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2014年11月

2014年11月27日 (木)

那珂太郎の「氷島」否定論/肯定論への異議

(前回からつづく)

 

「氷島」絶賛論を読んだのですから
こんどは那珂太郎の否定論を読みましょう。

 

否定論といっても
一部の詩篇には幾分かよい評価をしているのですが
詩集「氷島」を「枯渇」と見なすところなどは
三好達治と同列です。

 

 

那珂太郎(1922~2014)は
1960年発行の「近代文学鑑賞講座 第15巻・萩原朔太郎」の編集責任者の位置にあった詩人で
若い時から朔太郎に傾倒し
詩作のかたわら朔太郎研究を発表。
朔太郎論の大きな流れを作った人でした。

 

「近代文学鑑賞講座 第15巻・萩原朔太郎」は
那珂太郎による作品鑑賞記録が
「月に吠える」
「青猫」
「蝶を夢む」
「青猫」以後
「純情小曲集」
「氷島」
――と制作順に整理されてメーンとなった論集ですが
この鑑賞記が同書300ページのおよそ半分を占めているように
那珂の「編集」の仕事ということができます。

 

 

伊藤整、室生犀星、三好達治、萩原葉子、河上徹太郎らの著作のほかに
寺田透、清岡卓行、吉本隆明、篠田一士の論考を収録し
付録に伊藤信吉による文献目録と年譜も配置して
朔太郎の全体像に照明を当てようとする意図が見えます。

 

全体像に迫ろうとする編集意図が
バランスをとろうとするあまりの平板な朔太郎論集にならずに
1960年当時の世間で関心の高かったであろう「氷島」論争の
その基礎資料を提供しようとしたというねらいにも積極的な感じがあります。

 

那珂の編集感覚がもたらしたものでしょう。

 

今年6月に92歳で亡くなった詩人にここで哀悼と敬意を表させていただきます。

 

 

さて那珂太郎が
篠田一士の「ノスタルジアについて」を読んだ後に書いたものなのか
「ノスタルジアについて」は読まなかったが他の篠田の論考を読んだ後なのか
篠田の文章をまったく読まないで書いたものなのか
「近代文学鑑賞講座 第15巻・萩原朔太郎」で「氷島」評価にふれて、

 

そのような彼の「氷島」――またそのさきがけとしての「郷土望景詩」が、意識的にせよ無意識的にせよ、実感主義的美学が支配的であるわが国で、数多くの讃美者を得たというのも、皮肉である。

 

それぞれの視点や評価の立場は異なりながらも、「郷土望景詩」発表当初の芥川龍之介・中野重治以来、伊東整・桑原武夫・三好達治・加藤周一の諸氏が「郷土望景詩」を最も重んじ、さらに近くは寺田透氏や、奇怪にも篠田一士氏のごときもまた、「氷島」を朔太郎詩中の最高作としているのである。

 

――と書いているのを読むとき
小さな疑問が生じます。

 

 

「奇怪にも篠田一士氏のごときも」というくだりに
立ち止まらざるを得ません。

 

やはり
篠田一士のポレミカルな論考に反応しているとしか考えられません、
このくだりを読むと。

 

 

このような「感慨」が文字に現われるということが
「文学」の世界の特に「論争」などの局面ではしばしばあることですが
両者(篠田と那珂)は
やがて「現代詩手帖」の1963年9月号の「朔太郎特集」座談会で
寺田透とともにテーブルを囲むことになるのですから
その「お膳立て」のために編集者がどのような仕事をしたのだろうかなどと
想像をたくましくしてしまいます。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2014年11月26日 (水)

篠田一士の「氷島」絶賛論7/朔太郎詩のノスタルジア

(前回からつづく)

 

朔太郎の「漂泊者の歌」を読み
次いでガルシア・ロルカの「騎士の歌」を読み
(このブログでは順序を逆に読みましたが)
篠田一士は表題とした「ノスタルジアについて」を最後に添えます。

 

 

幾つかの挑戦的な読みを試みた論考は
最終章でも果敢な論争を仕掛けるかのように
「望郷」とか「郷愁」とか
朔太郎論に好んで現われるインデックスにフォーカスを当て
それと「ノスタルジア」との違いにふれます。

 

その例として「波宜亭」を引くのは
この詩に流れる「望郷の感情」を見るためにです。

 

 

波宜亭

 

少年の日は物に感ぜしや
われは波宜亭の2階によりて
かなしき情欲の思いにしづめり。
その亭の庭にも草木茂み
風ふき渡りてぼうぼうたれども
かのふるき待たれびとはありやなしや。
いにしえの日には鉛筆もて
欄干にさえ記せし名なり。

 

 

ここに歌われているノスタルジックな感情は
ロルカ「騎士の歌」の凄絶で荒涼としたノスタルジーではなく
ある種の自足感を感じさせる
ほのぼのとした安らいであり

 

詩人の姿勢は
過去に向いているが
過去の空しさを直視しようとしていない

 

過去への直視は
未来への絶望を導き出すに違いないから
詩人は
過去にも未来にも厚いスクリーンをおろして
現在の秘事にふける

 

 

「現在の秘事」とは
「かなしき情欲の思い」と「ふるき待たれびと」が指示する「恋のみそかごと」のことらしい。

 

「密(みそ)かごと」のようにはかなく
束の間の恋のように妖しい美しさを持つ秘事が
こうして歌われるには
並々ならない技がいる
(技という語は使われていませんが)

 

その技は
「少年の日は物に感ぜしや」という問いかけのような歌いだしに
(さりげなく歌われたところでたくらまれ)
そこでこの技=人口楽園(秘事)の設計は見事に完了している

 

――と一気にこの詩を読み解きます。

 

 

凄絶なノスタルジーの表白ではないが
ノスタルジックな感情が「波宜亭」には歌われているというのですが
「郷土望景詩」の中には
ノスタルジアの戦慄を経験させるような作品がある、といって
「小出新道」を次に引っ張り出します。

 

ノスタルジアの戦慄とは
どういうことをいうのでしょう。

 

 

小出新道

 

ここに新道の新開せるは
直として市街に通ずるならん。
われこの新道の交路に立てど
さびしき四方(よも)の地平をきわめず
暗鬱なる日かな
天日家並の軒に低くして
林の雑木まばらに伐られたり。
いかんぞ いかんぞ思惟をかえさん
われの叛きて行かざる道に
新しき樹木みな伐られたり。

 

 

詩人自らいう「慷慨調」で一貫するこの詩に
どの慷慨調も持つ安価なセンチメンタリズムはない

 

ここには
ロルカの作品のバロック・スタイルの変容と同じ詩的状況がある

 

古風な漢語調が
現代の口語調にできない緊迫性と柔軟性を実現しているのだ

 

 

よく読めば
非情な客観描写と読めそうな部分が
実は詩人の高ぶった感情表白になっている

 

そうであるために
その感情の高ぶりがぼくたち(読者)にすーっと伝わってくるのだ。

 

 

いかんぞ いかんぞ思惟をかえさん
われの叛きて行かざる道に
新しき樹木みな伐られたり。

 

――という最後の3行は
漢語調の誇張法に俗化されない
サンボリックな陰影に満ち
デリカシーにまで浄化されている

 

 

このような記述で
篠田の「ノスタルジアの戦慄」は
うまく読者に伝わるでしょうか。

 

伝わったのでしょうか。

 

 

篠田は
ここまで書いてきて最後に
このデリカシーはもう一度験されなければならない、と付け加えるのです。

 

詩人のノスタルジーが
感傷とは異なる一つの認識であるためにも……と。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年11月25日 (火)

篠田一士の「氷島」絶賛論6/歌がはじまるシステム

(前回からつづく)

 

「歌」がはじまる
――「漂泊者の歌」第2幕が開幕です。

 

篠田一士はそう読みます。

 

 

ああ汝 漂泊者!
過去より来りて未来を過ぎ
久遠の郷愁を追い行くもの。

 

この3行から詩の最終行まで
歌は中断することなくつづくというのは
「ああ」という感嘆詞が各連の冒頭に置かれてあるので歴然としますが
それよりも
「汝」という第2人称の呼びかけが
「漂泊者」に対して繰り返されるところに
篠田は目を向けます。

 

「汝」という呼びかけは
漂泊者に対する詩人の
そして(第1連の装置によって)読者の
共感と同情をあらわすことを可能にする

 

第2連のトーンがそれである

 

「いかなれば」という反語疑問形は
「切れかし」で終わっても
そこに緩(ゆる)い同情にみちた激励を導き出す

 

――と読むのです。

 

 

「汝」は
同情と共感の機能ばかりでなく
相手への冷ややかな笑いとやり場のない憤りを
第1人称よりも
発することができる

 

第3連で
ああ 悪魔よりも孤独にして
汝は氷霜の冬に耐えたるかな!
かつて何物をも信ずることなく
汝の信ずるところに憤怒を知れり。
――と歌われるのは
冷ややかな笑いでありやり場のない憤りでもある

 

 

ここは通じにくいところです。

 

ああ 悪魔よりも孤独にして
――に冷笑の響きはあり
耐えたるかな!
――に詩人の憤怒はあるというのです。

 

 

この憤りや冷笑は
つづいて3度も繰り返される「かつて」ではじまる詩句によって
救いようにない絶望へとおちいっていく

 

かつて何物をも信ずることなく
……

 

かつて欲情の否定を知らず
……

 

かつて何物をも汝は愛せず
何物もまたかつて汝を愛せざるべし。

 

 

ここで「汝」と呼びかけてきた相手は
詩人以外でなく
詩人自身であることに読者は気づかされる

 

このことを篠田は、

 

第1連のカメラがとらえた舞台で
第2連以下で詩人の歌う歌がとだえることなく
共感と同情から冷笑と憤怒を通じて
「絶望の情緒劇」として読者に経験され
この舞台がぼくたち(読者)の内部にあることを知る
――と言い換えて説明しますが
この説明もやや通じにくいかもしれません。

 

「汝」は詩人自身であることを
読者が舞台の中で経験するということでしょう。

 

「汝」である詩人の情緒が
読者に伝わるシステム(仕組み)を解き明かしています。

 

 

第4連、
いづこに家郷はあらざるべし。
汝の家郷は有らざるべし!
――と自らに絶望した詩人が
自己放棄したように自己賛歌を歌うのに
ぼくたち(読者)はなんらのストレスもなく
浩然として唱和することができる、というのです。

 

いづこに家郷はあらざるべし。
汝の家郷は有らざるべし!
――と反復句が置かれても
絶望よりは解放感を感じ取る。

 

行き止まりの困惑ではなく、
広々とした平原を見はるかすような気分に襲われると読むのです。

 

 

いっさいを失ってサバサバしている境地――。

 

これを読み取るところに
篠田の大らかさはあるようです。

 

ハイマート・ロス(故郷喪失)とは
一地方のペイトリオティズム(愛郷)の喪失ではなく
どこにもそれ(ハイマート)を持たないことなのですから。

 

 

劇は終わった。

 

この作品は
一口でいえば「劇的」である。

 

詩人が劇的な状況で唱っているのであるから
ぼくたちも劇的な姿勢をとらねばならない。

 

 

篠田一士の「漂泊者の歌」の
これが読みです。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

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2014年11月24日 (月)

篠田一士の「氷島」絶賛論5/「漂泊者の歌」の舞台装置

(前回からつづく)

 

篠田一士は「漂泊者の歌」をどのように読んだのか。
その鑑賞記を読んでみましょう。

 

すでに読まれた詩の読みを読み
それをまた記述するという試みは
二重のレンズを通して詩に近づこうとしていることなのか
そのことによって詩はよりよく読まれるのか
その逆なのか
重たいテーマが含まれることに気づきますが
深刻にならずに進みます。

 

 

「漂泊者の歌」が
5-8-10-5で構成された全28行の詩であり
「氷島」中ではもっとも長い部類の詩であり
ことさら4部構成の詩であるところは
「氷島」の多くの作品と同じように
すでに漢詩の絶句の要素である起承転結という形式を無意識に踏襲しているものであろう。

 

――と篠田はまずは詩の形に触れて
詩のその「起」の描写する風景が
単に風景ではない、ほかの何か
ドラマティックなものが歌われていることから詩世界へ入ります。

 

 

第1連と言わず、第1の部分と篠田が言う意味もそこにあるようで
その舞台のオープニングは――

 

日がのぼり
遠い空が見渡され
鉄道のレールが延々とつづき
最後に
一つの寂しき影は漂ふ。
――というこの詩全体のモチーフを歌う最終第5行までが連続していることを明らかにします。

 

第1の部分である5行は
1行1行を分断して取り出すことができないように
絡(から)まりあい木霊(こだま)しあうことによって成り立っている
一つの塊として示されていると読まなければ

 

第2行
憂いは陸橋の下を低く歩めり。
――は
グロテスクで大時代なイメージをもたらすだけなはずが
そうならないのは
それが設定された舞台の書割のなかに現われる「憂い」のせいであり
この「憂い」が第5行の「寂しき影」の正体であることを示しているからであり
それが詩をなめらかに(スムースに)しているとアクセスするのです。

 

 

ここはわかりにくいところですし
詩の読みの第一の急所であり
はじめてそれを読者に伝える困難さを克服するために
篠田はこれを「カメラ」に喩(たと)えます。

 

詩人のカメラと
読者の内部にあるカメラとの関係に喩えて説明を加えます。

 

ここは篠田自身の言葉を
そのまま引きましょう。

 

 

詩人のカメラは断崖や陸橋や空や、あるいは鉄路に向けられて、ついに「寂しき影」に定まった。このとき読者はそのカメラが自己の内部にあるという錯覚をもちながら、カメラに全幅の信頼をいだくことになる。

 

言いかえれば、読者は詩人の巧妙な舞台装置に固唾をのむうちに、情緒のかたまりを感じながら、さらに、来るべき、より大いなる情緒の波をまちうけるのだ。

 

ここで「歌」がはじまる。

 

 

詩人のカメラが「寂しき影」に焦点を結ぶに至るまで
読者もカメラを覗(のぞ)き込んで
ひとつの同じ舞台を見ている。

 

詩人と読者は
詩人の設定した舞台装置のなかに入り込みながら
詩人の抱いている情諸にシンクロし
やがてまたやってくるであろう情緒の波を待ち受ける姿勢をとり
そこで「歌」を聴くことになる。

 

 

詩の読みは
第2の部分(=第2幕)へ入っていきます。

 

 

今回はここまでにしますが
「漂泊者の歌」を掲出しておきます。

 

 

漂泊者の歌

日は断崖の上に登り
憂いは陸橋の下を低く歩めり。
無限に遠き空の彼方
続ける鉄路の棚の背後(うしろ)に
一つの寂しき影は漂う。

ああ汝 漂泊者!
過去より来りて未来を過ぎ
久遠の郷愁を追い行くもの。
いかなれば蹌爾として
時計の如くに憂い歩むぞ。
石もて蛇を殺すごとく
一つの輪廻を断絶して
意志なき寂寥を踏み切れかし。

ああ 悪魔よりも孤独にして
汝は氷霜の冬に耐えたるかな!
かつて何物をも信ずることなく
汝の信ずるところに憤怒を知れり。
かつて欲情の否定を知らず
汝の欲情するものを弾劾せり。
いかなればまた愁い疲れて
やさしく抱かれ接吻(きす)する者の家に帰らん。
かつて何物をも汝は愛せず
何物もまたかつて汝を愛せざるべし。

ああ汝 寂寥の人
悲しき落日の坂を登りて
意志なき断崖を漂泊(さまよ)い行けど
いずこに家郷はあらざるべし。
汝の家郷は有らざるべし!

