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2014年12月31日 (水)

「AULD LANG SYNE!(蛍の光)」と「除夜の鐘」

 

2014年の大晦日という「時」に感じて

 

締めくくりの詩を二つ読んでおきましょう。

 

 

 

今年は萩原朔太郎の世界へ少し踏み込んだ流れで

 

まずは散文詩「AULD LANG SYNE!」を読んで

 

新しい年への橋渡しを試みましょう。

 

 

 

 

 

 

AULD LANG SYNE

 

 波止場に於て、今や出帆しようとする船の上から、彼の合図をする人に注意せよ。きけ、どんな

 

悦ばしい告別が、どんな気の利いた挨拶(あいさつ)が、彼の見送りの人々にまで語られるか。

 

今や一つの精神は、海を越えて軟風の沖へ出帆する。されば健在であれ、親しき、懐かしき、また

 

敵意ある、敵意なき、正に私から“忘られようとしている”知己の人々よ。私は遠く行き、もはや君ら

 

と何の煩わしい交渉もないであろう。そして君らはまた、正に君らの陸地から立去ろうとする帆影

 

にまで、あのほっとした気軽さの平和――すべての見送人が感じ得るところの、あの気の軽々とし

 

た幸福――を感ずるであろう。

 

 

 

もはやそこには、何の鬱陶しい天気もなく、来るべき航海日和の、いかに晴々として麗らかに知覚

 

せらるることぞ。おお今、碇をあげよ水夫ども。おーるぼーと。……聴け! “あの”音楽は起る。

 

見送る人、見送られる人の感情にまで、さばかり涙ぐましい「忘却の悦び」を感じさせるところの、

 

あの古風なるスコットランドの旋律は!

 

 

 

Should auld acquaintance be forgot, and never
brought to mind

 

Should auld acquaintance be forgot, and days
of auld lang syne

 

 

 

(青空文庫より。「旧かな・旧漢字」を「新かな・新漢字」に改めたほか、改行・行空きを

 

加えました。傍点は“ “で示しました。編者。)

 

 

 

 

 

 

末尾に付録として置かれた「散文詩自註」も読んでおきましょう。

 

 

 

 

 

 

AULD LANG SYNE!   人は新しく生きるために、絶えず告別せねばならない。すべての古き親し

 

き知己から、環境から、思想から、習慣から。

 

 

 

 告別することの悦びは、過去を忘却することの悦びである。「永久に忘れないで」と、波止場に見

 

送る人々は言う。「永久に忘れはしない」と、甲板(デッキ)に見送られる人々が言う。だが両方とも、

 

意識の潜在する心の影では、忘却されることの悦びを知っているのだ。それ故にこそ、あの Auld

 

lang syne(蛍の光)の旋律が、古き事物や旧知に対する告別の悲しみを奏しないで、逆にその麗

 

らかな船出に於ける、忘却の悦びを奏するのである。

 

 

 

 

 

 

Auld Lang Syneは英語の「Old Long Since」を表わすスコットランド語。

 

日本では「オールド・ラング・ザイン」または「オールド・ラング・サイン」と発音され浸透しています。

 

 

 

 

 

 

Should auld acquaintance be forgot, and never
brought to mind

 

Should auld acquaintance be forgot, and days
of auld lang syne

 

――と朔太郎が引用したのは冒頭部。

 

 

 

Acquaintanceは、友人・知己のことですから

 

AuldOldがついて「古い友だち」「旧知」の意味になります。

 

 

 

be forgotは受身形で「忘れられる」。

 

 

 

 

 

 

小学校唱歌「蛍の光」を

 

朔太郎もよく聴いたり歌ったりもしたことがあるのでしょうが

 

軍歌調の「国」を歌った翻訳ではなく

 

あくまで原詩の「告別」に焦点を当てた散文詩に仕立てています。

 

 

 

 

 

 

「忘れないで!」「忘れるものか!」と

 

送る人も送られる人も口々に言う告別の風景の

 

「意識の潜在する心の影」(意識下)には

 

忘却の悦びが存在するのだ。

 

 

 

人は古い友人と別れることを通じて

 

新しい生活に踏み出す

 

 

 

何度も何度も

 

一生のうちで別れを繰り返す

 

 

 

別れ(告別)のない生は

 

古いままであり続ける

 

 

 

別れのない「時」などはなく

 

毎年毎年、大晦日はやってくるではないか。

 

 

 

告別は

 

過去を忘却する悦びをもたらすのである

 

――というようなことを

 

朔太郎は歌ったのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

意図して人を励ますような詩ではないようです。

 

朔太郎自身が深い暗鬱の中にあった「時」に

 

この詩は作られたようです。

 

 

 

光明は

 

告別の向うにかすかに見えるかのようです。

 

 

 

 

 

 

中原中也の「除夜の鐘」も

 

似たような「時」を歌っているようです。

 

 

 

どこがどのように似ているのかという問いに

 

答えることはできませんが

 

できたとしてもしないほうがよいはずの

 

同じ「時」が歌われているようです。

 

 

 

 

 

 

除夜の鐘

 

 

 

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

 

千万年も、古びた夜の空気を顫(ふる)わし、

 

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

 

 

 

それは寺院の森の霧(きら)った空……

 

そのあたりで鳴って、そしてそこから響いて来る。

 

それは寺院の森の霧った空……

 

 

 

その時子供は父母の膝下(ひざもと)で蕎麦(そば)を食うべ、

 

その時銀座はいっぱいの人出、浅草もいっぱいの人出、

 

その時子供は父母の膝下で蕎麦を食うべ。

 

 

 

その時銀座はいっぱいの人出、浅草もいっぱいの人出。

 

その時囚人は、どんな心持だろう、どんな心持だろう、

 

その時銀座はいっぱいの人出、浅草もいっぱいの人出。

 

 

 

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

 

千万年も、古びた夜の空気を顫わし、

 

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

 

 

 

(「新編中原中也全集 第1巻・詩Ⅰ」より。「新かな・新漢字」に変えてあります。編者。)

 

 

 

 

 

 

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