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2014年10月27日 (月)

反撃する朔太郎/「氷島」の詩語について2・「青猫」のネバネバ口語

(前回からつづく)

漢文調の文章語
古典的文章語
既成詩

口語自由詩
大胆な破壊

退却(レトリート)

……といった明確な「概念語」が読み手を鷲掴みにすることでしょう。

既成詩を大胆に破壊する明確な意図をもって
「月に吠える」で出発した詩人は
「氷島」を文章語、それも漢文調の、で書いたことを
退却=レトリートと認めました。

「絶叫」を詩にするには
それしかなかった、と。

「『氷島』の詩語について」を読み進めましょう。

現代の日常口語が、こうしたポエジイの表現に適応されないことは、自分でそれを経験した人には、何よりもよく解ってる筈である。つまり今の日本語(口語)には、言葉の緊張性と言うものがないのである。巻尾に他の論文(口語詩歌の韻律について)で説いた通り、今の口語には「に」「は」「を」等の助詞が多すぎる為に、語と語との間に区切れがなく、全体にべたべた食っ付いて居て、歯切れが悪く、調子のハズミというものが少しもない。例えば「日本人此所にあり」とか「花咲き鳥鳴く」という場合、口語の方では「日本人は此所に居る」「花が咲き鳥が鳴く」という工合に、「は」「が」等の余計な助詞がつくのである。その為め言葉に抑揚がなく、緊張した詩情を歌うことができないのである。

日本語の口語は
助詞が多くて緊張感のある詩情を歌えないというのです。

その上にまた、今の口語でいちばん困るのは、章句の断定を現わす尾語である。文章語の方で「なり」「ならん」「ならず」と結ぶ所を、口語の方では「である」「であるだろう」「ではない」という風に言う。文章語の方は、非常に軽くて簡潔であるのに、口語の方は重苦しくて不愉快で、その上に断定が曖昧で“はっきり”しない。もっとも同じ口語体でも、こうした演説口調の「である」に比すれば、日常会話語の「です」「でしょう」の方は、まだしもずっと軽快であり、耳にも快よい音楽的の響きをあたえる。しかし困ったことに、この種の会話語は調子が弱く、卑俗で軟弱の感じをあたえる為に、少しく昂然とした思想や感情を叙べるに適応しない。(演説や論文が、この会話語の外に「である」体を発明したのは、全く必然の要求から来ている。)

文章語「なり」「ならん」「ならず」は、
軽くて簡潔だが
口語「である」「であるだろう」「ではない」は
重苦しく不愉快。

口語でも「です」「でしょう」は軽快で、耳にも快く音楽的
――などと具体例を挙げます。

要するに、今の日本語というものは、一体にネバネバして歯切れが悪く、抑揚に欠けて一本調子なのである。そこでこの日本語の欠点を、逆に利用して詩作したのが、僕の旧著「青猫」であった。と言うわけは、「青猫」に於ける詩想が、丁度こうした口語の特色と、偶然に符合して居たからであった。前にも書いたように、当時僕は無為とアンニュイの生活をし、ショウペンハウエル的虚無の世界で、寂滅為楽の夢ばかり見て居た。

「青猫」の英語BLUEは、僕の意味で「疲れたる」「怠惰なる」「希望なき」と言う意味であった。こうした僕の心境を表現するには現代口語、特に日常会話語のネバネバした、退屈で歯切れの悪い言葉が適応して居た。文章語では、却って強く弾力的になり過ぎるおそれがあった。

  虚無の朧げなる柳の影で
  艶めかしくも ねばねばとしなだれているのですよ。

というような詩想には、こうした抑揚のない、ネバネバした、蜘蛛の巣のからみつくような口語体が、最もよく適応して居るのであった。「青猫」の詩法は、つまり、口語の欠点を逆に利用したようなものであった。しかし、それは偶然だった。「氷島」を書いた頃には、もはや「青猫」の心境は僕になく、それとは逆に、烈しく燃えたつような意志があった。当時の僕は、もはや寂滅無為のアンニュイではなく、敵に対して反噬するような心境だった。「青猫」の詩語と手法は、もはや僕にとって何の表現にも役立たなかった。僕は放浪の旅人のように、再度また無一文の裸になって、空無の中から新しい詩語を創造すべく、あてのない探索の旅に出かけた。そして最後に、悲しく自分の非力を知ってあきらめてしまった。今日の日本語(口語)で詩を書くことは、当時の心境を表現するべく、僕にとって力の及ばない絶望事だった。

(筑摩書房「萩原朔太郎全集」第10巻より。原作の歴史的かな遣い・旧漢字を現代かな遣い・新漢字に改めました。改行(行空き)も加えました。編者。)

文中「反噬」とあるのは「ハンゼイ」か「ハンセイ」。
「噬」は「臍を噬む(ほぞをかむ)」の「かむ」です。

具体例は自作「青猫」に及びます。

「青猫」の言葉は
抑揚がなく
ネバネバした
蜘蛛の巣がからみつくような口語体が適していた

口語の弱点を逆手にとって
これを利用したのが「青猫」だった

ショウペンハウエル的虚無の世界を表現するには
口語が要求された
――などと「青猫」の詩法を引いて
「氷島」の詩語とを対照する前置きとします。

今回はここまで。

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