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。新かな・新漢字に改めました。編者。)

 

 

 

 

 

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2014年11月22日 (土)

篠田一士の「氷島」絶賛論4/私小説的な読みへの批判

(前回からつづく)

 

「漂泊者の歌」に付けた朔太郎の「注解」について篠田一士は、

 

作品のなかだけでは完全に表現しつくせなかった「心の絶叫」を(補足し)
読者の誤読をできるかぎり避けようとする
過敏な神経症によるもの
――と理解しながらも不要なものと断言します。

 

繰り返すことになりますが、

 

作者のノートを読んでその内容なり、よさなりが理解されるような作品に碌なものがあるはずがない
――とここで言い切るのです。

 

そしてその理由を、

 

この「小解」のなかに方向づけされた解釈によって、
あまりにも一方的な読み方が従来行われてきたことをぼくが残念に思うからである。
――とコメントします。

 

 

篠田は「従来の」詩の読み方に異議を唱えているのです。

 

それは篠田の立場の表明であり
その表明はこの論考の中の至るところで行われます。

 

こうして「もう少しくわしくぼくの意見を書きつけると」と前置きして
「作者のノート不要論」が二つの場合にしぼって述べられます。

 

 

ひとつは、
この作品が書かれた当時の詩人の私的な生活環境をここでもう一度思いだして、
ある種のパテチックな感慨をかきたてて、
それに読者のすべての情緒を放出する場合。

 

いわば、私小説的な読み方を行うわけである

 

――という読みの否定です。

 

私小説的な読みを否定するのです。

 

こうした読みを「卑小な文学経験」とみなし
それを強行するには、
あまりにも、この作品(=「漂泊者の歌」)は
複雑な陰影にみちた高貴さをもっていると主張します。

 

私小説的な読みが
作品のもっている複雑な陰影とか高貴さを見落としてしまうのであり
それでは作品(詩)から遠ざかるばかりであるという意見です。

 

 

もう一つは、

 

詩人の私的な伝記的要素を排除して作品と向き合えた場合。

 

そうした場合であっても
その作品の言葉の悲愴調をそのまま受け止めて
そこから詩人の悲愴な内的世界を再構成していくという方法についての否定。

 

ややわかりにくい説明のケースですが
詩人の私生活や伝記的事項にとらわれることなく
詩の内部に入り込んだものの
最後には詩人の内面の再構成に終わって
一つの詩を読んだとするような詩の読み方といってよいでしょうか。

 

この方法を
「氷島」を讃美する批評家のおおよそが行ってきたもので
この「杜撰な手続き」から導きだされるのは
作品の詩的資質の開明というより
詩人をめぐるレゲンダの再生である
――と弾劾するのです。

 

「レゲンダ」は英語「legend」のラテン読みでしょうか。
伝説、言い伝えの意味があり
その再生なのですから
ここでは「神話化」「悪しき伝統の再生産」ほどに受け取ってよいでしょう。

 

 

「漂泊者の歌」の「小解」が不要である理由を述べる篠田は
もはや作品の読み方一般の話に向かい
詩の読みの方法論に入り込みながら
その主張する方法で
この詩の読みに具体的に入っていきます。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

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2014年11月21日 (金)

篠田一士の「氷島」絶賛論3/かがやかしい詩的達成

(前回からつづく)

 

篠田一士がロルカの詩「騎士の歌」を引いたとき
それが朔太郎の望景詩中に現われる土地との類似を見ようとしたものかは
はっきりとしません。

 

「コルドバ」の歴史的意味を孕(はら)んだのと拮抗(きっこう)するような土地の名が
朔太郎の詩に登場するでしょうか。

 

 

しかし仮に「広瀬川」や「大渡橋」が
「コルドバ」が持つ歴史的重みに比肩(ひけん)するものでなくとも
篠田の引用の意図を知ることはできようというものです。

 

篠田は
歴史の重みを比べようとしたのではなく
詩の構造を明らかにしようとしたのでしたから。

 

 

「ノスタルジアについて」は
「Ⅰ」「Ⅱ」「Ⅲ」「Ⅳ」で構成される「氷島」支持論です。

 

「Ⅰ」はのっけに
「氷島」評価の分裂の状況に言及し
肯定派の考え方と否定派の考え方を
その論者の名を挙げて概観します。

 

「氷島」評価の一方を
詩的発展の絶頂と考える見方、
一方は詩的破産を宣告する動きととらえ
たとえば前者に河上徹太郎、寺田透、
後者に三好達治の名を挙げて
この論考のプロローグとしています。

 

 

篠田は
朔太郎のアポロギア(弁明)=「『氷島』の詩語について」を引いて
「月に吠える」で口語自由詩の革命に成功した詩人が
漢文調の文章語を使わざるを得なくなったジレンマに陥りつつも
口語自由詩では「心の絶叫」を歌う緊張力に欠けていて
「氷島」のスタイルをとらざるを得なかったと述べる朔太郎に理解を示そうとしますが……。

 

 

これ(=「『氷島』の詩語について」)を
詩人の詩的破産の自己証明として読むか
率直な告白と受け取って詩人の苦悩を分析する材料とするか、
そのどちらの道も選ばない
――という篠田の立場が明らかにされるのです。

 

篠田は
「氷島」はぼくにとって、近代日本の偉大な詩人の詩的破産を明証する作品ではなくて
外のどの詩人にもゆるされなかった唯一のかがやかしい詩的達成を行った作品である
――と宣言しますが
その理由を説明するところが
この「新進」評論家の新しいところでありました。

 

斬新な主張であったはずでした。

 

 

篠田が鮮明にするのは
このかがやかしい詩的達成(「氷島」)は
詩人の精神というillusoryなものを先験的に仮定しなくても
『氷島』の詩的言語そのものが
ぼくたちの経験に直かに訴えるところのものである
――という立場でした。

 

(※「illusory」は、「イルーザリー」。錯覚・幻想を起こさせる、欺く、惑わすなどの意味。)

 

 

ここに「詩的言語」という言葉が現われます。

 

詩は詩以外のillusoryなものを排除して読もうとする立場といってよいでしょう。

 

 

こうした立場から
篠田は「氷島」の冒頭詩「漂泊者の歌」を読みますから
朔太郎が付した「注解」に疑問を呈するのは必至でした。

 

まず「漂泊者の歌」と「注解」を掲出しておきましょう。

 

 

漂泊者の歌

日は断崖の上に登り
憂いは陸橋の下を低く歩めり。
無限に遠き空の彼方
続ける鉄路の棚の背後(うしろ)に
一つの寂しき影は漂う。

ああ汝 漂泊者!
過去より来りて未来を過ぎ
久遠の郷愁を追い行くもの。
いかなれば蹌爾として
時計の如くに憂い歩むぞ。
石もて蛇を殺すごとく
一つの輪廻を断絶して
意志なき寂寥を踏み切れかし。

ああ 悪魔よりも孤独にして
汝は氷霜の冬に耐えたるかな!
かつて何物をも信ずることなく
汝の信ずるところに憤怒を知れり。
かつて欲情の否定を知らず
汝の欲情するものを弾劾せり。
いかなればまた愁い疲れて
やさしく抱かれ接吻(きす)する者の家に帰らん。
かつて何物をも汝は愛せず
何物もまたかつて汝を愛せざるべし。

ああ汝 寂寥の人
悲しき落日の坂を登りて
意志なき断崖を漂泊(さまよ)い行けど
いずこに家郷はあらざるべし。
汝の家郷は有らざるべし!

 

 

漂泊者の歌(序詩)  断崖に沿うて、陸橋の下を歩み行く人。そは我が永遠の姿。寂しき漂泊者の影なり。卷頭に掲げて序詩となす。

 

青空文庫「氷島 萩原朔太郎」より。新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 

 

この「注解」は無用であるというのが
篠田の主張の要点になります。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

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2014年11月20日 (木)

篠田一士の「氷島」絶賛論2/ガルシア・ロルカのノスタルジア

(前回からつづく)

 

篠田一士がロルカの詩「騎士の歌」を引いて
導き出した「ノスタルジア」という言葉は
朔太郎の詩を読むために呼び出されたものですから
注意深く読み取る必要があります。

 

篠田自身が訳した「騎士の歌」に
目を通しましょう。

 

 

騎士の歌

 

コルドバ、
はるかに、そしてひとりで。

 

黒い小馬、大きなお月様、
そして、ぼくの袋にはオリーブの実。
道を知ってはいるが、
ぼくは決してコルドバにゆけない。

 

野をこえ、風をぬけ、
黒い小馬、あかいお月様。
コルドバの塔から
死神がぼくを待ちうけている。

 

ああ、道はなんと遠いことだろう。
ああ なんと雄々しいぼくの小馬よ。
きっと、コルドバにつくまえに
死神はぼくをとらえるのだ。

 

コルドバ、
はるかに、そしてひとりで。

 

 

この詩に流れる「民謡調と、ノスタルジックな気分」の意味が
篠田の当面のテーマです。

 

その書き出しの2行について

 

第1行の「コルドバ」という地名を表わす言葉は
それだけで完結したイメージを読者に強いるものであり

 

第2行「はるかに、そしてひとりで」という修辞句も
それだけで完結したものとして続くのであり

 

「コルドバ」が単に「はるかに」あるという客観的な位置づけではなく
「コルドバ」という厳として存在する土地に対峙して
はるかな道を行く一人の騎士の姿が現われる。

 

「はるかに、そしてひとりで」という第2行は
騎士の内的な心理風景を簡潔にうたった主観的な詩句だが
それが第1行の「コルドバ」と対峙した場合には
堂々たる高貴さにみちたイメージを読者に与える

 

――と読み取ります。

 

冒頭と末尾に繰り返されるこの2行を
このように読みながら
作品全行には
民謡のルフランのもじりや
センチメンタルな詠嘆調を真似たフレーズが出て来るのは
民謡の素朴な荒々しさや安価な単純さではなく
知性のランビキ(蒸留器)にかけられた繊細な詩的世界が実現していることが指摘され
この詩的世界に流れる情緒こそは「ノスタルジア」であると捉えられます。

 

 

このノスタルジアこそは、
二つの空間を前提とし、
この二つの空間は決して交わることがない。

 

二つの空間の間には限りない虚空が生まれ
その虚空を埋めるために
詩人はあらん限りのイマージュを
空しい花束のように投げ出す

 

黒い小馬
大きなお月様
オリーブの実の入った袋
野原のひろがり
風が吹きわたる
……

 

――と歌うのだが
虚空は埋め尽くされることはない。

 

そこにぽっかり空白は現われて
死神が不吉な顔をのぞかせる。

 

死神はコルドバの塔にいるのではない。
虚空をたえまなく疾駆する騎士の背にとりついている。

 

コルドバはどこにもない。
お前がかつていた土地はどこにもない。

 

お前はどこにも到達しないであろう。
お前はどこからも旅立たなかったのだから。

 

こんなふうに
死神は騎士に語りかけているようである

 

――と読み取ります。

 

 

篠田はこのように読んだ後に
「ノスタルジア」を、

 

かつて存在したものを獲得しようとねがう心ではない。

 

失われたものを自覚することであり
なにもない。

 

失われるものも
獲得するものもないことを意識することである

 

――と定義したところで
朔太郎の歌った「乃木坂倶楽部」の詩行を呼び出すのです。

 

我れは何物をも喪失せず
また一切を失い尽くせり。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2014年11月19日 (水)

篠田一士の「氷島」絶賛論/作品にノートは不要

(前回からつづく)

 

萩原朔太郎は自作詩集の至るところを利用して
「献辞」「謝辞」をはじめ
「前書き」や「あとがき」や
プロローグやエピローグや
「序」や「跋」や
「注釈」や「断り書き」や「自註」
……などの案内(アプローチ)を配置しています。

 

「詩集」の本体である詩に
詩以外の説明文をつけて
詩へのアプローチにしているのです。

 

その形も多彩多様です。

 

 

「月に吠える」にしても
北原白秋の「序」をはじめ
自らやや長文の「序」を付していますし

 

「青猫」には
巻頭に「序」と「凡例」を置き
巻末に長い論文「自由詩のリズムに就て」を配したのですし

 

「純情小曲集」には
室生犀星の「序文」のほかに
「自序」「出版に際して」を巻頭に
巻末には「郷土望景詩の後に」という詩の自註
萩原恭次郎の「跋」

 

――といった具合です。

 

「氷島」「宿命」については
見てきた通りです。

 

 

こうするようになったのは
第1詩集「月に吠える」の詩篇の内容が
風俗壊乱のおそれがあるという理由で
発禁(発行禁止)処分を受けた「事件」に起因するものかと邪推してしまうほどに
作品への誤解を回避する習慣がついたのかもしれません。

 

「宿命」への案内(アプローチ)は
二重三重であり
朔太郎は「蛇足」と記しながらも
これを敢行したのでした。

 

 

これらのアプローチを
言下に否定する論者も現われました。

 

後にラテン・アメリカ文学の紹介で
勇名を馳せることになる篠田一士(はじめ、1927年~1989年)です。
(※篠田は中也批判で大岡昇平と討論したことでも有名です。)

 

 

作品がすぐれたものであればあるほど、それだけに作者のノートを遠ざけたい。

 

作品の詩的言語がぼくたちのまえに顕示する多義的で、アイロニカルな資質がいたずらに制約されるばかりか、ノートに示された詩人自身の解釈がもっとも本質をついたものとはかぎらない。

 

第一、作者のノートを読んでその内容なり、よさなりが理解されるような作品に碌なものがあるはずがない。

 

――と記して
篠田は作家が自身の作品へつけるノート(注解)を真っ向から否定します。

 

 

篠田が書いた「ノスタルジアについて」と題する論考は
昭和35年(1960年)発行の「近代文学鑑賞講座 第15巻・萩原朔太郎」(角川書店)で読めますから
この「氷島」支持論をひも解きながら
「氷島」評価の歴史、是非論の軌跡をたどる幕開けとします。

 

同書は
「氷島」に高評価を与えていない詩人・那珂太郎が編集したもので
その那珂の作品鑑賞・論評をメーンにして
伊藤整の巻頭評論や
室生犀星、三好達治、萩原葉子
――の「近親者」によるエッセイのほか、
河上徹太郎、寺田透、清岡卓行、吉本隆明、篠田一士
――の「氷島」評価論などで構成されています。

 

この全員が「氷島」評価を展開しているものではありません。
しかし、1960年という歴史的時点での
「氷島」是非論の一部を知ることができるものです。

 

 

篠田は当時まだ新進気鋭の評論家といった相貌で
現在なお新鮮さを失っていない「詩的言語論」をひっさげて登場した風で
「氷島」を高く高く評価します。

 

著作者のノート(注解)は不要だと主張する篠田は
では素手で作品に対峙するかというとそうではなく
スペインの詩人ガルシア・ロルカを援用した
コスモポリタンの詩人としての朔太郎詩に照明を当てました。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年11月18日 (火)

様々な「氷島」是非論・序8/「虚無の歌」自註が明かす散文詩数編

(前回からつづく)

 

「散文詩自註」をずっと読んできて
「虚無の歌」に来ると、

 

しかし私は特異な文体を工夫して、不満足ながら多少の韻文性――すくなくとも普通の散文に比して、幾分かの音楽的抑揚のある文章――を書いて見た。それがこの書中の「虚無の歌」「臥床の中で」「海」「墓」「郵便局」「パノラマ館にて」等の数篇である。厳重に言えば、此等の若干の物だけが「散文詩」であり、他は未だ「詩」というべきものでないかも知れない。

 

――とあるのを読んでは
このうちで読まなかった
「臥床の中で」
「海」
「墓」
「パノラマ館にて」を読まずにいられなくなります。

 

(※「臥床の中で」は、全集が底本とした創元社版に収録されていないために青空文庫にも収録されていません。読みたい方は、国会図書館のサービス「近代デジタルライブラリー」へアクセスしてください。)

 

 

49、 海

 

 海を越えて、人々は向うに「ある」ことを信じている。島が、陸が、新世界が。しかしながら海は、一の広茫とした眺めにすぎない。無限に、つかみどころがなく、単調で飽きっぽい景色を見る。

 

 海の印象から、人々は早い疲労を感じてしまう。浪が引き、また寄せてくる反復から、人生の退屈な日課を思い出す。そして日向の砂丘に寝ころびながら、海を見ている心の隅に、ある空漠たる、不満の苛だたしさを感じてくる。

 

