カテゴリー

2024年1月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »

2014年10月

2014年10月30日 (木)

反撃する朔太郎/「氷島」の詩語について5・ニーチェ詩の強い意志

(前回からつづく)

 

「『氷島』の詩語について」は
日本語論になり
必然的に漢語・漢字論になります。

 

 

元来言えば、僕は漢語と漢字の排斥論者である。なぜかと言えば、明治以後に於けるそれの濫用(特に翻案語の過度な濫造)からして、今の日本語がでたらめに混乱し、耳で聴くだけでは意味の通じないような言葉、文字に書いて読まなければ、語義を解しないような、奇怪の視覚的言語になってしまったからである。こんな日本語は実用上にも不便であるし、詩の韻律美を守るために有害である。この点からして、僕はローマ字論者に7分通り同情している。しかし残りの三分だけ反対するのは、今日の場合として、日本語から漢語と漢字(漢語は漢字で書かないと解らない、「鉄鎖」をローマ字でTessaと書いたのでは、何のことか解らない。)を除いてしまうと、後には促音のない平坦な大和言葉しか残らなくなる。それでは「氷島」の詩やニイチェの詩のように、弾力的な強い意志を持った情想が歌えなくなる。強いて表現しようとすれば、前に言ったプロレタリア自由詩の如く、壮士芝居的口調の政談演説をする外はない、しかしバケツの底を乱暴にひっぱたくのは、芸術上の意味の勇壮美でもなく悲壮美でもない。

 

 

ニーチェの詩が
「氷島」の詩を作るときに意識されていたことは
「氷島」の詩篇を読むときのサポートになることでしょう。

 

 

漢語・漢字は
同音異義語が多く
中国語の「四声」までは輸入できなかったため(とは書かれていませんが)
耳で聴いただけでは理解できず
字の形を見てはじめて分かるという欠点をもちます。

 

そのことは
実用的でない上に
詩の韻律美を生みにくいのです。
詩を作りにくいのです。

 

そのために
プロレタリア詩のような
演説口調の詩が作られがちになる。

 

そうであるのに
なぜ漢語・漢字を多く使って「氷島」を書いたのか――。

 

日本語論は
日本文化論、文化の現状に及びます。

 

 

つまり僕等の時代の日本人は、日本語そのものに不便を感じているのである。僕はかつてこのことを或る親戚の老人に話したら、日本人たる者が、日本語に不便を感ずるなんて馬鹿な話はない。そんなこと考えるのは、お前の頭が異人かぶれして居るからだと叱られたが、後で考えて全くだと思った。つまり僕等の時代の日本人は、子供の時から西洋風の教育を受け、半ば西洋化した文化環境に育った為、文学上の構成でも、言葉の発音の韻律上でも、依然として昔ながらの日本語である為に、僕等の感情や思想を表現する時、そこに根本的な矛盾と困惑とが生ずるのである。例えば喉が渇いた時、僕等は「水が欲しい」と言うよりは、「欲しい、水が」と言いたくなるようなものである。「欲しい」というのは、エゴの感情の露骨な主張であり、これが支那語や欧州語では、最初に強く叫ばれるのである。そして僕等の時代の日本人が、この外国流のエゴイズムと表情主義とに深くかぶれて居るのである。

 

 

僕らの時代は
西洋化した文化で育ったのにもかかわらず
日本語は昔ながらのものであるから
矛盾しているのです。

 

「水が欲しい」と言おうとして
「欲しい、水が」と言いたくなるという矛盾を抱えているのです。

 

このように支那語や欧州語にかぶれてしまっているのが現状なのです。

 

 

こうした現状から推察して、日本語の遠い未来は、文体上にも音韻上にも、よほど外国語に近く変化して来ると思う。しかし今日火急の場合としては、漢語で間に合わして置く外にない。前に言う通り、支那の言葉は本質的に西洋の言葉に似て居るのである。文法もほぼ同じであるし、韻律の構成もほぼ似ている。僕は今度「氷島」の詩を書いて見て、漢語と独逸語とがよく似て居るのに驚いた。ニイチェは独逸語を悪罵して、軍隊の号令語だと言って居るが、その意志的で強い響を持ってる所は、実際漢語とよく似て居る。それ故に日本の軍隊では、今日でも専ら漢語を術語用とし、村を村落と言ったり、橋を橋梁と言ったり、家を家屋と言ったりして居る。「はし」と言うよりは「キョーリョー」と言う方が、拗音の関係で強く響き、男性的の軍隊気風に合うからである。

 

 

遠い未来には、日本語は外国語と同じように変化していくであろう。
しかし今は漢語で間に合わせるしかない。

 

「はし(橋)」というよりも
「キョウリョー(橋梁)」と言う方が
拗音の効果があって強い響きとなり
男性的であるために
日本の軍隊では漢語を正規の言葉として使っている。

 

(筑摩書房「萩原朔太郎全集」第10巻より。原作の歴史的かな遣い・旧漢字を現代かな遣い・新漢字に改めました。改行(行空き)も加えました。編者。)

 

 

強い響き。
男性的。

 

軍隊用語に特徴的な漢語の意味を説いて
漢語(調)で「氷島」を書いた理由の一つとするのです。

 

ニーチェが唾棄(だき)したドイツ語であるにもかかわらず
それで詩を書いたことや
ドイツ語と似ている漢語(調)が軍隊の術語とされていることに
朔太郎は目を向けていました。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

2014年10月29日 (水)

反撃する朔太郎/「氷島」の詩語について4・漢語前置詞的NEVERは必然

(前回からつづく)

 

支那語を日本語の中に取り入れたものが漢語(調)で
「氷島」の詩篇を書く段になっては
これを使う必然があったことに朔太郎は触れます。

 

 

所で僕が「氷島」に書いた詩想は、エゴの強い主観を内部に心境しているものであった。それは前の「青猫」のように、縹渺たる無意志的アンニュイのものでなくして、意志の反噬が強く、断定がはっきりして居るものであった。僕は詩の各行のいちばん先は、ヤアとナイン、YESとNOの決定語を前置しなければならなかった。そしてしかもこうした言葉は、昔の純粋な日本語に無く、今の日本語の中にも無かった。厭でも応でも、僕は漢語調の文章語を選ばねばならなかった。そこで僕の「氷島」の詩は、殆んどその各行毎に、「いかんぞ」「あえて」「断乎として」等の前置詞的NEVERを使用した。

 

 

詩の各行の先頭に
イエス・ノーの決定語を置く必要から
厭が応にも漢語調の文章語を使った。

 

日本語になく
漢語調にはそれがあったからです。

 

「いかんぞ」「あえて」「断乎として」など
(僕はこれらを)前置詞的NEVERと呼んで多用したのです。

 

 

「氷島」の場合、もし僕が漢語調を選ばなかったら、世のいわゆるプロレタリア詩人や社会主義詩人が書いているような、である式演説口調の口語自由詩を作る外になかっただろう。なぜなら今の日本語で、少しく意気昂然たる断定の思想を叙べるためには、こうした演説口調(論文口調と言っても同じである)以外にないからである。しかし僕はおそらくまた決してそれを取らなかったろう。なぜなら前に言う通り、こうした演説口調の言葉というものは、断定の響が弱く曖昧であり、その上に言葉が非芸術的に重苦しく、到底「美」のスイートな魅惑と悦び――それが芸術品としての詩に於ける、本質の決定的価値である。――を与えてくれないから。こうした類の言葉は、感性のデリカシーや美意識やを必要としないところの、粗野な政談演説などには適するけれども、芸術品としての詩には不適であり、あまりにラフで粗雑すぎる。すくなくとも僕の神経は、こういう自由詩の非芸術的粗雑さに耐えられなかった。

 

 

あの時、漢語調以外の日本語を使ったら
プロレタリア詩人や社会主義詩人の書くような
演説口調の口語自由詩ができたことでしょう。

 

それでは断定の響きが弱く、曖昧であり
言葉が非芸術的に重苦しく
「美」の甘味な魅惑と悦びを与えてくれない

 

あの時、僕の神経は演説口調(論文口調)の非芸術的粗雑さには耐えられなかった。

 

 

とはいえ
漢語調で詩を作るというのは
口語自由詩を作ってきた朔太郎の足取りからすると
それは後退でした。

 

 

そこで僕は退却を自辱しながら、文語体漢語調を選ぶ外に道がなかった。単に文法構成の上ばかりでなく、箇々の詩語としての単語にあっても、漢語を使うことが便利であった。と言うのは、漢語の発音というものが、元来アクセントの強い支那の原音を、不完全に直伝したものだけあって、純粋の日本語に比して調子が高く、抑揚の変化に富んで居るからである。特に断定的(意志的)の強い感情を現わす場合は、それが最もよく適切して居る。前の「青猫」の表現では、柔軟でアクセントのない平仮名が最もよく適して居たが、反対に「氷島」の場合では、多くの漢語とを用いねばならなかった。

 

  冬の凛烈たる寒風の中
  地球はその週暦を新たにするか。  (新年)
  
  石もて蛇を殺すごとく
  一つの輪廻を断絶して
  意志なき寂寥を踏み切れかし。  (漂泊者の歌)
  
  彼等みな忍従して
  人の投げあたえる肉を食らい
  本能の蒼き瞳孔(ひとみ)に
  鉄鎖のつながれたる悩みをたえたり。  (動物園にて)
  
こうした詩句に於て、「凛烈」「断絶」「鉄鎖」等の漢語は、それの意味の上よりも、主として言葉の音韻する響の上で、壮烈なる意志の決断や、鬱積した感情の憂悶やを、感覚的に強く表現しようとしたのである。漢語がこうした詩情の表現に適するのはDanzetsu,Tessa,Ninju等の如く、アクセンチュアルな促音と拗音とに富んでいるからである。すべて言語は、促音や拗音の多いほど弾力性が強くなってくる。然るに純粋の日本語には、この子音の複数的変化というものが殆んどなく、単一に母音と結びついて「い」「ろ」「は」と成ってるのだから、この点には甚だ単調で変化に乏しいのである。

 

(筑摩書房「萩原朔太郎全集」第10巻より。原作の歴史的かな遣い・旧漢字を現代かな遣い・新漢字に改めました。改行(行空き)も加えました。編者。)

 

 

「氷島」から実例を挙げているところに注目しましょう。

 

三好が引例した「新年」から
朔太郎も引例していて
三好の読みに反論するかのようです。

 

 

「凛烈」「断絶」「鉄鎖」――。

 

これらの漢語を使用したのは
その音韻、響きが
壮烈な意志の決断
鬱屈した感情、憂悶を
感覚的に表現するのに適していたからでした。

 

Danzetsu,Tessa,Ninju――。
これらの中の子音や拗音を見てください。

 

これらの促音、拗音の「子音の複数的変化」が生むものは
言葉の弾力性です。

 

日本語にはこれがほとんどなく
母音と単一に結びつくために単調になるのです。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

2014年10月28日 (火)

反撃する朔太郎/「氷島」の詩語について3・日本語は「NO」が弱い

(前回からつづく)

 

烈しく燃えたつような意志
寂滅無為のアンニュイではなく
敵に対して反噬(はんぜい)するような心境。

 

