅に出てみよう。

 

水色の窓辺に寄りかかって
楽しいことを想像していよう。

 

5月の朝まだき
若草が萌え出るのに心を任せて。

 

詩人は旅に出ていないのですね。



金魚

金魚のうろこは赤けれども
その目のいろのさびしさ。
さくらの花はさきてほころべども
かくばかり
なげきの淵(ふち)に身をなげすてたる我の悲しさ。

 

 

金魚は赤いけど
目はなんと寂しげなんだ。
桜が咲きほころぶ季節になっても
わたしは嘆きの底にあるという悲しさよ。

 

 

詩集「純情小曲集」は
「夜汽車」を含むこれら6篇を前半部とし
後半部にさらに12篇を収めて「愛憐詩篇」とします。

 

この「愛憐詩篇」のほかに
「愛憐詩篇」よりも後で制作された詩群10篇を配置し
「郷土望景詩」と章題をつけました。

 

朔太郎が
「愛憐詩篇」と「郷土望景詩」を合わせて「純情小曲集」という1冊の詩集にしたのは
大正14年(1925年)のことでした。
生地前橋を離れ上京してからです。

 

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
――と畏友室生犀星が歌ったのに応えるかのように。

 

 

「純情小曲集」に寄せた朔太郎の自序には
この詩集への朔太郎自身の思いが込められて
強い響きを放っているようです。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年8月20日 (水)

白秋の恋を歌った?朔太郎「夜汽車」

(前回からつづく)

 

「朱欒」か「未来」か。
どちらかに詩が載ることは詩人として直ちに認められる――。

 

それほどの権威ある雑誌であるから、いくら投書したって容易に載せられるものではなく、たいてい没書にきまって居る。僕も没書を覚悟で出したが、幸いにして採用され、その上白秋氏から賞讃の御言葉まで頂戴した。(「詩壇に出た頃」)
――という経過で、
朔太郎の詩は白秋主宰の雑誌「朱欒」に発表されました。

 

その最初の詩が「夜汽車」(はじめは「みちゆき」。後に改題)でした。

 

 

夜汽車

有明のうすらあかりは
硝子戸に指のあとつめたく
ほの白みゆく山の端は
みづがねのごとくにしめやかなれども
まだ旅びとのねむりさめやらねば
つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや。
あまたるき”にす”のにほひも
そこはかとなきはまきたばこの烟さへ
夜汽車にてあれたる舌には侘しきを
いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。
まだ山科(やましな)は過ぎずや
空氣まくらの口金(くちがね)をゆるめて
そつと息をぬいてみる女ごころ
ふと二人かなしさに身をすりよせ
しののめちかき汽車の窓より外(そと)をながむれば
ところもしらぬ山里に
さも白く咲きてゐたるをだまきの花。

 

(三好達治選「萩原朔太郎詩集」岩波文庫、1990年11月15日第47刷発行より。傍点は” ”で示しました。編者。)

 

 

有明
しののめ
――といった時候の示し方。

 

みづがねのごとく
――の古風な比喩。(みづがねは、水銀のことでしょう。)

 

こちたし
――などの古語。(万葉や枕草子、源氏物語にも現われる!)

 

……など。

 

一読して文語基調の言葉遣いの中に、
つかれたる電燈
あまたるき”にす”
はまきたばこの烟
空氣まくら
――などに「時代」がにじみ出ていますね。

 

身にひきつめて嘆くらむ
――の「らむ」は人妻の気持ちを推し量る私(作者)の存在を示しますし
「身にひきつめて」はめずらしい用語で印象に残ります。

 

 

「若菜集」が明治のにおいならば
「夜汽車」は大正でしょうか。

 

 

それにもまして
中に「人妻」が現われ
タイトルが元は「みちゆき」だったことを知ると
朔太郎は白秋の恋を意識してこの詩を作ったのか
単なる偶然かと問いが生まれてきて
同時に驚きを禁じえません。

 

 

事実がどうであったかを知ることは
そんなに大きな問題ではありません。

 

偶然の一致であったとしても
この詩が歌っている内容を味わうことに影響しません。

 

おだまきの花は
静御前の故事をも想起させますが
そのような連想も読み手の自由の中にあることでしょう。

 

 

一組の男女の道行きを
この詩は男の側から歌っています。

 

そのことだけで詩ですし
そのほかはエピソードです。

 

エピソードを知って
詩を読むことも詩の楽しみの一つですが。

 

 

出発時、このような詩を
朔太郎は犀星と競うように作りました。

 

朔太郎の「愛憐詩篇」に、
犀星の「抒情小曲集」や「青き魚を釣る人」に
このような詩はいっぱい収められています。

 

 

今回はここまで。
現代表記を参考のために掲げます。

 

 

夜汽車

有明のうすらあかりは
硝子戸に指のあとつめたく
ほの白みゆく山の端は
みずがねのごとくにしめやかなれども
まだ旅びとのねむりさめやらねば
つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや。
あまたるき”にす”のにおいも
そこはかとなきはまきたばこの烟さえ
夜汽車にてあれたる舌には侘しきを
いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。
まだ山科(やましな)は過ぎずや
空気まくらの口金(くちがね)をゆるめて
そっと息をぬいてみる女ごころ
ふと二人かなしさに身をすりよせ
しののめちかき汽車の窓より外(そと)をながむれば
ところもしらぬ山里に
さも白く咲きていたるおだまきの花。

 

 

 

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2014年8月19日 (火)

犀星と朔太郎の出発

(前回からつづく)

 

北原白秋が「朱欒」を発刊したのは1911年(明治44年)1月。

 

1913年(大正2年)6月に終刊になる間に
同年1月号には室生犀星が
同年5月号には萩原朔太郎が
「朱欒」にそれぞれ詩を発表しました。

 

二人ともこれが文学的出発となります。

 

 

犀星、朔太郎が「朱欒」に詩を発表していた頃
白秋は三浦三崎に俊子とともに移り住み
そこへ家業に行き詰った両親や弟ら家族も同居し
あらたに生計を立てるための事業をはじめましたが
まもなく失敗し東京にまた戻っていったというような
あわただしい日々を送っていました。

 

下獄事件のほとぼりがさめやらない上でのことながら
創作意欲は衰えず
第1歌集「桐の花」、第3詩集「東京景物詩及其他」を江湖に問う旺盛さを保っていました。

 

 

ずっと後になってからのこと(昭和9年)ですが
朔太郎は「詩壇に出た頃」という題でこの頃を回想し
「朱欒」へ投稿した経緯を綴っています。

 

 

(略)
学校を止してからは、音楽に熱中してギターなどばかり弾いて居たが、側ら小説や詩集などを読み始めた。

 

当時詩壇には、北原白秋、三木露風の両巨頭を初めとし、川路柳虹、高村光太郎、佐藤春夫、西条八十、富田砕花等の諸氏が名を成して威張って居り、福士幸次郎、山村墓鳥、加藤介春、生田春月等の諸氏も新進の元気で活躍して居た。

 

しかし当時の僕には、白秋以外の人は全く興味がなく、殆んどだれの詩も読んで居なかった。ただ白秋氏一人だけを愛読して居た。そこで僕の稀れに作る詩は、たいてい「思ひ出」の模倣みたいになってしまった。詩には自信をもつことができなかった。

 

(詩集「月に吠える」附録より。角川文庫、平成元年6月5日 改版8版発行。)

 

 

朔太郎の散文は
もったいぶったところが微塵(みじん)もなく
平明でわかりやすく書かれてあるのは
実は極めて意図的なことであることが伝わってくるような文体ですね。

 

 

それでも後には、もっと白秋氏の影響から脱し、多少自信のある詩が書けて来たので、当時白秋氏の出して居た雑誌「ザムボア」に投書した。

 

この雑誌には、前から室生犀星が詩を書いて居り、殆んど毎号掲載されて居た。白秋氏は室生君を非常に愛して居て、その詩を常に激賞し「現今詩壇の新しき俊才」と言って推薦されて居た。僕もまた室生君の詩が好きで、むしろ白秋氏の詩以上に愛読して居た。

 

尚この「ザムボア」には、室生君の外に最近死んだ大手拓次君が吉川惣一郎のペンネームで詩を書いて居た。
(略)

 

当時の詩壇では、この白秋氏の「ザムボア」と三木露風氏の「未来」とが並行する権威であって、1度この両雑誌に作を載せれば、直ちに詩人として認められるほどの権威を持って居た。

 

 

「白露時代」といわれるほど
北原白秋の名声は高まっていました。

 

俊子との恋がスキャンダルとして扱われるのを
吹き飛ばすかのように
白秋は「桐の花」に自己(内面)を曝(さら)け出しました。

 

詩の道、歌の道への
揺るぎない信念がそうさせたからでしょう。

 

 