 海は、人生の疲労を反映する。希望や、空想や、旅情やが、浪を越えて行くのではなく、空間の無限における地平線の切断から、限りなく単調になり、想像の棲むべき山影を消してしまう。海には空想のひだがなく、見渡す限り、平板で、白昼(まひる)の太陽が及ぶ限り、その「現実」を照らしている。海を見る心は空漠として味気がない。しかしながら物憂き悲哀が、ふだんの浪音のように迫ってくる。

 

 海を越えて、人々は向うにあることを信じている。島が、陸が、新世界が。けれども、ああ! もし海に来て見れば、海は我々の疲労を反映する。過去の長き、厭わしき、無意味な生活の旅の疲れが、一時に漠然と現われてくる。人々は“げっそり”とし、ものうくなり、空虚なさびしい心を感じて、磯草の枯れる砂山の上にくずれてしまう。

 

 人々は熱情から――恋や、旅情や、ローマンスから――しばしば海へあこがれてくる。いかにひろびろとした、自由な明るい印象が、人々の眼をひろくすることぞ! しかしながらただ一瞬。そして夕方の疲労から、にはかに老衰してかえって行く。

 

 海の巨大な平面が、かく人の観念を正誤する。

 

「自註」を読んでみましょう。

 

49、海 海の憂鬱さは、無限に単調に繰返される浪の波動の、目的性のない律動運動を見ることにある。おそらくそれは何億万年の昔から、地球の劫初と共に始まり、不断に休みなく繰返されて居るのであろう。そして他のあらゆる自然現象と共に、目的性のない週期運動を反覆している。それには始もなく終もなく、何の意味もなく目的もない。それからして我々は、不断に生れて不断に死に、何の意味もなく目的もなく、永久に新陳代謝をする有機体の生活を考えるのである。あらゆる地上の生物は、海の律動する浪と同じく、宇宙の方則する因果律によって、盲目的な意志の衝動で動かされてる。人が自ら欲情すると思うこと、意志すると思うことは、主観の果敢ない幻覚にすぎない。有機体の生命本能によって、衝動のままに行為している、細菌や虫ケラ共の物理学的な生活と、我々人間共の理性的な生活とは、少し離れた距離から見れば、蚯蚓(みみず)と脊椎動物との生態に於ける、僅かばかりの相違にすぎない。

 

 すべての生命は、何の目的もなく意味もない、意志の衝動によって盲目的に行為している。
 海の印象が、かくの如く我々に教えるのである。

 

それからして人々は、生きることに疲労を感じ、人生の単調な日課に倦怠して、早く老いたニヒリストになってしまう。だがそれにもかかわらず人々は、尚海の向うに、海を越えて、何かの意味、何かの目的が有ることを信じている。そして多くの詩人たちが、彼等のロマンチックな空想から、無数に美しい海の詩を書き、人生の讃美歌を書いてるのである。

 

 

45、 墓

 

 これは墓である。粛條たる風雨の中で、かなしく黙しながら、孤独に、永遠の土塊が存在している。

 

 何がこの下に、墓の下にあるのだろう。我々はそれを考え得ない。おそらくは深い穴が、がらんどうに掘られている。そうして僅かばかりの物質――人骨や、歯や、瓦や――が、蟾蜍(ひきがえる)と一緒に同棲して居る。そこには何もない。何物の生命も、意識も、名誉も。またその名誉について感じ得るであろう存在もない。

 

 尚おしかしながら我々は、どうしてそんなに悲しく、墓の前を立ち去ることができないだろう。我々はいつでも、死後の「無」について信じている。何物も残りはしない。我々の肉体は解体して、他の物質に変って行く。思想も、神経も、感情も、そしてこの自我の意識する本体すらも、空無の中に消えてしまう。どうして今日の常識が、あの古風な迷信――死後の生活――を信じよう。我々は死後を考え、いつも風のように哄笑するのみ!

 

 しかしながら尚お、どうしてそんなに悲しく、墓の前を立ち去ることができないだろう。我々は不運な芸術家で、あらゆる逆境に忍んで居る。我々は孤独に耐えて、ただ後世にまで残さるべき、死後の名誉を考えている。ただそれのみを考えている。けれどもああ、人が墓場の中に葬られて、どうして自分を意識し得るか。我々の一切は終ってしまう。後世になってみれば、墓場の上に花輪を捧げ、数万の人が自分の名作を讃えるだろう。ああしかし! だれがその時墓場の中で、自分の名誉を意識し得るか?

 

 我々は生きねばならない。死後にも尚お且つ、永遠に墓場の中で、“生きて居なければならない”のだ。

 

 粛條たる風雨の中で、さびしく永遠に黙しながら、無意味の土塊が実在して居る。何がこの下に、墓の下にあるだろう。我々はそれを知らない。これは墓である! 墓である!

 

「自註」は

 

45、 墓  死とは何だろうか? 自我の滅亡である。では自我(エゴ)とは何だろうか。そもそもまた、意識する自我(エゴ)の本体は何だろうか?

 

 デカルトはこれを思惟の実体と言い、カントは認識の主辞だと言い、ベルグソンは記憶の純粹持続だと言い、ショペンハウエルと仏教とは、意志の錯覚によって生ずるところの、無明と煩悩の因縁(いんねん)だと言う。そして尚近代の新しい心理学者は、自我の本体を意識の温覚感点だと言う。諸説々。しかしながら、たとえそれが虚妄の幻覚であるとしても、デカルトの思惟したことは誤ってない。なぜなら「我れが有る」ということほど、主観的に確かな信念はないからである。

 

だがかかる意識の主体が、肉体の亡びてしまった死後に於ても、尚且つ「不死の蛸」のように、宇宙のどこかで生存するかという疑問は、もはや主観の信念で解答されない。おそらく我々は、少しばかりの骨片と化し、瓦や蟾蜍と一所に、墓場の下に棲むであろう。そこにはもはや何物もない。知覚も、感情も、意志も、悟性も、すべての意識が消滅して、土塊と共に、永遠の無に帰するであろう。

 

ああしかし……にもかかわらず、尚且つ人間の妄執は、その蕭條たる墓石の下で、永遠に“生きて居たい”と思うのである。とりわけ不運な芸術家等――後世の名誉と報酬を予想せずには、生きて居られなかったような人々は、死後にもその墓石の下で、眼を見ひらき、永遠に生きて居なければならないのである。どんな高僧知識の説教も、はたまたどんな科学や哲学の実証も、かかる妄執の鬼に取り憑かれた、怨霊の人を調伏することはできないだろう。

 

 

15、 パノラマ館にて

 

 あおげば高い蒼空があり、遠く地平に穹窿は連なっている。見渡す限りの平野のかなた、仄かに遠い山脈の雪が光って、地平に低く夢のような雲が浮んでいる。ああこの自然をながれゆく静かな情緒をかんず。遠く眺望の消えて尽きるところは雲か山か。私の幻想は涙ぐましく、遥かな遥かな風景の涯を追うて夢にさまよう。

 

 聴け、あの悲しげなオルゴルはどこに起るか。忘れた世紀の夢をよび起す、あの古めかしい音楽の音色はどこに。さびしく、かなしく、物あわれに。ああマルセーユ、マルセーユ、マルセーユ……。どこにまた遠く、遠方からの喇叭のように、錆ある朗らかのベースは鳴りわたる。げにかの物倦げなベースは夢を語る。

 

「ああ、ああ、歴史は忘れゆく夢のごとし。時は西暦1815年。所はワータルローの平原。あちらに遠く見える一葦の水はマース河。こなた一円の人家は仏蘭西の村落にございます。史をひもとけば6月18日。仏蘭西の皇帝ナポレオン1世は、この所にて英普連合軍と最後の決戦をいたされました。こなた一帯は仏蘭西軍の砲兵陣地、あれなる小高き丘に立てる馬上の人は、これぞ即ち蓋世の英雄ナポレオン・ボナパルト。その側に立てるはネー將軍、ナポレオン麾下の名将にして、鬼と呼ばれた人でございます。あれなる平野の大軍は英将ウェリントンの一隊。こちらの麦畑に累々と倒れて居ますのは、皆之れ仏蘭西兵の死骸でございます。無惨やあまたの砲車は敵弾に撃ち砕かれ、鮮血あたりの草を染めるありさま。ああ悲風粛々たるかなワータルロー。さすが千古の英雄ナポレオン一世も、この戦いの敗軍によりまして、遠くセントヘレナの孤島に幽囚の身となりました。こちらをご覧なさい。三角帽に白十字の襷をかけ、あれなる間道を突撃する一隊はナポレオンの近衛兵。その側面を射撃せるはイギリスの遊撃隊でございます。あなたに遥か遠く山脈の連なるところ、煙の如く砂塵を蹴立てて来る軍馬の一隊は、これぞ即ち普魯西の援軍にして、ブリツヘル将軍の率いるものでございます。時は西暦1815年、所は仏蘭西の国境ワータルロー。――ああ、ああ、歴史は忘れゆく夢のごとし」

 

 明るい日光の野景の涯を、わびしい砲煙の白くただよう。静かな白日の夢の中で、幻聴の砲聲は空に轟ろく。いずこぞ、いずこぞ、かなしいオルゴルの音の地下にきこゆる。あわれこの古びたパノラマ館! 幼ない日の遠き追憶のパノラマ館! かしこに時劫の昔はただよいいる。ああかの暗い隧路の向うに、天幕(てんと)の青い幕の影に、いつもさびしい光線のただよいいる。

 

「自註」は

 

15、 パノラマ館にて  幼年時代の追懐詩である。明治何年頃か覚えないが、私のごく幼ない頃、上野にパノラマ館があった。今の科学博物館がある近所で、その高い屋根の上には、赤地に白く PANORAMA と書いた旗が、葉桜の陰に翩翻(へんぽん)としていた。私は此所で、南北戦争とワータルローのパノラマを見た。狭く暗く、トンネルのようになってる梯子段を登って行くと、急に明るい広闊とした望楼に出た。不思議なことには、そのパノラマ館の家の中に、戸外で見ると同じような青空が、無限の穹窿となって廣がってるのだ。私は子供の驚異から、確かに魔法の国へ来たと思った。

 

 見渡す限り、現実の真の自然がそこにあった。野もあれば、畑もあるし、森もあれば、農家もあった。そして穹窿の尽きる涯には、一抹模糊たる地平線が浮び、その遠い青空には、夢のような雲が白く日に輝いていた。すべて此等の物は、実には油絵に描かれた景色であった。しかしその館の構造が、光学によって巧みに光線を利用してるので、見る人の錯覚から、不思議に実景としか思われないのである。その上に絵は、特殊のパノラマ的手法によって、透視画法を極度に效果的に利用して描かれていた。ただ望楼のすぐ近い下、観者の眼にごく間近な部分だけは、実物の家屋や樹木を使用していた。だがその実物と絵との“つなぎ”が、いかにしても判別できないように、光学によって巧みに工夫されていた。後にその構造を聞いてから、私は子供の熱心な好奇心で、実物と絵との境界を、どうにかして発見しようとして熱中した。そして遂に、口惜しく絶望するばかりであった。

 

 館全体の構造は、今の国技館などのように図形になって居るので、中心の望楼に立って眺望すれば、四方の全景が一望の下に入るわけである。そこには一人の説明者が居て、画面のあちこちを指さしながら、絶えず抑揚のある声で語っていた。その説明の声に混って、不断にまたオルゴールの音が聴えていた。それはおそらく、館の何所かで鳴らしているのであろう。少しも騒がしくなく、静かな夢みるような音の響で、絶えず子守唄のように流れていた。(その頃は、まだ蓄音機が渡来してなかった。それでこうした音楽の場合、たいてい自鳴機のオルゴールを用いた。)

 

 パノラマ館の印象は、奇妙に物静かなものであった。それはおそらく画面に描かれた風景が、その動体のままの位地で、永久に静止していることから、心象的に感じられるヴイジョンであろう。馬上に戦況を見ている将軍も、銃をそろえて突撃している兵士たちも、その活動の姿勢のままで、岩に刻まれた人のように、永久に静止しているのである。それは環境の印象が、さながら現実を生写しにして、あだかも実の世界にいるような錯覚をあたえることから、不思議に矛盾した奇異の思いを感じさせ、宇宙に太陽が出来ない以前の、劫初の静寂を思わせるのである。特に大砲や火薬の煙が、永久に消え去ることなく、その同じ形のままで、遠い空に夢の如く浮んでいるのは、寂しくもまた悲しい限りの思いであった。その上にもまた、特殊な館の構造から、入口の梯子を昇降する人の足音が、周囲の壁に反響して、遠雷を聴くように出来てるので、あたかも画面の中の大砲が、遠くで鳴ってるように聴えるのである。

 

 だがパノラマ館に入った人が、何人も決して忘られないのは、油絵具で描いた空の青色である。それが現実の世界に穹窿している、現実の青空であることを、初めに人々が錯覚することから、その油絵具のワニスの匂いと、非現実的に美しい青色とが、この世の外の海市のように、阿片の夢に見る空のように、妖しい夢魔の幻覚を呼び起すのである。

 

(青空文庫より。「旧かな・旧漢字」を「新かな・新漢字」に改めたほか、改行・行空きを加えました。漢数字は適宜、洋数字に改め、傍点は“ “で示しました。タイトルの数字は便宜的に付けたもので、原作にはありません。編者。)

 

 

朔太郎のいう散文詩は
朗読してなめらかな、口に乗りやすい
「音感」があるもののようです。

 

 

途中ですが
今回はここまで。

 

 

 

 

 

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2014年11月17日 (月)

様々な「氷島」是非論・序7/手品の種をあかす作家

(前回からつづく)

 

「散文詩自註」は
73篇中の37篇だけに付いています。

 

およそ半分が付いていないのは
それらには作者の注釈を付ける必要がなかったということになります。

 

 

詩篇が終わったところにまとめられてあるので
いきおいぶっ通しで読むことになるのは
「自註」に「前書」があるせいかもしれません。

 

もちろんここで詩集から離れてしまっても構いませんが
(先に1度読んだ)この「前書」の結びに、

 

 文学の作家が、その作品の準備された「覚え書」を公開するのは、奇術師が手品の種を見せるようなものだ。それは或る読者にとって、興味を減殺することになるかも知れないが、或る他の読者にとっては、別の意味で興味を二重にするであろう。「詩の評釈は、それ自身がまた詩であり、詩でなければならぬ。」とノヴァリスが言ってるが、この私の覚え書的自註の中にも、本文とは独立して、それ自身にまた一個の文学的エッセイとなってる者があるかも知れぬ。

 

――などとあり
こうまで書かれては読まないほうがおかしなことになるようで
ついつい読んでしまうことになります。

 

 

ここでは
このブログで取り上げた散文詩への「自註」を読みましょう。

 

読もうとしても
「自註」がないこともあるわけです。

 

 

14、 荒寥たる地方での会話  現代の日本は、正に「荒寥たる地方」である。古き伝統の文化は廃って、新しき事物はまだ興らない。我等の時代の日本人は、見る物もなく、聞く物もなく、色もなく匂いもなく、趣味もなく風情もないところの、満目粛條たる文化の廃跡に座しているのである。だがしかし、我等の時代のインテリゼンスは、その粛條たる廃跡の中に、過渡期のユニークな文化を眺め、津々として尽きない興味をおぼえるのである。洋服を着て畳に座り、アパートに住んで味噌汁を啜る僕等の姿は、明治初年の画家が描いた文明開化の図と同じく、後世の人々に永くエキゾチックの奇観をあたえ、清趣深く珍重されるにちがいないのだ。

 

23、 寂寥の川辺  支那の太公望の故事による。

 

25、 田舍の時計  田舍の憂鬱は、無限の単調ということである。或る露西亜の作家は、農夫の生活を蟻に譬えた。単に勤勉だという意味ではない。数千年、もしくは数万年もの長い間、彼等の先祖が暮したように、その子孫もその子孫も、そのまた孫の子孫たちも、永遠に同じ生活を反覆してるということなのである。――田舎に於ては、すべての家々の時計が動いて居ない。

 

