カテゴリー

2025年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28  
無料ブログはココログ

« 三好達治の「氷島」否定論について5/耳障りな「いかんぞ」 | トップページ | 三好達治の「氷島」否定論について7/「望景詩」を誇大に拡充 »

2014年10月13日 (月)

三好達治の「氷島」否定論について6/鋳型を用いた反射的な用語用字

(前回からつづく)

 

「こびりつくように巣くった」というのは
俗にいえば「癖(くせ)になった」「習慣化した」というほどのことでしょうか。

 

それが三好達治には
「けげんに感じられた」のですが
それは朔太郎がかつて高橋元吉宛に出した手紙の中で
自らの詩作法として記した「自働器械」的な句法と関係することなのかと
疑問を呈します。

 

この句法は
習作の時代からその後の夥(おびただ)しい制作の中でも
同巣同窼(どうそうどうそう)といっていい類想の詩句――語句語法を多く産出したものだったけれど
それらはことごとくが変幻自在を極め
反復は力強くルギッシュに読者の眼を引いてきたものだったのに、というのです。

 

はじめのうちは
変幻自在、
絢爛豪華(とは言っていませんが)、
力強く
エネルギッシュに
読者を魅惑した(とも言っていませんが)朔太郎詩だったのに。

 

 

同巣同窼(「どうすどうそう」と読ませるかもしれない)
類想の
反復
……はほとんど同義語といってよいでしょう。

 

繰り返しの弊を露(あら)わにしてしまった、というようなことを言っているのです。

 

 

「自働器械」であるかどうかは
はじめ疑問を呈されるだけです。

 

そして、ほかの悪例へと目は転じられます。

 

 

「珈琲店 酔月」中に、
蹌踉として酔月の扉(どあ)を開けば
――とあり

 

「漂泊者の歌」中に、
いかなれば蹌爾として
時計の如くに憂ひ歩むぞ。
――とある、
この「蹌爾」は「蹌踉」の借用であり、
「いかんぞ乞食の如く羞爾として」の「羞爾」も同じであり。

 

「爾」という字が「氷島」中に繰り返されるのは
「いかんぞ乞食の如く羞爾として」の「羞爾」は(語法としては)よいにしても
(「蹌爾」が「蹌踉」からの借用であったのと)同じ転用に過ぎない。

 

「爾」と字の使い方もまた
「氷島」中で繰り返しが目に付く
刺々(とげとげ)しい着字である。

 

「国定忠治の墓」にある「悽而たる竹薮の影」の「而」は
ここで問題はないけれども
「爾」の使い方の余勢に違いなく
その点では「器械」的であることにここでは注目しておきたい。

 

 

「虚妄の正義」(昭和4年)に、
懶爾として笑へ!
――とある「懶爾」は朔太郎の新造語であったが
「氷島」ではそこまで後戻りしてまた転用重襲しているのであり
これも「けげん」の一つ。

 

――などと述べます。

 

 

三好はここまでをまとめるかのように、
「いかんぞ」も「羞爾」も「悽而」も
ただ音感の上からとっさに反射的に採用されたものと断じます。

 

それは「詩の原理」(昭和3年)で展開された
「音律からくる魅力」を詩感の上に置く原則論と矛盾しない。

 

私がけげんに耐えないのは
(この)とっさの反射的落想が
かねがね持ち合わせていた鋳型のようなものであり
その適用がとっさに反射的に先立つことから
前後の詩句が歪曲されていき……。

 

 

三好の筆は止まらず
「歪曲」されていった例に広がっていきます。

 

 

途中ですが今回はここまで。

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

« 三好達治の「氷島」否定論について5/耳障りな「いかんぞ」 | トップページ | 三好達治の「氷島」否定論について7/「望景詩」を誇大に拡充 »

058中原中也の同時代/萩原朔太郎「氷島」論を読む」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 三好達治の「氷島」否定論について5/耳障りな「いかんぞ」 | トップページ | 三好達治の「氷島」否定論について7/「望景詩」を誇大に拡充 »