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2014年9月

2014年9月30日 (火)

「氷島」を読み終えて・その5/「四季」に載せた「青い瞳」「除夜の鐘」

(前回からつづく)

 

中原中也の日記をパラパラとめくってみても
「四季」に関しての記述は
そう多くはありません。

 

最初に現われるのが
昭和10年(1935年)11月21日に
四季12月号読む。まあ此の雑誌はよい方なり。
――とあるものでしょうか。

 

この日の日記には
いろいろなことが断片的に書かれてあり
これはその一部で1行のものですから
見過ごしそうですが
実は結構大事な背景があります。

 

なぜそのことに触れられていないのかが
むしろ不思議です。

 

 

この「四季12月号」に
中也は「在りし日の歌」に収録されて(現在になっては)有名な「青い瞳」を発表しているのです。

 

「青い瞳」がどのような詩であったか
思い出すためにも
ここでもう一度読んでおきましょう。

 

 

青い瞳
 
1 夏の朝

 

かなしい心に夜(よ)が明けた、
  うれしい心に夜が明けた、
いいや、これはどうしたというのだ?
  さてもかなしい夜の明けだ!

 

青い瞳は動かなかった、
  世界はまだみな眠っていた、
そうして『その時』は過ぎつつあった、
  ああ、遐(とお)い遐いい話。

 

青い瞳は動かなかった、
  ――いまは動いているかもしれない……
青い瞳は動かなかった、
  いたいたしくて美しかった!

 

私はいまは此処(ここ)にいる、黄色い灯影(ほかげ)に。
  あれからどうなったのかしらない……
ああ、『あの時』はああして過ぎつつあった!
  碧(あお)い、噴き出す蒸気のように。

 

2 冬の朝

 

それからそれがどうなったのか……
それは僕には分らなかった
とにかく朝霧罩(あさぎりこ)めた飛行場から
機影はもう永遠に消え去っていた。
あとには残酷な砂礫(されき)だの、雑草だの
頬(ほお)を裂(き)るような寒さが残った。
――こんな残酷な空寞(くうばく)たる朝にも猶(なお)
人は人に笑顔を以(もっ)て対さねばならないとは
なんとも情(なさけ)ないことに思われるのだったが
それなのに其処(そこ)でもまた
笑いを沢山湛(たた)えた者ほど
優越を感じているのであった。
陽(ひ)は霧(きり)に光り、草葉(くさは)の霜(しも)は解け、
遠くの民家に鶏(とり)は鳴いたが、
霧も光も霜も鶏も
みんな人々の心には沁(し)まず、
人々は家に帰って食卓についた。
  (飛行場に残ったのは僕、
  バットの空箱(から)を蹴(け)ってみる)  

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変えました。編者。※「中原中也・全詩アーカイブ」に鑑賞記があります。)

 

 

「四季」に初出した後に
「在りし日の歌」へ収録されたこの詩は
「在りし日の歌」という詩集の6番目に配置されているのですから
比較的重要な位置に置いたという意図があったとみてもよいでしょう。

 

 

この日から間もなくの12月2日の日記に、

 

四季正月号へ原稿。歴程へ感想の原稿を追送。草野より電話にて、原稿足らぬ由、大急ぎの原稿。坊やの腹具合相変わらず。夜風ひどし。原稿にてあと何も出来ず、将棋。ランボオを少し訳す。

 

――とあります。

 

「四季正月号」とは
「四季」の昭和11年1月号のことで
この号には「除夜の鐘」が発表されています。

 

「除夜の鐘」も読みましょう。

 

 

除夜の鐘
 
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
千万年も、古びた夜の空気を顫(ふる)わし、
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

 

それは寺院の森の霧(きら)った空……
そのあたりで鳴って、そしてそこから響いて来る。
それは寺院の森の霧った空……

 

その時子供は父母の膝下(ひざもと)で蕎麦(そば)を食うべ、
その時銀座はいっぱいの人出、浅草もいっぱいの人出、
その時子供は父母の膝下で蕎麦を食うべ。

 

その時銀座はいっぱいの人出、浅草もいっぱいの人出。
その時囚人は、どんな心持だろう、どんな心持だろう、
その時銀座はいっぱいの人出、浅草もいっぱいの人出。

 

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
千万年も、古びた夜の空気を顫わし、
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

 

(上掲書より。「新かな」に変えました。編者。※「中原中也・全詩アーカイブ」に鑑賞記があります。)

 

 

そして12月19日には、

 

「文芸汎論」へ原稿発送。四季より同人になれと云って来る、諾と返事。フランス語。ランボオ。

 

――とあり
ここで「四季」同人への勧誘に「唯々諾々(いいだくだく)」の「諾」の字を使って
「いいですよ」と返事をしたことを記しました。

 

「OK、OK」というニュアンスです。

 

11月21日の日記に登場して
1か月も経過していません。

 

「四季」(関係者)との接触は
この間だけのことではないにしても
(日記に現われないさまざまな関係の結果だとしても)
中也の「四季」入りにはスムーズな感じが匂います。

 

 

「歴程」(の草野心平)との距離が
さらに緊密であることも
この12月19日の日記は語っているようですが。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年9月28日 (日)

「氷島」を読み終えて・その4/朔太郎の「ラムボオ訳詩集」高評価

(前回からつづく)

 

中原の最近出したラムボオ訳詩集はよい出来だった。
――と萩原朔太郎が一言書いていますが
これは大変重要な記述です。

 

この一言は
これに続くランボーと中也の「人物論」によって影が薄くなっていますが
「よい出来」というのは
まぎれもなく訳詩そのものに関しての評価ですから。

 

翻訳の洗練さとか美しさとか
整い具合(整除性)とか
翻訳の技術とか
……といったことよりも
朔太郎が上出来といったのは
言葉のみずみずしさとか鮮やかさを感じたからでありましょう。

 

中也の訳語は言葉が死んでいない
中也の言葉が立っている
――ということを
朔太郎はすぐさま感じ取ったに違いありません。

 

 

朔太郎のこの記述を読んでいて
すぐさま思い出すのは
大岡昇平のいまや歴史的となった以下の言説です。

 

 

「ランボオ詩集」は彼の死の直前の、12年9月、野田書房から出た。
(略)。

 

春山行夫の書評(「新潮」昭和12年11月号)のような否定的なものもあったが、小林秀雄が「文学界」11月号で書評し、概して好評で、よく売れたらしい。その翻訳は今日の眼から見れば満足なものではない。春山の批判はその頃出始めたランボー=シュルレアリスト説に立つもので、「詩人の手になったものとは到底想像もつかない」と書いたが、そう書いた人間は詩人の手になったものとは想像もつかない詩を書いていた。
(大岡昇平「中原中也」角川文庫より。)

 

 

小林秀雄が中也のランボー翻訳を「文学界」で評価し
朔太郎はそのおよそ1か月後に同じ「文学界」で評価したということになります。

 

同じ「文学界」というメディアでの評価ということに
編集の意図が多少あったことを差し引いても
1行であっても
評価は評価です。

 

「文学界」編集の中心にいる小林秀雄と
「四季」の中心にいる朔太郎が
中也のランボー翻訳を評価したのです。

 

異なるフィールドで発言力を持っていた二人が
評価したということになります。

 

 

これは中也が
活動の場を広げてきた結果の報(むく)いといえることです。

 

 

では中也は「四季」と
どのような関わりを築いてきたのでしょうか。

 

それを見るために
中原中也が「四季」に発表した作品(詩篇だけでない)を
ざっと振り返っておきましょう。

 

まずは「山羊の歌」所収の詩篇で
「四季」に発表したものは、

 

「秋の一日」
「帰郷」
「逝く夏の歌」
「少年時」
「みちこ」

 

 

次に「在りし日の歌」収録詩で
「四季」にも発表したもの。

 

「むなしさ」
「夜更の雨」
「青い瞳」
「幼獣の歌」
「冷たい夜」
「夏の夜に目覚めてみた夢」
「除夜の鐘」
「雪の譜」
「わが半生」
「独身者」
「ゆきてかえらぬ」
「村の時計」
「或る男の肖像」
「蛙声」

 

 

詩集以外に雑誌・新聞などに発表した詩篇(未発表詩篇)で
「四季」にも発表したものは、

 

「我がジレンマ」
「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」
「詩人は辛い」
「郵便局」
「幻想(草には風が吹いていた)」
「かなしみ」
「北沢風景」
「或る夜の幻想(1・3)」
「雨の朝」
「初夏の夜に」

 

――となっています。

 

 

「四季」発表詩が
いかに多かったかがわかります。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年9月27日 (土)

「氷島」を読み終えて・その3/朔太郎の中也評価

(前回からつづく)

 

中也の「萩原朔太郎評論集 無からの抗争」は
冊子の裏表紙(うらびょうし)に掲載された広告文ですが
現在のようにコピーライターがいて作家(詩人)の仕事と分立していたものではないのですし
裏表紙も現在のような広告スペースとして分化していなかったようですから
中也がそれを書くことが場違いということでもありません。

 

どのようにしてその役が回ってきたものか。

 

明らかではありませんが
冊子の同じページに草野心平の広告文も載っていますから
草野を通じて働きかけがあったものでしょうか。

 

 

この広告文に応答した朔太郎の文章がありますが
それが中也を追悼する文になったのも
はじめ朔太郎は追悼としてではなく
中也の「萩原朔太郎評論集 無からの抗争」への応答であった節があります。

 

