三好達治の「氷島」否定論について6/鋳型を用いた反射的な用語用字
(前回からつづく)
「こびりつくように巣くった」というのは
俗にいえば「癖(くせ)になった」「習慣化した」というほどのことでしょうか。
それが三好達治には
「けげんに感じられた」のですが
それは朔太郎がかつて高橋元吉宛に出した手紙の中で
自らの詩作法として記した「自働器械」的な句法と関係することなのかと
疑問を呈します。
この句法は
習作の時代からその後の夥(おびただ)しい制作の中でも
同巣同窼(どうそうどうそう)といっていい類想の詩句――語句語法を多く産出したものだったけれど
それらはことごとくが変幻自在を極め
反復は力強くルギッシュに読者の眼を引いてきたものだったのに、というのです。
はじめのうちは
変幻自在、
絢爛豪華(とは言っていませんが)、
力強く
エネルギッシュに
読者を魅惑した(とも言っていませんが)朔太郎詩だったのに。
◇
同巣同窼(「どうすどうそう」と読ませるかもしれない)
類想の
反復
……はほとんど同義語といってよいでしょう。
繰り返しの弊を露(あら)わにしてしまった、というようなことを言っているのです。
◇
「自働器械」であるかどうかは
はじめ疑問を呈されるだけです。
そして、ほかの悪例へと目は転じられます。
◇
「珈琲店 酔月」中に、
蹌踉として酔月の扉(どあ)を開けば
――とあり
「漂泊者の歌」中に、
いかなれば蹌爾として
時計の如くに憂ひ歩むぞ。
――とある、
この「蹌爾」は「蹌踉」の借用であり、
「いかんぞ乞食の如く羞爾として」の「羞爾」も同じであり。
「爾」という字が「氷島」中に繰り返されるのは
「いかんぞ乞食の如く羞爾として」の「羞爾」は(語法としては)よいにしても
(「蹌爾」が「蹌踉」からの借用であったのと)同じ転用に過ぎない。
「爾」と字の使い方もまた
「氷島」中で繰り返しが目に付く
刺々(とげとげ)しい着字である。
「国定忠治の墓」にある「悽而たる竹薮の影」の「而」は
ここで問題はないけれども
「爾」の使い方の余勢に違いなく
その点では「器械」的であることにここでは注目しておきたい。
◇
「虚妄の正義」(昭和4年)に、
懶爾として笑へ!
――とある「懶爾」は朔太郎の新造語であったが
「氷島」ではそこまで後戻りしてまた転用重襲しているのであり
これも「けげん」の一つ。
――などと述べます。
◇
三好はここまでをまとめるかのように、
「いかんぞ」も「羞爾」も「悽而」も
ただ音感の上からとっさに反射的に採用されたものと断じます。
それは「詩の原理」(昭和3年)で展開された
「音律からくる魅力」を詩感の上に置く原則論と矛盾しない。
私がけげんに耐えないのは
(この)とっさの反射的落想が
かねがね持ち合わせていた鋳型のようなものであり
その適用がとっさに反射的に先立つことから
前後の詩句が歪曲されていき……。
◇
三好の筆は止まらず
「歪曲」されていった例に広がっていきます。
◇
途中ですが今回はここまで。
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