「詩壇に出た頃」は続いて
朔太郎が「朱欒」に発表した詩について自己紹介しています。

 

「愛憐詩篇」の冒頭詩であるこの「夜汽車」を読んでみましょう。

 

 

夜汽車

有明のうすらあかりは
硝子戸に指のあとつめたく
ほの白みゆく山の端は
みづがねのごとくにしめやかなれども
まだ旅びとのねむりさめやらねば
つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや。
あまたるき”にす”のにほひも
そこはかとなきはまきたばこの烟さへ
夜汽車にてあれたる舌には侘しきを
いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。
まだ山科(やましな)は過ぎずや
空氣まくらの口金(くちがね)をゆるめて
そつと息をぬいてみる女ごころ
ふと二人かなしさに身をすりよせ
しののめちかき汽車の窓より外(そと)をながむれば
ところもしらぬ山里に
さも白く咲きてゐたるをだまきの花。

 

(三好達治選「萩原朔太郎詩集」岩波文庫、1990年11月15日第47刷発行より。原詩の傍点は” ”で示しました。編者。)

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

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2014年8月18日 (月)

「桐の花」に刻まれた傷跡

(前回からつづく)

 

白秋が出した歌集のうち
「桐の花」の巻末「哀傷篇」
「雲母集」
「雀の卵」の前半部
――に俊子と暮らした日々の感慨(苦悩や歓びや悲しみ)は歌われています。

 

 

新潮文庫版「北原白秋歌集」(北原隆太郎・木俣修編、昭和27年発行、昭和48年25刷)の
「桐の花」「哀傷篇」にざっと目を通しておきましょう。

 

この文庫版歌集は
白秋が刊行した全11冊の単刊歌集(総歌数8033首)から
1530首(約2割弱)が編者によって抄出されたもので
見出しの体裁なども
原本と異なるところがあります。

 

原本となった歌集は、
桐の花
雲母集
雀の卵
風隠集
海阪
白南風
夢殿
渓流唱

黒檜
牡丹の木
――の11冊です。

 

 

哀傷篇

 

Ⅰ 哀傷篇序歌

 

ひとすぢの香(かう)の煙のふたいろにうちなびきつつなげくわが恋

 

哀(かな)しくも君に思はれこの惜しくきよきいのちを投げやりにする

 

君と見て一期(いちご)の別れする時もダリヤは紅(あか)しダリヤは紅し

 

君がため一期(いちご)の迷ひする時は身のゆき暮れて飛ぶここちする

 

哀(かな)しければ君をこよなく打擲(ちやうちやく)すあまりにダリヤ紅(あか)くくるしき

 

紅(くれなゐ)の天竺牡丹ぢつと見て懐妊(みごも)りたりと泣きてけらずや

 

身の上の一大事とはなりにけり紅(あか)きダリヤよ紅きダリヤよ

 

Ⅱ 哀傷篇

 

     悲しき日苦しき日七月六日

 

鳴きほれて逃ぐるすべさへ知らぬ鳥その鳥のごと捕へられにけり

 

かなしきは人間のみち牢獄(ひとや)みち馬車の軋(きし)みてゆく礫道(こいしみち)

 

     馬車霞が関を過ぐ

 

大空に円き日輪血のごとし禍(まが)つ監獄(ひとや)にわれ堕(お)ちてゆく

 

まざまざとこの黒馬車のかたすみに身を伏せて君の泣けるならずや

 

     向ふ通るは清十郎ぢやないか笠がよう似た菅笠が

 

夏祭わつしよわつしよとかつぎゆく街(まち)の神輿(みこし)が遠くきこゆる

 

うれしや監獄にも花はありけり草の中にも赤くちひさく

 

しみじみと涙して入る君とわれ監獄(ひとや)の庭の爪紅(つまぐれ)の花

 

     女はとく庭に下りて顫へゐたり、数珠つなぎの男らはその後より、ひとりひとりに踉けつつ匍ひいでて紅
     き爪紅のそばにうち顫へゐたり、われ最後に飛び下りんと身構へて、ふとをかしくなりぬ、帯に縄かけら
     れたれば前の奴のお尻がわが身体を強く曳く、面白きかな、悲しみ極まれるわが心、この時ふいと戯け
     てやつこらさのさといふ気になりぬ

 

やつこらさと飛んで下(お)りれば吾妹子(わがもこ)がいぢらしやじつと此方(こち)向いて居り

 

     同じく

 

編笠をすこしかたむけよき君はなほ紅(あか)き花に見入るなりけり

 

     監房の第一夜

 

この心いよよはだかとなりにけり涙ながるる涙ながるる

 

罪びとは罪びとゆゑになほいとしかなしいぢらしあきらめられず

 

どん底の底の監獄(ひとや)にさしきたる天(あま)つ光に身は濡れにけり

 

夕されば火のつくごとく君恋し命いとほしあきらめられず

 

     夕暮より夜にかけて

 

曇り日の桐の梢に飛び来り蜩(かなかな)鳴けば人の恋しき

 

市ケ谷の逢魔(あふま)が時となりにけりあかんぼの泣く梟の啼く

 

梟はいまか眼玉(めだま)を開くらむごろすけほうほうごろすけほうほう

 

     裁判の日、七月十六日

 

一列(ひとつら)に手錠はめられ十二人涙ながせば鳩ぽつぽ飛ぶ

 

鳩よ鳩よをかしからずや囚人(めしうど)の「三八七(さんはちしち)」が涙ながせる

 

     許されたり許されたり

 

監獄(ひとや)いでぬ重き木蓋(きぶた)をはねのけて林檎函よりをどるここちに

 

監獄(ひとや)いでてじつと顫へて噛む林檎林檎さくさく身に染(し)みわたる

 

Ⅲ 続哀傷篇

 

空見ると強く大きく見はりたるわが円(つぶ)ら眼に涙たまるも

 

烏羽玉の黒きダリヤにあまつさへ日の照りそそぐ日の照りそそぐ

 

やはらかにローオンテニスの球(たま)光る公園に来てけふもおもへる

 

     冬来る

 

十一月は冬の初めてきたるとき故国(くに)の朱欒(ザボン)の黄にみのるとき

 

喨々とひとすぢの水吹きいでたり冬の日比谷の鶴のくちばし

 

Ⅳ 哀傷終篇

 

かなしみに顫へ新たにはぢけちるわれはキヤベツの球(たま)ならなくに

 

     思ひ出のひとつふたつ

 

代々木の青(あを)檞(かし)がもとに飛びありく白栗鼠(しろりす)のごとく二人(ふたり)抱きし

 

春くれば白く小(ちひ)さき足の指かはゆしと君を抱きけるかな

 

     夜ふけて

 

”ぐろきしにあ”つかみつぶせばしみじみとから紅(くれなゐ)のいのち忍ばゆ

 

時計の針Ⅰ(いち)とⅠとに来(きた)るときするどく君をおもひつめにき

 

     母の云ふには

 

どれどれ春の支度にかかりませう紅(あか)い椿が咲いたぞなもし

 

     ひもじきかなひもじきかなわが心はいたしいたしするどにさみし

 

吾が心よ夕さりくれば蝋燭に火の點(つ)くごとしひもじかりけり

 

 

「桐の花」中の「哀傷篇」では
下獄前後を歌っていることがわかります。

 

 

新潮文庫版歌集が編纂されたとき
まだ「北原白秋全歌集」(岩波書店)は存在していなかったはずですから
初出の東雲堂書店版(1913年・大正2年1月25日発行)を原本としたのでしょう。

 

同文庫巻末の解説(木俣修)には
各歌集の抄出数が記録されています。

 

「桐の花」は原歌集歌数449首、抄出歌数182首とあります。

 

「桐の花」「哀傷篇」からは
2割弱の抄出どころではなく
4割近くが選ばれてある計算です。

 

この数に驚かされますが
事件の白秋に及ぼした傷跡の大きさを物語る以外のものではありません。

 

 

松下俊子との恋が
俗に「桐の花事件」と呼ばれる所以(ゆえん)です。

 

 

第2歌集「雲母集」は
三崎時代を詠んだ歌で埋まっています。

 

第3歌集「雀の卵」は前半部で
小笠原行き以後、俊子と離別するまでを歌っています。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

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2014年8月17日 (日)

「城ヶ島の雨」のうす曇り

(前回からつづく)

 

白秋と松下俊子との恋は
東京・原宿の家で「垣根越し」にはじまって以来
およそ4年を経て破綻に至るのですが
その間の歓びや苦悩や悲しみを
白秋は折に触れて表白しました。

 

国民的な愛唱歌として現在でも知らない日本人がいないほど
ポピュラーになった「城ヶ島の雨」にも
俊子と過ごしたやさしく悲しく切ない時間が反映していると読むのは自然なことでしょう。

 

 

城ヶ島の雨

 

雨はふるふる 城ヶ島の磯に
利休鼠の 雨がふる

 

