三好達治の「氷島」否定論について11/病弊瑕疵(びょうへいかし)
(前回からつづく)
三好達治が「氷島」への論評を公表した初めは
昭和9年(1934年)11月号の「四季」ですから
「氷島」発行(同9年6月)の直後といってよいでしょう。
「詩集『氷島』に就て――萩原朔太郎氏への私信」と題したこの文は
「氷島」を寄贈し・される中で交わされた私信が
創刊なったばかりの「四季」誌上に移され
「公」の場で継続される格好となったものでした。
朔太郎も後の昭和11年7月号の同誌に
「『氷島』の詩語について」を発表し
三好への応答としました。
掲載されることになったのは
「四季」編集部の求めによります。
◇
「詩集『氷島』に就て」の冒頭で三好は
師の作品を批判することへの「ためらい」を長々と前置きしたうえで、
(そのことはここで省略しますが)
まっすぐに「氷島」の「病弊瑕疵」について
その「不自然な印象」を語りはじめます。
病弊(びょうへい)
瑕疵(かし)
――です!
この言葉はきっと
私信(所感)を交わす過程で吐き出されたものなのでしょう。
そして「不自然な印象」というのは
30年後の「『詩の原理』の原理」と変わらず繋がっていることは
見てきたとおりです。
◇
三好は師である詩人の作品を批評し
それが詩句の末節に及ぶことが
そのことに拘泥(こうでい)するものではないことなどを
詩篇を取り上げて具体的に論ずる段になるここでも弁明しつつ
「新年」を取り上げます。
やがて「『詩の原理』の原理」でも「新年」を取り上げて
「まったく意味をなさない」と中の詩行について論じますが
ここでは「新年」を、
新年来り
門松は白く光れり。
道路みな霜に凍りて
冬の凜烈たる寒気の中
地球はその週暦を新たにするか。
われは尚悔いて恨みず
百度(たび)もまた昨日の弾劾を新たにせむ。
――とまで読んできて
「われは尚悔いて恨みず」に
読者は果して容易に明瞭な表象を捕えうるでしょうかと
ここでまず躓(つまづ)きを表明します。
そして、
繰返して読んでみても
はっきりした詩感に触れられない
音声的な触感に詩心を托しているのかもしれないが
無責任に読者をはぐらかしてはいけない
――などとコメントします。
「悔いて恨みず」という措辞(言葉の使い方)が
三好には見過ごせない「瑕疵」の一つだったのでしょう。
◇
続いて、
いかなれば虚無の時空に
新しき弁証の非有を知らんや。
――の「新しき弁証の非有」は
全く難解な名辞
推測がつかない
作者の気紛れを感じないでもない、などとした上で、
詩句に先だって、それに充実すべき内容の方からまず膨らみ上ってくるような場合、言語はこうした虚勢を張らないだろう
――とさらに突っ込みます。
(「三好達治全集・第5巻」筑摩書房より。原作の歴史的かな遣いを現代かな遣いに変えました。編者。)
◇
「言語はこうした虚勢を張らない」というのは
言語という純粋に客観的な存在が想定されているのでない限り
その使い手である詩人を指すのでしょう。
とすれば詩人の詩作の態度(もしくは方法)を難じているとみてよいでしょうか。
詩句の末節への言及は
詩人の姿勢へと踏み込んだかのようで
朔太郎の心境が偲ばれてしまいます。
◇
残りの詩行、
わが感情は飢えて叫び
わが生活は荒寥たる山野に住めり。
いかんぞ暦数の回帰を知らむ
見よ! 人生は過失なり。
今日の思惟するものを断絶して
百度(たび)もなお昨日の悔恨を新たにせん。
――の「いかんぞ暦数の回帰を知らむ」という激語も
詩感の正鵠を逸している
最後の2行、
今日の思惟するものを断絶して
百度(たび)もなお昨日の悔恨を新たにせん。
――については
表象が明瞭でない
もう一層観念を明瞭につきつめるべき努力を、作者は途中で放棄しているなどと断じます。
◇
あたかも俳句の添削の
「朱を入れる」呼吸のようなのが
詩人(の態度)を斬るところにはみ出しますが
ここにいたって三好はそれを百も承知して敢行している風です。
◇
そして「新年」の瑕疵病弊に比べられて
登場するのは「小出新道」です。
「郷土望景詩」です。
◇
今回はここまで。
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