31、 死なない蛸  生とは何ぞ。死とは何ぞ。肉体を離れて、死後にも尚存在する意識があるだろうか。私はかかる哲学を知らない。ただ私が知ってることは、人間の執念深い意志のイデアが、死後にも尚死にたくなく、永久に生きていたいという願望から、多くの精霊(スピリット)を創造したということである。それらの精霊(スピリット)は、目に見えない霊の世界で、人間のように飲食し、人間のように思想して生活している。彼等の名は、餓鬼、天人、妖精等と呼ばれ、我等の身辺に近く住んで、宇宙の至る所に瀰漫(びまん)している。水族館の侘しい光線がさす槽の中で、不死の蛸が永遠に生きてるという幻想は、必ずしも詩人のイマジスチックな主観ではないだろう。

 

47、 郵便局  ボードレールの散文詩「港」に対応する為、私はこの一篇を作った。だが私は、その世界的に有名な詩人の傑作詩と、価値を張り合おうというわけではない。

 

59、 時計を見る狂人  詩人たちは、絶えず何事かの仕事をしなければならないという、心の衝動に駆り立てられてる。そのくせ彼等は、絶えず“ごろごろ”と怠けて居り、塵の積った原稿紙を机上にして、一生の大半を無為に寝そべっているのである。しかもその心の中では、不断に時計の秒針を眺めながら、できない仕事への焦心を続けている。

 

71、 虫  散文詩というよりは、むしろコントという如き文学種目に入るものだろう。此所で自分が書いてることは、或る神経衰弱症にかかった詩人の、変態心理の描写である。「鉄筋コンクリート」と「虫」との間には、勿論何の論理的関係もなく、何の思想的な寓意もない。これが雜誌に発表された時、二三の熱心の読者から、その点での質問を受けて返事に窮した。しかし精神分析学的に探究したら、勿論この両語の間に、何かの隠れた心理的関連があるにちがいない。なぜならその詩人というものは、著者の私のことであり、実際に主観上で、私がかつて経験したことを書いたのだから。

 

 しかし多くの詩人たちは、自己の詩作の経験上で、だれも皆こんなことは知ってる筈だ。近代の詩人たちは、言葉を意味によって連想しないで、イメージによって飛躍させる。たとえば或る詩人は、「馬」という言葉から「港」をイメージし、「a」という言葉から「蝿」を表象し、「象」という言葉から「墓地」を表現させてる。こうしたイメージの連絡は、極めて飛躍的であり、突拍子もない荒唐のものに思われるだろうが、作者の主観的の心理の中では、その二つの言葉をシノニムに結ぶところの、歴とした表象範則ができてるのである。しかもその範則は、作者自身にも知られてない。なぜならそれは、夢の現象と同じく、作者の潜在意識にひそむ経験の再現であり、精神分析学だけが、科学的方法によって抽出し得るものであるから。

 

 それ故詩人たちは、本来皆、自ら意識せざる精神分析学者なのである。しかしそれを特に意識して、自家の芸術や詩の特色としたものが、西洋の所謂シュル・レアリズム(超現実派)である。シュル・レアリズムの詩人や画家たちは、意識の表皮に浮んだ言葉や心像やを、意識の潜在下にある経験と結びつけることによって、一つの芸術的イメージを構成することに苦心しているが、単に彼等ばかりでなく、一般に近代の詩人たちは、だれも皆こうした「言葉の迷い児さがし」に苦労して居り、その点での経験を充分に持ってる筈である。そこで私のこのコントは、こうした詩人たちの創作に於ける苦心を、心理学的に解剖したものとも見られるだろう。

 

72、 虚無の歌  エビス橋のビアホールは、省線の恵比寿駅に近く、工場区街にあり、常客の大部分が職工や労働者であるため、昼間はいつも閑寂に“がらん”としているのである。一頃(ひところ)私はその近所に居たので、毎日のように通って麦酒を飲んだり、人気のない広間の中で、ぼんやり物を考えながら、秋の日の午後を暮していた。

 

 此等の詩篇で、私は相当に言葉の音律節奏に留意した。ボードレールの言う「韻律を踏まないで、しかも音楽的節奏を感銘づける文学」に、多少或る程度迄近づけようと努力した。しかし抒情詩とちがって、理智的な思想要素が多い散文詩では、本来そうした哲学性に欠乏している日本語が、殆んど本質的に不適当である。日本語で少しく思想的な詩を書こうとすると、必然的に無味乾燥な観念論文になってしまう。でなければ全く音楽節奏のない印象散文になってしまう。日本語を用いる限り、ボードレールの芸術的散文詩は真似ができない。しかし私は特異な文体を工夫して、不満足ながら多少の韻文性――すくなくとも普通の散文に比して、幾分かの音楽的抑揚のある文章――を書いて見た。それがこの書中の「虚無の歌」「臥床の中で」「海」「墓」「郵便局」「パノラマ館にて」等の数篇である。厳重に言えば、此等の若干の物だけが「散文詩」であり、他は未だ「詩」というべきものでないかも知れない。

 

73、 物みなは歳日と共に亡び行く  この文中にある郷土の景物は、すべて私の旧作「郷土望景詩」から取材したものである。郷土望景詩は、私の第3詩集「純情小曲集」中に編入されてるが、この書の後半、抒情詩篇中にもその中の数篇を抜選してある。

 

(青空文庫より。「旧かな・旧漢字」を「新かな・新漢字」に改めたほか、改行・行空きを加えました。傍点は“ “で示しました。編者。)

 

 

途中ですが
今回はここまで。

 

 

 

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2014年11月16日 (日)

様々な「氷島」是非論・序6/「宿命」散文詩が「氷」からはじまる

(前回からつづく)

 

詩集「宿命」とはこのようなものであり
「散文詩」とはこのようなものであるということが
ざっとつかめればOKということで
散文詩篇のいくつかを拾ってみました。

 

「自註」に飛びつく前に
感想を若干記しておきましょう。

 

初めて一つの詩集に向かうとき
それは純粋に初めてというものでもなく
パラパラとめくって
ある詩には全行に目を通したり
ある詩には目もくれないでスルーしたりして
次第に興味が高まっていく時間を費やす場合が多いので
馴染みのある詩も幾つかあるような状態で
そうした助走の後で改まって読むというようなことになります。

 

 

中には
純粋に初めて読む詩もあります。

 

冒頭詩「1、ああ固い氷を破って」は
純粋に初めて読んだ詩でした。

 

ここに「氷」が現われることを初めて知るのです。

 

1、 ああ固い氷を破って
 ああ固い氷を破って突進する、一つの寂しい帆船よ。あの高い空にひるがえる、浪々の固体した印象から、その隔離した地方の物侘しい冬の光線から、あわれに煤ぼけて見える小さな黒い猟鯨船よ。孤独な環境の海に漂泊する船の羅針が、一つの鋭どい“意志の尖角”が、ああ如何に固い冬の氷を突き破って驀進することよ。

 

 

まさに「氷島」の流れの詩想(情操、情趣)がここにあります。
「漂泊」は「氷島」の冒頭詩の主題でした。

 

 

「8、陸橋を渡る」も同じです。
「望景詩」の流れです。

 

「14、荒寥たる地方での会話」にも
「20、極光地方から」にも
漂泊者が存在します。

 

 

「12、宿酔の朝に」や
「23、寂寥の川辺」や
「25、田舎の時計」や
「31、死なない蛸」には
立ち止まり憂え思索する者がいますが
どこかしらその眼差しには
遠いところから見下ろしているような巨大で遠大な明確さがあります。

 

 

「12、宿酔の朝に」と
「25、田舎の時計」と
「47、郵便局」とは
中也の詩のタイトル(モチーフ)にもありますから
ここで目を通しておいたものです。

 

これについては
いつか触れることがあるでしょう。

 

 

「40、家」は
1行詩ながら
「宿命」中にこれを配置した理由を考える材料でありそうです。

 

朔太郎にはこの「詩」を配置した
捨てがたい理由があったのでしょう。

 

 

「57、自殺の恐ろしさ」
「59、時計を見る狂人」
「62、詩人の死ぬや悲し」
――をひとくくりにしてよいものか。

 

いずれも詩人のテーマとするところです。

 

芥川の自死(昭和2年)は
これらを書いているとき
遠いことだったのでしょうか。

 

「時計を見る狂人」には
「虫」がコントであるのと同じような面白みがありますが
この狂人は詩人そのもののことです。

 

 

「60、群集の中に居て」は
ボードレールをエピグラフにしていますが
内容はエドガー・アラン・ポーそのままと言ってよいほど
「群集の人Man in the cloud」ですね。

 

 

73篇中の14篇を選んで読んだだけですから
これは全容を見たこととにはなりません。

 

何かが決定的に欠けているかもしれませんが
全篇を読んだとしても
同じことかもしれませんから
これで「宿命」の散文詩への読後感想ということにしておきます。

 

「自註」を読み合わせると
詩篇への読みの誤差が歴然とするかもしれませんし
その逆もあるかもしれません。

 

そのような楽しみも
またあるということです。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

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2014年11月15日 (土)

様々な「氷島」是非論・序5/読まずにいられない「宿命」の注解

(前回からつづく)

 

詩集「宿命」の中の散文詩の
残り半分を読みます。

 

 

40、 家

 

 人が家の中に住んでるのは、地上の悲しい風景である。

 

 

47、 郵便局

 

 郵便局というものは、港や停車場やと同じく、人生の遠い旅情を思わすところの、悲しい“のすたるじや”の存在である。局員はあわただしげにスタンプを捺し、人々は窓口に群がっている。わけても貧しい女工の群が、日給の貯金通帳を手にしながら、窓口に列をつくって押し合っている。或る人々は為替を組み入れ、或る人々は遠国への、かなしい電報を打とうとしている。

 

 いつも急がしく、あわただしく、群衆によってもまれている、不思議な物悲しい郵便局よ。私はそこに来て手紙を書き、そこに来て人生の郷愁を見るのが好きだ。田舍の粗野な老婦が居て、側の人にたのみ、手紙の代筆を懇願している。彼女の貧しい村の郷里で、孤独に暮らしている娘の許へ、秋の袷や襦袢やを、小包で送ったという通知である。

 

 郵便局! 私はその郷愁を見るのが好きだ。生活のさまざまな悲哀を抱きながら、そこの薄暗い壁の隅で、故郷への手紙を書いてる若い女よ! 鉛筆の心も折れ、文字も涙によごれて乱れている。何をこの人生から、若い娘たちが苦しむだろう。我々もまた君等と同じく、絶望のすり切れた靴をはいて、生活(ライフ)の港々を漂泊している。永遠に、永遠に、我々の家なき魂は凍えているの
だ。

 

 郵便局というものは、港や停車場と同じように、人生の遠い旅情を思わすところの、魂の永遠の“のすたるじや”だ。

 

 

57、 自殺の恐ろしさ

 

 自殺そのものは恐ろしくない。自殺に就いて考えるのは、死の刹那の苦痛でなくして、死の決行された瞬時に於ける、取り返しのつかない悔恨である。今、高層建築の5階の窓から、自分は正に飛び下りようと用意して居る。遺書も既に書き、一切の準備は終った。さあ! 目を閉じて、飛べ! そして自分は飛びおりた。最後の足が、遂に窓を離れて、身体が空中に投げ出された。

 

 だがその時、足が窓から離れた一瞬時、不意に別の思想が浮び、電光のように閃めいた。その時始めて、自分は“はっきり”と生活の意義を知ったのである。何たる愚事ぞ。決して、決して、自分は死を選ぶべきでなかった。世界は明るく、前途は希望に輝やいて居る。断じて自分は死にたくない。死にたくない。だがしかし、足は既に窓から離れ、身体は一直線に落下して居る。地下には固い鋪石。白いコンクリート。血に塗れた頭蓋骨! 避けられない決定!

 

 この幻想の恐ろしさから、私はいつも白布のように蒼ざめてしまう。何物も、何物も、決してこれより恐ろしい空想はない。しかもこんな事実が、実際に有り得ないということは無いだろう。既に死んでしまった自殺者等が、再度もし生きて口を利いたら、おそらくこの実験を語るであろう。彼等はすべて、墓場の中で悔恨している幽霊である。百度も考えて恐ろしく、私は夢の中でさえ戦慄する。

 

 

59、 時計を見る狂人

 

 或る瘋癲病院の部屋の中で、終日椅子の上に座り、為すこともなく、毎日時計の指針を凝視して居る男が居た。おそらく世界中で、最も退屈な、「時」を持て余して居る人間が此処に居る、と私は思った。ところが反対であり、院長は次のように話してくれた。この不幸な人は、人生を不断の活動と考えて居るのです。それで一瞬の生も無駄にせず、貴重な時間を浪費すまいと考え、ああして毎日、時計をみつめて居るのです。何か話しかけてご覧なさい。屹度腹立たしげに呶鳴るでしょう。「黙れ! いま貴重な一秒時が過ぎ去って行く。Time is life! Time is life!」と。

 

60、 群集の中に居て
      群集は孤独者の家郷である。 ボードレール

 

 都会生活の自由さは、人と人との間に、何の煩瑣な交渉もなく、その上にまた人々が、都会を背景にするところの、楽しい群集を形づくって居ることである。

 

 昼頃になって、私は町のレストラントに座って居た。店は賑やかに混雜して、どの卓にも客が溢れて居た。若い夫婦づれや、学生の一組や、子供をつれた母親やが、あちこちの卓に座って、彼等自身の家庭のことや、生活のことやを話して居た。それらの話は、他の人々と関係がなく、大勢の中に混って、彼等だけの仕切られた会話であった。そして他の人々は、同じ卓に向き合って座りながら、隣人の会話とは関係なく、夫々また自分等だけの世界に属する、勝手な仕切られた話をしちゃべって居た。

 

 この都会の風景は、いつも無限に私の心を楽しませる。そこでは人々が、他人の領域と交渉なく、しかもまた各人が全体としての雰囲気(群集の雰囲気)を構成して居る。何という無関心な、伸々とした、楽しい忘却をもった雰囲気だろう。

 

 黄昏(たそがれ)になって、私は公園の椅子に座って居た。幾組もの若い男女が、互に腕を組み合せながら、私の座ってる前を通って行った。どの組の恋人たちも、嬉しく楽しそうに話をして居た。そして互にまた、他の組の恋人たちを眺め合い、批判し合い、それの美しい伴奏から、自分等の室にひろがるところの、恋の楽しい音楽を二重にした。

 

 一組の恋人が、ふと通りかかって、私の椅子の側に腰をおろした。二人は熱心に、笑いながら、羞かみながら嬉しそうに囁いて居た。それから立ち上り、手をつないで行ってしまった。始めから彼等は、私の方を見向きもせず、私の存在さえも、全く認識しないようであった。

 

 都会生活とは、一つの共同椅子の上で、全く別々の人間が別々のことを考えながら、互に何の交渉もなく、一つの同じ空を見ている生活――群集としての生活――なのである。その同じ都会の空は、あの宿なしのルンペンや、無職者や、何処へ行くというあてもない人間やが、てんでに自分のことを考えながら、ぼんやり並んで座ってる、浅草公園のベンチの上にもひろがって居て、灯ともし頃の都会の情趣を、無限に侘しげに見せるのである。

 

 げに都会の生活の自由さは、群集の中に居る自由さである。群集は一人一人の単位であって、しかも全体としての綜合した意志をもってる。だれも私の生活に交渉せず、私の自由を束縛しない。しかも全体の動く意志の中で、私がまた物を考え、為し、味い、人々と共に楽しんで居る。心のいたく疲れた人、重い悩みに苦しむ人、わけても孤独を寂しむ人、孤独を愛する人によって、群集こそは心の家郷、愛と慰安の住家である。ボードレールと共に、私もまた一つのさびしい歌を唄おう。――都会は私の恋人。群集は私の家郷。ああ何処までも、何処までも、都会の空を徘徊しながら、群集と共に歩いて行こう。浪の彼方は地平に消える、群集の中を流れて行こう。

 

 

62、 詩人の死ぬや悲し

 

 ある日の芥川龍之介が、救いのない絶望に沈みながら、死の暗黒と生の無意義について私に語った。それは語るのでなく、むしろ訴えているのであった。
「でも君は、後世に残るべき著作を書いてる。その上にも高い名声がある。」

 

 ふと、彼を慰めるつもりで言った私の言葉が、不幸な友を逆に刺戟し、真剣になって怒らせてしまった。あの小心で、羞かみやで、いつもストイックに感情を隱す男が、その時顏色を変えて烈しく言った。
「著作? 名声? そんなものが何になる!」

 

 独逸のある瘋癲病院で、妹に看護されながら暮して居た、晩年の寂しいニイチェが、或る日ふと空を見ながら、狂気の頭脳に追憶をたぐって言った。――おれも昔は、少しばかりの善い本を書いた! と。

 

 あの傲岸不遜のニイチェ。自ら称して「人類史以来の天才」と傲語したニイチェが、これはまた何と悲しく、痛々しさの眼に沁みる言葉であろう。側に泣きぬれた妹が、兄を慰める為に言ったであろう言葉は、おそらく私が、前に自殺した友に語った言葉であったろう。そしてニイチェの答えた言葉が、同じようにまた、空洞(うつろ)な悲しいものであったろう。
「そんなものが何になる! そんなものが何になる!」

 

 ところが一方の世界には、彼等と人種のちがった人が住んでる。トラファルガルの海戦で重傷を負ったネルソンが、軍医や部下の幕僚たちに囲まれながら、死にのぞんで言った言葉は有名である。「余は祖国に対する義務を果たした。」と。ビスマルクや、ヒンデンブルグや、伊藤博文や、東郷大将やの人々が、おそらくはまた死の床で、静かに過去を懷想しながら、自分の心に向って言ったであろう。
「余は、余の為すべきすべてを尽した。」と。そして安らかに微笑しながら、心に満足して死んで行った。

 

 それ故に諺は言う。鳥の死ぬや悲し、人の死ぬや善しと。だが我々の側の地球に於ては、それが逆に韻律され、アクセントの強い言葉で、もっと悩み深く言い換えられる。
 ――人の死ぬや善し。詩人の死ぬや悲し!

