三好達治の「氷島」否定論について13/昭和10年頃の詩論の縮図
(前回からつづく)
昭和9年(1934年)11月号「四季」(月刊化創刊号)誌上に
「詩集『氷島』について」を三好達治が発表したのに対し
朔太郎は翌12月号のコラム「六号雑記」内で直ちに反論、
朔太郎は、
「氷島」の詩は僕の生活の最大危機に書いたもので、背後には自殺の決意さえひそんで居たのだ。僕にとってはこれほど血まみれな詩集はなく、巧拙は別として、真剣一途の悲鳴的な絶叫だった。それを「惰性で書いた没詩情の文学」として片付けられては、如何に三好君といえども憤慨せざるを得ない
――などとという書き出しの小文でやりかえしました。
◇
限られたスペースでのコラムでは十分には主張を展開できなかったためか
朔太郎は昭和11年(1936年)7月号「四季」に
再び「『氷島』の詩語について」を発表し
思う存分に自説を主張します。
◇
朔太郎と三好達治の「氷島」に関してのこの論争は
表面的にはこれで打ち切られた格好になりましたが
朔太郎が「氷島」以後に発表した詩集「宿命」(昭和14年・1939年)への
三好の評価も高いものになりませんでした。
詩集のみならず
詩論集「純正詩論」(昭和10年・1935年)への三好の「辛い」批評
(「日本語の韻律」萩原朔太郎氏著「純正詩論」読後の感想)に関して
朔太郎は昭和10年の「四季」夏号誌上に
「三好達治君への反問」と題する小論で反論します。
◇
三好達治君が、僕の「純正詩論」の評を帝大新聞に書いている。近頃三好君の書く物を読むと、何だか僕が、一々教訓されているような気がしてならない。別に悪い気持ちではないけれども、時々その教訓が腑に落ちない箇所もあるので、簡単にその箇所を反問し、さらにまた三好君の答を聞きたい。
――と「ぼやき」まじりで論争を挑み
これに三好は「萩原朔太郎氏へのお答え」を「四季」10年11月号に「燈下言」として発表しました。
◇
この頃前後しますが朔太郎は
雑誌「文学界」で担当する「詩壇時言」(昭和10年3月号)の中に
「詩について2」という題で
三好達治が書いた朔太郎の詩論集の評への反論を書いたりもしています。
二人は師弟でありながら
よくメディアを通じて討論する関係にもあり
詩壇の一角で詩論の小さな「磁場」を形成していたものと見ることもできるでしょう。
◇
詩集、詩論など
晩年の朔太郎作品への三好の評価は
高いものとは言えず
またかなり多くの量の言説を残し
内容も多岐に渡っています。
朔太郎もこれへの反駁文を多く残していますから
あたかも昭和10年前後の詩論(史)の縮図を見るようで貴重です。
口語自由詩論や俳句論など
短詩型への言説には
両者譲らぬ個性的主張があり
現代詩(史)につながる有効な思考の跡が豊富に残されていますから
いつか詳しく触れる機会があるかもしれません。
◇
朔太郎が昭和17年(1942年)に没し
戦後に数次にわたる全集が刊行される段になっても
朔太郎詩解釈の「第一人者」と見なされる三好は
解説責任者の位置にあり続け
「氷島」評価は「否定」の一色で塗りつぶされたままでした。
昭和26年(1951年)の創元社版「萩原朔太郎全集第一巻」の解説では
この後この人の詩作は暫く中断して、次に「郷土望景詩」の全く局面を一転した新詩境が突如として拓り開かれた。その篇什は僅々十余にすぎないけれども、私はそれをこの人の第四の頂点に数えることに躊躇しない。後の「氷島」は、そのやや不自然な無理やりなおしつめであり、またその自壊作用でもあった、と私は見る。
「同第二巻」の解説も
この一時期の篇作が僅々十余にすぎなかったのは、従来溢れるごとき多作を各時期それぞれに示したこの人としては、やや不似合の異例とも見えるが、その品質の秀抜なのを見るときそれを敢て惜しむには足りなかった。ただ惜しむらくは、このあたりに於て或いは十分に燃焼しつくさなかったらしき著者胸中の欝懐の何がしかが久しく持こされたものか、その間また十年ばかりをおいて、後の「氷島」(昭和9年6月、第一書房刊)にその再度の爆発的表白を見た時には、既に先のすがすがしさ自然さ簡潔な明晰さは、その単純な透徹力を失って、何かしら辻褄のあいかねるある無理矢理な一種の”つきつめ”と変質しているのを見るのである。私は著者内部の自壊作用をその間に見る者であるが、読者は果してこれをあたれりとされるかどうか、精読にまちたい。
――と否定します。
◇
岩波文庫の「萩原朔太郎詩集」は
昭和27年(1952年)1月に初版発行され
新潮文庫の「純情小曲集、氷島、散文詩他」は
昭和30年(1955年)12月に初版発行され
どちらも三好の解説であり
どちらも「氷島」否定になったのは
この流れに沿ったものでした。
◇
三好達治は
昭和39年(1964年)4月にこの世を去ります。
先に見た「『詩の原理』の原理」は
昭和35年(1960年)に発表されたものでした。
◇
今回はここまで。
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