それを表白するには……。

 

朔太郎の格闘がつづきます。

 

 

何よりも絶望したのは、日本語そのものの組織が、NO、YES、の決定を、章句の最後につけることだった。例えば「私は梅よりも菊の花の方を好む」という場合、最後の終まで待たない内は、「好む」と「好まない」との判定ができないのである。この日本語の曖昧さを、逆にユーモラスに利用したのが、掛合漫才などのやる洒落である。「私は酒も女も金も欲し」までは、判定がヤアかナインか解らない。そこで「くない」と言うかと思うと、意外に「い」と言うので、皆がどっと笑うのである。子供の遊び事に、一人が号令をして、一人がその真似をするのがある。「右手を上げて」「左手を上げて」と一人が言い、一人がその通りにする。すると今度は「両方のあんよでスッキリ立たずに」と言う。最後の「ず」に来る迄は、否定か肯定か解らないので、つい釣り込まれてスッキリ立ってしまうのである。

 

 

イエスかノーかの決定が文末・句末に来ないとわからない
――という日本語の仕組みを
朔太郎は漫才や子どもの遊びを引例して説明します。

 

日本語のこの構成が
詩作の上で困難をきたすことがあることを明きらかにするために。

 

 

この日本語の構成は、意志の断定を強く現わす場合にいちばん困る。例えば「僕はそんなことが大嫌いだ」という場合、否定のNOをいちばんアクセントをつけて言いたいのである。然るにその「嫌いだ」がフレーズの最後に来るので、力がぬけて弱々しいものに感じられる。普通の会話の場合であったら、それでも用は足りるのだが、言葉の感覚に意味を焼きつける詩の表現では、これが非常に困るのである。これは僕等ばかりでなく、昔の日本の文学者も、同様に困った問題だったと思う。そこで彼等の文学者は、こうした場合に支那語の文法を折衷して、「決して」とか「断じて」とかいう言葉を、フレーズの前の方に挿入した。例えば「余の断じて興せざる所なり」という風に言った。この「断じて」は、英語のNEVERなどと同じことで、判定の語が出て来る前に、予め否定を約束して居るのである。そこで読者は、この文を終までよまないでも「余の興じて」迄で否定がはっきりしてしまう。したがってまた、NOの否定感情が非常に強く、充分のアクセントを以て響くのである。

 

 

意志の断定を強く現わす場合。
特に詩の表現の場合。

 

否定のNOをいちばん強く言いたいのに
それができない。

 

古来、日本の文学者も
この問題と格闘してきたものだったのだろう。

 

「決して」とか
「断じて」とか
否定を予告する言葉を文の前の方に置く支那語の方法を
こうして取り入れた。

 

 

一体支那語というものは、英語や独逸語やの西洋語と、殆んどよく類似して居るのである。韻律の性質もよく似て居るし、フレーズの文法的構成もよく似て居る。すべて彼等の言葉では、情念の判定がフレーズの先に来るのであるから、抒情詩など書く場合に非常に都合がよく、思い切って感情を強く言い切ることができる。日本語だけが独りこの点で困るのである。それも普通の詩ならば好いけれども、主観的の意志や感情やを、強く断定的に絶叫しようとするような抒情詩では、全く以て手足の利かない悩ましさがある。

 

 

「絶叫」に日本語は向いていない、と言っています。

 

 

それ故日本の文学には、昔から強い意志や感情やを、昂然たる態度で書いたものが甚だすくない。日本の国文学というものは、文章のスタイルからして女性的である。本居宣長のような国学者は、思想上ではエゴの主観を充分発揮し、可成情熱的な強いことを書いているのだが、文章が女性的な大和言葉で、抑揚に乏しくヌルヌルして居るので、直覚的には少しも強烈な感銘がない。

 

 

段落の途中ですが、
このあたり三好達治の文章スタイルをも想定していたものか。

 

名前を挙げていませんが
三好の散文をふと思わせるくだりです。

 

その意図はなかったかもしれませんが。

 

 

日本語でこの種の情操を書くためには、厭でも支那語の語脈を取り入れ、いわゆる「漢文調」「漢語調」で書く外はない。幕末革命の志士たちが、好んで漢詩の和訓を吟じ、漢語調で日常の会話をしていたのも、上述のような日本語の欠点から已むを得ないことであった。「余の断じて興ぜざる所なり」というような言葉は、勿論純粋の日本語脈でなく、支那語の文法を自家に折衷したものである。だがそれでなければ、こうした強い感情は言い現わせないのだ。

 

(筑摩書房「萩原朔太郎全集」第10巻より。原作の歴史的かな遣い・旧漢字を現代かな遣い・新漢字に改めました。改行・行空きも加えました。編者。)

 

 

このようにして
「氷島」の詩語について語る準備ができました。

 

今、全体の半分ほど読んだところです。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

2014年10月27日 (月)

「雪野」の作家、赤瀬川原平さん死去。

新聞で、赤瀬川原平さんの訃報を知りました。慎んでご冥福を申し上げます。

赤瀬川原平さんは、僕たちよりも一時代前というか少し前というか、僕たちが60年代末の渋谷街頭でサンドイッチマンをしていた時期より前(それは60年安保前のことらしい)に同じ渋谷で街頭宣伝のアルバイト(つまりサンドイッチマン)をしていました。サンドイッチマンという仕事は、OK倶楽部という小さな組織が取り仕切っていて、手配師の加藤さんが赤瀬川さんのことを何かの折に話すことがあり、耳を傾けたことがあります。「彼は、君たちなんかとは比べものにならんくらい真面目だったよ。毎日、きちんと約束の時間に現われ、プラカード持ちの仕事なんかもバカにしなかった。サボるなんて見たことなかったよ」と、サボってばかりいる僕たちに説教したものだった。僕たちが渋谷に出る前、道玄坂のとば口にあった「ボストン」だったかという名の画廊喫茶で、赤瀬川さんが開いた個展を見た加藤さんが、そのことを面白おかしく話してくれたりもした。空に向かってあんぐり開けている男の口に落ちかかっている「異物」の絵の話は、たちまち仲間の間に伝わっていった。加藤さんの話には尾ひれがついていたかもしれないが、僕は今でもその絵を実際に見たかのように記憶しているのです。

「雪野」は、1983年に野間新人文芸賞を受賞しました。1981年の芥川賞(「父が消えた」)の影になり、一般にはあまり話題となりませんでしたが、これはサンドイッチマンの経験を元にした傑作です。詩人の大岡信が、「芸術論小説」として賞讃していた新聞記事が思い出されます。

反撃する朔太郎/「氷島」の詩語について2・「青猫」のネバネバ口語

(前回からつづく)

 

漢文調の文章語
古典的文章語
既成詩

 

口語自由詩
大胆な破壊

 

退却(レトリート)

 

……といった明確な「概念語」が読み手を鷲掴みにすることでしょう。

 

 

既成詩を大胆に破壊する明確な意図をもって
「月に吠える」で出発した詩人は
「氷島」を文章語、それも漢文調の、で書いたことを
退却=レトリートと認めました。

 

「絶叫」を詩にするには
それしかなかった、と。

 

 

「『氷島』の詩語について」を読み進めましょう。

 

 

現代の日常口語が、こうしたポエジイの表現に適応されないことは、自分でそれを経験した人には、何よりもよく解ってる筈である。つまり今の日本語(口語)には、言葉の緊張性と言うものがないのである。巻尾に他の論文(口語詩歌の韻律について)で説いた通り、今の口語には「に」「は」「を」等の助詞が多すぎる為に、語と語との間に区切れがなく、全体にべたべた食っ付いて居て、歯切れが悪く、調子のハズミというものが少しもない。例えば「日本人此所にあり」とか「花咲き鳥鳴く」という場合、口語の方では「日本人は此所に居る」「花が咲き鳥が鳴く」という工合に、「は」「が」等の余計な助詞がつくのである。その為め言葉に抑揚がなく、緊張した詩情を歌うことができないのである。

 

 

日本語の口語は
助詞が多くて緊張感のある詩情を歌えないというのです。

 

 

その上にまた、今の口語でいちばん困るのは、章句の断定を現わす尾語である。文章語の方で「なり」「ならん」「ならず」と結ぶ所を、口語の方では「である」「であるだろう」「ではない」という風に言う。文章語の方は、非常に軽くて簡潔であるのに、口語の方は重苦しくて不愉快で、その上に断定が曖昧で“はっきり”しない。もっとも同じ口語体でも、こうした演説口調の「である」に比すれば、日常会話語の「です」「でしょう」の方は、まだしもずっと軽快であり、耳にも快よい音楽的の響きをあたえる。しかし困ったことに、この種の会話語は調子が弱く、卑俗で軟弱の感じをあたえる為に、少しく昂然とした思想や感情を叙べるに適応しない。(演説や論文が、この会話語の外に「である」体を発明したのは、全く必然の要求から来ている。)

 

 

文章語「なり」「ならん」「ならず」は、
軽くて簡潔だが
口語「である」「であるだろう」「ではない」は
重苦しく不愉快。

 

口語でも「です」「でしょう」は軽快で、耳にも快く音楽的
――などと具体例を挙げます。

 

 

要するに、今の日本語というものは、一体にネバネバして歯切れが悪く、抑揚に欠けて一本調子なのである。そこでこの日本語の欠点を、逆に利用して詩作したのが、僕の旧著「青猫」であった。と言うわけは、「青猫」に於ける詩想が、丁度こうした口語の特色と、偶然に符合して居たからであった。前にも書いたように、当時僕は無為とアンニュイの生活をし、ショウペンハウエル的虚無の世界で、寂滅為楽の夢ばかり見て居た。

 

 

「青猫」の英語BLUEは、僕の意味で「疲れたる」「怠惰なる」「希望なき」と言う意味であった。こうした僕の心境を表現するには現代口語、特に日常会話語のネバネバした、退屈で歯切れの悪い言葉が適応して居た。文章語では、却って強く弾力的になり過ぎるおそれがあった。

 

  虚無の朧げなる柳の影で
  艶めかしくも ねばねばとしなだれているのですよ。

 

というような詩想には、こうした抑揚のない、ネバネバした、蜘蛛の巣のからみつくような口語体が、最もよく適応して居るのであった。「青猫」の詩法は、つまり、口語の欠点を逆に利用したようなものであった。しかし、それは偶然だった。「氷島」を書いた頃には、もはや「青猫」の心境は僕になく、それとは逆に、烈しく燃えたつような意志があった。当時の僕は、もはや寂滅無為のアンニュイではなく、敵に対して反噬するような心境だった。「青猫」の詩語と手法は、もはや僕にとって何の表現にも役立たなかった。僕は放浪の旅人のように、再度また無一文の裸になって、空無の中から新しい詩語を創造すべく、あてのない探索の旅に出かけた。そして最後に、悲しく自分の非力を知ってあきらめてしまった。今日の日本語(口語)で詩を書くことは、当時の心境を表現するべく、僕にとって力の及ばない絶望事だった。

 