 

(青空文庫より。読みやすくするために、「旧かな・旧漢字」を「新かな・新漢字」に変え、改行・行空きを加えてあります。傍点は“ ”で示しました。編者。)

 

 

以上が「宿命」の散文詩というものです。

 

アトランダムに拾ったのですが
期せずして(あるいは無意識のうちに)「氷島」の流れに沿う詩篇ばかりになったかもしれません。

 

「氷島」とのつながりを探る眼差しが
「宿命」を読むときに備わってくるのかもしれません。

 

(※「宿命」の散文詩の全篇を読みたい方は「青空文庫」へ是非アクセスしてください。)

 

 

そして
末尾の71、72、73と続いて
「宿命」は終わりますが……。

 

 

終わったところで「附録」があり
そこに「散文詩自註」があるので
どうしてもそれを読まないでは終わらないのです。

 

 

途中ですが
今回はここまで。

 

 

 

 

 

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2014年11月14日 (金)

様々な「氷島」是非論・序4/三好・朔太郎論争を中也は見たか?

(前回からつづく)

 

「氷島」をめぐる萩原朔太郎と三好達治の論戦を
中也が知らないわけもなく
無関心でいられるわけもなかったはずですが
中也がこれに直接的に言及した形跡はありません。

 

直接の発言・記述がなくとも
詩論・詩人論・芸術論の類は果敢に書き発表もしていますし
「四季」への作品の発表を継続し
朔太郎をはじめとする同人との接触・交流も続けていたのですから
それらの中に「気配」くらいは読み取ることはできるというものでしょう。

 

 

早い話が有名な「芸術論覚え書」(1934~1935年制作・推定)一つをとっても
時流や現実の詩壇や文学の状況から孤立して書かれたものではないはずです。

 

朔太郎の「無からの抗争」への広告文を書き
朔太郎から寄贈本を送呈され
「四季」バックナンバーをめくって
「氷島」への三好と朔太郎のやり取りには
自然に目を通したと想像することができます。

 

 

昭和9年(1934年)11月には
「詩精神」主催の座談会に出席し
9人の詩人と果敢な討論に打って出ています。

 

このときの会の様子や発言は
「詩人座談会」として同誌に公表され
「新編中原中也全集・第4巻」にも収録され
現在でも読めることになっていますが
ここではまだ「氷島」論争を振り返るところの段階です。

 

 

「虫」は詩集「宿命」の構造(システム)を
期せずしてか意識してか見せたことになり
詩集へのアプローチをスムースにする役割をも果していたのでしたから
あらためてほかの散文詩への関心をも誘発することになります。

 

「宿命」をもう少し読んでおきたくなります。

 

福永武彦の「日本の詩歌 萩原朔太郎」からも
三好達治の「純情小曲集、氷島、散文詩他」からも離れて
順序に沿って「宿命」を拾い読みしておきましょう。

 

タイトルの前にある数字は
全73篇を順序に沿って便宜的につけたものです。

 

 

1、 ああ固い氷を破って

 

 ああ固い氷を破って突進する、一つの寂しい帆船よ。あの高い空にひるがえる、浪々の固体した印象から、その隔離した地方の物侘しい冬の光線から、あわれに煤ぼけて見える小さな黒い猟鯨船よ。孤独な環境の海に漂泊する船の羅針が、一つの鋭どい“意志の尖角”が、ああ如何に固い冬の氷を突き破って驀進することよ。

 

 

8、 陸橋を渡る

 

 憂鬱に沈みながら、ひとり寂しく陸橋を渡って行く。かつて何物にさえ妥協せざる、何物にさえ安易せざる、この一つの感情をどこへ行こうか。落日は地平に低く、環境は怒りに燃えてる。一切を憎悪し、粉砕し、叛逆し、嘲笑し、斬奸し、敵愾する、この一個の黒い影をマントにつつんで、ひとり寂しく陸橋を渡って行く。かの高い架空の橋を越えて、はるかの幻燈の市街にまで。

 

 

12、 宿酔の朝に

 

 泥酔の翌朝に於けるしらじらしい悔恨は、病んで舌をたれた犬のようで、魂の最も痛々しいところに噛みついてくる。夜に於ての恥かしいこと、醜態を極めたこと、みさげはてたること、野卑と愚劣との外の何物でもないような記憶の再現は、砒毒のような激烈さで骨の髓まで紫色に変色する。げに宿酔の朝に於ては、どんな酒にも嘔吐を催すばかりである。ふたたびもはや、我等は酒場を訪わないであろう。我等の生涯に於て、あれらの忌々しい悔恨を繰返さないように、断じて私自身を警戒するであろう。と彼等は腹立たしく決心する。けれどもその日の夕刻がきて、薄暮のわびしい光線がちらばう頃には、ある故しらぬ孤独の寂しさが、彼等を場末の巷に徘徊させ、また新しい別の酒場の中に、醉った幸福を眺めさせる。思え、そこでの電灯がどんなに明るく、そこでの世界がどんなに輝やいて見えることぞ。そこでこそ彼は真に生甲斐のある、ただそればかりが真理であるところの、唯一の新しい生活を知ったと感ずるであろう。しかもまたその翌朝に於ての悔恨が、いかに苦々しく腹立たしいものであるかを忘れて。げにかくの如きは、あの“幸福な”飲んだくれの生活では“ない”。それこそは我等「詩人」の“不幸な”生活である。ああ泥酔と悔恨と、悔恨と泥酔と。いかに悩ましき人生の雨景を蹌踉することよ。

 

 

14、 荒寥たる地方での会話

 

「くずれた廃墟の廊柱と、そして一望の禿山の外、ここには何も見るべきものがない。この荒寥たる地方の景趣には耐えがたい。」「さらば早くここを立ち去ろう。この寒空は健康に良ろしくない。」「まて! 没風流の男よ。君はこの情趣を解さないか、この廃墟を吹きわたる粛條たる風の音を。旧き景物はすべて頽れ、新しき市街は未だ興されない。いっさいの信仰は廃って、瘴煙は地に低く立ち迷っている。ああここでの情景は、すべて私の心を傷ましめる。そして“それ故に”、げに私はこの情景を立ち去るにしのびない。」

 

 

20、 極光地方から

 

 海豹(あざらし)のように、極光の見える氷の上で、ぼんやりと「自分を忘れて」座っていたい。そこに時劫がすぎ去って行く。昼夜のない極光地方の、いつも暮れ方のような光線が、鈍く悲しげに幽滅するところ。ああその遠い北極圈の氷の上で、ぼんやりと海豹のように坐って居たい。永遠に、永遠に、自分を忘れて、思惟のほの暗い海に浮ぶ、一つの侘しい幻象を眺めて居たいのです。

 

 

23、 寂寥の川辺

 

 古駅の、柳のある川の岸で、かれは何を釣ろうとするのか。やがて生活の薄暮がくるまで、そんなにも長い間、針のない釣竿で……。「否」とその支那人が答えた。「魚の美しく走るを眺めよ、水の静かに行くを眺めよ。いかに君はこの静謐を好まないか。この風景の聡明な情趣を。むしろ私は、終日“釣り得ない”ことを希望している。されば日当り好い寂寥の岸辺に座して、私のどんな環境をも乱すなかれ。」

 

 

25、 田舍の時計

 

 田舍に於ては、すべての人々が先祖と共に生活している。老人も、若者も、家婦も、子供も、すべての家族が同じ藁屋根の下に居て、祖先の煤黒い位牌を飾った、古びた仏壇の前で臥起している。

 

 そうした農家の裏山には、小高い冬枯れの墓丘があって、彼等の家族の長い歴史が、あまたの白骨と共に眠っている。やがて生きている家族たちも、またその同じ墓地に葬られ、昔の曾祖母や祖父と共に、しずかな単調な夢を見るであろう。

 

 田舍に於ては、郷党のすべてが縁者であり、系図の由緒ある血をひいている。道に逢う人も、田畑に見る人も、隣家に住む老人夫妻も、遠きまたは近き血統で、互にすべての村人が縁辺する親戚であり、昔からつながる叔父や伯母の一族である。そこではだれもが家族であって、歴史の古き、伝統する、因襲のつながる「家」の中で、郷党のあらゆる男女が、祖先の幽霊と共に生活している。

 

 田舎に於ては、すべての家々の時計が動いてゐない。そこでは古びた柱時計が、遠い過去の暦の中で、先祖の幽霊が生きていた時の、同じ昔の指盤を指している。見よ! そこには昔のままの村社があり、昔のままの白壁があり、昔のままの自然がある。そして遠い曾祖母の過去に於て、かれらの先祖が縁組をした如く、今も同じような縁組があり、のどかな村落の籬(まがき)の中では、昔のように、牛や鷄の声がしている。

 

 げに田舍に於ては、自然と共に悠々として実在している、ただ一の永遠な「時間」がある。そこには過去もなく、現在もなく、未来もない。あらゆるすべての生命が、同じ家族の血すじであって、冬のさびしい墓地の丘で、かれらの不滅の“先祖と共に”、一つの“霊魂と共に”生活している。昼も、夜も、昔も、今も、その同じ農夫の生活が、無限に単調につづいている。そこの環境には変化がない。すべての先祖のあったように、先祖の持った農具をもち、先祖の耕した仕方でもって、不変に同じく、同じ時間を続けていく。変化することは破滅であり、田舍の生活の没落である。なぜならば時間が断絶して、永遠に生きる実在から、それの鎖が切れてしまう。彼等は先祖のそばに居り、必死に土地を離れることを欲しない。なぜならば土地を離れて、家郷とすべき住家はないから。そこには拡がりもなく、触りもなく、無限に実在している空間がある。

 

 荒寥とした自然の中で、田舍の人生は孤立している。婚姻も、出産も、葬式も、すべてが部落の壁の中で、仕切られた時空の中で行われている。村落は悲しげに寄り合い、粛條たる山の麓で、人間の孤独にふるえている。そして真暗な夜の空で、もろこしの葉がざわざわと風に鳴る時、農家の薄暗い背戸の厩に、かすかに蝋燭の光がもれている。馬もまた、そこの暗闇にうずくまって、“先祖と共に”眠っているのだ。永遠に、永遠に、過去の遠い昔から居た如くに。

 

 

31、 死なない蛸

 

 或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢えた蛸が飼われていた。地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂っていた。

 

 だれも人々は、その薄暗い水槽を忘れていた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思われていた。そして腐った海水だけが、埃っぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまっていた。

 

 けれども動物は死ななかった。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覚した時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢饑を忍ばねばならなかった。どこにも餌食がなく、食物が全く尽きてしまった時、彼は自分の足をもいで食った。まずその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすっかりおしまいになった時、今度は胴を裏がえして、内臓の一部を食いはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順々に。

 

 かくして蛸は、彼の身体全体を食いつくしてしまった。外皮から、脳髄から、胃袋から。どこもかしこも、すべて残る隈なく。完全に。

 

 或る朝、ふと番人がそこに来た時、水槽の中は空っぽになっていた。曇った埃っぽい硝子の中で、藍色の透き通った潮水(しほみず)と、なよなよした海草とが動いていた。そしてどこの岩の隅々にも、もはや生物の姿は見えなかった。蛸は実際に、すっかり消滅してしまったのである。

 

 けれども蛸は死ななかった。彼が消えてしまった後ですらも、尚お且つ永遠に“そこに”生きていた。古ぼけた、空っぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――或る物すごい欠乏と不満をもった、人の目に見えない動物が生きて居た。

 

(青空文庫より。読みやすくするために、「旧かな・旧漢字」を「新かな・新漢字」に変え、改行・行空きを加えてあります。傍点は“ ”で示しました。編者。)

 

 

途中ですが
今回はここまで。

 

 

 

 

 

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2014年11月12日 (水)

様々な「氷島」是非論・序3/中也が朔太郎を読んだ可能性

(前回からつづく)

 

「虫」という散文詩は
コントと朔太郎自らが案内するように「面白い」内容なので
ここで「物みなは歳日と共に亡び行く」と「虚無の歌」とともに読んでみましたが
「面白い」ことの魅力にひかれて
ほかの散文詩やアフォリズムへの関心へとグイグイ誘導されるところに
朔太郎の戦術があるようでもあるし
「面白い」ばかりでなく
「宿命」という詩集の構造を知る上でよい材料にもなる
――ということでもう少し立ち止まってみます。

 

 

「それの意味なんだ。僕の聞くのはね。つまり、その……。その言葉の意味……表象……イメージ……。つまりその、言語のメタフィジックな暗号。寓意。その秘密。……解るね。つまりその、隱されたパズル。本当の意味なのだ。本当の意味なのだ。」

 

 

「虫」に登場する「僕」が知りたいのは
言葉の意味でしたが
その言葉「テッキンコン」「クリート」という語呂(音感)に
僕は眩惑(げんわく)され、あるいは魅惑され
見つからない答えに悩まされた揚句に
ある日ある時「何か」を悟ります。

 

詩は答えを明示しませんが、それは

 

或る人々にとって、牡蠣の表象が女の肉体であると同じように、私自身にすっかり解りきったことなのである。

 

――と「牡蠣(かき)」が例示されるだけです。

 

 

ある言葉の持つ「音」と「意味」の果てしのない距離(無限)を
縮めようとする空しさの「コント」であるような
この「虫」という詩は
意味論の格好の材料でもありそうですが
そんな風に考えはじめたところで
朔太郎の手品に乗せられているようですから面白いのです。

 

 

「宿命」の散文詩篇には
まずショーペンハウエルから引いたエピグラフが置かれてあり
次に「序に代えて」があり
散文詩自註があり
散文詩自註に前書があるという構造(ヒエラルキー)の中に
「虫」という散文詩篇があり
「虫」は散文詩というよりはコントであるという注釈があり
そのコントの中で追求される言語論――。

 

「虫」を読む面白さは
コントの面白さを超えていきます。

 

 

さてさてさて、
「虫」や「物みなは歳日と共に亡び行く」や「虚無の歌」が作られた同じ時代に
中原中也も呼吸していたというところに
これらの詩を読むモチベーションがあります。

 

モチベーションが高まるわけがあります。

 

「宿命」の発行は昭和14年(1939年)で
中也はすでに他界していますが
「虫」などが
中也が生存する時代の中で制作されていたことは確かですから。

 

同時代の作品であるということです。

 

 