中也の急逝は朔太郎に予期されるはずはなく
朔太郎は「萩原朔太郎評論集 無からの抗争」への「反論」を書いて
どこかのメディアへ渡す準備をしていたのではなかったのでしょうか。

 

中也の急逝で
それが若干手直しされて追悼文として掲載されたと思い過ごしそうな記述です。

 

 

この追悼文の中には
死を悼む言葉は見つかりません。

 

あたかも生きている詩人へ語りかけているような趣があります。

 

 

朔太郎が
昭和12年(1937年)12月に発行された「文学界」の「中原中也追悼号」に寄せた
「中原中也君の印象」は貴重な「中也の没後評価」の一つです。

 

全文を読みましょう。

 

 

中原中也君の印象
           萩原朔太郎

 

 中原君の詩はよく読んだが、個人としては極めて浅い知合だった。前後を通じて僅か3回しか逢っていない。それも公会の席のことで、打ちとけて話したことはなかった。ただ最後に「四季」の会で逢った時だけは、いくらか落付いて話をした。

 

 その時中原君は、強度の神経衰弱で弱っていることを告白し、不断に脅迫観念で苦しんでることを訴えた。話を聞くと僕も同じような病症なので、大に同情して慰め合ったが、それが中原君の印象に残ったらしく、最近白水社から出した僕の本の批評に、僕の人物を評して「文学的苦労人」と書いてる。その意味は、理解が広くて対手の気持ちがよく解る人(苦労人)というのである。

 

 僕のちょっとした言葉が、そんなに印象に残ったことを考えると、中原君の生活はよほど孤独のものであったらしい。大体の文学者というものは、殆んど皆一種の精神病者であり、その為に絶えず悩んでいるようなものであるが、特に中原君の如き変質傾向の強い人で、同じ仲間の友人がよく、その苦痛を語り合う対手が居なかったとしたら、生活は耐えがたいものだったにちがいない。

 

 前の同じ文中で、中原君は僕のことを淫酒家と言ってるが、この言はむしろ中原君自身の方に適合する。つまり彼のアインザアムが、彼をドリンケンに惑溺させ、酔って他人に食いついたり、不平のクダを巻かさせたのだ。この酒癖の悪さには、大分友人たちも参ったらしいが、彼をそうした孤独の境遇においたことに、周囲の責任がないでもない。つまり中原君の場合は、脅迫観念や被害妄想の苦悩を忘れようとして酒を飲み、却って一層病症を悪くしたのだ。所でこの種の病気とは、互いにその同じ仲間同志で、苦悩を語り合うことによって慰せられるのだ。酒なんか飲んだところ
で仕方がないのだ。

 

 中原の最近出したラムボオ訳詩集はよい出来だった。ラムボオと中原君とは、その純情で虚無的な点や、我がままで人と交際できない点や、アナアキイで不良少年じみてる点や、特に変質者的な点で相似している。ただちがうところは、ラムボオが透徹した知性人であったに反し、中原君がむしろ殉情的な情緒人であったという一事である。このセンチメントの純潔さが、彼の詩に於ける、最も尊いエスプリだった。

 

(「文学界」中原中也追悼号復刻版より。新かな・新漢字に改め、改行(行空き)を加えました。文中に「脅迫観念」とあるのは原文のままです。編者。)

 

 

最後に「四季」の会で逢った時だけは、いくらか落付いて話をした。
――とあるところに
中也の死を意識していることがうかがえる
やはり追悼文ということになります。

 

 

「文学界」の追悼号には朔太郎のほかに
島木健作
阿部六郎
草野心平
菊岡久利
青山二郎
小林秀雄
河上徹太郎
関口隆克
――が追悼文(詩)を寄せています。

 

これらが中也の没後評価のはしりです。
その一つです。

 

 

朔太郎は
生前から中也をそれなりに評価していました。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

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2014年9月26日 (金)

「氷島」を読み終えて・その2/朔太郎への中也のオマージュ

(前回からつづく)

 

中原中也の日記から
萩原朔太郎に関する記述を探せば
わずかながら見つかります。

 

一つは
1935年(昭和10年)10月26日の日記に1行、
夜築地2丁目宮川にて萩原朔太郎の出版記念会に出席。
――とあるもの。

 

朔太郎は
アフォリズム集「絶望の逃走」を
この年1935年10月に第一書房から上梓(じょうし)しました。

 

「宮川」は
現在もうなぎ料理の老舗として繁盛している店。

 

 

もう一つは
1937年(昭和11年)9月11日付け「ボン・マルシェ日記」に書かれた3行のうちの1行。

 

坊やにお医者を呼ぶ。鉄分不足の由。
俺も、診てもらう。ギヒト(痛風)なる由。酒、煙草がわるい由。
萩原朔太郎著「無からの抗争」受贈、礼状発信。
――とあります。

 

「坊や」は
次男・愛雅(よしまさ)のことです。
長男・文也が亡くなった前年11月10日から1年近くが経とうとしていました。
愛雅は文也の死の直後の12月15日に誕生しました。

 

 

「ボン・マルシェ日記」は
フランスの大手百貨店が刊行していた年間予定表付きの家計簿で
その1934年版を中也は1937年用に訂正し日記帳として使っていました。

 

詩人がそう呼んでいたものではなく
角川全集編集者の命名です。

 

 

9月といえば
中也に死が近づいていた頃ですが
中也はもちろんそれを知るはずがありませんでした。

 

 

朔太郎の「無からの抗争」寄贈への礼状のほかに
中也はこの書物の広告文を書きました。

 

これは
「無からの抗争」の出版社である白水社が刊行する雑誌「ふらんす」の
裏表紙(表4)に掲載されたもので
「萩原朔太郎評論集 無からの抗争」というタイトルで
「生前発表評論」として分類されています。

 

短いものですから
これを全文読みましょう。

 

 

萩原朔太郎評論集 無からの抗争

 

 萩原氏の本はよく売れるそうである。ところで萩原氏は文学的苦労人である。氏に会っていると何か暖かいものが感じられる。だから氏の本がよく売れることは、私としても喜びである。

 

 氏は実に誠実な人で、いつ迄経っても若々しい。一見突慳貪にも見えるけれど、実は寧ろ気が弱い迄に見解の博い人である。然るに氏のエッセイはとみると、時にダダッ子みたいに感じられう時がある。蓋し淫酒のせいである。而してその淫酒は、氏の詩人としての孤独のせいである。

 

 私は何故だか萩原氏を思うたびに、次のポオロの言葉をくちずさみたくなる。
「我は強き時弱く、弱き時強し。」
 
(「新編中原中也全集」第4巻 評論・小説本文篇より。新かなに変え、改行(行空き)を加えました。編者。)

 

 

広告文ですから
れっきとした文学評論とはいえませんが
朔太郎の人となりを捉えながら
その文学についての寸鉄刺すような評言が
元気に息づいています。

 

オマージュです。

 

相手は
詩壇の中心部にいる大御所(おおごしょ)のような存在ですが
臆するところが一抹も感じられません。

 

中也は健在です。

 

これを書いたのは
9月14日と推定されていますから
死の20日ほど前のことです。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

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2014年9月23日 (火)

「氷島」を読み終えて/同年発行の「山羊の歌」

(前回からつづく)

 

詩集「氷島」の最終詩に
この恋愛詩が配置されていることの意味は
極めて大きいものがあるはずです。

 

その意図が人々に伝わっているかは別として
詩人のメッセージの重大な部分がここにあるという
合図のはずです。

 

それは「氷島」の全詩を読み終えて
はじめて発見できるものでしょうから
いまは何もいえることではありません。

 

この詩をいまはテキストに沿って読むことしかないのですが
最終詩であることに何らかの意味があるのなら
最終詩にいたるすべての詩が読まれないことには
最終詩であること自体が意味をなさないわけです。

 

――と先に記してから
「氷島」のすべての詩を読んで
また「昨日にまさる恋しさの」にたどりつきました。

 

※先に記した内容の全文はこちら。→(昨日にまさる恋しさの・「氷島」メモ6)

 

 

昨日にまさる恋しさの

昨日にまさる恋しさの
湧きくる如く高まるを
忍びてこらえ何時までか
悩みに生くるものならむ。
もとより君はかぐわしく
阿艶(あで)に匂える花なれば
わが世に一つ残されし
生死の果の情熱の
恋さえそれと知らざらむ。
空しく君を望み見て
百たび胸を焦すより
死なば死ねかし感情の
かくも苦しき日の暮れを
鉄路の道に迷い来て
破れむまでに嘆くかな
破れむまでに嘆くかな。
           ――朗吟調小曲――

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

「氷島」全25篇の詩は
再録詩は別にして
昭和2~8年に制作されました。(三好達治)

 

第一書房から発行されたのは昭和9年(1934年)6月でした。

 

中原中也の第1詩集「山羊の歌」が
難産の末に刊行されたのもこの年末でした。

 

 

ここで中也が昭和11年(1936年)に書いた
「詩的履歴書」の一部を読んでおきましょう。

 

 

昭和4年。同人雑誌「白痴群」を出す。
昭和5年、6号が出た後廃刊となる。以後雌伏。
昭和7年、「四季」第2夏号に詩3篇を掲載。
昭和8年5月、偶然のことより文芸雑誌「紀元」同人となる。
同年12月、結婚。
昭和9年4月、「紀元」脱退。
昭和9年12月、「ランボウ学校時代の詩」を三笠書房より刊行。
昭和10年6月、ジイド全集に「暦」を訳す。
同年10月、男児を得。
同年12月、「山羊の歌」刊行。
(以下略。読み易くするため、原文を新かな・新漢字・洋数字に改め、改行を加えました。編者。)

