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2014年10月19日 (日)

三好達治の「氷島」否定論について11/病弊瑕疵(びょうへいかし)

(前回からつづく)

 

三好達治が「氷島」への論評を公表した初めは
昭和9年(1934年)11月号の「四季」ですから
「氷島」発行(同9年6月)の直後といってよいでしょう。

 

「詩集『氷島』に就て――萩原朔太郎氏への私信」と題したこの文は
「氷島」を寄贈し・される中で交わされた私信が
創刊なったばかりの「四季」誌上に移され
「公」の場で継続される格好となったものでした。

 

朔太郎も後の昭和11年7月号の同誌に
「『氷島』の詩語について」を発表し
三好への応答としました。

 

掲載されることになったのは
「四季」編集部の求めによります。

 

 

「詩集『氷島』に就て」の冒頭で三好は
師の作品を批判することへの「ためらい」を長々と前置きしたうえで、
(そのことはここで省略しますが)
まっすぐに「氷島」の「病弊瑕疵」について
その「不自然な印象」を語りはじめます。

 

病弊(びょうへい)
瑕疵(かし)
――です!

 

この言葉はきっと
私信(所感)を交わす過程で吐き出されたものなのでしょう。

 

そして「不自然な印象」というのは
30年後の「『詩の原理』の原理」と変わらず繋がっていることは
見てきたとおりです。

 

 

三好は師である詩人の作品を批評し
それが詩句の末節に及ぶことが
そのことに拘泥(こうでい)するものではないことなどを
詩篇を取り上げて具体的に論ずる段になるここでも弁明しつつ
「新年」を取り上げます。

 

やがて「『詩の原理』の原理」でも「新年」を取り上げて
「まったく意味をなさない」と中の詩行について論じますが
ここでは「新年」を、

 

新年来り
門松は白く光れり。
道路みな霜に凍りて
冬の凜烈たる寒気の中
地球はその週暦を新たにするか。
われは尚悔いて恨みず
百度(たび)もまた昨日の弾劾を新たにせむ。

 

――とまで読んできて
「われは尚悔いて恨みず」に
読者は果して容易に明瞭な表象を捕えうるでしょうかと
ここでまず躓(つまづ)きを表明します。

 

そして、
繰返して読んでみても
はっきりした詩感に触れられない
音声的な触感に詩心を托しているのかもしれないが
無責任に読者をはぐらかしてはいけない
――などとコメントします。

 

「悔いて恨みず」という措辞(言葉の使い方)が
三好には見過ごせない「瑕疵」の一つだったのでしょう。

 

 

続いて、

 

いかなれば虚無の時空に
新しき弁証の非有を知らんや。
――の「新しき弁証の非有」は
全く難解な名辞
推測がつかない
作者の気紛れを感じないでもない、などとした上で、

 

詩句に先だって、それに充実すべき内容の方からまず膨らみ上ってくるような場合、言語はこうした虚勢を張らないだろう

 

――とさらに突っ込みます。

 

(「三好達治全集・第5巻」筑摩書房より。原作の歴史的かな遣いを現代かな遣いに変えました。編者。)

 

 

「言語はこうした虚勢を張らない」というのは
言語という純粋に客観的な存在が想定されているのでない限り
その使い手である詩人を指すのでしょう。

 

とすれば詩人の詩作の態度(もしくは方法)を難じているとみてよいでしょうか。

 

詩句の末節への言及は
詩人の姿勢へと踏み込んだかのようで
朔太郎の心境が偲ばれてしまいます。

 

 

残りの詩行、

 

わが感情は飢えて叫び
わが生活は荒寥たる山野に住めり。
いかんぞ暦数の回帰を知らむ
見よ! 人生は過失なり。
今日の思惟するものを断絶して
百度(たび)もなお昨日の悔恨を新たにせん。

 

――の「いかんぞ暦数の回帰を知らむ」という激語も
詩感の正鵠を逸している

 

最後の2行、
今日の思惟するものを断絶して
百度(たび)もなお昨日の悔恨を新たにせん。
――については
表象が明瞭でない
もう一層観念を明瞭につきつめるべき努力を、作者は途中で放棄しているなどと断じます。

 

 

あたかも俳句の添削の
「朱を入れる」呼吸のようなのが
詩人(の態度)を斬るところにはみ出しますが
ここにいたって三好はそれを百も承知して敢行している風です。

 

 

そして「新年」の瑕疵病弊に比べられて
登場するのは「小出新道」です。

 

「郷土望景詩」です。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

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