そもそも「氷島」の発行が昭和9年(1934年)であり
この年に中原中也は「山羊の歌」を刊行し
いよいよ詩人としての歩みに弾みをつけ
「四季」や「歴程」や「文学界」や……へと
詩壇、文壇の中へ中へと活動の場を広げていった年でした。

 

中也は朔太郎と接触することもあったほどの同時代詩人でしたから
朔太郎の詩や散文や評論などに
中也が無関心であるはずもないという眼差しは
朔太郎の作品に向かわない理由がありません。

 

 

朔太郎の散文詩は
中也がきっと読んだに違いないと想像できるものが少なくなく
幾つかを挙げることができますし
詩論、詩人論、日本語論などの評論(散文)にも
中也が無関心でいられない状況になっていた
――といえるほどに
日々中也のテーマになりつつありました。

 

中也が書いた詩人論、詩論、芸術論に
朔太郎の影を見る研究にはなかなかめぐりあいませんが
「芸術論覚え書」一つをとっても
中也は時の詩壇で発表される言説とまったく無関係な地平で書いていたはずもありませんから
そのうちに
それらのことに触れる機会を作りましょう。(ということにしておきましょう)。

 

 

ちなみに
朔太郎の最終詩「物みなは歳日と共に亡び行く」には
父への懺悔が歌われているのですが
生田春月
芥川龍之介
牧野信一
……といった死者たち(いずれも自死)のイメージや
「四季」同人であり夭逝した辻野久憲や、
同じく「四季」同人であった中原中也の死が反映されていないと言えるものでもないことを記しておきましょう。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年11月11日 (火)

様々な「氷島」是非論・序2/「散文詩とは何か」という詩論

(前回からつづく)

 

詩集「宿命」には
「序に代えて」というプロローグがあり
そこで朔太郎が「散文詩とは何かについて」と(わざわざとのように)考察していますから
それをここで読んでおきましょう。

 

 

散文詩について
          序に代えて

 

 散文詩とは何だろうか。

 

西洋近代に於けるその文学の創見者は、普通にボードレールだと言われているが、彼によれば、一定の韻律法則を無視し、自由の散文形式で書きながら、しかも全体に音楽的節奏が高く、且つ芸術美の香気が高い文章を、散文詩と言うことになるのである。そこでこの観念からすると、今日我が国で普通に自由詩と呼んでる文学中での、特に秀れてやや上乗のもの――不出来のものは純粋の散文で、節奏もなければ芸術もない――は、西洋詩家の所謂散文詩に該当するわけである。

 

しかし普通に散文詩と呼んでるものは、そうした文学の形態以外に、どこか文学の内容上でも、普通の詩と異なる点があるように思われる。ツルゲネフの散文詩でも、ボードレールのそれでも、すべて散文詩と呼ばれるものは、一般に他の純正詩(抒情詩など)に比較して、内容上に観念的、思想的の要素が多く、イマジスチックであるよりは、むしろエッセイ的、哲学的の特色を多量に持ってる如く思われる。そこでこの点の特色から、他の抒情詩等に比較して、散文詩を思想詩、またはエッセイ詩と呼ぶこともできると思う。つまり日本の古文学中で、枕草子とか方丈記とか、または徒然草とかいった類のものが、丁度西洋詩学の散文詩に当るわけなのである。

 

 枕草子や方丈記は、無韻律の散文形式で書いていながら、文章それ自身が本質的にポエトリーで、優に節奏の高い律的の調べと、香気の強い芸術美を具備して居り、しかも内容がエッセイ風で、作者の思想する自然観や人生観を独創的にフィロソヒーしたものであるから、正にツルゲネフやボードレールの散文詩と、文学の本質に於て一致している。ただ日本では、昔から散文詩という言葉がないので、この種の文学を隨筆、もしくは美文という名で呼称して来た。然るに明治以来近時になって、日本の散文詩とも言うべき、この種の伝統文学が中絶してしまった。もちろん隨筆という名で呼ばれる文学は、今日も尚文壇の一隅にあるけれども、それは詩文としての節奏や芸術美を失ったもので、散文詩という観念中には、到底所属でき得ないものである。

 

 自分は詩人としての出発以来、一方で抒情詩を書くかたわら、一方でエッセイ風の思想詩やアフォリズムを書きつづけて来た。それらの断章中には、西洋詩家の所謂「散文詩」という名称に、多少よく該当するものがないでもない。よって此所に「散文詩集」と名づけ、過去に書いたものの中から、類種の者のみを集めて一冊に編纂した。その集篇中の大分のものは、旧刊「新しき欲情」「虚妄の正義」「絶望の逃走」等から選んだけれども、篇尾に納めた若干のものは、比較的最近の作に属し、単行本としては最初に発表するものである。尚、後半に合編した抒情詩は、「氷島」「青猫」その他の既刊詩集から選出したものである。

 

 昭和14年8月                 著者

 

(中公文庫「日本の詩歌14 萩原朔太郎」より。読みやすくするために、原作の「旧かな・旧漢字」を「新かな・新漢字」に変え、改行・行空きを加えてあります。以下同。編者。)

 

 

散文詩を説明するのに
朔太郎が引き合いにするのはボードレール(やツルゲーネフ)。

 

散文詩とは、
ボードレールによれば

 

一定の韻律法則を無視し
自由の散文形式
音楽的節奏が高く
芸術美の香気が高い文章
――ということになり、

 

内容から見れば
観念的、思想的で
イマジスチックであるよりは、
エッセイ的、哲学的

 

抒情詩等に比較して、
思想詩、またはエッセイ詩
――と呼べる。

 

 

日本では
枕草子
方丈記
徒然草
――などが散文詩である。

 

日本では
散文詩という言い方がなかったので
これらは随筆といったり美文といったりしてきた。

 

これは明治以降途絶えてしまった。

 

随筆という形で残ったが
芸術というほどのものではなかった。

 

 

(ぼくは)詩人として出発して以来
純正詩(叙情詩)を書きながら
思想詩とかエッセイ詩やアフォリズムを並行して作ってきた中に
散文詩としてくくれるものがあるので
今度、それらを集めることにしたのです。

 

それらはすでに
「新しき欲情」「虚妄の正義」「絶望の逃走」等で発表した中から選び
篇尾においた若干は、
比較的最近の作に属し、単行本としては最初に発表するものもあります。

 

(「虫」や「虚無の歌」や「物みなは歳日と共に亡び行く」は、最近作ということになります。)

 

 

後半の抒情詩は、
「氷島」「青猫」その他の既刊詩集から選出したものです
――と詩集「宿命」の詩篇をも概観し、
簡潔明快な「序」としました。

 

簡潔で明快なのは
長年にわたる研究を経たものであるからで
考察が熟している結果でしょう。

 

 

そうしてさらに!

 

詩集末尾に付録として
一つ一つの詩篇への「自註」が添えられます。

 

およそ半数の作品に自註があるのですが
そうしてさらに!
自註をつけた理由を「前書き」で説明しているのです。

 

 

この構造を理解するには
全集を読むか
青空文庫の「宿命」をひもとくほかにありません。

 

 

これほどまでに
丁寧(詳細)に詩(集)へのアプローチを整えるというのは
数々の誤解や無理解を経験してきた詩人のリアクションであるのかもしれません。
(「詩人の使命」のようなものから来ているのかもしれません。)

 

自説を曲げない三好達治のような堅物(かたぶつ)への応答という意味合いも
少なからず込められていることも考え得ることです。

 

 

「前書き」を読んでおきましょう。

 

 

附録
散文詩自註
  前書

 

 詩の註釈ということは、原則的に言えば蛇足にすぎない。なぜなら詩の本当の意味というものは、言葉の音韻や表象以外に存在しない。そして此等のものは、感覚によって直観的に感受する外、説明の仕方がないからである。しかし或る種の詩には、特殊の必要からして、註解が求められる場合もある。

 

たとえば我が万葉集の歌の如き古典の詩歌。ダンテの神曲やニイチェのツアラトストラの如き思想詩には、古来幾多の註釈書が刊行されてる。この前者の場合は、古典の死語が今の読者に解らない為であり、この後の場合は、詩の内容している深遠の哲学が、思想上の解説を要するからである。

 

しかし原則的に言えば、此等の場合にもやはり註釈は蛇足である。なぜなら万葉集の歌は、万葉の歌言葉を離れて鑑賞することができないし、ニイチェの思想詩は、ツアラトストラの美しい詩語と韻律からのみ、直接に感受することができるからだ。ただしかしこうした類の思想詩は、純正詩である抒情詩に比して、比較的註釈し易く、またそれだけ註釈の意義があるわけである。なぜならこの類の詩では、その寓意する思想上の観念性が、言葉の感性的要素以上に、内容の実質となってるからだ。

 

しかしこの種の観念詩でも、作者の主観上に於ては、やはり抒情詩と同じく、純なポエジイとして心象されてることは勿論である。つまりその思想内容の観念物が、主観の芸術情操によって淳化され、高い律動表現の浪を呼び起すほど、実際に詩美化され、リリック化されているのである。(もしそうでなかったら、普通の観念散文<感想、隨筆の類>にすぎない。)本書に納めた私の散文詩も、勿論そうした種類の文学である。

 

故にこの「自註」は、実には詩の註解と言うべきものでなく、こうした若干の詩が生れるに至る迄の、作者の準備した心のノートを、読者に公開したようなものである。だからこの附録は、正当には「散文詩自註」と言うよりは、むしろ「散文詩覚え書」という方が当たっているのだ。

 

 文学の作家が、その作品の準備された「覚え書」を公開するのは、奇術師が手品の種を見せるようなものだ。それは或る読者にとって、興味を減殺することになるかも知れないが、或る他の読者にとっては、別の意味で興味を二重にするであろう。

 

「詩の評釈は、それ自身がまた詩であり、詩でなければならぬ。」とノヴァリスが言ってるが、この私の覚え書的自註の中にも、本文とは独立して、それ自身にまた一個の文学的エッセイとなってる者があるかも知れぬ。とにかくこの附録は、本文の詩とは無関係に、また全然無関係でもなく、不即不離の地位にある文章として、読者の一読を乞いたいのである。

 

(青空文庫より。「旧かな・旧漢字」を「新かな・新漢字」に改めたほか、改行・行空きを加えました。編者。)

 

 

途中ですが
今回はここまで。

 

 

 

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2014年11月10日 (月)

様々な「氷島」是非論・序/最終詩集「宿命」の「虫」が導く問い

(前回からつづく)

 

萩原朔太郎の第8詩集「宿命」中の散文詩73篇に番号をつけると
最後の「物みなは歳日と共に亡び行く」が73
「虚無の歌」が72となり
71に「虫」という詩篇があり
この「虫」をどうしてもここで読んでおきたくなるのは
散文詩というものを考えるのに格好の材料であるからですし
朔太郎が散文詩や詩というものをどのように捉えていたかを理解する
材料にもなるからです。

 

とにかく「虫」を読んでみましょう。

 

 

 

 或る詰らない何かの言葉が、時としては毛虫のように、脳裏の中に意地わるくこびりついて、それの意味が見出される迄、執念深く苦しめるものである。

 

或る日の午後、私は町を歩きながら、ふと「鉄筋コンクリート」という言葉を口に浮べた。何故にそんな言葉が、私の心に浮んだのか、まるで理由がわからなかった。だがその言葉の意味の中に、何か常識の理解し得ない、或る幽幻な哲理の謎が、神秘に隱されているように思われた。それは夢の中の記憶のように、意識の背後にかくされて居り、縹渺として捉えがたく、そのくせすぐ目の前にも、捉えることができるように思われた。何かの忘れたことを思い出す時、それがつい近くまで来て居ながら、容易に思い出せない時のあの焦燥。多くの人々が、たれも経験するところの、あの苛々した執念の焦燥が、その時以来憑きまとって、絶えず私を苦しくした。

 

家に居る時も、外に居る時も、不断に私はそれを考え、この詰らない、解りきった言葉の背後にひそんでいる、或る神秘なイメージの謎を摸索して居た。その憑き物のような言葉は、いつも私の耳元で囁いて居た。悪いことにはまた、それには強い韻律的の調子があり、一度おぼえた詩語のように、意地わるく忘れることができないのだ。

 

「テッ、キン、コン」と、それは3シラブルの押韻をし、最後に長く「クリート」と曳くのであった。その神秘的な意味を解こうとして、私は偏執狂者のようになってしまった。明らかにそれは、一つの強迫觀念にちがいなかった。私は神経衰弱症にかかって居たのだ。

 

 或る日、電車の中で、それを考えつめてる時、ふと隣席の人の会話を聞いた。
「そりゃ君。駄目だよ。木造ではね。」
「やっぱり鉄筋コンクリートかな。」
 二人づれの洋服紳士は、たしかに何所かの技師であり、建築のことを話して居たのだ。だが私には、その他の会話は聞えなかった。ただその単語だけが耳に入った。「鉄筋コンクリート!」

 

 私は跳びあがるようなショックを感じた。そうだ。この人たちに聞いてやれ。彼等は何でも知ってるのだ。機会を逸するな。大膽にやれ。と自分の心をはげましながら
「その……ちょいと……失礼ですが……。」
 と私は思い切って話しかけた。
「その……鉄筋コンクリート……ですな。エエ……それはですな。それはつまり、どういうわけですかな。エエそのつまり言葉の意味……というのはその、つまり形而上の意味……僕はその、哲学のことを言ってるのです……。」

 

 私は妙に舌がどもって、自分の意志を表現することが不可能だった。自分自身には解って居ながら、人に説明することができないのだった。隣席の紳士は、吃驚したような表情をして、私の顏を正面から見つめて居た。私が何事をしゃべって居るのか、意味が全で解らなかったのである。それから隣の連を顧み、気味悪そうに目を見合せ、急にすっかり黙っててしまった。私はテレかくしにニヤニヤ笑った。次の停車場についた時、二人の紳士は大急ぎで席を立ち、逃げるようにして降りて行った。

 

 到頭或る日、私はたまりかねて友人の所へ出かけて行った。部屋に入ると同時に、私はいきなり質問した。
「鉄筋コンクリートって、君、何のことだ。」
 友は呆気にとられながら、私の顔をぼんやり見詰めた。私の顔は岩礁のように緊張して居た。
「何だい君。」
 と、半ば笑いながら友が答えた。
「そりゃ君。中の骨組を鉄筋にして、コンクリート建てにした家のことじゃやないか。それが何うしたってんだ。一体。」
「ちがう。僕はそれを聞いてるのじゃないんだ。」
 と、不平を色に現わして私が言った。
「それの意味なんだ。僕の聞くのはね。つまり、その……。その言葉の意味……表象……イメージ……。つまりその、言語のメタフィジックな暗号。寓意。その秘密。……解るね。つまりその、隱されたパズル。本当の意味なのだ。本当の意味なのだ。」
 この本当の意味と言う語に、私は特に力を入れて、幾度も幾度も繰返した。

 

 友はすっかり呆気に取られて、放心者のやうに口を開きながら、私の顔ばかり視つめて居た。私はまた繰返して、幾度もしつッこく質問した。だが友は何事も答えなかった。そして故意に話題を転じ、笑談に紛らそうと努め出した。私はムキになって腹が立った。人がこれほど真面目になって、熱心に聞いてる重大事を、笑談に紛らすとは何の事だ。たしかに、此奴は自分で知ってるにちがいないのだ。ちゃんとその秘密を知っていながら、私に教えまいとして、わざと薄とぼけて居るにちがいないのだ。否、この友人ばかりではない。いつか電車の中で逢った男も、私の周囲に居る人たちも、だれも皆知ってるのだ。知って私に意地わるく教えないのだ。

 

「ざまあ見やがれ。此奴等!」
 私は心の中で友を罵り、それから私の知ってる範囲の、あらゆる人々に対して敵愾した。何故に人々が、こんなにも意地わるく私にするのか。それが不可解でもあるし、口惜しくもあった。

 

 だがしかし、私が友の家を跳び出した時、ふいに全く思いがけなく、その憑き物のやうな言葉の意味が、急に明るく、霊感のように閃めいた。
「虫だ!」

 