 

 

朔太郎も中也も
昭和初期を同時代詩人として生きていました。

 

二人はかなり近いところにいました。

 

詩誌「四季」を通じての交流がきっかけのようですが
朔太郎は「無からの抗争」を出版した昭和12年(1937年)には
中也にも寄贈し
中也は簡単な書評(コメント)を発表しています。

 

このころ中也には
死が近づいていました。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年9月22日 (月)

監獄裏の林・「氷島」メモ25/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

「氷島」第24番詩は「監獄裏の林」です。

 

いよいよ詩集は終局にさしかかりました。
最終詩の手前に置かれたのがこの詩です。
「郷土望景詩」です。

 

 

監獄裏の林

 

監獄裏の林に入れば
囀鳥高きにしば鳴けり。
いかんぞ我れの思うこと
ひとり叛きて歩める道を
寂しき友にも告げざらんや。
河原に冬の枯草もえ
重たき石を運ぶ囚人等
みな憎さげに我れを見て過ぎ行けり。
暗鬱なる思想かな
われの破れたる服を裂きすて
獣類(けもの)のごとくに悲しまむ。
ああ季節に遅く
上州の空の烈風に寒きは何ぞや。
まばらに残る林の中に
看守の居て
剣柄(づか)の低く鳴るを聴けり。
          ――郷土望景詩――

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。新かな・新漢字に
改めました。ブログ編者。)

 

 

「監獄裏の林」は
「純情小曲集」(大正14年)からの再録ではなく
「萩原朔太郎詩集」(昭和3年、第一書房)に収録されていたものです。

 

これを「氷島」に配置した
特別な意図をまずは汲まねばなりません。

 

 

動物園の猛獣(動物園にて)
国定忠治(国定忠治の墓)
百貨店屋上の虎(虎)
路上で書物を売る(詩)人(無用の書物)
冬空に咆えるカラス(虚無の鴉)
乞食(我れの持たざるものは一切なり)
……。

 

これらに続いて
この詩のモチーフになったのは
監獄です。
囚人です。

 

 

あえてくくってみれば
社会の中に疎(うと)まれて存在し
そこに生息し続ける意義を予め失っていたり
そこにしか生きられない環境にありながら
そこに忍従しあるいは平然とあるいは超然として
そこに存在し続けざるを得ない存在
――とこれらを呼ぶことができるでしょうか。

 

疎外され孤立孤絶孤独な動物や人間。

 

 

「氷島」後半において
これらの「孤絶する存在」が現われて顕著であり
その上「郷土望景詩」からも採っている理由は
評論家諸兄の格好のテーマでありそうですが
その辺の事情は詳(つまび)らかでありません。

 

 

ここでは
恋愛詩篇もそうであり
望景詩篇もそうである
「氷島」本体の詩の流れとの
連続であり断絶である「関節」のような位置に
この「監獄裏の林」は存在する
――ということを一つだけいっておきましょう。

 

 

「月に吠える」からは
遥かに遠くへ来てしまった観がありますが
「望景詩」とはまっすぐに繋がっていながら
まったく断絶している。

 

「断絶の連続」と「連続の断絶」の
その画竜点睛が「監獄裏の林」のようであり
次の最終詩「昨日にまさる恋しさの」も
そのような意味で
恋愛詩篇におけるその位置にありそうです。

 

「氷島」は
「氷島」本流とこの二つの支流(恋愛詩篇と望景詩篇)を擁する
大きな河川であることが見えてきました。

 

 

「監獄裏の林」については
「詩篇小解」で詩人自身が案内しています。

 

 

監獄裏の林  前橋監獄は、利根川に望む崖上にあり。赤き煉瓦の長塁、夢の如くに遠く連なり、地平に落日の影を曳きたり。中央に望楼ありて、悲しく四方(よも)を眺望しつつ、常に囚人の監視に具う。背後(うしろ)に楢の林を負い、周囲みな平野の麦畑に囲まれたり。我れ少年の日は、常に麦笛を鳴らして此所を過ぎ、長き煉瓦の塀おりて、果なき憂愁にさびしみしが、崖を下りて河原に立てば、冬枯れの木立の中に、悲しき懲役の人々、看守に引かれて石を運び、利根川の浅き川瀬を速くせり。
(前同。)

 

 

少年の吹く麦笛を
看守に見守られて石を運ぶ懲役囚たちは
どのように聞いたのでしょうか。

 

ここにはノスタルジーばかりではない
魂の接触が述べられてあります。

 

 

前橋監獄は
明治21年(1888年)、利根川沿いの前橋市街地に建てられて以来
今も現在地に前橋刑務所としてあり
レンガ造りの塀で有名な収容施設です。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年9月21日 (日)

我れの持たざるものは一切なり・「氷島」メモ24/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

「氷島」第23番詩は「我れの持たざるものは一切なり」。
前詩「虚無の鴉」の最終行がそのままタイトルになりました。

 

「虚無の鴉」は終わっていなかったのか。
言い足りなかったのか。

 

もう少し丁寧に
ディテール(細部)を歌わなければならないと感じた
詩心の必然でしょう。

 

いや、ディテールを補足するというよりも
テーマの大きさを認識し直す必要に迫られたのかもしれません。

 

 

我れの持たざるものは一切なり

 

我れの持たざるものは一切なり
いかんぞ窮乏を忍ばざらんや。
独り橋を渡るも
灼きつく如く迫り
心みな非力の怒に狂わんとす。
ああ我れの持たざるものは一切なり
いかんぞ乞食の如く差爾として
道路に落ちたるを乞うべけんや。
捨てよ! 捨てよ!
汝の獲たるケチくさき名譽と希望と、
汝の獲たる汗くさき銭(ぜに)を握って
勢い猛に走り行く自動車の後(あと)
枯れたる街樹の幹に叩きつけよ。
ああすべて卑穢なるもの
汝の非力なる人生を抹殺せよ。

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

「虚無の鴉」の5行では
その前の「無用の書物」で歌った
「非有の窮乏」を歌い足りなかったのでしょうか。

 

 

わたしは持っていない。

 

持っていないということを
倒置してでも言わなければならないとき
何を持たないかの「何を」は後回しになるのは自然の流れです。

 

つんのめっているわけではありません。

 

 

持たないものが
窮乏を忍べないことがあろうか。

 

そんなことありはしない!

 

詩は一途に
このことを歌おうとしています。

 

 

捨てよ!
捨てよ!

 

名誉
希望
銭(ゼニ)

 

すべての卑穢なるものを。
(※卑「猥」も含めているのでしょう)
非力なる人生を
抹殺せよ。

 

 

そうすれば……。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年9月20日 (土)

虚無の鴉・「氷島」メモ23/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

「氷島」第22番にあるのが「虚無の鴉」。

 

5行に凝縮(ぎょうしゅく)されたのは
どこだかの屋根でカラスが鳴く光景。

 

否!

 

カラスそのものになった我=詩人。

 

 

虚無の鴉

 

我れはもと虚無の鴉
かの高き冬至の屋根に口を開けて
風見の如くに咆号せむ。
季節に認識ありやなしや
我れの持たざるものは一切なり。

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

風見のようにとは
黒いシルエットということか
表情のないモノのように咆(ほ)えるのです。

 

 

真冬。

 

寒いとか。
時(=季節)を認識していないのか。

 

あたしゃ何にも持たぬのよ。

 

 

省略の極を行く詩。

 

俳諧でもない。

 

思想が歌われています。

 

無(=何もない)を持っている、と。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年9月19日 (金)

無用の書物・「氷島」メモ22/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

「氷島」第21番詩は「無用の書物」。
街頭で本を売る人を見かけて歌った詩です。

 

都会の雑踏へ。
群集の中へ。

 

詩人は
群集の中の孤独の人に引き寄せられ
自らも群集の孤独の人になっていくかのようです。

 

 

無用の書物

 

蒼白の人
路上に書物を売れるを見たり。
肋骨(あばら)みな痩せ
軍鷄(しゃも)の如くに叫べるを聴く。
われはもと無用の人
これはもと無用の書物
1銭にて人に売るべし。
冬近き日に袷をきて
非有の窮乏は酢えはてたり。
いかなれば涙を流して
かくも黄色く古びたる紙頁(ぺえじ)の上に
わが情熱するものを情熱しつつ
寂しき人生を語り続けん。
われの認識は空無にして
われの所有は無価値に尽きたり。
買うものはこれを買うべし。
路上に行人は散らばり去り
烈風は砂を卷けども
わが古き感情は叫びて止まず。
見よ! これは無用の書物
1銭にて人に売るべし。

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

自作本はガリ版刷りのものでしょうか。
本を売りながら演説をしていたのでしょうか。

 

顔面蒼白
あばら骨が透けて見え
軍鶏が鳴くように叫んでいる

 

詩集のようなものを売っていたのか
宗教方面の書物か
政治活動か
それともタルコフスキー映画に登場する預言者みたいな……

 

 

詩人の関心は内容以前。

 

売れるを見たり。
叫べるを聴く。
――この二つです

 

 

この情景に遭遇して
詩(人)はいきなり、

 

われはもと無用の人
これはもと無用の書物
1銭にて人に売るべし。
――と歌うのです。

 

この断絶を
連続しないかぎり
この詩は読めません。

 

それを
第8行「冬近き日に袷をきて」以下に求めなければなりません。

 

 

この蒼白の人は
窮乏を極めて
「無一物」のようであるのに。

 

どうして
そうでありながら
情熱するものを情熱し
寂しい人生を語り続けるのか!

