反撃する朔太郎/「氷島」の詩語について4・漢語前置詞的NEVERは必然
(前回からつづく)
支那語を日本語の中に取り入れたものが漢語(調)で
「氷島」の詩篇を書く段になっては
これを使う必然があったことに朔太郎は触れます。
◇
所で僕が「氷島」に書いた詩想は、エゴの強い主観を内部に心境しているものであった。それは前の「青猫」のように、縹渺たる無意志的アンニュイのものでなくして、意志の反噬が強く、断定がはっきりして居るものであった。僕は詩の各行のいちばん先は、ヤアとナイン、YESとNOの決定語を前置しなければならなかった。そしてしかもこうした言葉は、昔の純粋な日本語に無く、今の日本語の中にも無かった。厭でも応でも、僕は漢語調の文章語を選ばねばならなかった。そこで僕の「氷島」の詩は、殆んどその各行毎に、「いかんぞ」「あえて」「断乎として」等の前置詞的NEVERを使用した。
◇
詩の各行の先頭に
イエス・ノーの決定語を置く必要から
厭が応にも漢語調の文章語を使った。
日本語になく
漢語調にはそれがあったからです。
「いかんぞ」「あえて」「断乎として」など
(僕はこれらを)前置詞的NEVERと呼んで多用したのです。
◇
「氷島」の場合、もし僕が漢語調を選ばなかったら、世のいわゆるプロレタリア詩人や社会主義詩人が書いているような、である式演説口調の口語自由詩を作る外になかっただろう。なぜなら今の日本語で、少しく意気昂然たる断定の思想を叙べるためには、こうした演説口調(論文口調と言っても同じである)以外にないからである。しかし僕はおそらくまた決してそれを取らなかったろう。なぜなら前に言う通り、こうした演説口調の言葉というものは、断定の響が弱く曖昧であり、その上に言葉が非芸術的に重苦しく、到底「美」のスイートな魅惑と悦び――それが芸術品としての詩に於ける、本質の決定的価値である。――を与えてくれないから。こうした類の言葉は、感性のデリカシーや美意識やを必要としないところの、粗野な政談演説などには適するけれども、芸術品としての詩には不適であり、あまりにラフで粗雑すぎる。すくなくとも僕の神経は、こういう自由詩の非芸術的粗雑さに耐えられなかった。
◇
あの時、漢語調以外の日本語を使ったら
プロレタリア詩人や社会主義詩人の書くような
演説口調の口語自由詩ができたことでしょう。
それでは断定の響きが弱く、曖昧であり
言葉が非芸術的に重苦しく
「美」の甘味な魅惑と悦びを与えてくれない
あの時、僕の神経は演説口調(論文口調)の非芸術的粗雑さには耐えられなかった。
◇
とはいえ
漢語調で詩を作るというのは
口語自由詩を作ってきた朔太郎の足取りからすると
それは後退でした。
◇
そこで僕は退却を自辱しながら、文語体漢語調を選ぶ外に道がなかった。単に文法構成の上ばかりでなく、箇々の詩語としての単語にあっても、漢語を使うことが便利であった。と言うのは、漢語の発音というものが、元来アクセントの強い支那の原音を、不完全に直伝したものだけあって、純粋の日本語に比して調子が高く、抑揚の変化に富んで居るからである。特に断定的(意志的)の強い感情を現わす場合は、それが最もよく適切して居る。前の「青猫」の表現では、柔軟でアクセントのない平仮名が最もよく適して居たが、反対に「氷島」の場合では、多くの漢語とを用いねばならなかった。
冬の凛烈たる寒風の中
地球はその週暦を新たにするか。 (新年)
石もて蛇を殺すごとく
一つの輪廻を断絶して
意志なき寂寥を踏み切れかし。 (漂泊者の歌)
彼等みな忍従して
人の投げあたえる肉を食らい
本能の蒼き瞳孔(ひとみ)に
鉄鎖のつながれたる悩みをたえたり。 (動物園にて)
こうした詩句に於て、「凛烈」「断絶」「鉄鎖」等の漢語は、それの意味の上よりも、主として言葉の音韻する響の上で、壮烈なる意志の決断や、鬱積した感情の憂悶やを、感覚的に強く表現しようとしたのである。漢語がこうした詩情の表現に適するのはDanzetsu,Tessa,Ninju等の如く、アクセンチュアルな促音と拗音とに富んでいるからである。すべて言語は、促音や拗音の多いほど弾力性が強くなってくる。然るに純粋の日本語には、この子音の複数的変化というものが殆んどなく、単一に母音と結びついて「い」「ろ」「は」と成ってるのだから、この点には甚だ単調で変化に乏しいのである。
(筑摩書房「萩原朔太郎全集」第10巻より。原作の歴史的かな遣い・旧漢字を現代かな遣い・新漢字に改めました。改行(行空き)も加えました。編者。)
◇
「氷島」から実例を挙げているところに注目しましょう。
三好が引例した「新年」から
朔太郎も引例していて
三好の読みに反論するかのようです。
◇
「凛烈」「断絶」「鉄鎖」――。
これらの漢語を使用したのは
その音韻、響きが
壮烈な意志の決断
鬱屈した感情、憂悶を
感覚的に表現するのに適していたからでした。
Danzetsu,Tessa,Ninju――。
これらの中の子音や拗音を見てください。
これらの促音、拗音の「子音の複数的変化」が生むものは
言葉の弾力性です。
日本語にはこれがほとんどなく
母音と単一に結びつくために単調になるのです。
◇
今回はここまで。
« 反撃する朔太郎/「氷島」の詩語について3・日本語は「NO」が弱い | トップページ | 反撃する朔太郎/「氷島」の詩語について5・ニーチェ詩の強い意志 »
「058中原中也の同時代/萩原朔太郎「氷島」論を読む」カテゴリの記事
- 寺田透の「氷島」支持論11/戦争詩「南京陥落の日に」へ一言(2015.01.19)
- 寺田透の「氷島」支持論10/「蝶を夢む」にはじまる(2015.01.18)
- 寺田透の「氷島」支持論9/筋肉質の人間・朔太郎(2015.01.17)
- 寺田透の「氷島」支持論8/シェストフ的実存(2015.01.14)
- 寺田透の「氷島」支持論7/「青猫」詩人の必然(2015.01.13)
« 反撃する朔太郎/「氷島」の詩語について3・日本語は「NO」が弱い | トップページ | 反撃する朔太郎/「氷島」の詩語について5・ニーチェ詩の強い意志 »
コメント