(筑摩書房「萩原朔太郎全集」第10巻より。原作の歴史的かな遣い・旧漢字を現代かな遣い・新漢字に改めました。改行(行空き)も加えました。編者。)

 

 

文中「反噬」とあるのは「ハンゼイ」か「ハンセイ」。
「噬」は「臍を噬む(ほぞをかむ)」の「かむ」です。

 

 

具体例は自作「青猫」に及びます。

 

「青猫」の言葉は
抑揚がなく
ネバネバした
蜘蛛の巣がからみつくような口語体が適していた

 

口語の弱点を逆手にとって
これを利用したのが「青猫」だった

 

ショウペンハウエル的虚無の世界を表現するには
口語が要求された
――などと「青猫」の詩法を引いて
「氷島」の詩語とを対照する前置きとします。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

2014年10月26日 (日)

反撃する朔太郎/「氷島」の詩語について1・「絶叫」に文章語は必然

(前回からつづく)

 

これまで見てきたように
こうして日本を代表する詩人の一人である萩原朔太郎の詩集「氷島」は
全集にこそ完全形で収録されていますが
単行本・文庫本ではいわゆる「完本」を見ることはできません。

 

異例、異常といえる事態でしょう。

 

 

朔太郎の最後の詩集「宿命」も
似たような位置にあります。

 

こちらも再録作品が多く
「アンソロジー」とか「レミックス」とかであるために
一人前の詩集と見なされなかったようですが
今ここで触れる余裕がありません。

 

 

三好達治の「氷島」批判に対して
萩原朔太郎は幾らかの反論を試みましたが
その声は三好はおろか出版者の側にも届かなかったのでしょうか。

 

 

朔太郎の「『氷島』の詩語について」は
全文を読んでおきましょう。

 

 

「氷島」の詩語について

 

「氷島」の詩は、すべて文章語で書いた。これを文章語で書いたということは、僕にとっては明白に「退却(レトリート)」であった。なぜなら僕は処女詩集「月に吠える」の出発からして、古典的文章語に反抗し、口語自由詩の新しい創造と、既成詩への大胆な破壊を意表してきたのだから。今にして僕が文章語の詩を書くのは、自分の過去の歴史に対して、たしかに後方への退陣である。

 

しかし「氷島」の詩を書く場合、僕には文章語が全く必然の詩語であった。換言すれば、文章語以外の他の言葉では、あの詩集の情操を表現することが不可能だった。当時僕の生活は全く破産し、精神の危機が切迫して居た。僕は何物に対しても憤怒を感じ、絶えず大声で叫びたいような気持ちで居た。「青猫」を書いた時には、無為とラン惰の生活の中で、阿片の夢に溺れながらも、心に尚ヴィジョンを抱いて居た。しかし、「氷島」を書いた頃には、もはやヴィジョンも無くなって居た。憤怒と、憎悪と、寂寥と、否定と、懐疑と、一切の烈しい感情だけが、僕の心の中に残って居た。「氷島」のポエジイしている精神は、実に「絶叫」という言葉の内容に尽されていた。

 

そこで詩を書くということは、その当時の僕にとって、心の「絶叫」を現わすということだった。然るに今の日本の言葉(日常口語)は、どうしてもこの表現に適応されない、といって文章語を使うのは、今さら卑怯な退却(レトリート)のような気がして厭であったし、全くそのジレンマに困惑した。その頃書いた僕の或る詩論が表現論の方面で悲観的となり、絶望的の暗い調子を帯びて居たのも、全くこの自分の突き当った、当時の苦しい事情と問題に原因していた。

 

(筑摩書房「萩原朔太郎全集」第10巻より。原作の歴史的かな遣い・旧漢字を現代かな遣い・新漢字に改めました。改行(行空き)も加えました。編者。)

 

 

全集で4ページ余のうち、以上は1割余の量です。

 

「うなぎの寝床」のような三好達治の文に比べて
主述の明確なすっきりした文ですから
「解説」を要しないでしょう。

 

しかし、長くなると「だれ」ますから
何回かに分けて読みます。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

2014年10月25日 (土)

三好達治の「氷島」否定論について13/昭和10年頃の詩論の縮図

(前回からつづく)

 

昭和9年(1934年)11月号「四季」(月刊化創刊号)誌上に
「詩集『氷島』について」を三好達治が発表したのに対し
朔太郎は翌12月号のコラム「六号雑記」内で直ちに反論、

 

朔太郎は、
「氷島」の詩は僕の生活の最大危機に書いたもので、背後には自殺の決意さえひそんで居たのだ。僕にとってはこれほど血まみれな詩集はなく、巧拙は別として、真剣一途の悲鳴的な絶叫だった。それを「惰性で書いた没詩情の文学」として片付けられては、如何に三好君といえども憤慨せざるを得ない
――などとという書き出しの小文でやりかえしました。

 

 

限られたスペースでのコラムでは十分には主張を展開できなかったためか
朔太郎は昭和11年(1936年)7月号「四季」に
再び「『氷島』の詩語について」を発表し
思う存分に自説を主張します。

 

 

朔太郎と三好達治の「氷島」に関してのこの論争は
表面的にはこれで打ち切られた格好になりましたが
朔太郎が「氷島」以後に発表した詩集「宿命」(昭和14年・1939年)への
三好の評価も高いものになりませんでした。

 

詩集のみならず
詩論集「純正詩論」(昭和10年・1935年)への三好の「辛い」批評
(「日本語の韻律」萩原朔太郎氏著「純正詩論」読後の感想)に関して
朔太郎は昭和10年の「四季」夏号誌上に
「三好達治君への反問」と題する小論で反論します。

 

 

三好達治君が、僕の「純正詩論」の評を帝大新聞に書いている。近頃三好君の書く物を読むと、何だか僕が、一々教訓されているような気がしてならない。別に悪い気持ちではないけれども、時々その教訓が腑に落ちない箇所もあるので、簡単にその箇所を反問し、さらにまた三好君の答を聞きたい。

 

――と「ぼやき」まじりで論争を挑み
これに三好は「萩原朔太郎氏へのお答え」を「四季」10年11月号に「燈下言」として発表しました。

 

 

この頃前後しますが朔太郎は
雑誌「文学界」で担当する「詩壇時言」(昭和10年3月号)の中に
「詩について2」という題で
三好達治が書いた朔太郎の詩論集の評への反論を書いたりもしています。

 

二人は師弟でありながら
よくメディアを通じて討論する関係にもあり
詩壇の一角で詩論の小さな「磁場」を形成していたものと見ることもできるでしょう。

 

 

詩集、詩論など
晩年の朔太郎作品への三好の評価は
高いものとは言えず
またかなり多くの量の言説を残し
内容も多岐に渡っています。

 

朔太郎もこれへの反駁文を多く残していますから
あたかも昭和10年前後の詩論(史)の縮図を見るようで貴重です。

 

口語自由詩論や俳句論など
短詩型への言説には
両者譲らぬ個性的主張があり
現代詩(史)につながる有効な思考の跡が豊富に残されていますから
いつか詳しく触れる機会があるかもしれません。

 

 

朔太郎が昭和17年(1942年)に没し
戦後に数次にわたる全集が刊行される段になっても
朔太郎詩解釈の「第一人者」と見なされる三好は
解説責任者の位置にあり続け
「氷島」評価は「否定」の一色で塗りつぶされたままでした。

 

昭和26年(1951年)の創元社版「萩原朔太郎全集第一巻」の解説では

 

この後この人の詩作は暫く中断して、次に「郷土望景詩」の全く局面を一転した新詩境が突如として拓り開かれた。その篇什は僅々十余にすぎないけれども、私はそれをこの人の第四の頂点に数えることに躊躇しない。後の「氷島」は、そのやや不自然な無理やりなおしつめであり、またその自壊作用でもあった、と私は見る。 

 

「同第二巻」の解説も

 

この一時期の篇作が僅々十余にすぎなかったのは、従来溢れるごとき多作を各時期それぞれに示したこの人としては、やや不似合の異例とも見えるが、その品質の秀抜なのを見るときそれを敢て惜しむには足りなかった。ただ惜しむらくは、このあたりに於て或いは十分に燃焼しつくさなかったらしき著者胸中の欝懐の何がしかが久しく持こされたものか、その間また十年ばかりをおいて、後の「氷島」(昭和9年6月、第一書房刊)にその再度の爆発的表白を見た時には、既に先のすがすがしさ自然さ簡潔な明晰さは、その単純な透徹力を失って、何かしら辻褄のあいかねるある無理矢理な一種の”つきつめ”と変質しているのを見るのである。私は著者内部の自壊作用をその間に見る者であるが、読者は果してこれをあたれりとされるかどうか、精読にまちたい。

 

――と否定します。

 

 

岩波文庫の「萩原朔太郎詩集」は
昭和27年(1952年)1月に初版発行され
新潮文庫の「純情小曲集、氷島、散文詩他」は
昭和30年(1955年)12月に初版発行され
どちらも三好の解説であり
どちらも「氷島」否定になったのは
この流れに沿ったものでした。

 

 

三好達治は
昭和39年(1964年)4月にこの世を去ります。

 

先に見た「『詩の原理』の原理」は
昭和35年(1960年)に発表されたものでした。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

2014年10月20日 (月)

三好達治の「氷島」否定論について12/感傷の「底の粗末さ」

(前回からつづく)

 

比較参照された「小出新道」と「新年」に
まず目を通してみましょう。

 

 

小出新道

 

ここに道路の新開せるは
直として市街に通ずるならん。
われこの新道の交路に立てど
さびしき四方(よも)の地平をきわめず
暗鬱なる日かな
天日家並の軒に低くして
林の雑木まばらに伐られたり。
いかんぞ いかんぞ思惟をかえさん
われの叛きて行かざる道に
新しき樹木みな伐られたり。

 

 

新年

 

新年来り
門松は白く光れり。
道路みな霜に凍りて
冬の凜烈たる寒気の中
地球はその週暦を新たにするか。
われは尚悔いて恨みず
百度(たび)もまた昨日の弾劾を新たにせむ。
いかなれば虚無の時空に
新しき弁証の非有を知らんや。
わが感情は飢えて叫び
わが生活は荒寥たる山野に住めり。
いかんぞ暦数の回帰を知らむ
見よ! 人生は過失なり。
今日の思惟するものを断絶して
百度(たび)もなお昨日の悔恨を新たにせん。

 

青空文庫より。新かな・新漢字に改めました。編者。)

 

 

「小出新道」について三好達治は
感情の自然な発露と、
ツボを脱さぬ明確な詩句とが
渾然と融和しているではありませんか
――と称揚するいっぽうで

 

「新年」は
病弊と呼んでよい
空疎な感じ、
不自然な印象
――は明らかであろうと認めません。

 

 

「氷島」の詩篇をこのように貶めて(否定して)、
「郷土望景詩」を高評価する三好に対して朔太郎は私信をしたため
「望景詩」は感傷的に甘ったれた薄弱な詩風であり
「氷島」は質実でより沈痛悲壮であることを説いたことを三好は引き合いに出し
これを「全く肯(うべな)い得ざるところ」と切り捨てます。

 