 私は思わず声に叫んだ。虫! 鉄筋コンクリートという言葉が、秘密に表象している謎の意味は、実にその単純なイメージにすぎなかったのだ。それが何故に虫であるかは、此所に説明する必要はない。或る人々にとって、牡蠣の表象が女の肉体であると同じように、私自身にすっかり解りきったことなのである。私は声をあげて明るく笑った。それから両手を高く上げ、鳥の飛ぶような形をして、嬉しそうに叫びながら、町の通りを一散に走り出した。

 

(新潮文庫「純情小曲集、氷島、散文詩他」より。読みやすくするために、原作の「旧かな・旧漢字」
を「新かな・新漢字」に、漢数字を洋数字に変えたほか、改行・行空きを加えました。編者。)

 

 

「虫」を初めて読んだときには爆笑。
2度目3度目に読んだときには
しきりに考えさせられています。

 

考えているうちに
「散文詩自註」という作者による案内があることに気づいて
それを読むことになります。

 

「虫」の案内を次に読んでみましょう。

 

 

 虫  散文詩というよりは、むしろコントという如き文学種目に入るものだろう。此所で自分が書いてることは、或る神経衰弱症にかかった詩人の、変態心理の描写である。「鉄筋コンクリート」と「虫」との間には、勿論何の論理的関係もなく、何の思想的な寓意もない。これが雜誌に発表された時、二三の熱心の読者から、その点での質問を受けて返事に窮した。しかし精神分析学的に探究したら、勿論この両語の間に、何かの隱れた心理的関連があるにちがいない。なぜならその詩人というものは、著者の私のことであり、実際に主観上で、私がかって経験したことを書いたのだから。

 

 しかし多くの詩人たちは、自己の詩作の経験上で、だれも皆こんなことは知ってる筈だ。近代の詩人たちは、言葉を意味によって連想しないで、イメージによって飛躍させる。たとえば或る詩人は、「馬」という言葉から「港」をイメージし、「a」という言葉から「蝿」を表象し、「象」という言葉から「墓地」を表現させてる。こうしたイメージの連絡は、極めて飛躍的であり、突拍子もない荒唐のものに思われるだろうが、作者の主観的の心理の中では、その二つの言葉をシノニムに結ぶところの、歴とした表象範則ができてるのである。しかもその範則は、作者自身にも知られてない。なぜならそれは、夢の現象と同じく、作者の潜在意識にひそむ経験の再現であり、精神分析学だけが、科学的方法によって抽出し得るものであるから。

 

 それ故詩人たちは、本来皆、自ら意識せざる精神分析学者なのである。しかしそれを特に意識して、自家の芸術や詩の特色としたものが、西洋の所謂シュル・レアリズム(超現実派)である。シュル・レアリズムの詩人や画家たちは、意識の表皮に浮んだ言葉や心像やを、意識の潜在下にある経験と結びつけることによって、一つの芸術的イメージを構成することに苦心しているが、単に彼等ばかりでなく、一般に近代の詩人たちは、だれも皆こうした「言葉の迷い児さがし」に苦労して居り、その点での経験を充分に持ってる筈である。そこで私のこのコントは、こうした詩人たちの創作に於ける苦心を、心理学的に解剖したものとも見られるだろう。

 

 

「虫」は
散文詩というよりもコントだというのです!

 

 

であるなら
コントは詩であるということですが
では詩とは何かということになります。

 

 

「氷島」への三好達治の否定論
そして朔太郎の反論
福永武彦の支持論
――と見ていくうちに
この大問題が投げかけられていることに結局は気づくことになります。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

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2014年11月 9日 (日)

福永武彦の「氷島」支持論7/散文詩の「海」へ通じる

(前回からつづく)

 

「物みなは歳日と共に亡び行く」につながる境地を歌った詩に
「虚無の歌」があります。

 

福永武彦は、

 

「氷島」から「宿命」にかかる時期の朔太郎の情操的主語は
「宿命・虚無・敗亡・過失」などだった。
その内的世界の寂寥は、
この「虚無の歌」から次の「物みなは歳日と共に亡び行く」に現われている
――と述べています。

 

前後しますが
これも全行を読んでおきましょう。

 

 

虚無の歌
    我れは何物をも喪失せず
    また一切を失い尽せり。 「氷島」

 

 午後の3時。広漠とした広間(ホール)の中で、私はひとり麦酒(ビール)を飲んでた。だれも外に客がなく、物の動く影さえもない。煖爐(ストーブ)は明るく燃え、扉(ドア)の厚い硝子を通して、晩秋の光が侘しく射してた。白いコンクリートの床、所在のない食卓(テーブル)、脚の細い椅子の数々。

 

 エビス橋の側(そば)に近く、此所の侘しいビヤホールに来て、私は何を待ってるのだろう? 恋人でもなく、熱情でもなく、希望でもなく、好運でもない。私はかって年が若く、一切のものを欲情した。そして今既に老いて疲れ、一切のものを喪失した。私は孤独の椅子を探して、都会の街々を放浪して来た。そして最後に、自分の求めてるものを知った。一杯の冷たい麦酒と、雲を見ている自由の時間! 昔の日から今日の日まで、私の求めたものはそれだけだった。

 

 かつて私は、精神のことを考えていた。夢みる一つの意志。モラルの体熱。考える葦のおののき。無限への思慕。エロスヘの切ない祈祷。そして、ああそれが「精神」という名で呼ばれた、私の“失われた追憶”だった。かつて私は、肉体のことを考えて居た。物質と細胞とで組織され、食慾し、生殖し、不断にそれの解体を強いるところの、無機物に対して抗争しながら、悲壮に悩んで生き長らえ、貝のように呼吸している悲しい物を。肉体! ああそれも私に遠く、過去の追憶になろうとしている。私は老い、肉慾することの熱を無くした。墓と、石と、蟾蜍(ひきがえる)とが、地下で私を待ってるのだ。

 

 ホールの庭には桐の木が生え、落葉が地面に散らばって居た。その板塀で囲まれた庭の彼方、倉庫の並ぶ空地の前を、黒い人影が通って行く。空には煤煙が微かに浮び、子供の群集する遠い声が、夢のように聞えて来る。広い“がらん”とした広間(ホール)の隅で、小鳥が時々囀って居た。エビス橋の側に近く、晩秋の日の午後3時。コンクリートの白っぽい床、所在のない食卓(テーブル)、脚の細い椅子の数々。

 

 ああ神よ! もう取返す術(すべ)もない。私は一切を失い尽した。けれどもただ、ああ何という楽しさだろう。私はそれを信じたいのだ。私が生き、そして「有る」ことを信じたいのだ。永久に一つの「無」が、自分に有ることを信じたいのだ。神よ! それを信ぜしめよ。私の空洞(うつろ)な最後の日に。

 

 今や、かくして私は、過去に何物をも喪失せず、現に何物をも失わなかった。私は喪心者のように空を見ながら、自分の幸福に滿足して、今日も昨日も、ひとりで閑雅な麦酒(ビール)を飲んでる。虚無よ! 雲よ! 人生よ。

 

(中公文庫「日本の詩歌14 萩原朔太郎」より。原作の「旧かな・旧漢字」を「新かな・新漢字」に、適宜、漢数字を洋数字に変えたほか、改行・行空きを加えてあります。また傍点は“ ”で示しました。編者。)

 

 

朔太郎が散文詩を書き始めたのはいつごろになるのでしょうか。

 

第8詩集「宿命」は
昭和14年9月に出版され
ここに73篇の散文詩と68篇の叙情詩が収録されましたが
散文詩はこのほかにも多く作られたはずでした。

 

 

「宿命」に収められた散文詩73篇のうち
68篇はアフォリズム集「新しき欲情」「虚妄の正義」「絶望の逃走」からの再録で
残りの6篇が新作ということですから、
大正11年(1922年)の「新しき欲情」の頃に遡(さかのぼ)り
昭和4年(1929年)の「虚妄の正義」を経て
昭和10年(1935年)の「絶望の逃走」へと至る長い期間に書かれたものの収集になります。

 

制作時期は
大正11年よりかなり前であった場合もあるのかもしれません。

 

 

「月に吠える」は大正6年(1917年)、
「青猫」「蝶を夢む」は大正12年(1923年)の出版でした。

 

「日本の詩歌14 萩原朔太郎」巻末の年譜は
伊藤信吉作成になるものですが
その大正7年(1918年、33歳)の項に

 

5月以後、およそ3年間にわたってほとんど作品を発表せず、内面生活に閉じこもり、詩、アフォリズム、詩論の自己体系化に努める。
――とあり
「青猫」以前からアフォリズム(やがて散文詩に変成されていくものが含まれる)へ
傾注していたことが分かります。

 

 

「氷島」は
昭和9年(1934年、49歳)の発行ですから
散文詩は「氷島」と同じ時期に書かれたものが含まれていることになります。

 

「虚無の歌」のエピグラフに
「氷島」の「乃木坂倶楽部」から引用しているのは
「氷島」を理解しない者への反意が含まれていたのかもしれません。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

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2014年11月 8日 (土)

福永武彦の「氷島」支持論6/「物みなは歳日と共に亡び行く」の宿命

(前回からつづく)

 

人生は過失であり、その過失を償うすべはもはやない。そのことを自覚するにつれて飢えは一層彼を苦しませただろう。

 

地方の一詩人として野心を燃し続けたが、結局は旅人として故郷に帰ってみて、「物みなは歳日と共に亡び行く」と歌わざるを得ない。

 

彼の世界そのものが今や飢えている以上、その世界を描くためには、たとえ「退却」であるとしても、彼の表現はそれにふさわしい言語、飢えた言語、「古き日本語の文章語」に帰らざるを得なかった。

 

詩人としての宿命というものがあるとすれば、私はその点に、萩原朔太郎の宿命を見たいのである。

 

――と記して福永武彦は「詩人の肖像」を閉じます。

 

 

「物みなは歳日と共に亡び行く」全文を
ここで読んでおきましょう。

 

 

物みなは歳日と共に亡び行く
     わが故郷に帰れる日、ひそかに秘めて歌えるうた。

 

物(もの)みなは歳日(としひ)と共に亡び行く。
ひとり来てさまよえば
流れも速き広瀬川。
何にせかれて止(とど)むべき
憂いのみ永く残りて
わが情熱の日も暮れ行けり。

 

 久しぶりで故郷へ帰り、広瀬川の河畔を逍遥しながら、私はさびしくこの詩を誦した。
 物みなは歳日(としひ)と共に亡び行く――郷土望景詩に歌ったすべての古蹟が、殆んど皆跡方もなく廃滅して、再度(ふたたび)また若かった日の記憶を、郷土に見ることができないので、心寂寞の情にさしぐんだのである。
 全く何もかも変ってしまった。昔ながらに変らぬものは、広瀬川の白い流れと、利根川の速い川瀬と、昔、国定忠治が立て籠った、赤城山とがあるばかりだ。

 

少年の日は物に感ぜしや
われは波宜(はぎ)亭の二階によりて
悲しき情感の思いに沈めり

 

 と歌った波宜(はぎ)亭も、既に今は跡方もなく、公園の一部になってしまった。その公園すらも、昔は赤城牧場の分地であって、多くの牛が飼われて居た。
 ひとり友の群を離れて、クロバアの茂る校庭に寝転びながら、青空を行く小鳥の影を眺めつつ

 

艶めく情熱に悩みたり

 

 と歌った中学校も、今では他に移転して廃校となり、残骸のような姿を曝して居る。私の中学に居た日は悲しかった。落第。忠告。鉄拳制裁。絶えまなき教師の叱責。父母の嗟嘆。そして灼きつくような苦しい性慾。手淫。妄想。血塗られた悩みの日課! 嗚呼しかしその日の記憶も荒廃した。むしろ何物も亡びるが好い。

 

わが草木(そうもく)とならん日に
たれかは知らむ敗亡の
歴史を墓に刻むべき。
われは飢えたりとこしえに
過失を人も許せかし。
過失を父も許せかし。          ――父の墓に詣でて――

 

 父の墓前に立ちて、私の思うことはこれよりなかった。その父の墓も、多くの故郷の人々の遺骸と共に、町裏の狹苦しい寺の庭で、侘しく窮屈げに立ち並んでる。私の生涯は過失であった。だがその「過失の記憶」さえも、やがて此所にある万象と共に、虚無の墓の中に消え去るだろう。父よ。わが不幸を許せかし!

 

たちまち遠景を汽車の走りて
我れの心境は動騒せり。

 

 と歌った二子山の附近には、移転した中学校が新しく建ち、昔の侘しい面影もなく、景象が全く一新した。かっては蒲公英(たんぽぽ)の茎を噛みながら、ひとり物思いに耽って徘徊した野川の畔に、今も尚白い菫(すみれ)が咲くだろうか。そして古き日の娘たちが、今でも尚故郷の家に居るだろうか。

 

われこの新道の交路に立てど
さびしき四方(よも)の地平をきわめず。
暗鬱なる日かな
天日(てんじつ)家並の軒に低くして
林の雜木まばらに伐られたり。

 

 と歌った小出(こいで)の林は、その頃から既に伐採されて、楢や檪の木が無惨に伐られ、白日の下に生々(なまなま)しい切株を見せて居たが、今では全く開拓されて、市外の遊園地に通ずる自動車の道路となってる。昔は学校を嫌い、弁当を持って家を出ながら、ひそかにこの林に来て、終日鳥の鳴声を聞きながら、少年の愁いを悲しんでいた私であった。今では自動車が荷物を載せて、私の過去の記憶の上を、勇ましくタンクのように驀進して行く。

 

兵士の行軍の後に捨てられ
破れたる軍靴(ぐんか)のごとくに
汝は路傍に渇けるかな。
天日(てんじつ)の下に口をあけ
汝の過去を哄笑せよ。
汝の歴史を捨て去れかし。          ――昔の小出新道にて――

 

 利根川は昔ながら流れて居るが、雲雀の巣を拾った河原の砂原は、原形もなく変ってしまって、ただ一面の桑畑になってしまった。

 

此所に長き橋の架したるは
かのさびしき惣社の村より
直として前橋の町に通ずるならん。

 

 と歌った大渡新橋も、また近年の水害で流失されてしまった。ただ前橋監獄だけが、新たに刑務所と改名して、かってあった昔のように、長い煉瓦の塀をノスタルジアに投影しながら、寒い上州の北風に震えて居た。だが

 

監獄裏の林に入れば
囀鳥高きにしば鳴けり

 

 と歌った裏の林は、概ね皆伐採されて、囀鳥の声を聞く由もなく、昔作った詩の情趣を、再度イメージすることが出来なくなった。

 

物みなは歳日(としひ)と共に亡び行く――。
ひとり来りてさまよえば
流れも速き広瀬川
何にせかれて止(とど)むべき。          ――広瀬河畔を逍遥しつつ――

 

(中公文庫「日本の詩歌14 萩原朔太郎」より。読みやすくするために「新かな・新漢字」に直してあります。編者。)

 

 

この詩は「氷島」の詩ではありません。

 

昭和12年2月に
何年ぶりかで故郷前橋の地を踏んだ朔太郎が
かつて「郷土望景詩」に歌った場所をめぐった後に制作したもので
最後の詩集「宿命」に収められています。

 

すでに「氷島」を離れていますが
福永はこの詩を
敗亡と懐旧の思いでつづった
「第2の郷土望景詩」と呼んでいます。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

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2014年11月 7日 (金)

福永武彦の「氷島」支持論5/晩年の詩を生んだ独特の文語体

(前回からつづく)

 

「小出新道」の詩行の作られ方は
ほかの「氷島」詩篇にも見られるもので
「氷島」ばかりでなく
「氷島」以前から作られてきた散文詩にも見られる
――と福永武彦は展開します。

 

その理由は詰まるところ
詩法(とは言っていませんが)と関係するもので

 

彼の散文は論旨明快とは言いがたいものがあり、
それは頭の回転が早すぎて
書く方の手が追いつかなかったようなところがあることから来ている
――と解き明かすのです。

 

 

言葉の使い方には猛烈と言いたいような奇矯さが見え
それは「田舎紳士のハイカラ」と邪推したくなるような奇矯さかもしれないし
「氷島」の中にはそのような傾向が実際にあるけれど
それと混同してはいけない、