 

いかなれば~続けん
――には
そんなことしないでもよいではないか! という意味を込めながら
むやみに否定するものでもない響きもあるようで……

 

次には、

 

わたしの認識は究極のところ空無に行き着くものであり
(われの認識は空無であり)

 

わたしの所有するものは無価値である
(われの所有は無価値である)

 

買いたければ買うがよい
(買うものはこれを買うべし)

 

――と「共感」のようなものを述べるのです。

 

 

通行人は去り
烈風が砂を舞い上げる路上。

 

わが古き感情は叫びて止まず。
――の「わが」とは「わたしの(=詩人の)」ことにほかならず
詩人の中にある古い感情は叫び続けることになります。

 

いつしか詩人は
無用の人
無用の書物に成り代わっているのです。

 

1銭で売れ!は
蒼白の詩人(の孤独)へのエールなのでしょう。

 

 

「遊園地にて」に
嬉々たる群集の中に混りて
ふたり模擬飛行機の座席に乗れど

 

「乃木坂倶楽部」に
歳暮の忙がしき街を憂い迷いて

 

「虎」に
街路に這い行く蛆虫ども

 

――などとある都会の群集が
次第次第に近づいてきてブローアップされ
この詩では
その群集の中から抜け出た「孤独」が
詩人にも乗り移ったかのように歌われていて効果的です。

 

 

エドガー・アラン・ポーの世界を
詩人が意識していなかったとはとうてい思えない
群集の顔が見えるようです。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年9月18日 (木)

虎・「氷島」メモ21/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

「氷島」第20番にあるのが「虎」。

 

第16番「動物園にて」で
百たびも牙を鳴らして
われの欲情するものを噛みつきつつ
さびしき復讐を戦いしかな!
――と歌った猛獣(と同じものと見なしてよい)が
今度は首都の中心部・銀座の百貨店屋上に虎になって現われます。

 

 

 

虎なり
曠茫として巨像の如く
百貨店上屋階の檻に眠れど
汝はもと機械に非ず
牙歯もて肉を食い裂くとも
いかんぞ人間の物理を知らむ。
見よ 穹窿に煤煙ながれ
工場区街の屋根屋根より
悲しき汽笛は響き渡る。
虎なり
虎なり

 

午後なり
広告風船(ばるうむ)は高く揚りて
薄暮に迫る都会の空
高層建築の上に遠く座りて
汝は旗の如くに飢えたるかな。
杳として眺望すれば
街路を這い行く蛆虫ども
生きたる食餌を暗鬱にせり。

 

虎なり
昇降機械(えれべえたあ)の往復する
東京市中繁華の屋根に
琥珀の斑(まだら)なる毛皮をきて
曠野の如くに寂しむもの。
虎なり!
ああすべて汝の残像
虚空のむなしき全景たり。
        ――銀座松坂屋の屋上にて――

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

3連構成のくっきりとした形が見えます。

 

第2連で
午後なり
――といったん虎から離れ
天空に揺れるアドバルーンにパンした後
杳として眺望すれば
――と眼下に移した眼差しが見たのは
街路を這い行く蛆虫ども
生きたる食餌を暗鬱にせり。
――でした。

 

 

杳として眺望すれば
――は朔太郎独特の省略法で
「杳(よう)として(=暗くて)見えにくい眺めを見れば」というほどの意味が
文法的な異和感を超えて伝わってきます。

 

 

生きたる食餌を暗鬱にせり。
――も同様ですが
「生きている餌(えさ)」は
「生きている」のが街をうろついている人間を指すのか
「生きている」餌なのか
見分けがたい言葉遣いではありますが
食べ物を求めてさまよう人間の姿の暗鬱さは
詩人の暗鬱さに違いはないことなので
しっかりと通じます。

 

 

アドバルーンが高層建築の上に座り
――というのも
アドバルーンはすでに詩人自身であり
そうであれば
汝は旗の如くに飢えたるかな。
――の汝も詩人自身ということになり
その詩人には
街路を這い行く人間が蛆虫に見えたことも通じてきます。

 

 

同じような技が最終連でも
駆使されます。

 

虎なり!
ああすべて汝の残像
虚空のむなしき全景たり。
――と歌われる汝は
虎のようであり詩人のことのようであり
どちらでもよいようであり
虎であり詩人であり
詩そのものが虎であるような
むなしさに満ちます。

 

 

虚空のむなしき全景
――の「虚空のむなしき」は
まるで「白馬のうま」のような同義反復でありながら
「むさしさ」は相殺されずに強化されるようです。

 

こうして
虎なり
――と冒頭になんの説明もなく歌いだされた虎は
なぜ虎なのかを明らかにして
第1連の「屋根」へと読み手の視線を戻しますが
この屋根は
最終連の「東京市中繁華の屋根」に繋がる
「曠野」です。

 

虎です。

 

 

中也にも
広告気球(アドバルーン)が現われる詩がありますが
違いが明きらかなものの
かすかに響き合うものを感じ取ることもできるでしょう。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年9月16日 (火)

広瀬川・「氷島」メモ20/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

「広瀬川」は「氷島」第19番詩。
これも「純情小曲集」中の「郷土望景詩」からの再録です。

 

「国定忠治の墓」をはさんで
「中学の校庭」「広瀬川」の2作が
「郷土望景詩」の再発表ということになります。

 

 

広瀬川

 

広瀬川白く流れたり
時されば皆幻想は消え行かむ。
われの生涯(らいふ)を釣らんとして
過去の日川辺に糸をたれしが
ああかの幸福は遠きにすぎさり
小(ちい)さき魚は瞳(め)にもとまらず。
          ――郷土望景詩――

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

「郷土望景詩」10篇は、比較的に最近の作である。
――と「純情小曲集」の自序が記されたのは
1924年(大正13年)春、出郷の前のことでした。

 

その1年後に出版の運びとなったときには
詩人は東京にあり
「出版に際して」ともう一つの自序を書いています。

 

詩集「純情小曲集」にあるこの二つの自序は
「氷島」世界とどのように連続するのかしないのか
遡行(そこう)してみる意味がありそうですから
ここで全文をそのどちらも読んでおきましょう。

 

 

自序

 

 やさしい純情にみちた過去の日を記念するために、このうすい葉っぱのような詩集を出すことにした。「愛憐詩篇」の中の詩は、すべて私の少年時代の作であって、始めて詩というものをかいたころのなつかしい思い出である。この頃の詩風はふしぎに典雅であって、何となくあやめ香水の匂いがする。いまの詩壇からみればよほど古風のものであろうが、その頃としては相当に珍らしい“すたいる”でもあった。

 

 ともあれこの詩集を世に出すのは、改めてその鑑賞的評価を問うためではなく、まったく私自身への過去を追憶したいためである。あるひとの来歴に対する“のすたるじや”とも言えるだらう。

 

「郷土望景詩」10篇は、比較的に最近の作である。私のながく住んでいる田舍の小都邑と、その附近の風物を詠じ、あわせて私自身の主觀をうたいこんだ。この詩風に文語体を試みたのは、いささか心に激するところがあって、語調の烈しきを欲したのと、一にはそれが、詠嘆的の純情詩であったからである。ともあれこの詩篇の内容とスタイルとは、私にしては分離できない事情である。

 

「愛憐詩篇」と「郷土望景詩」とは、創作の年代が甚だしく隔たるために、詩の情操が根本的にちがっている。(したがってまたその音律もちがっている。)しかしながら共に純情風のものであり、詠嘆的文語調の詩である故に、あわせて一冊の本にまとめた。私の一般的な詩風からみれば、むしろ変り種の詩集であろう。

 

 私の芸術を、とにかくにも理解している人は可成多い。私の人物と生活とを、常に知っている人も多少は居る。けれども芸術と生活とを、両方から見ている知己は殆んど居ない。ただ二人の友人だけが、詩と生活の両方から、私に親しく往來していた。一人は東京の詩友室生犀星君であり、一人は郷土の詩人萩原恭次郎君である。

 

 この詩集は、詩集である以外に、私の過去の生活記念でもある故に、特に書物の序と跋とを、二人の知友に頼んだのである。

 

  西暦1924年春
    利根川に近き田舍の小都市にて 著者

 

 

出版に際して

 

 昨年の春、この詩集の稿をまとめてから、まる1年たった今日、漸く出版する運びになった。この1年の間に、私は住み慣れた郷土を去って、東京に移ってきたのである。そこで偶然にもこの詩集が、私の出郷の記念として、意味深く出版されることになった。

 

 郷土! いま遠く郷土を望景すれば、万感胸に迫ってくる。かなしき郷土よ。人人は私に情(つれ)なくして、いつも白い眼でにらんでいた。単に私が無職であり、もしくは変人であるという理由をもって、あわれな詩人を嘲辱し、私の背後(うしろ)から唾(つばき)をかけた。「あすこに白痴(ばか)が歩いて行く。」そう言って人人が舌を出した。

 

 少年の時から、この長い時日の間、私は環境の中に忍んでいた。そうして世と人と自然を憎み、いっさいに叛いて行こうとする、卓拔なる超俗思想と、叛逆を好む烈しい思惟とが、いつしか私の心の隅に、鼠のように巣を食っていった。

 

いかんぞ いかんぞ思惟をかえさん

 

 人の怒のさびしさを、今こそ私は知るのである。そうして故郷の家をのがれ、ひとり都会の陸橋を渡って行くとき、涙がゆえ知らず流れてきた。えんえんたる鉄路の涯へ、汽車が走って行くのである。

 