「郷土望景詩」を感傷的と呼ぶのは、そうかもしれない。
けれども「氷島」の一層沈痛悲壮なところを
一歩譲って認めたとしても
その感傷的ではないと朔太郎の説く
「氷島」の「底の粗末さ」は忍びがたいと否定し去るのです。

 

 

感傷的でなく沈痛悲壮である「氷島」ならば
あの粗末さはなんなのですか、と師匠をたしなめる口ぶりです。

 

 

三好は他の詩篇の一々をも具体的に例証するつもりがあったが
他の機会にしたほうがよいと考え直して
この「詩集『氷島』に就て」の筆をおくのですが
「氷島」中にも「瑕疵なきもの」はあるとして
「漂泊者の歌」
「帰郷」
「晩秋」等3、4篇を挙げます。

 

(「氷島」に評価できる詩篇があることが明らかにされていることは記憶に値することでしょう。)

 

 

と、ここで終わるかにみえたこの私信は
最後に「抒情精神」について語りはじめます。

 

時間の唯一の支点であるその抒情精神が
つねに生動しつづけることの困難、
ことさら、朔太郎のような
過去に輝かしい業績を残している詩人が
この抒情精神から遠いところに境遇を置いたとしたならば
その不幸はどんなものであろう。

 

もう一度自分の歌を取り戻そうとし
その意欲を過去の追憶から得ようとするに違いない、

 

その時に
もはや創造の唯一の支点である
その過去の作品の反芻を試みるケースがあるのではないか、

 

このようなケースと「氷島」の病弊とは無関係でなさそうです、
――と「作品と作家」の関係に言及します。

 

 

そうして、最後の最後に、

 

あれやこれや、ある意味では詩歌よりなお一層詩的な、人生そのものの悲愁を感じ、眼底の熱くなるのを覚えます。怱々不備。

 

――として「私信形式」のこの文を閉じたのでした。

 

 

詩歌の、そのテキストの鑑賞は
詩人の人生そのもの悲愁に向けられ
「涙」で結ばれたのです。

 

私信だからできたことなのでしょうか
「四季」誌上でこそのエピローグだったのでしょうか。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

2014年10月19日 (日)

三好達治の「氷島」否定論について11/病弊瑕疵(びょうへいかし)

(前回からつづく)

 

三好達治が「氷島」への論評を公表した初めは
昭和9年(1934年)11月号の「四季」ですから
「氷島」発行(同9年6月)の直後といってよいでしょう。

 

「詩集『氷島』に就て――萩原朔太郎氏への私信」と題したこの文は
「氷島」を寄贈し・される中で交わされた私信が
創刊なったばかりの「四季」誌上に移され
「公」の場で継続される格好となったものでした。

 

朔太郎も後の昭和11年7月号の同誌に
「『氷島』の詩語について」を発表し
三好への応答としました。

 

掲載されることになったのは
「四季」編集部の求めによります。

 

 

「詩集『氷島』に就て」の冒頭で三好は
師の作品を批判することへの「ためらい」を長々と前置きしたうえで、
(そのことはここで省略しますが)
まっすぐに「氷島」の「病弊瑕疵」について
その「不自然な印象」を語りはじめます。

 

病弊(びょうへい)
瑕疵(かし)
――です!

 

この言葉はきっと
私信(所感)を交わす過程で吐き出されたものなのでしょう。

 

そして「不自然な印象」というのは
30年後の「『詩の原理』の原理」と変わらず繋がっていることは
見てきたとおりです。

 

 

三好は師である詩人の作品を批評し
それが詩句の末節に及ぶことが
そのことに拘泥(こうでい)するものではないことなどを
詩篇を取り上げて具体的に論ずる段になるここでも弁明しつつ
「新年」を取り上げます。

 

やがて「『詩の原理』の原理」でも「新年」を取り上げて
「まったく意味をなさない」と中の詩行について論じますが
ここでは「新年」を、

 

新年来り
門松は白く光れり。
道路みな霜に凍りて
冬の凜烈たる寒気の中
地球はその週暦を新たにするか。
われは尚悔いて恨みず
百度(たび)もまた昨日の弾劾を新たにせむ。

 

――とまで読んできて
「われは尚悔いて恨みず」に
読者は果して容易に明瞭な表象を捕えうるでしょうかと
ここでまず躓(つまづ)きを表明します。

 

そして、
繰返して読んでみても
はっきりした詩感に触れられない
音声的な触感に詩心を托しているのかもしれないが
無責任に読者をはぐらかしてはいけない
――などとコメントします。

 

「悔いて恨みず」という措辞(言葉の使い方)が
三好には見過ごせない「瑕疵」の一つだったのでしょう。

 

 

続いて、

 

いかなれば虚無の時空に
新しき弁証の非有を知らんや。
――の「新しき弁証の非有」は
全く難解な名辞
推測がつかない
作者の気紛れを感じないでもない、などとした上で、

 

詩句に先だって、それに充実すべき内容の方からまず膨らみ上ってくるような場合、言語はこうした虚勢を張らないだろう

 

――とさらに突っ込みます。

 

(「三好達治全集・第5巻」筑摩書房より。原作の歴史的かな遣いを現代かな遣いに変えました。編者。)

 

 

「言語はこうした虚勢を張らない」というのは
言語という純粋に客観的な存在が想定されているのでない限り
その使い手である詩人を指すのでしょう。

 

とすれば詩人の詩作の態度(もしくは方法)を難じているとみてよいでしょうか。

 

詩句の末節への言及は
詩人の姿勢へと踏み込んだかのようで
朔太郎の心境が偲ばれてしまいます。

 

 

残りの詩行、

 

わが感情は飢えて叫び
わが生活は荒寥たる山野に住めり。
いかんぞ暦数の回帰を知らむ
見よ! 人生は過失なり。
今日の思惟するものを断絶して
百度(たび)もなお昨日の悔恨を新たにせん。

 

――の「いかんぞ暦数の回帰を知らむ」という激語も
詩感の正鵠を逸している

 

最後の2行、
今日の思惟するものを断絶して
百度(たび)もなお昨日の悔恨を新たにせん。
――については
表象が明瞭でない
もう一層観念を明瞭につきつめるべき努力を、作者は途中で放棄しているなどと断じます。

 

 

あたかも俳句の添削の
「朱を入れる」呼吸のようなのが
詩人(の態度)を斬るところにはみ出しますが
ここにいたって三好はそれを百も承知して敢行している風です。

 

 

そして「新年」の瑕疵病弊に比べられて
登場するのは「小出新道」です。

 

「郷土望景詩」です。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

2014年10月18日 (土)

三好達治の「氷島」否定論について10/リズム・ センチメンタリズム・ 自働

(前回からつづく)

 

三好達治の「氷島」否定論は
「『詩の原理』の原理」のタイトルで
昭和35年に文芸雑誌「新潮」に発表されたものですが
「氷島」の文字を前面に出していません。

 

では『詩の原理』(昭和3年発行)への論評かというとそうではなく
『詩の原理』が「『詩の原理』の原理」に現れるのは
この論評の結論部に
「『詩の原理』の著者は――」とある1度だけです。

 

出版社の営業政策か編集の配慮か。
三好自身の意図だったのでしょうか。

 

朔太郎の著作『詩の原理』をタイトルにもってきて
「氷島」制作の「原理」を解き明かしたという格好になりました。

 

 

「『詩の原理』の原理」は
朔太郎若き日に同郷の詩人高橋元吉に宛てた書簡集を読むうちに想を得て(という形で)
「氷島」論を導いています。

 

その導入部は、

 

ここで一服として先ほどから筆をおいていると、しかしながら私にはけげんな一つの記憶がよみがえってくるのを覚えた。唐突に、一足とびにではあるが、かねがね私の気がかりでもあった詩集の『氷島』に就て、世評もまちまちなあの先生の最後の詩集に就て、この機に改めて私の覚え書をしるしておきたいのである。

 

――と記述されています。

 

 

高橋元吉宛書簡集の一部が
三好に朔太郎の詩作法=「詩の原理」を考える動機となったというのですから
「『詩の原理』の原理」の書き出しの部分を
ここで読んでおかないわけにはいきません。

 

「氷島」が現れるまでの長い前置きのため
先を急いで飛ばしたところです。

 

 

この書簡集は
大正5年の前後1両年のうちに書かれた高橋元吉宛の手紙を収集したもので
同じく同郷・前橋出身の詩人伊藤信吉から借りたものです。

 

大正6年に「月に吠える」を発表したのですから
その頃に書かれたものといってよく
朔太郎は30歳になろうとしていました。

 

三好が着目したのは
一部が異なる手紙の中から次の計5か所です。

 

まず一つ目。

 

 

どんな思想どんな感情を自分自身でもっているのか、自ら何ごとを書こうと試みて居るのか全く無我夢中です。ただ心の底をながるる一種のリズムを捉えて無自覚にそのリズムを追って居るにすぎない、それ故創作当時における自身は半ば無意識なる自働器械のようなものにすぎない。作ってからも自らその詩にあらわれた思想や感情の中心を捕捉するに苦しむ場合が多いのです。それ故、新しい詩については自ら全く何ごとも語る権利がありません。併し不思議なことには暫らく(数ヶ月又は一ヶ年)時が立つと、自然と自分の詩の思想の中心が自分にはっきり解ってきます。云々。

 

 

ここに書かれた「自働器械」が
後のシュールレアリズムの口吻(こうふん)を先どりしているようで面白いし、
それは「月に吠える」の詩法の急所であった、と三好は読み取ります。

 

 

二つ目。

 

――実に私はあすこのところでは書きながら涙を流して居たのです。全篇の中ではあそこがいちばん感傷的のように思われますが、創作当時の私の心もちも矢張そうでした、あのへんは全く涙でぬらされた草稿でした。だから兄の御言葉をよんでリズムというものの神秘性に驚かされました、リズムは実に人心から人心へ電流のように感流する不思議な物象です。云々。

 

 

リズムの神秘性に驚く朔太郎ですが
涙、感傷、電流など
その伝播(感流)する仕方の不思議が述べられています。

 

 

このリズムについては
三好はさらに手紙を引用し
突っ込んだ考察を加えます。

 

 

三つ目。

 

人間の真価はその人の肉体的リズムの外にありません、なつかしい人、きらいな人、崇高な人、不満な人、それはその人のリズムによってきまることです。“思想”は単に人格の重みをつけるだけです、而して「真理とは何ぞやです。云々。

 

四つ目。

 

悔い改めし罪人と聖人たちが天国に於ける会話は、トルストイの至純な愛と信仰とを示して居ます。この信仰はド氏のものと同じです。而してド氏の罪と罰の居酒屋に於けるマルメラードフの懺悔と全く同じ思想を語って居ます、それにも関らず、私はトルストイのこの小品とドストエフスキーのあの小説中のエピソードを思い合わせてそのリズムの恐ろしい相違に今更の如く驚かされました。

 

ト氏とド氏とはどう考えても全く正反対の肉体をもった人間です、思想の点では一致しても内心のリズムが全っきり反対の人物です。云々。

 

 

五つ目。

 