雨は真珠か 夜明けの霧か
それともわたしの 忍び泣き

 

舟はゆくゆく 通り矢のはなを
濡れて帆上げた ぬしの舟

 

ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる
唄は船頭さんの 心意気

 

雨はふるふる 日はうす曇る
舟はゆくゆく 帆がかすむ

 

 

九州柳川の実家が営む海産物商が行き詰まり
一家をあげて白秋の住む三崎へ移り住んだ時には
一時は海産物の仲買をして糊口をしのいだこともあったようですが
これもうまくいきませんでした。

 

この詞に出て来る「舟」は
ですから漁船ということになります。

 

弟らが生計のために必死になって働いているのを
白秋は切歯扼腕(せっしやくわん)するしかなかったのでしょうか。

 

なにもできない自分に降る雨は
利休鼠に煙って見え
真珠、にも
夜明けの霧、にも
わたしの忍び泣き、にも見えたと歌うのは
三崎での暮らしの複雑な背景を映し出しているものに違いありません。

 

 

しかし、この寂しげな詞(ことば)の立ち上がりは
船頭さんの心意気を励まし(あるいは励まされ)
ポッと薄日の射す海を進んでいく情景で結ばれるのです。

 

ガンバレ!ガンバレ!と
身を乗り出してエールを送る詩人の姿が見えるようです。

 

「城ヶ島の雨」は
白秋の初めての童謡でした。

 

そういえば
先に読んだ「第二白金ノ独楽」中の「河童」にも
童心の芽生えがありましたね。

 

 

これをきっかけに白秋は多くの童謡を作り
それらが作曲され
歌曲として演奏されて
やがてはラジオを通じて全国津々浦々に広がっていくことになります。

 

 

三浦三崎から小笠原父島での暮らしは
貧乏のどん底にありました。

 

経済的な窮乏のみならず
下獄事件の精神的打撃は大きく
奈落の底のような暮らしから立ち直るための苦闘が続いていました。

 

そのプロセスの幾つかの局面が
詩では
「真珠抄」
「白金ノ独楽」
「畑の祭」
「第二白金ノ独楽」
――に歌われました。

 

短歌では
「桐の花」の一部
「雲母集」
「雀の卵」
――に刻まれました。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

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2014年8月16日 (土)

「朱欒(ザンボア)」の縁

(前回からつづく)

 

白秋が文芸雑誌「朱欒(ザンボア)」を発刊したのは
1911年(明治44年)のことで、
第2詩集「思い出」刊行のすぐ後でした。

 

この「朱欒」に萩原朔太郎が自作の短歌や詩を送ったことから
白秋と朔太郎の交友ははじまります。

 

 

朔太郎の「月に吠える」には
北原白秋の「序」と室生犀星の「跋(ばつ)」がありますが
この3人の関係が生まれた経緯については
「月に吠える」を解説している伊藤信吉の記述でみておきましょう。

 

 

(略)
萩原朔太郎が北原白秋編集の雑誌「朱欒(ザムボア)」に短歌を送り、ついで詩を送り、それが「朱欒」に掲載されて、二人のあいだに往来がはじまったのは大正元年(1912)末あたりのことであった。

 

また「朱欒」に掲載された抒情小曲を読んで感動し、萩原朔太郎が金沢在住の室生犀星に突然手紙を出し、その熱的な手紙のやりとりから、生涯を通じて渝(かわ)らぬ友となったその最初は大正2年春ころのことであった。

 

こうして東京の北原白秋、金沢の室生犀星、前橋の萩原朔太郎のあいだには、数年にわたって燃える虹のような浪漫(ろうまん)的交友がつづいた。このような交友と詩的交流からその序文と跋文が書かれたのである。
(略)

 

 

白秋が俊子との婚姻を解消したのは大正3年秋でした。

 

肺結核を患って久しい俊子は
三浦三崎、小笠原父島と白秋と暮らしをともにしてきましたが
北原家の家族の住まう東京麻布へ
白秋よりも先に帰ることになりました。

 

この帰京に至る俊子と白秋のあいだに
何があり何が話されたのか詳(つまび)らかではありませんが
俊子と白秋の家族との仲は悪化の道をたどったことは確かなようです。

 

あたかもそのあおりを食らって白秋との仲にも亀裂が走って
みるみるうちに俊子と白秋との関係は破綻してしまいます。

 

白秋は俊子が北原家を去って2年後の大正5年春ごろには
2人目の妻・江口章子(あやこ)と結婚します。
(以上、「ここ過ぎて」より。)

 

 

「月に吠える」への白秋の序文は
大正6年1月10日の日付を持っていますから
実生活では章子との暮らしの中で書かれたということになります。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年8月15日 (金)

危機脱出後の白秋

(前回からつづく)

 

大正3年春の「真珠抄」と同じ年の秋に
「白金之独楽」は出されました。

 

この詩集にも序があり
「白金ノ独楽序品」と題されて
冒頭に置かれています。

 

やや長いものですが
全文を読んでみましょう。

 

 

白金ノ独楽序品

 

ワレイマ法悦ノカギリヲ受ク、苦シミハ人間ヲ耀(カガヤ)カシム、空ヲ仰ゲバ魚天界ヲ飛ビ、山上ニ白金ノ耶蘇(ヤソ)豆ノ如シ。大海ノハテニ煙消エズ、地上ニ鳩白日交歓ノ礼ヲ成ス。林檎(リンゴ)ハジメテ音シ、木ハ常ニ流レテ真実一路ノ心ヲアヤマラズ。麗ラカナルカナ、十方法界。ワガ身ヲ周(メグ)ルハ摩羅(マラ)ヲ頭ニイタダク暹羅仏(シヤムブツ)、麦酒樽ヲコロガズ落日光ノ男。桶ノ中ニ光リツメタル天ノ不二、海上遥カニ光リ匍ヒユク赤子、或ハ又、大千世界ノ春ノ暮、空モ轟ニ耀キ墜ツル天魔ノ姿。善哉、帰命頂礼(キミヨウチヨウライ)、今コソワレハワガ手ノ独楽ヲ天ニササゲム、白金ノ独楽ヨ、光リ耀ケ、カガヤカニ、光リ澄メカシ、言モナク、光リ澄メカシ、音モナク。稽首再拝。
   大正三年十一月下院
                               著者識

 

 

十方法界(じっぽうほうかい)=あらゆる世界。
摩羅(まら)=悟りの妨げとなる煩悩(ぼんのう)。
暹羅仏(しゃむぶつ)=タイ王国の仏。
帰命頂礼(きみょうちょうらい)=「帰命」は仏の教えを深く信じ、身命を投げ出して帰依し従う厚い信心のこと。「頂礼」は頭を地につけてする礼。
……などの仏教語が現われること自体、
白秋の境地の変化を示すものでしょうか。

 

ワレイマ法悦ノカギリヲ受ク、苦シミハ人間ヲ耀(カガヤ)カシム
――というのは
いったんは牢獄に落ち、晴れて解放されて後の
海に囲まれた三浦三崎での新生活の充実ぶりを明かしているものでしょう。

 

今コソワレハワガ手ノ独楽ヲ天ニササゲム
=今こそわれはわが手の独楽(こま)を天に捧げむ
――と詩集「白金ノ独楽」の意図は述べられました。

 

ここには危機脱出の歓びと
何ものかへの感謝の気持ちが込められてあるようでもあります。

 

 

「白金ノ独楽」も短唱です。
三日三晩で書き上げた99篇は
すべてがカタカナ詩になりました。

 

詩集題と同じ、その一つ。

 

 

白金ノ独楽

 

感涙ナガレ 身ハ仏、
独楽ハ廻レリ、指尖ニ。

 

カガヤク指ハ天ヲ指シ、
極マル独楽ハ目ニ見エズ。

 

円転、無念無想界、
白金ノ独楽音モ澄ミワタル。

 

 

飾りは削ぎ落とされて
耀かしい世界がまっすぐに表出されます。

 

密教のたどりつく即身仏の法悦境を、白秋は、この瞬間確かにかいま覗たかと想像される
――と「ここ過ぎて」(新潮社、昭和59年発行)で瀬戸内晴美(現・寂聴)はこの詩に短い読みをほどこしています。

 

もう一つ。

 

 

他ト我

 

二人デ居タレドマダ淋シ、
一人ニナツタラナホ淋シ、
シンジツ二人ハ遣瀬ナシ、
シンジツ一人ハ堪ヘガタシ。

 

 

一度は死を考えたこともあるらしい。

 

恋は成就(じょうじゅ)したにもかかわらず
淋しく遣瀬ないと歌われます。

 

 

ほかに単行詩集にならなかった「畑の祭」と「第二白金ノ独楽」があります。
こちらは短唱ではありません。

 

「第二白金ノ独楽」からも一つ。

 