 郷土! 私のなつかしい山河へ、この貧しい望景詩集を贈りたい。

 

  西暦1925年夏
    東京の郊外にて 著者

 

青空文庫「純情小曲集」より。新かな・新漢字・洋数字に改めました。また傍線は“ ”で示したほか、読みやすくするために改行・行空きを加えました。ブログ編者。)

 

 

「純情小曲集」の初版本(新潮社発行)は
「北原白秋氏に捧ぐ」という献辞と
室生犀星の「珍らしいものをかくしている人への序文」がありますが
ここではそれらについて省略します。

 

 

「氷島」が刊行されたのは昭和9年(1934年)で
「純情小曲集」の発行(大正14年)から10年近くの時間が経過しています。

 

再発表ということには
これらの詩のこころがこの時点でも
詩人の中に生きていたことを示すものですが
出郷直後と10年後と
同じものであるということではないのでしょう。

 

 

広瀬川は
詩人の生地、前橋の市街地を流れる利根川の支流。

 

遠い過去となった日々には
釣り糸を投げ込んで
そこからライフ(命)を釣ろうとした!――と詩が歌うような
夢と希望に燃えた幸福があり
それらはいまや川の流れとともに
消えていってしまった幻でした。

 

「氷島」に置かれた「望景詩」は
「氷島」の世界の中で
よりいっそうノスタルジーの度合いを強めていることでしょう。

 

わずか6行にまで削ぎ落とされたノスタルジーが
密度をますます濃くする仕掛けです。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年9月15日 (月)

国定忠治の墓・「氷島」メモ19/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

「氷島」18番目に「国定忠治の墓」はあります。

 

人名とか地名などの固有名を詩題とするのは
「純情小曲集」の「郷土望景詩」から目立つことで
「氷島」ではこれまで読んできた詩では
「乃木坂倶楽部」
「波宜亭」
「珈琲店 酔月」」
「品川沖観艦式」
「小出新道」
――に次ぎます。

 

ほかに「広瀬川」があり
「虎」もあります。

 

「虎」は
「銀座松坂屋の屋上にて」の付言が詩末にありますから
これを含めてもよいでしょう。

 

 

国定忠治の墓

 

わがこの村に来りし時
上州の蠶すでに終りて
農家みな冬の閾(しきみ)を閉したり。
太陽は埃に暗く
悽而(せいじ)たる竹薮の影
人生の貧しき惨苦を感ずるなり。
見よ 此処に無用の石
路傍の笹の風に吹かれて
無頼(ぶらい)の眠りたる墓は立てり。

 

ああ我れ故郷に低徊して
此所に思えることは寂しきかな。
久遠に輪を断絶するも
ああかの荒寥たる平野の中
日月我れを投げうって去り
意志するものを亡び尽せり。
いかんぞ残生を新たにするも
冬の蕭條たる墓石の下に
汝はその認識をも無用とせむ。
       ――上州国定村にて――

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。新かな・新漢字に
改めました。ブログ編者。)

 

 

「中学の校庭」が歌ったノスタルジーの背後には
第5学年への進級に落第したという事件があり
その背後には初恋の女性「エレナ」がらみの事件があったらしいのですが
なぜ「いかりて書物をなげすて」と歌われたのかは不明です。

 

あえて「怒り」を取り出すこともないのかもしれません。

 

初恋が詩に歌われたというそのことだけでも
「中学の校庭」という詩が「氷島」の中で輝きはじめ
その次には「国定忠治の墓」が配置されているところに
断絶の連続、連続の断絶としかいいようにない詩集のたくらみがあって
驚きですし面白いのです。

 

「氷島」という詩集を読む
重要なヒントといえるでしょう。

 

 

2連の詩です。
前半は国定忠治の墓の荒涼とした自然の風景。
蚕(かいこ)の季節を終えた農家は人影もありません。

 

あたかも無用の石として
無頼の眠る墓は笹に吹かれて立っていました。

 

後半は
しきりに忠治に同化を試みているというか
ああ我れ故郷に低徊して
此所に思えることは寂しきかな。
――と簡明に寂しさを歌い出すのですが

 

次には
久遠に輪廻を断絶、とか
残生を新たにする、とか
認識をも無用とする、とか

 

これは
忠治の境涯を歌っているのか
詩人の心境なのか

 

そのどちらでもあり
渾然一体として境がなく
最終行に見える「汝」は
すでに詩人のものでもあるのでしょう。

 

しかし「絶叫」というには
難渋な漢語調が詩に没入していくことにブレーキをかける気配です。

 

 

忠治は
詩人の知性(思惟)に飛び込んできたのでしょうか?

 

ここに一種のユーモアを読んで可能なのでしょうか?

 

 

「詩篇小解」は
この詩の制作の背景を案内してユーモアどころではありません。

 

 

国定忠治の墓  昭和五年の冬、父の病を看護して故郷にあり。人事みな落魄して、心烈しき飢餓に耐えず。ひそかに家を脱して自転車に乗り、烈風の砂礫を突いて国定村に至る。忠治の墓は、荒寥たる寒村の路傍にあり。一塊の土塚、暗き竹薮の影にふるえて、冬の日の天日暗く、無頼の悲しき生涯を忍ぶに耐えたり。我れ此所を低徊して、始めて更らに上州の蕭殺たる自然を知れり。路傍に倨して詩を作る。

 

 

自転車を漕いで国定村へ向かう詩人の姿にしかし
広沢虎造の浪曲がかぶさってくるのを禁じることもできません。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年9月13日 (土)

中学の校庭・「氷島」メモ18/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

「中学の校庭」は
「波宜亭」「小出新道」に続く
「郷土望景詩」からは3番目の再録詩。

 

「氷島」では第17番に配置されています。

 

 

中学の校庭

 

われの中学にありたる日は
艶めく情熱になやみたり。
怒りて書物を投げすて
ひとり校庭の草に寝ころび居しが
なにものの哀傷ぞ
はるかに彼(か)の青きを飛び去り
天日直射して 熱く帽子の庇(ひさし)に照りぬ。
          ――郷土望景詩――

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

詩人は思春期のある時を
思うままに回想し
回想したままをスケッチしている様子です。

 

それ以上でも以下でもない
ノスタルジーの記録であるかのような。

 

「純情小曲集」中の「郷土望景詩」ではトップを飾ります。

 

 

「萩原朔太郎」(「群像・日本の作家」小学館)の年譜によると
詩人が群馬県立前橋中学校に入学したのは
明治33年(1900年)4月。

 

明治39年に第5学年を修了・卒業するまで
1度第5学年への進級に失敗、落第していますが
怒りて書物を投げすて
――とこの詩にあるのがどのような事件であったか
知る由(よし)もありません。

 

艶めく情熱
哀傷
――とあるのが恋の方面のことであるのか
そんなこともわかりませんが、

 

はるかに彼(か)の青きを飛び去り
(はるかにあの青空を飛び去り)
天日直射して 熱く帽子の庇(ひさし)に照りぬ。
(太陽光が直射して熱くなった帽子を照りつけていた。)
――と中学校の校庭がイメージに浮かび
それがそのまま叙述されたのです。

 

単なる叙景のようですが
詩人にとっては
ここに詩はありました。

 

 

「郷土望景詩」のトップに置いたからには
捨てられない事情があったことが想像されますが
詩行には
「怒り」の文字を置いたのだけが
やがて爆発する絶叫への前触れだったのでしょうか。

 

「氷島」では
すでに幾つかの爆発があり
「中学の校庭」はむしろ沈静剤の役割さえ帯びる静けさです。

 

 

「純情小曲集」に付された「郷土望景詩の後に」には
「前橋中學」のタイトルで、

 

 利根川の岸辺に建ちて、その教室の窓窓より、浅間の遠き噴煙を望むべし。昔は校庭に夏草茂り、四つ葉(くろばあ)のいちめんに生えたれども、今は野球の練習はげしく、庭みな白く固みて炎天に輝やけり。われの如き怠惰の生徒ら、今も猶そこにありやなしや。
――とあり
ここでもひたすらノスタルジーを記録しているかのようです。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年9月12日 (金)

動物園にて・「氷島」メモ17/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

「氷島」第16番は「動物園にて」。

 

詩人の実生活とか伝記的エピソードを追うよりも
詩の流れ(配置)の妙が鮮やかに見えてきました。

 

機関車の熱情を歌った詩心は
今度は動物園へとやってきます。

 

 

動物園にて

 

灼きつく如く寂しさ迫り
ひとり来りて園内の木立を行けば
枯葉みな地に落ち
猛獸は檻の中に憂い眠れり。
彼等みな忍従して
人の投げあたえる肉を食らい
本能の蒼き瞳孔(ひとみ)に
鉄鎖のつながれたる悩みをたえたり。
暗鬱なる日かな!
わがこの園内に来れることは
彼等の動物を見るに非ず
われは心の檻に閉じられたる
飢餓の苦しみを忍び怒れり。
百たびも牙を鳴らして
われの欲情するものを噛みつきつつ
さびしき復讐を戦いしかな!
いま秋の日は暮れ行かむとし
風は人気なき小径に散らばい吹けど
ああ我れは尚鳥の如く
無限の寂寥をも飛ばざるべし。

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

「告別」で歌った奔騰(ほんとう)する熱情は
はじめのうち跡形もないようですが
動物園にやってきた詩人の心はまた
暗鬱です。

 

暗鬱は「小出新道」もそうでした。

 

 

詩人が動物園に来たのは
灼きつく如く寂しさ迫り
――と冒頭に歌うように寂しさに発していますが

 

猛獸は檻の中に憂い眠り
人の投げあたえる肉を食らい
鉄鎖につながれて悩みをたえ
――という忍従の姿ばかり。

 

忍従する姿に寂しさを紛らわせるために来たのではありません。

 

 

彼等の動物を見るに非ず
――の1行は、
いま見えている彼ら動物を見るものではない
もっとよく見つめよ!
――と自己のこころに呼びかけているもののようであります。

 

 

わがこの園内に来れることは
――ではじまり
われは
われの
我は
――と述べられる詩人のこころは
「さびしき復讐」に向いています。

 

心(詩人のこころでもある!)の檻に閉じられ
飢餓の苦しみに耐え
牙を鳴らし
欲情を噛み殺しつつ
復讐を果たそうと
孤独な戦いに挑んでいる猛獣に目を向けるのです。

 

 

鳥であったら!