 

「田舎紳士のハイカラ」と
「猛烈」と言いたくなる言葉使いとは別物です。

 

この言葉使いこそ
「氷島」の制作で
詩人が詩語としての日本語を開拓するために悪戦苦闘した結果です。

 

晩年の詩的世界を表現するために発明した独特の文語体で出来ていて
朔太郎にしか書けなかった世界なのです、と。

 

 

三好が「枯渇」と読んだ晩年の作品を
朔太郎独自の世界と読むところでの
福永の「氷島」読み、晩年の朔太郎読みは
グイグイと朔太郎の中に入りこんでいく口ぶりです。

 

この口ぶりのままで
最終詩「物みなは歳日と共に亡び行く」が読まれます。

 

 

朔太郎の最終詩と目されている散文詩「物みなは歳日と共に亡び行く」は
長詩の部類に入るものですが
この長い詩はリリック(叙情詩)であり思想詩でもある趣(おもむき)があります。

 

その一節、

 

わが草木とならん日に
たれかは知らむ敗亡の
歴史は墓に刻むべき。
われは飢ゑたりとこしへに
過失を人も許せかし。
過失を父も許せかし。

 

――を引いて中に現われる「餓え(ゑ)」にこそ
朔太郎一生の主題があったと「詩人の肖像」を結びます。

 

その口ぶりには
福永の熱がいっそうこもります。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

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2014年11月 6日 (木)

福永武彦の「氷島」支持論4/叛きて行かざる「郷土」への道

(前回からつづく)

 

「小出新道」は
詩集「純情小曲集」の「郷土望景詩」から
詩集「氷島」へ再録された詩篇です。

 

三好達治はこの詩を
「郷土望景詩」の詩であるという理由で
「氷島」の詩篇とは認めません。

 

認めないといって過言ではありません。

 

 

福永は
「郷土望景詩」は「氷島」と同じ詩境にあると取り
そうである故に
「小出新道」を「氷島」詩篇としても読み
一つの読み方を披瀝します。

 

 

「小出新道」冒頭の2行

 

ここに道路の新開せるは
直として市街に通ずるならん。

 

――の「通ずるならん」について
三好が朔太郎がこの場所を熟知しているはずであるから「おかしい」と言っているところに反意を示し、

 

われ叛きて行かざる道に
新しき樹木みな伐られたり。

 

――という最終行を読めば自ずと理解できることを指摘します。

 

詩人は小出新道の交路に立って
その先へ行こうとしない意思を表明しているのだから
「通ずるならん」という推量の表現であって
いっこうにおかしくはなく
むしろ自然であると述べます。

 

この最終行を福永は

 

われの叛きて行かざる道に新しき樹木はありや
樹木みな伐られたり
ましてや新しき樹木は

 

――と読むことを提案するのです。

 

「氷島」そして「郷土望景詩」は
このような読み方を読者に要求している、と。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

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2014年11月 4日 (火)

福永武彦の「氷島」支持論3/異様な静けさの漂う「絶叫」

(前回からつづく)

 

「郷土望景詩」に「大渡橋」はあり、

 

ああ故郷にありてゆかず
塩のごとくにしみる憂患の痛みをつくせり
すでに孤独の中に老いんとす

 

――とあるのを福永武彦は引いて

 

故郷にあって受け入れられなかった者は
都会にあっても安住しない者であるはずだし
その者の怒りと飢えの感情は
生活者としての無能の意識が加われば
いっそう内へ内へと向かうであろうし
それが「氷島」で頂点に達したととらえます。

 

郷土望景詩を書き終えた頃
朔太郎は東京に移住し
生活に疲れ果てた漂泊者として
憎しみと愛情とが混じりあった目で
故郷を望景していた。

 

「大渡橋」には
そうした状況が反映し
やがてそれは「氷島」での「絶叫」になった。

 

 

そして「氷島」から福永がピックアップするのは、

 

 ああ我れは尚(なほ)鳥の如く
 無限の寂寥をも飛ばざるべし。  (動物園にて)
 
 いかんぞ暦数の回帰を知らむ
 見よ! 人生は過失なり。     (新年)
 
――という詩行、詩句。

 

ここにある「絶叫」には
居丈高(いたけだか)の空疎な漢語が用いられているわけではなく、

 

三好が論難した
「いかんぞ」
「いかなる」
「いかなれば」
――などの疑問詞が多用されても
むしろ異様な静けさの漂っている世界であると読みます。

 

 

「いかんぞ」を含む「新年」に
「異様な静けさ」を読むところが
三好達治と決定的な違いですが、
さらに、次のように記します。

 

 

選ばれた言葉は極限にまでその機能を発揮し、
しばしば凝縮された詩型のために、
幾行かを(或いは一篇の詩の全体を)
同時に読むことが要求される。

 

たとえば、

 

いづこに家郷はあらざるべし。  (漂泊者の歌)
 
これは、
「いづこに家郷はありや/家郷はあらざるべし」と読むべきだし、

 

前の「鳥の如く/無限の寂寥をも飛ばざるべし」は、
「鳥の如く無限の寂寥を飛ぶことを得んや/飛ばざるべし/無限の寂寥をも飛ばざるべし」となるだろう。

 

こうした種類のイロジスムと見えるものは、
全体を見ることで解釈可能である。

 

(中公文庫「日本の詩歌14 萩原朔太郎」より。解りやすくするために、改行・行空きを加えてあります。編者。)

 

 

三好が読んだ朔太郎詩のイロジスム(非論理性)を
福永はすっきりとは断定しないで
「と見えるもの」と留保付きで引き受けつつ、
「凝縮」は省略であり飛躍であることによって(とは書いていませんが)
非論理的(イロジスティック)な形(言葉使い)になるものの
詩行の全体を見れば
おのずと理解可能であることを主張します。

 

 

三好のように
読めたものではない(と書いてはいませんが)
食えたものではない(とも書いていませんが)
――ではなく
理解できるものと認めて
詩は存在していることを説こうとします。

 

朔太郎の詩はイロジスムの詩なのだから
イロジスティックであるところを論難するのは
イロジスティック(非論理的)である、というかのようです。

 

措辞、句法、文法にとらわれて
詩を見失うことのないように、と説くかのようです。

 

 

このあたりは三好が、
「新年」や「我れの持たざるものは一切なり」に現われる「いかんぞ」を取り上げて、

 

この句法が(まづフォルムとして)萩原さんの心のどこかに、こんな風にこびりつくように巣くったこと、そのことが何としても“けげん”に耐えない。
――と記したところです。

 

自働器械ではないか、としたところです。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2014年11月 3日 (月)

福永武彦の「氷島」支持論2/感情をほとばしらせるための文語体

(前回からつづく)

 

「厭でも支那語の語脈を取り入れ」て「漢文調」「漢語調」で書くほかなかった、と言うのである。

 

――と朔太郎が自ら「退却」を認めたくだりを読み、

 

さらには新しい日本語を発見しようとして、絶望的に悶え悩んだあげくの果て、ついに古き日本語の文章語に帰ってしまった僕は、詩人としての文化的使命を廃棄してしまったようなものであった。僕はすでに老いた。

 

――とまで記した朔太郎の「『氷島』の詩語について」の結びを読んで
福永武彦は作家の眼差しを向けます。

 

 

「老いた」などと言ってしまって
いいのだろうか。

 

朔太郎は
ほんとうに老いてしまったのだろうか
――と疑う(そんなことは書かれてありませんが)ような眼差しは
このブログ編者(合地)も同じ感想をもつところのものでした。

 

何が老いていけないのか?
老いると詩が消滅するのか?

 

 

朔太郎の「退却」を弁護するのは
「贔屓(ひいき)の引き倒しということになるかもしれない。」と
福永は「牽制球」をはさみながら
「しかし私に言わせれば」と直球を放つようにして
思い切って述べる球(ボール)が
三好達治へ向かっていることは間違いありません。
(読者に向かっていることも間違いありませんが。)

 

ここは重要なところなので
しっかり読んでおきましょう。

 

 

しかし私に言わせれば、
詩的世界とその表現とは表裏一体をなすものだから、
「郷土望景詩」以後の朔太郎の世界が、
それまでの粘液質の情緒を失い、
あらわな感情をほとばしらせようとする時に、
この文語体は必須のものだったというふうに見えて来る。

 

もしそれが衰えであるとすれば、
それは著者晩年の世界そのものが衰えていたということになる。

 

(中公文庫「日本の詩歌14 萩原朔太郎」所収「詩人の肖像」より。わかりやすくするために改行・行空きを加えてあります。編者。)

 

 

三好達治が「詩集『氷島』に就て――萩原朔太郎氏への私信」の末尾で見せた
「眼底の熱くなる」思いは
年老いた詩人への憐憫(れんびん)や同情であるとしか読めない。

 

では、「氷島」以後に(以前からでもありますが)書かれた
おびただしい量の散文詩やアフォリズムは
朔太郎の「詩」ではないとでもいうのでしょうか。

 

三好のあの涙の
センチメンタリズム(と福永は言っているものではありませんが)こそ
詩を読むことを妨げる「曇り」になっているのではないか(とも言ってませんが)
――と暗に指摘しているものと理解しても
そんなに外れていないことでしょう。

 

 

福永の眼差しは
「郷土望景詩」から「氷島」そして「氷島」以後へと
萩原朔太郎が展開した詩的冒険に向けられていきます。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

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2014年11月 2日 (日)

福永武彦の「氷島」支持論/三好達治以外の文庫版解説

(前回からつづく)

 

中公文庫の「日本の詩歌14 萩原朔太郎」の初版が出たのは
1975年(昭和50年)1月のことでした。

 

萩原朔太郎が書いた詩のほぼ全篇が
詩人であり作家である福永武彦の精細な鑑賞と解説つきで
文庫本に収録されました。

 

三好達治の「萩原朔太郎」から
10余年後のことでした。

 

 

福永の「萩原朔太郎」は
「氷島」を支持する立場からの評価であり
一般読者が入手し易い文庫本に
初めて三好達治以外の解説者が登場したということだけでも画期的でした。

 

そればかりでなく
マチネー・ポエチックという系譜の実作者・詩人の眼差しが
詩篇に関しての読みの「鋭さ」や「繊細さ」「深さ」という形で
随所に現われる名品となっています。

 

 

同文庫のあとがきとして書かれた「詩人の肖像」は
はじめ「意中の文士たち 上下」(人文書院、1973年)に
「萩原朔太郎の肖像」のタイトルで収められていたものが
そのまま収載されたものでした。

 

 

「『氷島』の問題」と題する章で福永は

 

私は「郷土望景詩」と「氷島」とは同じ詩境に位置しているものと取りたいが、たとえば三好達治のように、「郷土望景詩」を「この詩人の最高頂点を示す」と言い、「氷島」を「声韻のかすれ乱れた頽廃期以後のもの」とみなす論者もいないわけではない。しばらく私の流儀で行くことにする。

 

――と記して、
独自の「氷島」論を書き出します。

 

 

そして末尾の「『氷島』の詩語」という章では、

 

『氷島』はこの詩人が詩語としての日本語を開拓するために悪戦苦闘した結果、晩年の詩的世界を表現するために発掘した独特の文語体から成っていて、それはやはり朔太郎のほかには書けなかった世界なのである。

 

――と記しているところは
(ほかにもありますが)
三好の「氷島」否定への反対論になっています。

 

面と向かってはいませんが。

 

 

福永武彦の「氷島」論および詩篇の鑑賞を
しばらくひもといていきましょう。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

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2014年11月 1日 (土)

特別展示「中原中也と日本の詩」まもなく終了。

東京・立川の国文学研究資料館で開かれている特別展示「中原中也と日本の詩」は、11月5日に終わります。

反撃する朔太郎/「氷島」の詩語について6・ただ心のままに書いた

(前回からつづく)

 

「『氷島』の詩語について」の結びが
次のように書かれたのは
意外にあっさりした感じもありますが必然でした。

 

 

要するに「氷島」の詩語は、僕にとっての自辱的な「退却」だった。その点から僕は、この詩集を甚だ不面目に考えている。その巻頭の序文に於て、一切の芸術的意図を放棄し、ただ心のままに書いたと断ったのも、つまりこの「退却」を江湖の批判に詫びたのである。詩人が詩を作るということは、新しい言葉を発見することだと、島崎藤村氏がその本の序文に書いてる。新しい日本語を発見しようとして、絶望的に悶え悩んだあげくの果、遂に古き日本語の文章語に帰ってしまった僕は、詩人としての文化的使命を廃棄したようなものであった。僕は既に老いた。望むらくは新人出でて、僕の過去の敗北した至難の道を、有為に新しく開拓して進まれんことを。

 

別項「処女の言葉」「詩と日本語」参照されたし。

 

(筑摩書房「萩原朔太郎全集」第10巻より。原作の歴史的かな遣い・旧漢字を現代かな遣い・新漢字に改めました。改行(行空き)も加えました。編者。)

 

 

自辱的な「退却」
甚だ不面目
江湖の批判に詫びた
詩人としての文化的使命を廃棄したようなもの
僕は既に老いた
過去の敗北した至難の道
――などという語句が見えるのは
しかし日本語論、漢語・漢字論を展開した詩人にしては
あっさりとし過ぎた「退却」の感じがあります。

 

 

「江湖の批判に詫びた」というのも
変な言い方で
「江湖に問う」というところを
「批判に詫びた」と媚びたような響きがあります。

 

 

書き出しの「退却(レトリート)」に戻っただけのことですが
漢語・漢字の利点を述べてきた流れが
ドイツ語をはじめとする西洋語の構造とも相通じる中国語(支那語)から
漢語・漢字を摂取してきた歴史があるのだから
もっと長いスパンをとるならば
遠い未来には日本語も変化するであろう
――というところまで展望したのです。

 

しかし、その漢語調を使い文章語で書いた「氷島」は
朔太郎のこれまでの足取り
それまで実践してきた口語自由詩の流れからすれば
後退にほかなりません。

 

そのように
レトリートしたのです。

 

 

三好達治の読みに対しては
大いに反論を投げ返す用意がありながら
それを展開するのを止めて
日本語論、漢語・漢字論、文化論一般へ拡散してしまった印象ですが
そうとばかり言えないところにも気づかないではいられません。

 

 

僕は既に老いた。望むらくは新人出でて、僕の過去の敗北した至難の道を、有為に新しく開拓して進まれんことを。

 

――と最後の最後に結んだところ。

 

ここには、
「人生そのものの悲愁を感じ、眼底の熱くなる」と
三好が「詩集『氷島』に就て――萩原朔太郎氏への私信」で書いた結語への
反語や逆説や皮肉といったもの、
諦念や絶望といったものが反響しています。

 

 

別項「処女の言葉」「詩と日本語」参照されたし。

 

――とまだ言い足りなかったものがあることを付記しているところも。

 

「『氷島』の詩語について」の結語には
どうも言葉通りに読めないものがあります。

 

ダブルミーニングがあるようです。

 

 

どう考えても
退却、後退は自覚の上で
「氷島」は書かれたのですから。

 

 

日本語の「豊穣」は
漢字かな混じり文であることの基本構造の上に
カタカナ語もあり
大和言葉もあり
外国語・外来語もどんどん取り入れる
文語もあり口語もあるということさえ!
――といった弾力性にあることを
朔太郎は気がついていないわけがありません(そのことは書かかれていませんが)。

 

 

「氷島」が
漢語・文章語に「一歩後退」する中で
「二歩前進」を目論でいたといえないはずもありません。

 

詩集「氷島」の詩篇と
詩論「『氷島』の詩語について」とは別物であり
詩語以外で「前進」を主張するむなしさを詩人は感じはじめていたようでもあります。

 

 

退却しても
詩の言葉に一つの可能性を見い出そうとしたと受け取ることは
朔太郎の意図になかったとしても
少なくとも読者の自由です。

 

 

萩原朔太郎は「氷島」以後
散文詩、アフォリズムの創作に
いっそう熱意をそそぎます。

 

中で「氷島」詩篇は
繰り返し引用されます。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

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