私は感傷という言葉をよく主張しますが、実際、宗教でも詩でもその核心の生命は必竟、感傷にすぎないと思います、センチメンタルほど貴重なものは此の世界にない筈だとさえ思って居ます、私のいつかお話した別の詩「奇蹟」(玩具をほしがる小児と老人の対話)は私のこの信念から生れたものです。

 

此の世には何等の奇蹟もなく神もない、併しただ一つ「救い」がある、それは「涙」である。涙がすべての奇蹟を生むという思想の作品です、もちろん理解は肝心です、けれども理解ばかりで涙の伴わないものはほんとの「救い」ではありません。云々。

 

 

一般に流通する意味をはるかに超えた内容を
朔太郎はリズムという用語に含ませています。

 

「内包過剰」と三好は見なしながら
ここに注目したのでした。

 

 

以上の高橋元吉宛の手紙を読んで
得た三好の結論(ポイント)だけをつづめていえば、

 

リズムは
センチメンタリズムと分かちがたく
自働的に動いている

 

――という朔太郎の詩法(=詩の原理)でした。

 

 

念のために
三好の記述をそのまま引いておけば、

 

内包過剰な用語の「リズム」は、――肉体精神いっさいがっさいに相亙るところの、
芸術上のぎりぎり一番だいじな印璽のようなものとして考えられていた萩原さんのいわゆる「リズム」は、
右に説かれるセンチメンタリズムと形影相分ちがたい一つのものとして、
当時の筆者にあっては一つ単位のものとして自働的に動いていたと受とるときに、
内包はいっそうとめどもなく散大するようではあるけれども、
反って性質上にはしっくり統一がとれ、
前者の用語も”形勢”の上ではすっきり大づかみに納得できるであろう、
私にはそう考えられる。

 

――となります。

 

(「『詩の原理』の原理」筑摩叢書1より。原作の歴史的かな遣いを現代かな遣いに変え、改行を加えてあります。編者。)

 

 

この結論が
「氷島」論をふっと書かせるきっかけになったのです。

 

 

「『詩の原理』の原理」のあらましを
何回かにわたって案内してきましたが
ようやく「氷島」刊行直後(昭和9年)に
三好達治が発表した「氷島」批判を読む段取りが整いました。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

2014年10月17日 (金)

三好達治の「氷島」否定論について9/「感傷」という「詩の原理」

(前回からつづく)

 

三好達治が「新年」の詩行、
いかなれば虚無の時空に
新しき弁証の非有を知らんや。
――もまったく意味をなさないというのは
「虚無の時空」も「弁証の非有」もともに
由来もわからない哲学用語(と言っていませんが)とか何かで
さらにそれを「時空に非有を知らんや」と強引に作った(と言っていませんが)ことを指すでしょう。

 

そのことを「まったく意味をなしていない」と読んだ上で、
また「望景詩」を呼び出します。

 

 

呼び出した「望景詩」は、

 

「新前橋駅」の、
われこの停車場に来りて口の渇きにたへず
いづこに氷を喰まむとして売る店を見ず
ばうばうたる麦の遠きに連なりながれたり。
いかなればわれの望めるものはあらざるか
憂愁の暦は酸え
心はげしき苦痛にたへずして旅に出でんとす。

 

――と、

 

「大渡橋」の、
ああ我れはもと卑陋なり。
往くものは荷物を積みて馬を曳き
このすべて寒き日の 平野の空は暮れんとす。
――という詩行。

 

 

この二つの詩行を
「反復的に類似している」と読むのは
「新前橋駅」の「いかなれば」を指すのはすぐにわかりますが
「大渡橋」では「すべて寒き日」でしょうか
どこの部分を指すのか見つけられません。

 

詩行の全体(口ぶりとか)が
反復と三好には取れたのでしょう。

 

反復の例は「いかんぞ」だけでなく
ここにもあったのだから
ほかにもいくらでもありそうだ。

 

ということで
用例については「以下略」として打ち切られます。

 

そして結論部に入っていきます。

 

 

反復的の個所では(反復は)
たいていは意象が悪くこんぐらがり(イメージが絡まり合い)、
あるいは過度に詩句は寸づまりの省略形に陥り(省略し過ぎて)、
その荒々しい語気の外情感(語気が放つ情感)は
一足飛びになる(飛躍が生じる)ために
理解困難になる。

 

強弩の末勢(強いものの勢い)というのとも少し違う
なにやら短気にせきこんで(気短かく咳をして)
斬り込みが熱心なだけ他に遺忘のあるような(突進する熱心さのために忘れ残したような)。

 

つまり、
階和を欠いている。
(調和がとれていない)
――と評定しました。

 

 

調和がとれていない。
ハーモニーがない。

 

それだけのことを言うのに
一つひとつ対立物(概念)を据えて
それとの微妙な差異を否定した揚句に
調和していない、均整がとれていない、と
背理法(のようなこと)を駆使して
「氷島」の詩篇・詩行を読んだのです。

 

 

こうして「失われた階和」は何であったか。
――とその理由を
「感傷」(=センチメント)に絞ります。

 

感傷(癖)こそは、
「詩の原理」の原理であった!
――というのが三好の結論でした。

 

 

「氷島」発刊直後に
朔太郎が三好に送った手紙(三好の批判への返信)には、
「郷土望景詩」にまでに至る過去のいっさいの感傷癖をいとう(厭う)、
「氷島」は自己超克の渾身の努力であった
――という内容が朔太郎によって書かれてあり
それを読んだ当時はそれなりに筋が通っていたのが
「氷島」より20年前に書かれた「高橋元吉宛書簡集」を読んだ今、
新たな感想を三好は持ちます。

 

「自己超克の努力」というよりも
「感傷癖」に目が行くというのです。

 

「氷島」で朔太郎が嫌った感傷にです。

 

 

「氷島」後30年
「氷島」前20年――。

 

あしかけ50年、半世紀の朔太郎の「道ゆき」をもう一度眺望してみると
「詩の原理」の原理は
「まっとうにあすこのあたりにあった」と
明示しないで「あすこのあたり」と
「詩の原理」の原理を
したがって「氷島」の制作原理をもが解き明かされました。

 

 

最後の最後になって
「氷島」は「詩の原理」の中に氷解していくようなぼんやりとしたものがありますが
「氷島」発行直後の否定論は
それから30年を経ても揺るぎないことに変わりはありません。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

2014年10月15日 (水)

三好達治の「氷島」否定論について8/「小出新道」へのまだるっこしい評価

(前回からつづく)

 

「詩の原理」(萩原朔太郎の詩の作り方)を
「語意の印象的表象」を「音律からくる魅力」を詩感の上に置く考え方ととらえた三好は
それを朔太郎が「自働器械」を編み出した当初から実践していた詩法であることに気づいて、

 

「小出新道」の「新しき樹木みな伐られたり」という詩行が作られたのも
その詩法に基づいていて、
その詩法上の詭計またその肝要でもあったことを解説します。

 

この「詭計またその肝要」とはなんのことか。
それはやがて説明されるのですが
この説明がまたなんともこむずかしくまだるっこしく
読むのに息切れしそうになります。

 

その部分を引いておきましょう。

 

 

新しき樹木みな伐られたり

 

は、「新しき樹木」に於て、その部分に於て部分的意味はなかった。「新しき樹木」というようなものは虚像としての外存しはしなかったのである。そうしてそれは、樹木のみな伐られてなお新しくむごたらしきさまを、横押しに押し出した詩法の手柄で、すっきりと簡潔に、陰惨を明るく、いわば形而上的にさえも表出したのであった。

 

(※「『詩の原理』の原理」より。現代かな遣いに変え、改行を加えてあります。)

 

 

どうやら「新しき樹木」という詩語の創出(出生)の仕組みを分析し
その成功を評価した記述であることがわかります。

 

「その部分に於て部分的意味はなかった」とか
「虚像としての外存しはしなかった」とか
朔太郎詩の解読だからでしょうか
それにしても回りくどくて難渋で
これで一般読者に通じるつもりでいたのでしたらやりきれません。

 

新しき樹木みな伐られたり
――のダブルミーニングは
一読して読者に伝わるはずのものですが
ここに「詭計またその肝要」を読もうとしているようです。

 

 

「大渡橋」の
せんかたなしや、涙のごときもの溢れ出で
頬(ほ)につたい流れてやまず
――についても同じように
「ごときもの」と持って廻った言い方をするのは
「詭計またその肝要」のためであると解釈するのです。

 

これらの「望景詩」では
それが成功しているために
実感の至極から(実感できるから)
更にどこやらに逸出する明るさ(にじみだす明るさ)があり
この明るさが「酸酷」(残酷または惨酷)の上に加えられていた――。

 

 

であるのに
「いかなれば蹌爾として 時計の如くに憂い歩むぞ」とは
無理な、無法なことだ――。

 

 

といったそばから
しかしながら思うに、そのことこそがまことに萩原さんらしい、この人らしい本来の面目であったとも考えられる。
――と肯定的評価をはさんだりするのです!

 

そしてすぐに
また全否定。

 

 

「動物園にて」の、
いま秋の日は暮れ行かむとし
風は人気なき小径に散らばい吹けど
ああ我れは尚鳥の如く
無限の寂寥をも飛ばざるべし。
――の最後の1行はまったく意味をなさない。

 

そして「新年」の、
いかなれば虚無の時空に
新しき弁証の非有を知らんや。
――もまったく意味をなさない、としつつ
また「望景詩」との比較がつづきますから
今回は途中ですがここまで。

 

 

 

 

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

 

 

2014年10月14日 (火)

三好達治の「氷島」否定論について7/「望景詩」を誇大に拡充

(前回からつづく)

 

三好達治の散文は
ワンセンテンスが長くて
うっかりすると主述(もしくは主従、主副)を見失いがちになります。

 

 

「いかんぞ」や「羞爾」や「悽而」などの言葉使いが
いま主語(主格)として語られています。

 

この言葉使いが
詩全体の「歪曲」へと繋がっていく(影響していく)ということが
次のように記述されるのです。

 

 

私のけげんに耐えないのは、
とっさの反射的落想に於て、
ここではかねがね持合せの鋳型のようなもののあること、
それの適用がとっさに反射的に先立つことから、
勢い前後の詩句が、
さらでもいつものこの人流儀の歪曲を、
いっそう何倍増しかにして、
勢いまたそれを気短かに圧縮したのをむやみと蒙るということ、

 

 いかんぞ残生を新たにするも
 冬の蕭條たる墓石の下に
 汝はその認識をも無用とせむ。(国定忠治の墓)
 
というが如き、

 

 虎なり
 曠茫として巨像の如く
 百貨店上屋階の檻に眠れど
 汝はもと機械に非ず
 牙歯もて肉を食い裂くとも
 いかんぞ人間の物理を知らむ。(虎)
 
というが如きありさまに到ることそのことに、
係わっているのである。

 

(※以上「『詩の原理』の原理」より。現代かな遣いに変え、改行を加えてあります。)

 

 

この文の主語は
「いかんぞ」や「羞爾」や「悽而」ですが
隠れています。
明示されていません。

 

前の文にあるのです。

 

 