 

河童

 

麗(うら)らかな麗らかな、
何ともかともいへぬ麗らかな、
実に実に麗らかな、
瑠璃晴天の日のくれに。
河童がぽつんと立つた、との。

 

麗らかな漣は漣に、
照り光り、照り光り、いつまでも照り光り、
まだまんまるい月も出ず、暮れもやらず。

 

悩ましい、何ともかともいへぬ麗らかな、
瑠璃色ぞらの夕あかり、
大河のあちらこちらを漕ぐ舟の
ろかいの音もうつらうつらと消えもやらず。

 

河童がぽつんと、ただひとり。
はつと思へば、またひとり、
岸にひらりと手をかけて、つららつららと
躍りあがつた河童の子。

 

頭のお皿も青白く、
真実、れいろう、素つ裸。
こゑも立てねば音もせず。

 

河童はそつとうなづきあひ、
葦のそよ風に、
身をふるはし、
よりよちと歩きかねては、また眼をこすり、
もつれあひ、角力とり、まろびあひ、
倒れては起き、起きてはころび、
声も立てねば、音もなく、
れいろうとしてはてしもあらず。

 

麗らかな、麗らかな、
何ともかともいへぬうららかな、
瑠璃晴天の空あひに、
うかび出て、消えもやらぬ河童のお皿、
すすり泣けども人知らず。

 

麗らかな、麗らかな。
漣の漣の、照り光り、照り光り、
暮れもあへねば、月も出ず。

 

いつまでもあそぶ河童の子。
つららつららと河童の子。

 

(以上、神西清編「北原白秋詩集」新潮文庫、昭和48年4月30日 39刷より。)

 

 

童謡が芽生えたようです。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年8月14日 (木)

「月に吠える」序を書いた白秋

(前回からつづく)

 

北原白秋は
萩原朔太郎の「月に吠える」に「序」を寄せています。

 

「月に吠える」が出た大正6年という年に
白秋はどのような消息にあったのでしょうか。

 

 

大正2年から同6年まで、5年間にわたるこの激動期の様相を、
もっとも端的に反射している詩集が「真珠抄」と「白金之独楽」であり、
――と案内するのは「北原白秋詩集」(新潮文庫)の解説者・神西清です。

 

まずは「真珠抄」から
一つを読んでみましょう。

 

 

源吾兵衛(げんごべゑ)

 

玉ならば真珠一途なるこそ男なれ
心から血の出るやうな恋をせよとは教えまさねどわが母よ
蜥蜴(とかげ)が尾をふる血のしみるほどふる
恋しや玉虫が頭の中に喰(く)ひ入つたわ
病気になつたが狂(ふ)れた一途な雛罌粟(ココリコ)が火になつた
百舌(もず)のあたまが火になつた思いきられぬきりやきりきり
散ろか散るまいかままよ真紅(まつか)に咲いてのきよ
人目忍ぶはいと易(やす)しむしろわが身を血みどろに突かしてぢつと物思ひたや
日はかんかんと照りつくる血槍(ちやり)をかついでひとをどり耶蘇(やそ)を殺してユダヤの踊をひとをどり
ふくら雀は風にもまるる笑止(しようし)や正直一途の源吾兵衛はひよいと世に出て人にもまるる
冥罰(みようばつ)を思ひ知らぬか赤鼻の源左めなまじ生木を腕で折る
息もかるし気もかるしいつそ裸で笛吹かう

 

(神西清編「北原白秋詩集」新潮文庫、昭和48年4月30日 39刷より。)

 

 

現代かな表記を次に掲げておきます。

 

 

源吾兵衛(げんごべえ)

 

玉ならば真珠一途なるこそ男なれ
心から血の出るような恋をせよとは教えまさねどわが母よ
蜥蜴が尾をふる血のしみるほどふる
恋しや玉虫が頭の中に喰(く)い入ったわ
病気になった気が狂(ふ)れた一途な雛罌粟(ココリコ)が火になった
百舌(もず)のあたまが火になった思いきられぬきりやきりきり
散ろか散るまいかままよ真紅(まっか)に咲いてのきよ
人目忍ぶはいと易しむしろわが身を血みどろに突かしてじっと物思いたや
日はかんかんと照りつくる血槍をかついでひとおどり耶蘇を殺してユダヤの踊をひとおどり
ふくら雀は風にもまるる笑止や正直一途の源吾兵衛はひょいと世に出て人にもまるる
冥罰を思い知らぬか赤鼻の源左めなまじ生木を腕で折る
息もかるし気もかるしいっそ裸で笛吹こう

 

 

1行1行を独立した詩として読んでよいものか
全体を一つと読まなくてはならないのか
これまでの詩とは異なる世界が広がっています。

 

源吾兵衛は
近松あたりに登場する人物でしょうか?

 

心から血の出るような恋、とか
玉虫が頭の中に入ったわ、とか
人目忍ぶはいと易しむしろわが身を血みどろに、とか
血槍をかついでひとおどり耶蘇を殺してユダヤの踊をひとおどり、とか……

 

ただならぬ情景が歌われているのは
この詩が作られる前に
東京・原宿の住まいの隣家の人妻に恋して
その夫から姦通罪で訴えられたという事件を反映しているからです。

 

白秋は2週間を未決監に拘置されましたが
やがて和解が成り立ち
その後その女性・松下俊子と結婚して
城ヶ島近くの三崎で暮らしたことは
つとに知られるところです。

 

このころに発行されたのが
この二つの詩集でした。

 

 

白秋は「真珠抄」を「短唱」と呼んでいます。

 

これまでの詩と区別してそう呼んだらしいのですが
それは俳句や短歌とも異なる詩のようです。

 

そのあたりは、

 

わが心は玉の如し、時に曇り、折にふれて虔(つま)しき悲韻を成す。哀歓とどめがたし、ただ常住のいのちに縋(すが)る。真実はわが所念、真珠は海の秘法、音に秘めて涙ながせよ。

 

――と序に述べられているところです。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年8月11日 (月)

「放尿」の白秋と「回虫」の中也

(前回からつづく)

 

モチーフや詩想が似ているところがあるということなのか
「新編中原中也全集」は
中也の「三歳の記憶」への影響を示唆(しさ)して
白秋の「石竹の思い出」を参考文献として案内しています。

 

 

二つの詩が扱っているのは
3歳の経験(記憶)ですから
それに着目した詩がざらにあるものではなく
類似性が指摘されたものなのでしょう。

 

類似性は確かにありますが
相違するところは
二つの詩がまったく異なる個性によって作られたところから来ています。

 

 

白秋の経験は
昼寝から目覚めてあやうく失禁するところを
近くにいた女性に抱えられトイレに運ばれて
無事に放尿した3歳児のある夏の日の記憶でした。

 

放尿の記憶が
その時に見た石竹という花(ナデシコ)に結ばれ
美しく息苦しいほどに生々しく残ったのです。

 

それだけでなく
「柔かき乳房」に頭を押しつけられ
「怪しげなる何物」をかを感じたその時の時を
白秋は自らの「ウィタ・セクスアリス」として歌ったのでした。

 

 

中也の記憶は
回虫が排出された経験が
その時の恐怖とともに
隣家の引っ越しという事件に結びついて
寂寥感や孤独感として歌われました。

 

「回虫」を詩語にしたのは
ボードレール「悪の華」冒頭に
「百萬匹の回虫もさながらに、うじうじとひしめき合って」(堀口大学訳)とあるほかに
例があるのでしょうか!

 

 

白秋の詩も
中也の詩も
どちらも恐怖の記憶がからまる幼時体験ながら
それぞれに普遍性があって見事ですね。

 

 

二つの詩を
現代表記にして並べておきましょう。
(漢字の古体字は一部を残しました。)

 

 

三歳の記憶
 
椽側(えんがわ)に陽があたってて、
樹脂(きやに)が五彩(ごさい)に眠る時、
柿の木いっぽんある中庭は、
土は枇杷(びわ)いろ 蝿(はえ)が唸(な)く。

 

稚厠(おかわ)の上に 抱えられてた、
すると尻から 蛔虫(むし)が下がった。
その蛔虫が、稚厠の浅瀬で動くので
動くので、私は吃驚(びっくり)しちまった。

 

あああ、ほんとに怖かった
なんだか不思議に怖かった、
それでわたしはひとしきり
ひと泣き泣いて やったんだ。

 

ああ、怖かった怖かった
――部屋の中は ひっそりしていて、
隣家(となり)は空に 舞い去っていた!
隣家は空に 舞い去っていた!

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

 

 

石竹の思い出

 

なにゆえに人々の笑いしか。
われは知らず、
え知る筈なし、
それは稚(いとけな)き三歳のむかしなれば。

暑き日なりき。
物音もなき夏の日のあかるき真昼なりき。
息ぐるしく、珍らしく、何事か意味ありげなる。

誰(た)が家か、われは知らず。
われはただ老爺(ジイヤン)の張れる黄色かりし提燈(ちょうちん)を知る。
眼のわろき老婆(バン)の土間にて割(さ)きつつある
青き液(しる)出す小さなる貝類のにほいを知る。

わが悩ましき昼寝の夢よりさめたるとき、
ふくらなる或る女の両手(もろて)は
弾機(ばね)のごとも慌(あわ)てたる熱き力もて
かき抱き、光れる縁側へと連れゆきぬ。
花ありき、赤き小さき花、石竹(せきちく)の花。

無邪気なる放尿……
幼児(おさなご)は静こころなく凝視(みつ)めつつあり。
赤き赤き石竹の花は痛きまでその瞳にうつり、
何ものか、背後(うしろ)にて擽(こそば)ゆし、絵艸紙の古ぼけし手触(てざわり)にや。

なにごとの可笑(おかし)さぞ。
数多(あまた)の若き猟夫(ロッキュ)と着物つけぬ女との集まりて、
珍らしく、恐ろしきもの、
そを見むと無益にも霊(たまし)動かす。

柔かき乳房もて頭(こうぺ)を圧(お)され、
幼児(おさなご)は怪しげなる何物をか感じたり。
何時(いつ)までも何時までも、五月蠅(うるさ)く、なつかしく、やるせなく、
身をすりつけて女は呼吸(いき)す、
その汗の臭(にほい)の強さ、くるしさ、せつなさ、
恐ろしき何やらむ背後(うしろ)にぞ居れ。

なにゆえに人々の笑いつる。
われは知らず、
え知る筈なし。
そは稚(いとけな)き三歳の日のむかしなれば。

暑き日なりき、
物音もなき鹹河(しほがわ)の傍(そば)のあかるき真昼なりき。
蒸すが如き幼年の恐怖(おそれ)より
尿(いばり)しつつ……われのただ凝視(みつ)めてありし
赤き花、小さき花、目に痛き石竹の花。

 

(神西清編「北原白秋詩集」新潮文庫、昭和48年4月30日 39刷より。)

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年8月10日 (日)

白秋の初恋以前/「石竹の思ひ出」

(前回からつづく)

 

中也の「初恋集」は
「すずえ」「むつよ」と相手の女性の名前をタイトルにしていますから
藤村の「若菜集」に
「おえふ」
「おきぬ」
「おさよ」
「おくめ」
「おつた」
「おきく」
――とあるのにつくりが似ています。
(「おえふ」とあるのは「歴史的かな遣い」で、現代かな遣いでは「およう」です。)

 

藤村の生まれが1872年ということは
中也の父謙助の生年(1876年)より少し前ということになり
藤村は中也の父の世代の人ということになりますから
それほど「昔」の人ではなかったともいえますが
父の世代ほど遠い人だったということもできます。

 

藤村の「初恋」と一緒にされることを
中也は苦笑するでしょうか
ビッグネームに伍して語られることを
喜ぶことでしょうか。

 

初恋(の思い出)というのは
時代を経ても底では通じているはずですから
とやかくいうほどでないことではありましょう。

 

 

朔太郎の「月に吠える」が1917年、
藤村の「若菜集」が1896年の発行となれば
次に思い出したいのは
北村透谷、蒲原有明、薄田泣菫といった詩人が浮かんできますが
ここではそこまで遡(さかのぼ)る前に
もう少し見ておきたい詩人たちが
中也が生きていた時代に何人かいます。

 

その一人は
北原白秋です。

 

 

白秋は
朔太郎の「月に吠える」の強力な推薦者でありました。

 

中也も
「雪の宵」ではエピグラフに使っていたり
「まざあぐうす」を読んだ記録を残していたり
「汚れっちまった悲しみに……」などに流れる調子が
「白秋調」(大岡昇平)と呼ばれたりするほどに
いろいろなところに影を作っています。

 

「在りし日の歌」にある「三歳の記憶」に
白秋の「石竹の思い出」の反響があることは
「新編中原中也全集」にも参考として案内されているので
広く知られるところとなっています。

 

 

石竹の思ひ出

 

なにゆゑに人々の笑ひしか。
われは知らず、
え知る筈なし、
それは稚(いとけな)き三歳のむかしなれば。

暑き日なりき。
物音もなき夏の日のあかるき真昼なりき。
息ぐるしく、珍らしく、何事か意味ありげなる。

誰(た)が家か、われは知らず。
われはただ老爺(ヂイヤン)の張れる黄色かりし提燈(ちやうちん)を知る。
眼のわろき老婆(バン)の土間にて割(さ)きつつある
青き液(しる)出す小さなる貝類のにほひを知る。

わが悩ましき昼寝の夢よりさめたるとき、
ふくらなる或る女の両手(もろて)は
弾機(ばね)のごとも慌(あわ)てたる熱き力もて
かき抱き、光れる縁側へと連れゆきぬ。
花ありき、赤き小さき花、石竹(せきちく)の花。

無邪気なる放尿……
幼児(をさなご)は静こころなく凝視(みつ)めつつあり。
赤き赤き石竹の花は痛きまでその瞳にうつり、
何ものか、背後(うしろ)にて擽(こそば)ゆし、絵艸紙の古ぼけし手触(てざはり)にや。

なにごとの可笑(をかし)さぞ。
数多(あまた)の若き猟夫(ロツキユ)と着物つけぬ女との集まりて、
珍らしく、恐ろしきもの、
そを見むと無益にも霊(たまし)動かす。

柔かき乳房もて頭(かうぺ)を圧(お)され、
幼児(をさなご)は怪しげなる何物をか感じたり。
何時(いつ)までも何時までも、五月蠅(うるさ)く、なつかしく、やるせなく、
身をすりつけて女は呼吸(いき)す、
その汗の臭(にほひ)の強さ、くるしさ、せつなさ、
恐ろしき何やらむ背後(うしろ)にぞ居れ。

なにゆゑに人々の笑ひつる。
われは知らず、
え知る筈なし。
そは稚(いとけな)き三歳の日のむかしなれば。

暑き日なりき、
物音もなき鹹河(しほがは)の傍(そば)のあかるき真昼なりき。
蒸すが如き幼年の恐怖(おそれ)より
尿(いばり)しつつ……われのただ凝視(みつ)めてありし
赤き花、小さき花、目に痛き石竹の花。
(神西清編「北原白秋詩集」新潮文庫、昭和48年4月30日 39刷より。)

 

 

この詩が歌っているのは
初恋以前の
ずーっとずーっと幼い日の
性的体験でした。

 

そこに恋と呼べるようなものが
混じっていなかったともいえない
性の芽生えみたいなものでした。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

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2014年8月 9日 (土)

若菜集から40年後の初恋/(おまえが花のように)

(前回からつづく)

 

中也にも初恋を歌った詩があります。
何年か前に読んだものを
ここに引っ張り出してみましょう。
少し手を入れました。

 

 

未発表詩篇に
(おまえが花のように)
「初恋集」
――の2篇が収められてあります。

 

まずは(おまえが花のように)です。

 

 

(おまえが花のように)
 
おまえが花のように
淡鼠(うすねず)の絹の靴下穿(は)いた花のように
松竝木(まつなみき)の開け放たれた道をとおって
日曜の朝陽を受けて、歩んで来るのが、

 

僕にみえだすと僕は大変、
狂気のようになるのだった
それから僕等磧(かわら)に坐って
話をするのであったっけが

 

思えば僕は一度だって
素直な態度をしたことはなかった
何時(いつ)でもおまえを小突(こづ)いてみたり
いたずらばっかりするのだったが

 

今でもあの時僕らが坐った
磧の石は、あのままだろうか
草も今でも生えていようか
誰か、それを知ってるものぞ!