 

無限のその寂寥ですらも
どこかへ飛んでいってしまうだろうに!

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年9月11日 (木)

告別・「氷島」メモ16/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

「告別」は「氷島」第15番の詩。

 

出発する汽車を見送る群れの中に
死者と告別した悲しみに沈む人々があり
単なる離別を歌った詩(うた)ではないのですが
離別の苦しみや悲しみも
この告別には含まれているような告別です。

 

あるいは生別も
いずれ死別を想定されているという考えが
ここに含意されているものか。

 

 

告別

 

汽車は出発せんと欲し
汽鑵(かま)に石炭は積まれたり。
いま遠き信号灯(しぐなる)と鉄路の向うへ
汽車は国境を越え行かんとす。
人のいかなる愛着もて
かくも機関車の火力されたる
烈しき熱情をなだめ得んや。
駅路に見送る人人よ
悲しみの底に歯がみしつつ
告別の傷みに破る勿れ。
汽車は出発せんと欲して
すさまじく蒸気を噴き出し
裂けたる如くに吠え叫び
汽笛を鳴らし吹き鳴らせり。

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

いま目前にあるのは
汽車とそれを見送る人々です。

 

汽車は信号機と鉄路の向うへ
国境を越えて消え去ろうとしています。

 

ということは
見送られる者は
汽車であり汽車に乗っている詩人という構図になりますが。

 

見送る人も
見送られる人も
そして(擬人化された!)見送られる汽車も
告別の悲しみに耐えていることには違いありません。

 

 

汽車は出発の準備を整えてホームに待機し
やがて蒸気を吐き出し汽笛を鳴らし
駅を離れようとするのですが
この出発の情景のわずかな時間の推移に
告別の風景は歌われます。

 

冒頭と末尾は
汽車が出発するまでの叙景ですが
その間にはさまれて告別は叙情されます。

 

 

詩人はどこにいるでしょうか?

 

汽車も告別する人々をも眺望できる位置に
存在するということでしょうか?

 

そういうふうに捉えることも
可能でしょう。

 

 

詩人は
汽車そのものとして見送られるものであり
告別する人々そのものであると捉えることもできるでしょう。

 

風景を見ているというよりも
風景の中に入り込んでしまっている
汽車になってしまっている。

 

やがて汽車は出て行くのですが
詩人もその汽車とともに
国境を越えるのです。

 

 

機関車の火力されたる烈しき熱情
――とある熱情に詩(人)は存在し
そのなりゆくままに身を委ねている姿が見えてきます。

 

火のついた熱情は
なだめようにもなだめ得ないものでした。

 

 

「小出新道」に「われの叛きて行かざる道」とあり
「地下鉄道にて」に「なに幻影の後尾灯」とあり。

 

それらに続いて配置された妙をも味わいたいところです。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

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2014年9月10日 (水)

小出新道・「氷島」メモ15/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

「小出新道」は
「郷土望景詩」からの再録です。
「波宜亭」に続く再録詩篇の2番目の詩です。

 

「氷島」では第14番に配置されています。

 

 

第12番「火」に続くのは「地下鉄道にて」ですが
「恋愛詩篇」に分類される「地下鉄道にて」はすでに読みました。

 

「火」
「地下鉄道にて」
「小出新道」
――という詩集の流れは忘れてはなりませんから
ここに「地下鉄道にて」を掲出しておきましょう。

 

 

遊園地(るなぱーく)にて

 

遊園地(るなぱーく)の午後なりき
楽隊は空に轟き
回転木馬の目まぐるしく
艶めく紅(べに)のごむ風船
群集の上を飛び行けり。

 

今日の日曜を此所に来りて
われら模擬飛行機の座席に乗れど
側へに思惟するものは寂しきなり。
なになれば君が瞳孔(ひとみ)に
やさしき憂愁をたたえ給うか。
座席に肩を寄りそいて
接吻(きす)するみ手を借したまえや。

 

見よこの飛翔する空の向うに
一つの地平は高く揚り また傾き 低く沈み行かんとす。
暮春に迫る落日の前
われら既にこれを見たり
いかんぞ人生を展開せざらむ。
今日の果敢なき憂愁を捨て
飛べよかし! 飛べよかし!

 

明るき四月の外光の中
嬉嬉たる群集の中に混りて
ふたり模擬飛行機の座席に乗れど
君の円舞曲(わるつ)は遠くして
側へに思惟するものは寂しきなり。

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

「恋愛詩篇」の後に「小出新道」を配置したということに
詩人の意図はあったでしょうか?

 

この問いは
「氷島」の詩篇が
郷里・前橋を歌ったものであるか
東京を歌ったものであるか
そのどちらかであるかにこだわることと似ています。

 

詩人は
その区別を意図していたのでしょうか?

 

もちろん区別していたのですが
区別することよりも
「どちらもひっくるめた」のが「氷島」ではなかったのでしょうか?

 

 

小出新道

 

ここに道路の新開せるは
直として市街に通ずるならん。
われこの新道の交路に立てど
さびしき四方(よも)の地平をきわめず
暗鬱なる日かな
天日家並の軒に低くして
林の雑木まばらに伐られたり。
いかんぞ いかんぞ思惟をかえさん
われの叛きて行かざる道に
新しき樹木みな伐られたり。
           ――郷土望景詩――

 

(前同)

 

 

少年の日には
このあたりを通ったことがある風景であったか
もっと幼い日には
1度ならず遊んだ自然であったか
思い出というには
今なにかが格別によみがえってくるものではないのかもしれない

 

いや思い出の場所であったとしても
この四辻がどのようにして四辻になったのかさえわからない

 

四方(よも)の地平をきわめることのできない詩人は
困惑する面持ちを抱えているかのようにも見えます。

 

それはまもなく
暗鬱なる日へ詩人を追いやっていきます。

 

10行のコンパクトな詩で
ここに激越な調子は押さえられています。

 

 

伐られたり
――と、
かつてあった雑木林に伐採の手が入って
新道はコンクリートで舗装されたのでしょうが
傷口が生々しく露出しています。

 

なにか考えることを拒否するような
猛々しい暴力のようなものがそこにはありました……。

 

 

いかんぞ
――には「いけない」の意味も込められているのでしょう。

 

なぜ思惟をかえさないのか
かえせ、かえしてくれ
――と息せき切って胸の内から溢れ出てくるもの。

 

噴き出したものは
「思惟をかえせ」という叫びであり
一切は「思惟」へと向かうために
感情(激しさ)は押さえられた形になります。

 

 

無惨に刈られた林こそ
詩人が「叛きて行かざる道」であり
そこにはなんの愛執もないはずのところであるのに
言い知れぬ怒りの感情が湧いてくるのですが
ここではまだ
爆発することはありません。

 

いや!

 

いかんぞ いかんぞ思惟をかえさん
――と詩人の内部では
爆発するものでみなぎっていたといってよいでしょうか。

 

 

東京に住んで居ながら、
故郷上州の平野の空を、
いつも心の上に感じ、
烈しく詩情を叙べるのである
――と昭和9年に書いた自序は
「望景詩」の一群について記しています。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

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2014年9月 8日 (月)

火・「氷島」メモ14/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

「氷島」第12番は「火」です。

 

火は夕焼けのことですが
夕焼けの喩(ゆ)である前に
火であるような夕焼けです。

 

とにかく読んでみるのが先決です。

 

 

 

赤く燃える火を見たり
獣類(けもの)の如く
汝は沈黙して言わざるかな。

 

夕べの静かなる都会の空に
炎は美しく燃え出ずる
たちまち流れはひろがり行き
瞬時に一切を亡ぼし尽せり。
資産も、工場も、大建築も
希望も、栄誉も、富貴も、野心も
すべての一切を焼き尽せり。

 

火よ
いかなれば獣類(けもの)の如く
汝は沈黙して言わざるかな。
さびしき憂愁に閉されつつ
かくも静かなる薄暮の空に
汝は熱情を思い尽せり。

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。歴史的かな遣いを新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

これを夕焼けの喩(ゆ)と読んでいいものか。
そうではなく
火そのものと読まないといけないのではないか。

 

なんだか
おかしな錯覚に陥る感じ。

 

空が燃えている。
火事が目の前で燃えているかのように。

 

 

この火は、
獣のようにものを語らない

 

資産も、工場も、大建築も
希望も、栄誉も、富貴も、野心も
――すべてを焼き尽す魔物のような劫火(ごうか)です。

 

 

夕焼けは
そのありかを辿っていけば
太陽の火なのですから
同じものといえばいえるのですけれど
いったいどっちなんだと
見極めようとする目つきを求められるような
不思議な感興が起こります。

 

どっちでもいいのですが。

 

 

夕焼けを見て
それを火に喩えたというのが
ストレート(直)過ぎるのでしょうか?

 

あまりにも
直喩が決まっていてクラクラっとするような。

 

透明に広がる水を
自分を映し出す鏡面に喩えられて
マジックにあったような。

 

喩にするものとされるものとの差異が小さいあまりに
目を疑うような。

 

 

詩人が夕焼けを見たことは確かなことなのでしょうが
火はもともと詩人の心の中に求められていた。
そこに夕焼けが現われた――。

 

それだけのことかもしれません。

 

 

「小解」はそのあたりの事情を明かしていそうですが。

 

 

火  我が心の求めるものは、常に静かなる情緒なり。かくも優しく、美しく、静かに、静かに、燃え
あがり、音楽の如く流れひろがり、意志の烈しき悩みを知るもの。火よ! 汝の優しき音楽もて、我
れの夕ベの臥床の中に、眠りの恋歌を唄えよかし。我れの求めるものは情緒なり。

 

 

静かなる情緒
音楽の如く
意志の烈しき悩み
眠りの恋歌
……

 

「火」はかえって燃え広がっています。

 

詩人もまた
火の勢いに飲まれてしまったかのようです。

 

 

そういえば
夕焼けは中原中也の「トタンがセンベイ食べて」に接続するモチーフです。

 

実証できるものではありませんが
「静脈管」の中へ前進していく春の日の夕暮へ繋(つな)がっていきます。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

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2014年9月 7日 (日)

品川沖観艦式・「氷島」メモ13/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

「品川沖観艦式」は「氷島」第11番に配置された詩。
昭和4年(1929年)に品川沖の観艦式を見たことが「詩篇小解」に記されてあります。

 

この頃、中也は「白痴群」の創刊で奔走(ほんそう)していました。

 

 

「氷島」では珍しく3連構成です。
連と連の間を行空きにして
連の独立性を明確にしています。

 

また5行―5行―6行の各連が
前半で情景を歌い
後半で叙情を歌い
形への意識も明確です。

 

 

品川沖観艦式

 

低き灰色の空の下に
軍艦の列は横われり。
暗憺として錨をおろし
みな重砲の城の如く
無言に沈欝して見ゆるかな。

 

曇天暗く
埠頭に観衆の群も散りたり。
しだいに暮れゆく海波の上
既に分列の任務を終えて
艦(ふね)等みな帰港の情に渇けるなり。

 

冬の日沖に荒れむとして
浪は舷側に凍り泣き
錆は鉄板に食いつけども
軍艦の列は動かんとせず
蒼茫たる海洋の上
彼等の叫び、渇き、熱意するものを強く持せり。

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。)

 

 

1連、
低き灰色の空の下に
軍艦の列は横われり。

 

2連、
曇天暗く
しだいに暮れゆく海波の上

 

3連、
冬の日沖に荒れむとして
蒼茫たる海洋の上

 

――という情景(天候)描写にはじまる詩行が

 

1連、
無言に沈欝して見ゆるかな。

 

2連、
艦(ふね)等みな帰港の情に渇けるなり。

 

3連、
彼等の叫び、渇き、熱意するものを強く持せり。

 

――と擬人化された艦船が感情を露(あら)わにするのです。

 

 

無言に沈欝して
――と副詞句に現われた艦船の感情は
帰港の情に渇ける
――と次には断定され
叫びき、渇、熱意するものを強く持せり
――とついに「強く」持せりの断言となって立ち現れます。

 

詩人に「見ゆる」ものであった品川沖の艦船は
詩人その人の「叫び、渇き、熱意するもの」に成り代わってしまうのです。

 

このクレッシェンドの果てに現われるものが詩にほかなりません。

 

 

擬人化された艦船に詩人は同化し
艦船は薄暮の海に生き物のようであります。

 

 

「小解」が
「漂泊者の歌」「帰郷」「乃木坂倶楽部」の後に置かれたのは
やはり詩人の足跡を追ったものだからでしょうか。

 

 

品川沖觀艦式  昭和四年一月、品川沖に観艦式を見る。時薄暮に迫り、分列の式既に終りて、観衆は皆散りたれども、灰色の悲しき軍艦等、尚錨をおろして海上にあり。彼等みな軍務を終りて、帰港の情に渇ける如し。我れ既に生活して、長く既に疲れたれども、軍務の帰すべき港を知らず。暗澹として碇泊し、心みな錆びて牡蠣に食われたり。いかんぞ風景を見て傷心せざらん。欝然として怒に耐えず、遠く沖に向て叫び、我が意志の烈しき渇きに苦しめり。

 

(※歴史的かな遣いを、新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

ここに「欝然として怒に耐えず」とある怒りの感情は
悲しき
渇ける
疲れ
暗澹として
心みな錆びて
傷心
欝然として
叫び
烈しき渇き
苦し(む)
……などと混合してとぐろを巻いているかのようです。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

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2014年9月 6日 (土)

晩秋・「氷島」メモ12/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

「晩秋」は「氷島」第10番に配置された詩。

 

詩末に「朗吟のために」とあるのは初めてですが
これは「自序」に、
著者は東京に住んで居ながら、故郷上州の平野の空を、いつも心の上に感じ、烈しく詩情を敍べるのである。それ故にこそ、すべての詩篇は「朗吟」であり、朗吟の情感で歌われて居る。読者は声に出して読むべきであり、決して黙読すべきではない。これは「歌うための詩(うた)」なのである。
――とあるのに呼応しています。

 

 

晩秋

 

汽車は高架を走り行き
思いは陽(ひ)ざしの影をさまよう。
静かに心を顧みて
満たさるなきに驚けり。
巷(ちまた)に秋の夕日散り
鋪道に車馬は行き交えども
わが人生は有りや無しや。
煤煙くもる裏街の
貧しき家の窓にさえ
斑黄葵(むらさきあおい)の花は咲きたり。
        ――朗吟のために――

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。詩篇、「自序」ともに、歴史的かな遣いを新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

朗吟とは
詩人が自作を朗読した肉声のように
普通に詩行を読み上げるということでよいのでしょう。

 

普通にというのは
いくらかは「演じる」意志が入るということであり
「演じる」には「演じない」ことを目指す技が要るということでもありますが。

 

 

念のために
ふたたびここで詩人の朗吟を聞いておきましょう。
国立国会図書館のサービス「近代デジタルライブラリー」

 

 

声に出して読んでみれば
そしてそれを耳で聞いてみれば
詩(=うた)は確かに現われるでしょう。

 

詩の中に入った感じになりますね。
少なくとも詩が近づいた感じ。

 

詩が声になり
黙読では得られないものが現われ
それが詩(=うた)であるならば
詩はいつも朗吟されることを求めていることになりますから
自分の声であれ他人の声であれ
できるかぎり声として聞いたほうがよいのでしょう。

 

朗吟(※近年ではポエトリー・リーディングや朗読会が盛んに行われています)は
それで詩にふれ詩を味わうことができるのなら
基本であり必須な詩の楽しみ方のはずですから
誰にでもできるがなかなか誰もやろうとしない秘訣みたいなものですが。

 

 

さて「晩秋」を朗吟してみると、
汽車が高架を走っていく風景が
私の思いに重ねられ
次に心に移って……。

 

わが人生は有りや無しや。
――と思惟に高まって
最後で、
斑黄葵(むらさきあおい)の花
――へと無理なく収まっていくことに気づいたりします。

 

うたそのものになった感じといえばおおげさでしょうか。

 

 

夜汽車
思い

秋の夕日
舗道に車馬
人生
裏町
貧しき家の窓
むらさきあおいの花
……という詩語の一つ一つが身に沁み
次にはこれらの一つ一つが「うた」の流れへと変じていきます。

 

それは詩人がさすらう歩みの
ノンシャランな飄々とした身振りと重なって
よみがえってくるようではありませんか!

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

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2014年9月 5日 (金)

新年・「氷島」メモ11/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

「氷島」第9番は「新年」です。

 

新年とは
昭和7年(1932年)1月1日のことです。

 

詩人47歳(数え年)の新年です。

 

中原中也はこの年4月ごろに「山羊の歌」の編集にかかりました。
25歳(4月29日が誕生日)になる前後のことです。

 

 

新年

 

新年来り
門松は白く光れり。
道路みな霜に凍りて
冬の凜烈たる寒気の中
地球はその週暦を新たにするか。
われは尚悔いて恨みず
百度(たび)もまた昨日の弾劾を新たにせむ。
いかなれば虚無の時空に
新しき弁証の非有を知らんや。
わが感情は飢えて叫び
わが生活は荒寥たる山野に住めり。
いかんぞ暦数の回帰を知らむ
見よ! 人生は過失なり。
今日の思惟するものを断絶して
百度(たび)もなお昨日の悔恨を新たにせん。

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。)

 

 

改まった気持ちがそうさせるのでしょうか。
難解な漢字語句が幾つか現われます。

 

凜烈たる寒気
週暦を新たにする
昨日の弾劾
虚無の時空
新しき弁証の非有
暦数の回帰
……。

 

弁証の非有
――は特に難解ですね。

 

ニーチェとかショーペンハウエルあたりから来ているのでしょうか。

 

 

大意をとれればよいということなら、

 

悔いて恨みず
なお昨日の悔恨を新たにせん
――とある「悔い」「悔恨」を見失わなければ
なんとかこの詩を読めるのかもしれません。

 

詩(人)は
繰り返される「悔い」「悔恨」とに
立ち向かう決意を述べていることは間違いありません。
破れかぶれの感じを否めませんが。

 