ここでは改行を加えてありますから
ブレス(息つぎ)は容易ですが
「私のけげんに――」から「「係わっているのである」までが一つの文(センテンス)です。

 

「。」(句点)が一つも付けられていませんから
文末の「係わっているのである。」に辿りつくには
辛抱しなければなりません。

 

 

取りあげられた「国定忠治の墓」「虎」にある「いかんぞ」が
これらの詩を「台無し」(とは言っていませんが)にしていることを例証しています。

 

このあたりは
「『詩の原理』の原理」の「ヤマ」に差し掛かっているでしょうか。
まだ7合目くらいでしょうか。

 

一つの重要な断言が
行われます。

 

 

「望景詩」の残響反響はそれが持越しの転用というだけでなく、ここでは誇大に拡充され、前後近隣に影響を及ぼしているのを見る。ためにたいそう、ぜんたいの気息、“生き”を悪くしているのを見る。
(※引用前同。)

 

 

途中ですが今回はここまで。

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

2014年10月13日 (月)

三好達治の「氷島」否定論について6/鋳型を用いた反射的な用語用字

(前回からつづく)

 

「こびりつくように巣くった」というのは
俗にいえば「癖(くせ)になった」「習慣化した」というほどのことでしょうか。

 

それが三好達治には
「けげんに感じられた」のですが
それは朔太郎がかつて高橋元吉宛に出した手紙の中で
自らの詩作法として記した「自働器械」的な句法と関係することなのかと
疑問を呈します。

 

この句法は
習作の時代からその後の夥(おびただ)しい制作の中でも
同巣同窼(どうそうどうそう)といっていい類想の詩句――語句語法を多く産出したものだったけれど
それらはことごとくが変幻自在を極め
反復は力強くルギッシュに読者の眼を引いてきたものだったのに、というのです。

 

はじめのうちは
変幻自在、
絢爛豪華(とは言っていませんが)、
力強く
エネルギッシュに
読者を魅惑した(とも言っていませんが)朔太郎詩だったのに。

 

 

同巣同窼(「どうすどうそう」と読ませるかもしれない)
類想の
反復
……はほとんど同義語といってよいでしょう。

 

繰り返しの弊を露(あら)わにしてしまった、というようなことを言っているのです。

 

 

「自働器械」であるかどうかは
はじめ疑問を呈されるだけです。

 

そして、ほかの悪例へと目は転じられます。

 

 

「珈琲店 酔月」中に、
蹌踉として酔月の扉(どあ)を開けば
――とあり

 

「漂泊者の歌」中に、
いかなれば蹌爾として
時計の如くに憂ひ歩むぞ。
――とある、
この「蹌爾」は「蹌踉」の借用であり、
「いかんぞ乞食の如く羞爾として」の「羞爾」も同じであり。

 

「爾」という字が「氷島」中に繰り返されるのは
「いかんぞ乞食の如く羞爾として」の「羞爾」は(語法としては)よいにしても
(「蹌爾」が「蹌踉」からの借用であったのと)同じ転用に過ぎない。

 

「爾」と字の使い方もまた
「氷島」中で繰り返しが目に付く
刺々(とげとげ)しい着字である。

 

「国定忠治の墓」にある「悽而たる竹薮の影」の「而」は
ここで問題はないけれども
「爾」の使い方の余勢に違いなく
その点では「器械」的であることにここでは注目しておきたい。

 

 

「虚妄の正義」(昭和4年)に、
懶爾として笑へ!
――とある「懶爾」は朔太郎の新造語であったが
「氷島」ではそこまで後戻りしてまた転用重襲しているのであり
これも「けげん」の一つ。

 

――などと述べます。

 

 

三好はここまでをまとめるかのように、
「いかんぞ」も「羞爾」も「悽而」も
ただ音感の上からとっさに反射的に採用されたものと断じます。

 

それは「詩の原理」(昭和3年)で展開された
「音律からくる魅力」を詩感の上に置く原則論と矛盾しない。

 

私がけげんに耐えないのは
(この)とっさの反射的落想が
かねがね持ち合わせていた鋳型のようなものであり
その適用がとっさに反射的に先立つことから
前後の詩句が歪曲されていき……。

 

 

三好の筆は止まらず
「歪曲」されていった例に広がっていきます。

 

 

途中ですが今回はここまで。

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2014年10月12日 (日)

三好達治の「氷島」否定論について5/耳障りな「いかんぞ」

(前回からつづく)

 

「『詩の原理』の原理」(昭和35年初出)の中で
三好達治が長い前置きの末に語りはじめた「氷島」否定の具体例――。

 

その前置きには
「高橋元吉宛書簡集」があり
その中に書かれた朔太郎の詩論があり
これをきっかけにした三好達治の論考を差し置いては前に進めないものがあるものの
ここではその前置きについては後回しで考えることにして
三好の「氷島」否定の中味を読みます。

 

前置きが長すぎて
何を言いたいのかわからなくなってしまうのを避けるためにも。

 

 

「例えば」といって三好がはじめに引くのは、

 

妻子離散して孤独なり
いかんぞまた漂泊の悔を知らむ。
(珈琲店 酔月)

 

わが感情は飢えて叫び
わが生活は荒寥たる山野に住めり。
いかんぞ暦数の回帰を知らむ
見よ! 人生は過失なし。
(新年)

 

我れの持たざるものは一切なり
いかんぞ窮乏を忍ばざらんや。
独り橋を渡るも
灼きつく如く迫り
心みな非力の怒に狂はんとす。
ああ我れの持たざるものは一切なり
いかんぞ乞食の如く羞爾として
道路に落ちたるを乞ふべけんや。
(我れの持たざるものは一切なり)

 

――の3作です。
(※朔太郎の詩を、ここでは歴史的かな遣いのまま掲出しました。)

 

一気に3作が取り上げられたのは
中の詩語「いかんぞ」にターゲットをしぼったからです。

 

 

この3作(の「いかんぞ」)について、

 

ここにいく度もくり返される特殊語、
耳につく「いかんぞ」がもしも、
「郷土望景詩」中の「小出新道」からの転用であり
日時を隔てての重襲であり
習慣的の借用であるとしたら、
制作者の心得方としては
差しつかえがないとばかりはいいきれないものが
どこやらにあるのを覚える
――と論評します。
(※歴史的かな遣いを現代かな遣いに変え、改行を加えてあります。以下同。編者。)

 

「いかんぞ」の乱用(とは言っていませんが)ではないか
これは「制作者の心得方」に問題があるのではないか
――と三好はまず指摘しました。
そして続けます。

 

 

『氷島』にはなお他にも右の引例とまったく同じ骨法の
(――そうしてその悉くがツボを外れている点でもまったく同じ骨法の)
「いかんぞ」がこの外数ヶ所に亙って見出される。

 

その頻度も甚だ目立たしい。

 

そうして「望景詩」のそれ以前には、
今旧作ぜんぶをくわしくは読み返してはみないが
一度も見当たらなかったように記憶する。

 

「小出新道」の「いかんぞ いかんぞ」は初出であって、
それのみが語法の骨法上ぴったりとしたところをえていた。

 

後来のくり返しは悉く、ムリヤリのあてずっぽうで、
著者に於ける套語愛用句というにしても少しおかしい、
少なからずおかしいのを覚える。

 

「いかんぞ」「……せん」或いは「……せざらん」
この句法が(まずフォルムとして)萩原さんの心のどこかに、
こんな風にこびりつくように巣くったこと、
そのことが何としても私には“けげん”に耐えない。
(※原作の傍点は“ ”で示しました。)

 

 

とりあえずここまでを案内しておきましょう。

 

引用した最後の段落の
「こんな風にこびりつくように巣くったこと」が
三好達治の詩法・詩観にそぐわなかったことが述べられたのです。

 

「“けげん”に耐えない」とは婉曲(えんきょく)ですが
「認められない」とは言わないのが三好流です。

 

 

途中ですが今回はここまで。

 

転用の元とされた「小出新道」にも目を通しておきましょう。

 

 

小出新道

 

われこの新道の交路に立てど
さびしき四方(よも)の地平をきはめず
暗鬱なる日かな
天日家並の軒に低くして
林の雑木まばらに伐られたり。
いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん
われの叛きて行かざる道に
新しき樹木みな伐られたり。

 

 

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

2014年10月10日 (金)

三好達治の「氷島」否定論について4/無慙な破産、無慙な荒廃

(前回からつづく)

 

「氷島」の詩篇について
三好達治は具体的にはどのような鑑賞をしているのでしょうか。

 

「萩原朔太郎」(三好達治著、筑摩叢書1)の中に
それを見つけることができます。

 

その「氷島」否定論も
前置きとして「氷島」以前の詩篇の鑑賞、
「愛憐詩篇」「月に吠える」「青猫」から「郷土望景詩」にいたる詩脈を追う中で
朔太郎詩への自然主義文学の影響や宗教的雰囲気の原因などをその補足として論じ
本質に迫ろうとしておおいに迂回して長々と続けられたために
「氷島」そのものの鑑賞はなかなか始められません。

 

ついには紙幅を尽くしてしまうために
別の機会を予告して終わってしまうという経過をたどりました。

 

これを書くのに
やはりためらいがあったということでしょうか。

 

そんなわけがありません。

 

 

同書は
前半分を「萩原朔太郎詩の概略」のタイトルで
文芸雑誌「新潮」の昭和24年8、9、11月号に初出したものを
「朔太郎詩の一面」「『詩の原理』の原理」など他の論考とあわせて構成し
昭和38年に発行したものです。

 

執筆当初はこの「概略」にも「氷島」への言及を予定していたものを
配分を間違えたか
「氷島」へ負の評価を与えることに慎重になったためにか
他の理由(たとえばテーマが大きすぎたとか)があったか
「氷島」を論じるスペースを無くしてしまい
「概略」では「余は他日の機会に譲る」という予告に終わってしまいます。

 

「朔太郎詩の全体」ではなく
「概略」となったわけがこのあたりにありそうですが
それでも「氷島」への言及を皆無にするわけには行かない筆の流れから
「氷島」についても所々で触れています。

 

 

これらはわずかな断片ですが
「氷島」否定の断言となります。

 

 

「氷島」に至って更にその我武者羅な前進から無慙な破産を来した

 

後の「氷島」の無慙な荒廃、詩境のちぐはぐな分裂崩壊を齎したといっても過言であるまい。

 

――といった具合です。

 

 

詩集「氷島」の詩篇を取り上げて
具体的に批評したのは
(この本の中では)「Ⅲ 『詩の原理』の原理」(「新潮」昭和35年6、7月号初出)においてです。

 

章題に「氷島」の文字を使うのを避けた感じがあり
長い間、その機をうかがっていたが
きっかけをつかめずにいたものを
朔太郎の「高橋元吉宛書簡集」を読んでいて思い出し
朔太郎が昭和3年に出した詩論集「詩の原理」に借りて
朔太郎の詩の作り方を考察するという形での「氷島」論となりました。

 

「氷島」否定であることが
やや曖昧(あいまい)になりましたが
根っ子に変わりはありません。

 

 

それは、

 