 

おまえはその後どこに行ったか
おまえは今頃どうしているか
僕は何にも知りはしないぞ
そんなことって、あるでしょうかだ

 

そんなことってあってもなくても
おまえは今では赤の他人
何処(どこ)で誰に笑っているやら
今も香水つけているやら

 

     (一九三五・一・一一)

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

 

 

(おまえが花のように)は
初恋の思い出を歌った詩です。

 

より正確にいえば
初恋の一つを歌ったということですが
初恋がいくつもあるということになると
それも矛盾のようですが
若き日に恋した相手のことは
後年どの一人のことも
初恋と呼んでおかしくもない
甘酸っぱく楽しく悲しい思い出であるのは
いつの世にも不変のことのようであります。

 

この恋は何歳の頃のことでしょうか。

 

松並木の道を通って
日曜日の朝日を受けてやってくる女の子は
淡鼠(うすねず)の絹の靴下穿(は)いた花のようで
その姿が見えると僕は
嬉しくて嬉しくて変になるのでした

 

それから
近くを流れる椹野川(ふしのがわ)の河原に座って話をしましたが
僕はといえば
一度も素直な態度でいたことはなく
いつもお前を小突いてみたり
あれやこれやふざけてばかりいたのでした

 

今でもあの時僕らが座った河原の石は
あのままだろうか
草は今でも生えているか
そんなことを誰か知っているものがいるわけがない

 

お前はその後どこへ行ってしまったのか
お前は今ごろどうしているか
僕は何も知りはしない

 

ああ、そんなことって、あるか、え
そんなことってあるか

 

あってもなくても
お前は今では赤の他人
どこで誰と笑っていることやら
今も香水つけていることやら

 

香水をつけている女性なら
もう高校生ほどの年ごろでしょうか。

 

それとも
何かの折に
小学生か中学生が香りをつけて
詩人のところへ遊びにきたのでしょうか。

 

よそ行きの「べべ」を着て
親戚である詩人の家を訪ねてきた親子連れの中に
この女性はいたのでしょうか。

 

「うすねずの絹の靴下」が
なんともなまめかしく
成熟した女性を想像させるのは自然ですが
それを穿いていたのは
少女であったろうという想像も捨てがたく
花のような少女の像が
鮮やかに残りもします。

 

この詩は
角川・旧全集では「初恋集」の第3節とみなされていましたが
新全集では独立した作品と解釈されました。

 

 

次に「初恋集」です。

 

 

初恋集
 

 

 すずえ

 

それは実際あったことでしょうか
 それは実際あったことでしょうか
僕とあなたが嘗(かつ)ては愛した?
 ああそんなことが、あったでしょうか。

 

あなたはその時十四でした
 僕はその時十五でした
冬休み、親戚で二人は会って
 ほんの一週間、一緒に暮した

 

ああそんなことがあったでしょうか
 あったには、ちがいないけど
どうもほんとと、今は思えぬ
 あなたの顔はおぼえているが

 

あなたはその後遠い国に
 お嫁に行ったと僕は聞いた
それを話した男というのは
 至極(しごく)普通の顔付していた

 

それを話した男というのは
 至極普通の顔していたよう
子供も二人あるといった
 亭主は会社に出てるといった

 

        (一九三五・一・一一)

 

   むつよ

 

あなたは僕より年が一つ上で
あなたは何かと姉さんぶるのでしたが
実は僕のほうがしっかりしてると
僕は思っていたのでした

 

ほんに、思えば幼い恋でした
僕が十三で、あなたが十四だった。
その後、あなたは、僕を去ったが
僕は何時まで、あなたを思っていた……

 

それから暫(しばら)くしてからのこと、
野原に僕の家(うち)の野羊(やぎ)が放してあったのを
あなたは、それが家(うち)のだとしらずに、
それと、暫く遊んでいました

 

僕は背戸(せど)から、見ていたのでした。
僕がどんなに泣き笑いしたか、
野原の若草に、夕陽が斜めにあたって
それはそれは涙のような、きれいな夕方でそれはあった。

 

        (一九三五・一・一一)

 

   終歌

 

噛(か)んでやれ。叩いてやれ。
吐(ほ)き出してやれ。
吐き出してやれ!

 

噛んでやれ。(マシマロやい。)
噛んでやれ。
吐き出してやれ!

 

(懐かしや。恨めしや。)
今度会ったら、
どうしよか?

 

噛んでやれ。噛んでやれ。
叩いて、叩いて、
叩いてやれ!

 

        (一九三五・一・一一)

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

 

 

「初恋集」は3節からなる作品で
はじめは
(おまえが花のように)を第3節とした
全4節の詩と考えられていましたが
角川・新全集の編集で解釈が改められました。

 

第1節は、「すずえ」
第2節は、「むつよ」
第3節は、「終歌」とタイトルがつけられて
いずれも初恋の思い出の歌です。

 

「すずえ」のモデルは
未発表の小説「無題(それは彼にとつて)」に
登場する「文江」ではないかと推測されています。

 

第2節の「むつよ」は
「文江」をモデルにしたものか
ほかの女性であるか不明ですが
第1節「すずえ」には
あなたはその時十四でした
 僕はその時十五でした
――とあり、

 

第2節「むつよ」には
ほんに、思えば幼い恋でした
僕が十三で、あなたが十四だった。
――とあることから
異なる女性である可能性があるものの
二つの詩が扱う時間が異なっているだけで
十三の少年(「むつよ」)が十五(「すずえ」)になっただけで
相手は同じ女性だったとも考えられます。

 

しかし、それが誰であるかを特定はできませんし
(おまえは花のように)の女性との関連も特定はできません。

 

詩人は1935年1月11日という日に
なんらかのきっかけで
遠い日の淡い恋の相手を思い出して
次々に詩にしていきました。

 

(おまえが花のように)の相手をふくめて
その女性は一人であった可能性もありますが
詩には何人かの女性が登場するようにみえても
不思議なことではありません。

 

僕にみえだすと僕は大変、
狂気のようになるのだった
――と
(おまえが花のように)で歌った「狂気」は
「狂喜」でもありましたが
幼い日の「恋」とは
何時でもおまえを小突(こづ)いてみたり
いたづらばっかりするのだったが
――というほかに
何か気の利いたセリフを言えるわけでもなく
相手の肉体を痛めつけるまでに
一人占めしたい欲求のようなもの、
サディスティックなまでに
独占したがる欲望のようなもの……

 

そのような「恋」でしかなかったことを
詩人はいま振り返って
ありありとその場面を思い出すのです。

 

「狂喜」は「狂気」に近く
「狂気」は「狂喜」に近く
「終歌」では
噛んでやれ、叩いてやれ。
吐(ほ)き出してやれ。
吐(ほ)き出してやれ!
ああ
マシュマロのように
やわらかく
可愛いキミよ
今度会ったら
今度会えることができたら
噛んでやれ
――というのは
幼児の愛咬という行動に似て
そのほかになにもできずに
「咬んで」
僕の愛をぶちまけてやる!という表現ですが……

 

そんな日が戻ってくるわけがないことを
詩人は絶望的に知っていました。

 

 

両詩ともに1935年(昭和10年)の制作です。
「若菜集」の発行(1896年)から40年後ということになります。

 

藤村とは随分異なる初恋の思い出ですが
どこかしら通じるものもあるでしょうか?

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2014年8月 8日 (金)

藤村のロマンチック詩

(前回からつづく)

 

初恋

 

まだあげ初(そ)めし前髪(まへがみ)の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり

 

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅(うすくれなゐ)の秋の実(み)に
人こひ初(そ)めしはじめなり

 

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃(さかづき)を
君が情(なさけ)に酌みしかな

 

林檎畑の樹(こ)の下(した)に
おのづからなる細道(ほそみち)は
誰(た)が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ

 

(岩波文庫「藤村詩抄」昭和48年6月20日 第51刷発行より。)

 

 

現代表記の「初恋」を次に掲出しておきます。

 

 

初恋

 

まだあげ初(そ)めし前髪(まえがみ)の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思いけり

 

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたえしは
薄紅(うすくれない)の秋の実(み)に
人こい初(そ)めしはじめなり

 

わがこころなきためいきの
その髪の毛にかかるとき
たのしき恋の盃(さかずき)を
君が情(なさけ)に酌みしかな

 

林檎畑の樹(こ)の下(した)に
おのずからなる細道(ほそみち)は
誰(た)が踏みそめしかたみぞと
問いたまうこそこいしけれ

 

 

島崎藤村の「初恋」は
明治29年(1896年)に刊行された第1詩集「若菜集」に収められています。

 

「あげ初めし」というのは
少女が成人になったしるしに
おかっぱの髪をやめて結い上げ
まだ日が経っていないことを示します。

 

林檎畑での逢引き(あいびき)がつづくある日に
大人になった少女が薄紅の林檎をくれた思い出を歌っています。

 

林檎畑につづく道は
二人が通いならして作った道で
少女は「誰がこんな道を作ったのでしょうね?」と呟いたか
私に問いかけたのか
答の自明な問いを問うたそのことが恋しいと歌う詩です。

 

思い出ではなく
現在進行中の恋と読むこともできるでしょう。

 

 

それだけといえば
それだけの詩ですが
形は異なるものであっても
誰もが経験するに違いのない初恋(の思い出)の
甘やかであり
すでに失われたか
遠いものになってしまったか
息の詰まるような(幸福の)時間をよみがえらせる力を持つ内容が
人々に広がっていきました。

 

「若菜集」には
このようなロマンチックな詩が鏤(ちりば)められてあり
今でも青春詩集としての輝きを放っていますが
同時にそれまで古い掟のなかに閉じ込められていた感情や感覚を解き放つ詩群が
新しい近代詩(史)を開拓したものとして高く評価されることになります。

 

 

中原中也は藤村について
手紙や未発表評論で少し触れていますが
詩作の上で強く意識するまでには至らなかったのは
藤村はすでに詩を離れ
小説作家の道をたどっていたからでもありましょう。

 

「夜明け前」を読売新聞紙上に連載しはじめたのは
1929年(昭和4年)4月からです。

 

中也たちが同人誌「白痴群」を創刊したのが
まさしくこの年の4月でした。

 

 

藤村は1872年(明治5年)生まれで
亡くなったのは1943年(昭和18年)ですから
中也の生きた時代と重なります。

 

同時代のオーソリティー(巨人)でしたから
「若菜集」あたりは目を通したことがあるかもしれません。

 

中也が「初恋」を知っていたかどうかわかりませんが
中也の未発表詩篇「初恋集」のつくりなどに
藤村の「初恋」のかすかな反響がないともいえません。

 

 

今回はここまで。

 

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2014年8月 6日 (水)

朔太郎の「恋を恋する人」

(前回からつづく)

 

閑話休題(気分を変えて)。

 

恋愛詩について少し触れたついでに
ここで幾つか恋愛詩というものを読んでみましょう。

 

 

萩原朔太郎(1886年~1942年)は中也の同時代の詩人であり
中也が生存していた時代の詩壇の中心にいた詩人です。

 

その朔太郎が大正6年(1917年)2月に発行した第1詩集「月に吠える」は
集中の作品が風俗を壊乱(かいらん)するという理由で発売禁止になりました。

 

しかし問題とされた詩を削除して
再び発行したという有名なエピソードがあります。

 

詩集「月に吠える」が完全な形で発行されたのは
発売禁止から5年後の大正11年3月のことになります。

 

 

風俗を乱すとされた詩の一つが「恋を恋する人」です。

 

 

わたしはくちびるに“べに”をぬつて、
あたらしい白樺の幹に接吻した、
よしんば私が美男であらうとも、
わたしの胸には“ごむまり”のやうな乳房がない、
わたしの皮膚からは“きめ”のこまかい粉おしろいの匂ひがしない、
わたしはしなびきつた薄命男だ、
ああ、なんといふいぢらしい男だ、
けふのかぐはしい初夏の野原で、
きらきらする木立の中で、
手には空色の手ぶくろをすつぽりとはめてみた、
腰には“こるせつと”のやうなものをはめてみた、
襟には襟おしろいのやうなものをぬりつけた、
かうしてひつそりと“しな”をつくりながら、
わたしは娘たちのするやうに、
こころもちくびをかしげて、
あたらしい白樺の幹に接吻した、
くちびるにばらいろのべにをぬつて
まつしろの高い樹木にすがりついた。

 

(詩集「月に吠える」角川文庫、平成元年6月5日 改版8版発行より。原作の傍点は“ ”で示しました。ブログ編者。)

 

 

歴史的かな遣いであるため
古語を読むときのような「異化」作用が働いて
いっそう別世界に誘われる感じがしますが……。

 

「ように」が「やうに」であったり
「い」が「ひ」であったりでは読みにくいということもありますから
現代表記に変えてみましょう。

 

 

わたしはくちびるに“べに”をぬって、
あたらしい白樺の幹に接吻した、
よしんば私が美男であろうとも、
わたしの胸には“ごむまり”のような乳房がない、
わたしの皮膚からは“きめ”のこまかい粉おしろいの匂いがしない、
わたしはしなびきった薄命男だ、
ああ、なんといういじらしい男だ、
きょうのかぐわしい初夏の野原で、
きらきらする木立の中で、
手には空色の手ぶくろをすっぽりとはめてみた、
腰には“こるせっと”のようなものをはめてみた、
襟には襟おしろいのようなものをぬりつけた、
こうしてひっそりと“しな”をつくりながら、
わたしは娘たちのするように、
こころもちくびをかしげて、
あたらしい白樺の幹に接吻した、
くちびるにばらいろのべにをぬって
まっしろの高い樹木にすがりついた。

 

 

これを恋愛詩と一列にするのは
馬鹿げたことですからしません。

 

「恋」をテーマにしているというところで
参考にしたいだけのことです。

 

恋そのものを
オーソドックスとは異なるところから
捉(とら)えようとしている詩心が
現在でも新鮮ですね。

 

言語の実験というより
感覚の実験みたいなことが試みられていて
面白い例です。

 

 

島崎藤村の「初恋」が「若菜集」に発表されたのは
1897年(明治30年)のことでした。

 

「月に吠える」の初版はそのわずか10年後です。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2014年8月 5日 (火)

ショックでよみがえる遠い過去/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

事件の痕跡はしかし過去との断絶の意識となって、現われる。
――と大岡昇平がいうのは
泰子を失なったという事件が
過去の一切を過去としてあらためて認識する契機となったと示しているもので
それゆえに遠い日の記憶が突如よみがえってきたものと
「月」に現われる「忘られた運河の岸堤」や「戦車の地音」などを読み解いているのです。

泰子がいなくなって
泰子との暮らしが遠い日のもののように思えたのは
幼時の記憶と同じようなことになってしまったというショックを示し
「在りし日の歌」の「月」で
父の医療施設の風景がまざまざと思い出されたのは
泰子を遠くを見る眼差しで見るようなことなのでした。

「在りし日の歌」の「月」に
泰子は現われませんが
泰子は「文子さん」に映っています。


 
今宵(こよい)月は襄荷(みょうが)を食い過ぎている
済製場(さいせいば)の屋根にブラ下った琵琶(びわ)は鳴るとしも想(おも)えぬ
石灰の匂いがしたって怖(おじ)けるには及ばぬ
灌木(かんぼく)がその個性を砥(と)いでいる
姉妹は眠った、母親は紅殻色(べんがらいろ)の格子を締めた!

さてベランダの上にだが
見れば銅貨が落ちている、いやメダルなのかァ
これは今日昼落とした文子さんのだ
明日はこれを届けてやろう
ポケットに入れたが気にかかる、月は襄荷を食い過ぎている
灌木がその個性を砥いでいる
姉妹は眠った、母親は紅殻色の格子を締めた!
 
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

ここに現われる遠い過去、

済製場(さいせいば)の屋根
ブラ下った琵琶(びわ)
石灰の匂い
――は山口・湯田温泉で父・謙助が営んでいた医院の景色です。

住まいは医院に続く建物の中にあり
中也は立ち入りを禁じられているはずの医療施設で
よく遊んだものでした。

幼児もしくは少年の目に
その無機質であり生々しくもある景色がどのように映ったか
想像できるような気がしませんか?

姉妹は眠った、母親は紅殻色(べんがらいろ)の格子を締めた!
――も故郷での同じような経験の反映でしょうが
ここに詩の「現在」はあります。

「眠った」も「締めた」も
なにごとかの終わりを示しているようです。

こうした景色の中に
灌木(かんぼく)がその個性を砥(と)いでいる
――のは詩人でしょう。

ここにも「現在」がありますが
詩人はここにいます。

そして、もう一人の登場人物である「文子さん」に
「泰子」の影はあることでしょう。

いや、こんなところに泰子がでてくるはずはない、という声が聞こえてきそうですが
「月」が遠い日の淡い恋の歌であるのならまだしも
流れは「山羊の歌」の「月」に連なっています。

今宵(こよい)月は襄荷(みょうが)を食い過ぎている
――は、
今宵(こよい)月はいよよ愁(かな)しく、
――の流れの中にあり
二つは「対」を作っています。

ここは
「悲しみで呆(ぼ)ける」と取るのが自然です。

第1行には
「みょうがを食べ過ぎるとバカになる」という意味を含ませながら
悲しみが隠されてあるのです。

ここに撹乱(かくらん)されてはなりません。

とはいえ
暗喩は正解というものに辿りつくのは
至難であることも忘れてはなりません。

実証できるものはなにもありませんし
実証がすべてではありません。

実証がすべてであるのなら
詩は存在しなくなってしまいます。

「在りし日の歌」の「月」も
広義、恋愛詩なのです。

今回はここまで。

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2014年8月 3日 (日)

恋愛詩のはじまり「月」/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

長谷川泰子が
中也との暮らしをやめて
小林秀雄の元へと去ったのは
大正14年11月のことでした。

「月」が作られたのは
その頃とされていますが
この「11月の事件」の後であるかを断定できません。

「新編中原中也全集」は
「在りし日の歌」所収の「むなしさ」が大正15年2月制作であり
その高踏的な漢語の使用と類似した「月」の制作が
同じ頃のものであると推定し
「月」の制作を「大正14年~15年」の幅をとっています。

「11月の事件」より後の制作である可能性を示唆(しさ)していますが
断定していません。

しかし、高い可能性は否定しようになく
「月」に事件の反映を見ないことのほうが不自然です。


 
今宵(こよい)月はいよよ愁(かな)しく、
養父の疑惑に瞳を睜(みは)る。
秒刻(とき)は銀波を砂漠に流し
老男(ろうなん)の耳朶(じだ)は蛍光をともす。

ああ忘られた運河の岸堤
胸に残った戦車の地音(じおん)
銹(さ)びつく鑵(かん)の煙草とりいで
月は懶(ものう)く喫(す)っている。

それのめぐりを七人の天女(てんにょ)は
趾頭舞踊(しとうぶよう)しつづけているが、
汚辱(おじょく)に浸る月の心に

なんの慰愛(いあい)もあたえはしない。
遠(おち)にちらばる星と星よ!
おまえの劊手(そうしゅ)を月は待ってる

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

今宵(こよい)月はいよよ愁(かな)しく、
――というこのはじまりの唐突な感じ!