悔いを恐れていてなんになる
人生は過失なのだ(としても)
今日、思惟の限りを尽くし
なお思惟しても
湧き出でるかのように100回も200回も
悔恨は日々新しくやってくる。

 

 

感情と思惟の位置(の関係)が
どのようなものか。
悔いは感情の一つなのか。

 

いかなれば虚無の時空に
新しき弁証の非有を知らんや。
わが感情は飢えて叫び
わが生活は荒寥たる山野に住めり。
――と歌われる中盤が難解さを極めます。

 

「弁証の非有」は
「実存」のことでしょうか。

 

 

悔いてばかりいては果てがない
悔いないぞ悔いないぞ
いつでも悔いよやってこい
――とでもいわんばかりのことが明かされている「詩篇小解」全文をここで読んで
一応この詩を読んだことにします。

 

 

 新年  新年来り、新年去り、地球は百度回転すれども、宇宙に新しきものあることなし。年年歳歳、我れは昨日の悔恨を繰返して、しかも自ら悔恨せず。よし人生は過失なるも、我が欲情するものは過失に非ず。いかんぞ一切を弾劾するも、昨日の悔恨を悔恨せん。新年来り、百度過失を新たにするも、我れは尚悲壯に耐え、決して、決して、悔いざるべし。昭和七年一月一日。これを新しき日記に書す。
(※詩篇、小解ともに、歴史的かな遣いを新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

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2014年9月 4日 (木)

珈琲店 酔月・「氷島」メモ10/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

「氷島」第8番は「珈琲店 酔月」です。

 

まずは「小解」を読んでおきましょう。

 

 

 珈琲店 酔月  酔月の如き珈琲店は、行くところの佗しき場末に実在すべし。我れの如き悲しき痴漢、老いて人生の家郷を知らず、酔うて巷路に徘徊するもの、何所にまた有りや無しや。坂を登らんと欲して、我が心は常に渇きに耐えざるなり。

 

 

「実在すべし」とあるからには
どこかに実在したカフェであり
そこで経験した実際が歌われたということでしょうが
「酔月」という固有名が実名であるかどうかはわかりません。

 

その「酔月がどこにあるか。

 

前橋であるか
新宿であるか渋谷であるか
はたまた下北沢であるか
さまざまに想像が広がりますが
どこであるかというよりも
何があったかに関心が向かうように
店の名は作られた様子です。

 

 

珈琲店 酔月

 

坂を登らんとして渇きに耐えず
蹌踉として酔月の扉(どあ)を開けば
狼籍たる店の中より
破れしレコードは鳴り響き
場末の煤ぼけたる電気の影に
貧しき酒瓶の列を立てたり。
ああ この暗愁も久しいかな!
我れまさに年老いて家郷なく
妻子離散して孤独なり
いかんぞまた漂泊の悔を知らむ。
女等群がりて卓を囲み
我れの酔態を見て憫みしが
たちまち罵りて財布を奪い
残りなく銭(ぜに)を数えて盜み去れり。

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。詩篇、小解ともに、歴史的かな遣いを新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

恋愛詩、郷土望景詩を別にすれば
「珈琲店 酔月」は「氷島」本体の第5番の詩ということになります。

 

 

詩集「氷島」の第11番詩「品川沖観艦式」より前にありながら
「小解」ではこの詩が後に置かれているのは
「乃木坂倶楽部」と「帰郷」との関係と同様です。

 

「小解」は制作順に並べたのか
詩篇の配置は詩想とかテーマとかを意識して並べたのか
どちらもこだわっていないのか
いまだによくわからないところです。

 

制作順序はどうでもよかったのかもしれません
詩内容が重要とみなされたのかもしれません。

 

その逆なのかもしれません。

 

 

我れまさに年老いて家郷なく
妻子離散して孤独なり
――という状況に詩人は
この詩を作った昭和初期にありました。

 

家郷は故郷と
ほぼ同義と考えてよいでしょう。
ニュアンスの違いはあるにしても。

 

家郷を失うこととは
漂泊することでありました。

 

漂泊には「悔い」があることが
ここで述べられたのです。

 

 

その悔いは
つかの間の暗愁の後に
ついに癒されません。

 

酔態をさらけ出した詩人につけこんだ女らに
財布の中身を巻き上げられてしまうという暴力に
時には見舞われることが当時の喫茶店という場所であったのでした。

 

 

我れの如き悲しき痴漢
――と「小解」にある「痴漢」は
家郷もなく
妻子もない老いの身で
なお女たちへの幻想を抱く自己の本性への懺悔(ざんげ)のようなものでしょうか。

 

女たちはあるいは
氷山から見た幻のオーロラのようなものと見えたことがあったのでしょうか。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年9月 3日 (水)

家庭・「氷島」メモ9/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

「氷島」第7番は「家庭」。
おや、こんなところにと思わせる詩のタイトルです。

 

昭和6年「詩・現実」という詩誌に発表されています。

 

 

家庭

 

古き家の中に座りて
互に黙(もだ)しつつ語り合えり。
仇敵に非ず
債鬼に非ず
「見よ! われは汝の妻
死ぬるとも尚離れざるべし。」
眼(め)は意地悪しく 復讐に燃え 憎憎しげに刺し貫(ぬ)く。
古き家の中に座りて
脱るべき術(すべ)もあらじかし。

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。歴史的かな遣いを新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

この詩に歌われたような場面が
いったいいつのことであり
どこでのことであったかというような疑問が先立ちがちですが
その種の疑問は
この詩を読むために無用の長物というものでしょう。

 

 

あたかも私小説の情景描写であるかのような眼差しを
この詩を読もうとして誘い出されますが
「氷島」をそのように読んでよいはずがありません。

 

 

古き家の中に座りて
互に黙(もだ)しつつ語り合えり。

 

冒頭の2行が歌いだされるまでに
どれほどの時間がこの古き家の中に流れたものか。

 

穏やかな時の流れなのではありません。

 

 

そこに座っているのは
仇敵でもないし
借金取りでもない。

 

「見よ! われは汝の妻
死ぬるとも尚離れざるべし。」
――と語る妻です。

 

妻のほかに
だれかがそこにいるようでいないようで
二人っきりなのかも知れません。

 

 

それにしても
「見よ!」と語る妻とは
どのような「詩的存在」なのでしょう。

 

妻の言葉が
「私は妻です。死んでも離れることができません」と「 」にくくられ
詩行として屹立(きつりつ)しています。

 

何か恐ろしいものでも見たかのように
詩人は妻を見返し
目を見開いて妻の言葉を聞いたかのようです。

 

 

眼(め)は意地悪しく 
復讐に燃え 
憎憎しげに刺し貫(ぬ)く。

 

 

そのような女性と対座していて
逃げることはできない

 

どのような術(すべ)も「あらじかし」なのです。

 

詩人が座っているのは
そのような「古き家の中」です。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年9月 1日 (月)

波宜亭・「氷島」メモ8/面白い!中也の日本語

(前回からつづく)

 

「氷島」6番目に置かれたのが
「波宜亭」で「はぎてい」と読みます。

 

波宜亭は、
「純情小曲集」に付された「郷土望景詩の後に」に
波宜亭、萩亭ともいう。先年まで前橋公園前にありき。庭に秋草茂り、軒傾きて古雅に床しき旗亭なりしが、今はいずこへ行きしか、跡方さえもなし。
――と記された実在した旗亭(きてい。茶店、料理店)です。

 

 

この詩は「郷土望景詩」からの再録詩篇です。

 

「帰郷」に続いて「郷土望景詩」を置いたのは
「氷島」とのシームレスな接続を狙ったものでしょうか。

 

ここに「氷島」が、
ある意味に於て「郷土望景詩」の続編であるかも知れない。(「自序」)
――と記された理由があります。

 

「郷土望景詩」からの再録詩5篇(「監獄裏の林」を除く4篇)は
単なる付録ではなく
「氷島」のメーンストリームを流れているのです。

 

 

波宜亭

 

少年の日は物に感ぜしや
われは波宜(はぎ)亭の2階によりて
かなしき情感の思いにしずめり。
その亭の庭にも草木茂み
風ふき渡りてぼうぼうたれども
かのふるき待たれびとありやなしや。
いにしえの日には鉛筆もて
欄干(おばしま)にさえ記せし名なり。
          ――郷士望景詩――

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。歴史的かな遣いを新かな・新漢字に、漢数字は洋数字に改めました。ブログ編者。)

 

 

「純情小曲集」が刊行されたのは大正14年ですから
激越さはありません。

 

少年の日を回想して歌ったのも
「帰郷」や「乃木坂倶楽部」などより
10年近くになる前のことです。

 

われは波宜(はぎ)亭の2階によりて
かなしき情感の思いにしずめり。
――は、
ですから少年の日の経験です。

 

「かなしき情感の思い」はしかし、
年月を経て再訪し初稿を作ったときの思いでもあり
今度の「帰郷」でまた湧きあがってきた感慨なのでしょう。

 

旧作はなんであれ
発表したときが「現在」なのですから。

 

 

風ふきわたるぼうぼうとした茶屋の庭
――は歳月の流れを示しますが
欄干に昔、鉛筆であの女性(ひと)の名を書き込んだのだがなあ
――には「現在」があります。

 

待たれびと(あの女性)のことが思い出されること自体を
恋心と呼んで差し支えなければ
「恋愛詩4篇」に入れてもおかしくはない恋が
ここにはあります。

 

そのことがかえって
「氷島」という詩集の世界を浮きあがらせるかのようです。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

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