ここで一服として先ほどから筆をおいていると、しかしながら私にはけげんな一つの記憶がよみがえってくるのを覚えた。唐突に、一足とびにではあるが、かねがね私の気がかりでもあった詩集の「氷島」に就て、世評もまちまちなあの先生の最後の詩集に就て、この機に改めて私の覚え書をしるしておきたいと私は考えた。

 

(※原作は歴史的かな遣いで作られていますが、読みやすくするために、現代かな遣いに変えました。ブログ編者。)

 

――という書き出しではじまります。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

 

 

 

 

2014年10月 7日 (火)

三好達治の「氷島」否定論について3/「郷土望景詩」評価の表裏

(前回からつづく)

 

三好達治は
朔太郎に関しての30余年にわたる考察の集大成「萩原朔太郎」(筑摩書房)を
昭和38年(1963年)に刊行します。

 

 

目次を見てみますと、

 

Ⅰ 萩原朔太郎詩の概略
Ⅱ 朔太郎詩の一面
Ⅲ 「詩の原理」の原理
Ⅳ 「路上」
   萩原さんといふ人
Ⅴ 仮幻
Ⅵ 後記二
あとがき
三好さんとの二十年(伊藤信吉)
――という内容になっていますが
「氷島」への言及は幾つかの篇に見られるものの
「Ⅱ」「Ⅲ」に集中しています。

 

この中にも
「氷島」否定の記述がありますから
1952年の岩波文庫版「萩原朔太郎詩集」の解説文、
1955年の新潮文庫版「純情小曲集、氷島、散文詩他」の解説文に続き
10年以上も「氷島」否定論を発表していることになります。
(※発表の順序で、制作した順序であるかははっきりしません。)

 

 

三好達治は1964年に没しますから
死の前年になるまで
「氷島」否定の論述を繰り返したことになります。

 

この三つの記述をじっくり読むと
そのどれにも「氷島」否定ばかりとはいえないところが見つかりますから
その記述を解きほぐしていくと
どうやら「郷土望景詩」への高い評価と「氷島」否定とが
表裏の関係になっていることが見えてきます。

 

 

文庫本の解説二つのそれぞれに戻って読んでみると
「氷島」否定のくだりの前に
必ず「郷土望景詩」への絶大な評価があることを理解します。

 

そこのところを読んでおきましょう。

 

 

岩波文庫版では、

 

さて二つの主著「月に吠える」「青猫」の後に、後者の拾遺に引続く「郷土望景詩」11篇(「純情小曲集」後半、大正14年作)は、その簡潔直截なスタイルと現実的即事実的な取材において、従ってまたその情感のさし逼った具体性において、この詩人の従前の諸作から遥かに埒外に出た、篇什こそ乏しけれ一箇隔絶した詩風を別に鮮明にかかげたものであった。

 

この独立した一小頂点の標高は、あるいは前2著に卓んでていたかも知れない。しかしながらこの詩風の一時期は、極めて短小な時日の後に終熄した。それはそういう性質のものであったから、それが当然であったが、その事自身はまた萩原さんの脳裡に後にはその事自身への何か渇きのようなものをさえ持越さなかったであろうか。かくいうのは仮そめの私の推測をいうのであるが、私にはどうもそういう感じがする

 

(三好達治選「萩原朔太郎詩集」より。洋数字に変え、改行・行空きを加えてあります。編者。)

 

 

新潮文庫版では、

 

「純情小曲集」の後半「郷土望景詩」は、この人の主著2巻の詩風からは截然と切離された別箇の簡潔体で、詩題も空想的幻想的感性的な以前の領分を一洗したように振りすてた後の、現実的実生活的実人生的の悲愴調を以てした、――その傾向は既に「青猫」の後期に及ぶに従って次第に萌芽を示しつつあったものと見なしうるが、それからのまた一息ついた後の、全く局面を改めたような新しい転換であった。その什作の僅々10数篇にすぎなかったのは、見らるる如く作の主題の性質から或は当然であったかも知れない。

 

両主著の場合に、溢れて止まるところのない豊かな作ぶりを示したこの詩人としては、それは異例な瞬間的な燃焼であった。瞬時的爆発的にきり開かれたこの一面、この一詩脈は、そうしてその後、萩原さんの胸中に、ある一つの完遂され了らなかったものとして、果されなかった約束のような、一つの渇きとして永く持続され、生いぶりにいぶり続けていたのではなかっただろうか。

 

(※原作は歴史的かな遣いで作られていますが、現代かな遣いに変えました。また漢数字を洋数字に変えたほか、改行・行空きを加えてあります。ブログ編者。)

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

2014年10月 5日 (日)

三好達治の「氷島」否定論について2/なぜ否定一色の案内か?

(前回からつづく)

 

「氷島」は、
もはや取りかえすすべもなく失われ変質されたもの
――であり

 

「愛憐詩篇」の昔から通じて見られたあの非論理性(イロジスム)の魅力、あの独自の魔術は、それのみが露わ
――であり

 

ここではかの秘密の調和を欠いてついにその歌口はただ索莫として
――いるのであり

 

百木揺落の粛殺たる声
――にしか聞えない(聞くに耐えない)。

 

 

要約すると、
詩は「索漠」「粛殺たる声」であってはいけない
――と三好達治は言っているようです。

 

 

新潮文庫「純情小曲集、氷島、散文詩他」の解説(あとがき)も
三好達治が書いていますが
ここでも三好は「氷島」批判を止(や)めません。

 

6ページのあとがきのうちで1ページに満たないものですが
「氷島」について次のように記しています。

 

 

昭和9年刊の「氷島」は、まさしく「望景詩」からの、ほぼ10年を隔てたむし返し再燃焼であって、――そうしてここでは、前者(※「望景詩」を指す。ブログ編者注。)に於ける破格の、その秘密の審美的調和感が無惨にうち毀され了ったかのように私には感ぜられる。

 

「氷島」は(書中の旧作再録は別にしていっても)決して「望景詩」の如く一気呵成の作でなく、凡そ昭和6年を中心に、その前後数年、精しくいうと2年―8年に及んで制作されている。萩原さんが最後の新詩境の開拓に、余人の揣摩しがたいぎりぎりの苦しい探索をつづけられたのは、寧ろ痛々しいくらいにも今日顧みられるのである。

 

この期間は評論感想アフォリズム等の、詩作以外の著作にも、それよりずっと以前からの引続きとして多くの努力が払われていた。「氷島」はその間に於ける間歇的な情熱の、一瞬的な“たたきつけ”、いわばそのようなやり方を以てなされた、そのやり方に於て、過度に陥ったものではなかっただろうか。

 

(※原作は歴史的かな遣いで作られていますが、現代かな遣いに変えました。傍点は“ ”で示し、漢数字を洋数字に変えたほか、改行・行空きを加えてあります。ブログ編者。)

 

 

新潮文庫の「純情小曲集、氷島、散文詩他」は
岩波文庫の「萩原朔太郎詩集」(1952年、昭和27年)が出てから
およそ3年後の1955年(昭和30年)の発行です。

 

口調はやや弱められた感じがあるものの
(郷土望景詩からの)「むし返し再燃焼」と
「氷島」を批判し否定する眼差しは変わりようになく
詩集を案内し推奨する目的であるはずの「あとがき」が
なぜこのような否定一色であるのか
疑問は消えません。

 

 

「氷島」には新しく創作された詩がないというのなら
再録詩篇である「郷土望景詩」を差し引いた残りの詩篇は
無駄(=Nothing)というのでしょうか。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

2014年10月 4日 (土)

三好達治の「氷島」否定論について/文庫詩集解説の前代未聞

(前回からつづく)

 

少し振り返ってみますと。

 

中原中也が「山羊の歌」巻末の3作品で
「恋愛詩」およびその周辺について歌い
そのうち「憔悴」では「恋愛詩」を詩語として使って歌っているのに触発されてから
萩原朔太郎の「恋を恋する人」を思い出し
次に藤村の「初恋」に触れ
さらに白秋の初恋から不倫の詩へと眼を転じ
その白秋主宰の文芸雑誌「朱欒(ザンボア)」を出発点とした犀星・朔太郎へ移り
朔太郎では郷土望景詩に目を奪われた勢いで
詩集「氷島」の全詩25篇を読む必要に迫られた
――という経緯でこのブログの現在はあります。

 

 

「氷島」は最終詩「昨日にまさる恋しさの」が恋愛詩であることを突き止めて
一つの発見をしたような
心底で予測していたようなことが起こって
改めてほっとしたところでしたが
そのことに着目して詩集「氷島」を読む例は
全く見つかりませんでした。

 

その大きな原因が
どうやら三好達治による「氷島」の解説にあるようでした。

 

 

三好達治は
一般読者のもっとも身近にあるポケット版(文庫版)詩集である
岩波文庫版の「萩原朔太郎詩集」(1952年初版)や
新潮文庫版の「純情小曲集、氷島、散文詩他」(1955年初版)の解説を書いているのですが
単なる解説者である以上に
これらポケット詩集の「編集」に加わっていて
どちらの詩集でも詩篇の選者になっていますから
詩集そのものの構成にも参加したことになります。

 

 

紙の本(電子ブックではなく)のことですから
「紙幅」の制限があることや
重複を避けるという理由で
「郷土望景詩」は「氷島」中に配置されていないというようなことも起こります。

 

このことは三好達治の考えというよりも
出版社編集の方針であったのであろうし
営業上の理由でもあった公算が大きいのですが
「氷島」を完全版で読める文庫本は
2014年現在ひとつも存在しません。

 

ネットの青空文庫だけが
「氷島」を完全版で読める唯一のものです。
(※青空文庫と連携した「AmazonのKindle本」に無料の「氷島」もあります。また、紙本の初刊本や全集は完全版であることはもちろんです。)

 

 

岩波文庫も新潮文庫も
どちらもが三好の解説なのですが
そのどちらもが「氷島」を評価しないで
批判が前面に出ています。

 

評価しない(無評価)ではなく
否定に近い評価を積極的に行っているのです。

 

文庫本の解説にして
これは前代未聞であり珍事です。

 

なぜそうなったのでしょうか?
専門家の考えを聞きたいところですが
まずはその三好の解説を読んでおきましょう。

 

 

岩波文庫版の解説「あとがき」から。

 

さて二つの主著「月に吠える」「青猫」の後に、後者の拾遺に引続く「郷土望景詩」11篇(「純情小曲集」後半、大正14年作)は、その簡潔直截なスタイルと現実的即事実的な取材において、従ってまたその情感のさし逼った具体性において、この詩人の従前の諸作から遥かに埒外に出た、篇什こそ乏しけれ一個隔絶した詩風を別に鮮明にかかげたものであった。

 

この独立した一小頂点の標高は、あるいは前2著に卓んでていたかも知れない。しかしながらこの詩風の一時期は、極めて短小な時日の後に終熄した。それはそういう性質のものでもあったから、それが当然でもあったが、その事自身はまた萩原さんの胸裡に後にはその事自身への何か渇きのようなものをさえ持越させはしなかったであろうか。

 