詩人にとって「愁しみ」は唐突ではなく
すでに馴染みのものだったのです。

読者はしかしなにが「愁しい」のだろうかと思うヒマもなく
晦渋(かいじゅう)な詩語の攻勢にあい
難解さと苦闘しているうちに
詩を見失うというパターンにはまってしまうのです。

ご用心。

中也の「恋愛詩」は
京都時代のダダ詩は別として
詩に歌われたはじめから
失われた恋なのでした。

中原中也の中期の恋愛詩が始まるのは昭和3年12月18日の「女よ」からである。
――と大岡昇平が「片恋」(「文芸」1956年6月号)を書き出したのは
すでに「朝の歌」(「世界」1956年5月号)を書き終えてからのことでしたから
「初期の恋愛詩」の印象がうすれてしまったということでしょうか。

そういうことも考えられますが
「朝の歌」をよく読めば大岡が
事件の痕跡はしかし過去との断絶の意識となって、現われる。
――と記して

「月」の第2連前半行、
ああ忘られた運河の岸堤
胸に残った戦車の地音(じおん)
――と、

「春の日の夕暮」の第2連前半行、
吁(ああ)! 案山子(かかし)はないか――あるまい
馬嘶(いなな)くか――嘶きもしまい
――を例示しているところはさすがです。

中也の恋愛詩のはじまりについて
大岡は「月」と「春の日の夕暮」をはっきりと挙げているのです。

しかし、それ以上に掘り下げられませんでした。
後続する論考・評論も大岡にならっているということでしょうか。

「山羊の歌」には
終始、それが「失恋」であったにせよ恋愛(詩)が歌われています。

途切れ途切れのように見えますが
恋愛(詩)は歌われ
むしろ充満しています。

今回はここまで。

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2014年8月 2日 (土)

「月」が歌った三角関係/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

「サロメ」を下敷きにしたのなら
「月」に登場する人物たちのキャスティングは
はっきりしてきます。

誰が誰でありと推測することが可能になります。

まずは月に見立てられたのは詩人か否か。

月が詩人ならば
養父とは誰のことで
養父の疑惑とは何のことで
その疑惑に瞳を瞠(みは)っているのは誰でしょうか。
老男とは誰を指すのでしょう。

第1連に現われるキャラクターをおよそ見当をつけられます。

月は詩人ではなく
ほかの誰かのメタファーである、という見方も当然出てきます。

養父の疑惑に瞳を睜(みは)る。
――の主語を月と取る見方も出てくるし
ほかの人物の存在を見ることもできるでしょう。

何種類もの配役が推測できることになりますが
それは断定できることでありませんから
あくまでも可能性です。

読み手それぞれの想像力に
委(ゆだ)ねられているものとしておくのがベストです。

読みを競うことは自由ですが
他人に強要するものではありません。


 
今宵(こよい)月はいよよ愁(かな)しく、
養父の疑惑に瞳を睜(みは)る。
秒刻(とき)は銀波を砂漠に流し
老男(ろうなん)の耳朶(じだ)は蛍光をともす。

ああ忘られた運河の岸堤
胸に残った戦車の地音(じおん)
銹(さ)びつく鑵(かん)の煙草とりいで
月は懶(ものう)く喫(す)っている。

それのめぐりを七人の天女(てんにょ)は
趾頭舞踊(しとうぶよう)しつづけているが、
汚辱(おじょく)に浸る月の心に

なんの慰愛(いあい)もあたえはしない。
遠(おち)にちらばる星と星よ!
おまえの劊手(そうしゅ)を月は待ってる

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

と言いながら推測の一つもしないでは
詩を読んだことになりませんから
ここではある読みを試みておきましょう。

今宵(こよい)月はいよよ愁(かな)しく、
養父の疑惑に瞳を睜(みは)る。
――という第1連冒頭行に主役級のキャラクターは登場しています。

月は中也その人です。
養父は月(=中也)のライバルである小林秀雄。
その小林の疑惑に目を丸くしている長谷川泰子
――という構図です。

後に小林秀雄自らが「奇怪な三角関係」と呼んだ
中也―泰子―小林秀雄の
この詩を制作した時期の状態が
「月」に歌われたのではないかという読みです。

「山羊の歌」に現われる恋愛(詩)を追っていくと
恋愛(詩)が充満していることに気づきますが
「月」はその早い時期の作品ということになります。

いかがでしょうか?

今回はここまで。

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2014年8月 1日 (金)

ワイルド「サロメ」の月/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

オスカー・ワイルドの「サロメ」については
すでに初めて「月」を読んだときに概略を記述してありますから
それを引っぱっておきましょう。

サロメ:ガリラヤ王ヘロデに捕らえられた預言者ヨハネを愛した王女サロメが、義父ヘロデを月の下で「七つのベールの舞」を踊ってたぶらかし、ヨハネの生首を手に入れ、その生首にキスするというあらすじの物語。新約聖書のわずかな記述から拡大解釈された。ヨーロッパで油絵やオペラの題材に好んで取り上げられた歴史があるが、1891年にフランス語で出版されたオスカー・ワイルドの戯曲は、オーブリー・ビアズリーの挿画の斬新さも手伝って、センセーションを巻き起こした。中原中也は、1927年(昭和2年)の日記の読書メモに「SaloméOscarWild」と記しているが、どの翻訳を読んだのか分かっていない。
(※初めて「月」を読んだときの鑑賞記は「中原中也・全詩アーカイブ」にあります。)

「山羊の歌」の「月」は
オスカー・ワイルドの「サロメ」を下敷にしていると推測する読みがあり
「新編中原中也全集」も参考文献の一つに挙げています。

「サロメ」では
月が劇の進行に象徴的な役割をもたされおり、

今宵(こよい)月はいよよ愁(かな)しく、
養父の疑惑に瞳を睜(みは)る。
――は、王女サロメと義父ヘロデの関係と類似し、

それのめぐりを七人の天女(てんにょ)は
趾頭舞踊(しとうぶよう)しつづけているが、
――は、裸足の王女サロメが7本の布帛(ふはく)を持ち
ヘロデ王の前で舞う「七つのベールの踊り」を想起させるものと案内しています。

難解に苦しんできた読者は
目を開かれる思いがしているのではないでしょうか。

「七つのベールの踊り」という場面は
すでに広く知られるほどの
欧米での「サロメ人気」なのでしょうし
日本でも
明治42年(1909年)に小林愛雄、森鴎外の翻訳がはじまって以降大正末期まで
多くの邦訳がなされ
舞台化されることが度々であったそうです。

「月」に登場する養父がヘロデ王で
その養父の疑惑に目を凝らしている者が養女サロメであるとする見方は
いかにもストンと胃袋の中に落ちていきますし、

「月」の中の「7人の天女」は
どうみても固有名のようであると感じていた読者が
納得する有力な読みの一つにするに違いありません。

中也は
昭和2年の日記の「7月の読書」欄に
「Salomé Oscar Wild」と記していて
すでに読んだか
関連文献を読んだかしていました。

では、なぜサロメの物語なのでしょうか?

ボードレールの詩や
ワイルドの戯曲が参照されたからといって
詩がただちに読まれたということにはなりませんから
最大の疑問が解けたものではありません。

「サロメ」のことを知っただけで
だいぶ楽にはなりましたが。

やはり詩に戻るしかありません。

途中ですが今回はここまで。


 
今宵(こよい)月はいよよ愁(かな)しく、
養父の疑惑に瞳を睜(みは)る。
秒刻(とき)は銀波を砂漠に流し
老男(ろうなん)の耳朶(じだ)は蛍光をともす。

ああ忘られた運河の岸堤
胸に残った戦車の地音(じおん)
銹(さ)びつく鑵(かん)の煙草とりいで
月は懶(ものう)く喫(す)っている。

それのめぐりを七人の天女(てんにょ)は
趾頭舞踊(しとうぶよう)しつづけているが、
汚辱(おじょく)に浸る月の心に

なんの慰愛(いあい)もあたえはしない。
遠(おち)にちらばる星と星よ!
おまえの劊手(そうしゅ)を月は待ってる

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

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