三好達治の「氷島」否定論について8/「小出新道」へのまだるっこしい評価
(前回からつづく)
「詩の原理」(萩原朔太郎の詩の作り方)を
「語意の印象的表象」を「音律からくる魅力」を詩感の上に置く考え方ととらえた三好は
それを朔太郎が「自働器械」を編み出した当初から実践していた詩法であることに気づいて、
「小出新道」の「新しき樹木みな伐られたり」という詩行が作られたのも
その詩法に基づいていて、
その詩法上の詭計またその肝要でもあったことを解説します。
この「詭計またその肝要」とはなんのことか。
それはやがて説明されるのですが
この説明がまたなんともこむずかしくまだるっこしく
読むのに息切れしそうになります。
その部分を引いておきましょう。
◇
新しき樹木みな伐られたり
は、「新しき樹木」に於て、その部分に於て部分的意味はなかった。「新しき樹木」というようなものは虚像としての外存しはしなかったのである。そうしてそれは、樹木のみな伐られてなお新しくむごたらしきさまを、横押しに押し出した詩法の手柄で、すっきりと簡潔に、陰惨を明るく、いわば形而上的にさえも表出したのであった。
(※「『詩の原理』の原理」より。現代かな遣いに変え、改行を加えてあります。)
◇
どうやら「新しき樹木」という詩語の創出(出生)の仕組みを分析し
その成功を評価した記述であることがわかります。
「その部分に於て部分的意味はなかった」とか
「虚像としての外存しはしなかった」とか
朔太郎詩の解読だからでしょうか
それにしても回りくどくて難渋で
これで一般読者に通じるつもりでいたのでしたらやりきれません。
新しき樹木みな伐られたり
――のダブルミーニングは
一読して読者に伝わるはずのものですが
ここに「詭計またその肝要」を読もうとしているようです。
◇
「大渡橋」の
せんかたなしや、涙のごときもの溢れ出で
頬(ほ)につたい流れてやまず
――についても同じように
「ごときもの」と持って廻った言い方をするのは
「詭計またその肝要」のためであると解釈するのです。
これらの「望景詩」では
それが成功しているために
実感の至極から(実感できるから)
更にどこやらに逸出する明るさ(にじみだす明るさ)があり
この明るさが「酸酷」(残酷または惨酷)の上に加えられていた――。
◇
であるのに
「いかなれば蹌爾として 時計の如くに憂い歩むぞ」とは
無理な、無法なことだ――。
◇
といったそばから
しかしながら思うに、そのことこそがまことに萩原さんらしい、この人らしい本来の面目であったとも考えられる。
――と肯定的評価をはさんだりするのです!
そしてすぐに
また全否定。
◇
「動物園にて」の、
いま秋の日は暮れ行かむとし
風は人気なき小径に散らばい吹けど
ああ我れは尚鳥の如く
無限の寂寥をも飛ばざるべし。
――の最後の1行はまったく意味をなさない。
そして「新年」の、
いかなれば虚無の時空に
新しき弁証の非有を知らんや。
――もまったく意味をなさない、としつつ
また「望景詩」との比較がつづきますから
今回は途中ですがここまで。
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