かくいうのは仮そめの私の推測をいうのであるが、私にはどうもそういう感じがする。二つの主著の時期に、それぞれ窮まるところのない豊かな制作力を示したこの詩人は、この際は閃光的な燃焼の後にふっつり久しく沈黙した。そうして久しい沈黙の後に、それが再び詩集「氷島」(昭和5、6年―8年頃の作)に再度その爆発的表白を試みた時には、しかしながら既に何かしらそこにはもはや取りかえすすべもなく失われ変質されたものが私には感じられるのである。

 

萩原さんの詩に終始「愛憐詩篇」の昔から通じて見られたあの非論理性(イロジスム)の魅力、あの独自の魔術は、それのみが露わに、ここではかの秘密の調和を欠いて、ついにその歌口はただ索莫として私の耳には聞える。百木揺落の粛殺たる声に私の耳はついに私の耳は耐ええないのかも知れない。余人にはいかがであろうか。

 

(三好達治選「萩原朔太郎詩集」より。洋数字に変え、改行・行空きを加えてあります。編者。)

 

 

これが文庫本11ページの解説の結末部1ページに書かれました。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

2014年10月 2日 (木)

「氷島」を読み終えて・その7/詩の発表は季刊「四季」から

(前回からつづく)

 

評論「近時詩壇寸感」が
どのような経緯で中原中也に要請されたのか
具体的な事実はつまびらかではありませんが
「山羊の歌」刊行を前後して
詩人の名が詩壇や文壇の内部へと浸透していった背景が想像されます。

 

「四季」
「文学界」
「歴程」
……などの雑誌・詩誌が相次いで創刊されたのもこの頃ですし
「文学界」は僚友というべき小林秀雄が編集者の位置にありましたし
「歴程」は昭和10年創刊ですがはじめから同人でもありましたし
「白痴群」の廃刊以後、
中也は「雌伏」(詩的履歴書)の時期をとうに脱け出し
雑誌・新聞などのメディアへも寄稿を怠りませんでした。

 

「紀元」
「半仙戯」
「鷭」
「日本歌人」
「改造」
……などへの発表は
長男・文也の死という悲劇が詩人を襲うまで続けられます。

 

 

「四季」への関わりは
「近時詩壇寸感」が昭和10年(1935年)2月号(1月20日発行)であり
自己の「日記」への書き込みが昭和10年11月21日でしたが
詩篇の発表で最も早いのは
昭和8年7月20日発行の季刊「四季」第2冊でした。

 

この年5月に創刊された季刊「四季」の第2号に
「少年時」
「帰郷」
「逝く夏の歌」
――の詩篇3作を発表しています。

 

この3作を読んでおきましょう。

 

 

少年時

 

黝(あおぐろ)い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡(ねむ)っていた。

 

地平の果(はて)に蒸気が立って、
世の亡ぶ、兆(きざし)のようだった。

 

麦田(むぎた)には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だった。

 

翔(と)びゆく雲の落とす影のように、
田の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿――

 

夏の日の午過(ひるす)ぎ時刻
誰彼(だれかれ)の午睡(ひるね)するとき、
私は野原を走って行った……

 

私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦(あきら)めていた……
噫(ああ)、生きていた、私は生きていた!

 

(※「中原中也・全詩アーカイブ」に鑑賞記があります。)

 

 

帰 郷
 
柱も庭も乾いている
今日は好(よ)い天気だ
    椽(えん)の下では蜘蛛(くも)の巣が
    心細そうに揺れている

 

山では枯木も息を吐(つ)く
ああ今日は好い天気だ
    路傍(みちばた)の草影が
    あどけない愁(かなし)みをする

 

これが私の故里(ふるさと)だ
さやかに風も吹いている
    心置(こころおき)なく泣かれよと
    年増婦(としま)の低い声もする

 

ああ おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云(い)う

 

(※「中原中也・全詩アーカイブ」に鑑賞記があります。)

 

 

逝く夏の歌

 

並木の梢(こずえ)が深く息を吸って、
空は高く高く、それを見ていた。
日の照る砂地に落ちていた硝子(ガラス)を、
歩み来た旅人は周章(あわ)てて見付けた。

 

山の端(は)は、澄(す)んで澄んで、
金魚や娘の口の中を清くする。
飛んで来るあの飛行機には、
昨日私が昆虫の涙を塗っておいた。

 

風はリボンを空に送り、
私は嘗(かつ)て陥落(かんらく)した海のことを 
その浪(なみ)のことを語ろうと思う。

 

騎兵聯隊(きへいれんたい)や上肢(じょうし)の運動や、
下級官吏(かきゅうかんり)の赤靴(あかぐつ)のことや、
山沿(やまぞ)いの道を乗手(のりて)もなく行く
自転車のことを語ろうと思う。

 

(※「中原中也・全詩アーカイブ」に鑑賞記があります。)

 

(3作ともに「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変えました。編者。)

 

 

「四季」読者とりわけ内部に近くあった朔太郎(この時は同人制ではなかった)や
後に中也批判の急先鋒となる三好達治らは
これらの詩をどう読んだのでしょうか。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

2014年10月 1日 (水)

「氷島」を読み終えて・その6/「四季」へ中也詩論のデビュー

(前回からつづく)

 

中原中也の日記に「四季」が現われるのは
昭和10年(1935年)11月21日が初めてですが
「四季」との関係はそれ以前から続いていたことが
「近時詩壇寸感」という評論文の発表年次を見ればわかります。

 

この評論は
「四季」の昭和10年2月号(昭和10年1月20日発行)に発表されました。
昭和9年12月の制作(推定)とされています。
(「新編中原中也全集」第4巻・解題篇。)

 

日記に書かれる1年ほど前に
「四季」へすでに寄稿していたことになります。

 

 

第1詩集「山羊の歌」がようやく完成したのは
昭和9年12月7日の夜でした。

 

発行日は同年12月10日付けで
市中に出回るようになるのはこの日以後のことになりますが
中也は7日の夜に詩集を手に取りました。

 

その場で予約者と寄贈者に宛てて署名し
すぐに故郷・山口へ向かいました。

 

この帰省で生まれたばかりの長男・文也と
初めて対面します。

 

詩集の発送は翌日以降とされました。

 

 

「近時詩壇寸感」は
「山羊の歌」の文圃堂からの出版交渉が
大詰めを迎える中もしくは大詰めに差し掛かる前に書かれたものでしょうか。

 

「山羊の歌」の刊行が
ドタバタと決まる経緯を中也は見越していたはずがありませんが
この頃盛んに文学者との交友関係を深め広め
「四季」もその一つであったようでした。

 

「近時詩壇寸感」を
読んでおきましょう。

 

 

近時詩壇寸感

 

 詩論か何かそういった風のものを書けと云われるたびに、書くことはいくらでもあるような気持と書くことは何もないような気持に襲われます。さて暫く案じた揚句、大抵はお断りすることとなるのでありますが、今もよっぽどお断りしようかと思った所でありました。

 

 人によって色々異ることと思いますが、私は詩に就いては自分に分るようにだけは考えますが、それを人に分らせようとするや大変骨が折れます。而も骨を折った結果は、大抵の場合自分は気拙くなり、相手には殆んど役に立たないような次第です。これは、一つには私が今迄に、詩人である人と余りおつきあいして来なかったということに過ぎないのかもしれません。もし相手がやはり詩人である場合は、随分容易に話が通じ、又互いに利するのかも知れませんが、今の所私は、詩論というものは殆んど無益だと諦め切っている有様です。

 

 色々と詩論は毎月の雑誌にも現れておりますが、此の雑誌に訳載中のアランの論文と、それからこれは直ちに詩論と呼べる限りのものではありませんが、フィードレルの芸術論、まずまず此の二つが此の数年来に読みました詩論の中で心に残ったものであります。あとは、殆んど心に残っておりません。超現実派の詩論なぞも読んでおりますが、そして所々非常な卓見にも遭遇しますが、要するに読んだ後では「今時誰も結論には到達しないのだ」という何時も乍らの呟きを繰返さなければならない始末です。

 

尤も、新精神の、精神している所はよく分るつもりであります。一言で云えば、必竟偶然を排し詩を判然と人間の意識の手中に収めたいという精神と云うことが出来るかと思いますが、それが判然と実現出来れば、全く喜ばしいことであります。今の所猶概して印象の羅列以上のことを為し得ているとは思えませんが、あれらの努力が何時の日か一個完成したものに迄到達しないものではありますまい。

 

 然し私にはそれが10年20年で可能とは見えませんし、猶それが可能となるためにはもう一寸何かの要素が加わらなければならないのではないかと考えられます。だが、あの精神の中には非常に明るい、非常に自在な世界があることは確かで、そういう点では十分に影響されたいものと思っていますが、唯私にどうしても手放せない一つのことは、芸術作品には、一人の人間が生きていた、という感じの何ものかが、必ずやなくてはならないという事で、さもなければ読む方でつまらないばかりか、作る方で空虚なことでしかない筈だということであります。

 

 少しく飛躍ではありますが、印象の瞬間捕捉なぞという考えも、一見甚だ嬉しいことではありますが、而もそれが嬉しいのは、人間を器械の如く推定した上でのことでありまして、その実人間は器械ではありませんからそういう考えは思い付きに終るでありましょう。

 

 それから又近頃は詩の定型無定型ということが盛んに論じられていますが、私は定型にしろ無定型にしろ、面白ければいいという程のことしか考えておりませんが、なんだか此の問題は具体的のようでいて、その実途方もなく遠大か何かのように受取れます。仮に何方かに決った所でそれで何か出て来るというわけのものでもありますまい。

 

 「音」だのということも唱われておりますが、これに対しても、言語が発音される限り「音」はあるに決っている程の呑気さで、――多分報告的描写に過ぎぬ詩の続出に倦んだ揚句誰云うとなく思い付かれたことのようでありまして、もともとこんなに迄技巧論が抽象的に論じられるということは、まず大抵の場合に意味のないことではありますまいか。

 

 而もこんなに抽象的になっていることの一つの理由は、外国はいざ知らず我が国では、お互いが痛い所に余りに触れなさすぎたからでありますまいか。どうせ目下が精神の貧困時代であることは分っていますし、詩人が存外の苦吟をするのであることも分っているのですから、もっとあけすけにして、もっと具体的なことを論ずることが、詩壇の急務ではありますまいか。但しそれとても一朝一夕に叶うことでもありますまいが、そのためにはまず、詩人が一体に固くなりすぎていることが、まずは打解されなくてはなりますまい。

 

 とまれ、必要以上に真摯だ、つまり、感情的に真摯だということが云えるのではありますまいか。

 

(「新編中原中也全集」第4巻 評論・小説より。「新かな・洋数字」に変え、改行・行空きを加えました。編者。)

 

 

「まい」という「否定推量」の助動詞で結んだ文が目立つ
丁寧な口ぶりです。

 

「四季」というメディアへの詩論のデビューですから
慎重になっているのかもしれませんが
定型無定型への言及など
「面白ければいい」という切り込みは
この時も空転していたといえるのでしょうか。

 

定型か無定型かは
短詩型や現代詩の世界の2014年現在でも
二元論(二分法)に終始している実情を考えてみれば
これを受ける側の反応は鈍いというしか言い様がないもののようでした。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »