カテゴリー

2024年1月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« 2014年12月 | トップページ | 2015年2月 »

2015年1月

2015年1月31日 (土)

茨木のり子の「ですます調」その2・伝達の意志

(前回からつづく)

 

意識してわかりやすくやさしく書こうとするもの、

ワクワクドキドキさせ飽きさせないもの。

――という狙いは

茨木のり子の詩作のポリシーでもあったようですが

そのポリシーは散文において

より著しく実現されているようです。

 

 

「うたの心に生きた人々」中の「与謝野晶子」の章では

たとえば、

 

東京へでてからの鉄幹はめざましい活躍をし、二十二歳のときには「亡国の音」という歌論を新聞に発表して、宮内省系の古くさい歌人をやっつけました。

 

――といった歯切れのよい文章によく出合います。

 

なんの変哲もない素朴な文章でありそうですが

この文の終わりの「やっつけました」という書き方なんか

なんの気取りもなく勿体(もったい)ぶらない

ぶっきらぼうでさえある口調が

はっきりきっぱりした輪郭を生み出しています。

 

 

このような文は

いくらでも見つけることができます。

 

 

大ぜいの子どもたちは、ときに垢じみ、ときにパリッとしていたのです。

 

家計も苦しく、バス代もお手伝いさんから借りてゆく日さえあったのに「お金なんかなんだ!」

という心の張りをもって、すこしも貧乏のかげや、“しみ”を見せませんでした。

 

すべて手仕事でしたから、一つのびょうぶを仕上げるにもたいへんなことだったのでしょう。

身なりなどかまっていられず、大奮闘でした。

 

シベリア鉄道は十四日間もかかり、ことばは通ぜず、列車ボーイからチップばかり請求され、

手ちがいもあってお金もとぼしくなり、パンとコーヒーだけで最後の二日を過ごし、

へとへとになってパリにたどりつきました。

 

まさしく黄金の釘を、はっしと打って去った人でした。

 

(いずれもちくま文庫「うたの心に生きた人々」(所収「与謝野晶子」より。)

 

――といった具合です。

 

 

ここに「技」は

あるのではないか。

 

 

言葉をひねくりだそうとしていない。

 

最適の言葉を選ぼうとしてひねくりだしそこね

ぼやかしてしまうことへの恐れや反発があり

そうならないように注意を払う意識を働かしているのではないか。

 

選びに選んだ言葉が

かえって表現を限定し

スルリと肝腎要(かんじんかなめ)をぼかしてしまうような言葉遣いが

たとえば「美しい日本語」などにはよく見られることで

それを「言葉の綾」などといって称揚する傾向があることを

茨木のり子は排撃するのです。

 

そうしようとして

後にもどってはじめに浮んだ言葉を

そのまま書くというようなことを

意識している術であるようにさえ思えてきます。

 

 

そういう文ばかりでないことは勿論ですが

やさしくわかりやすくはっきりくっきりした文章を書こうとするねらいは

入門書、案内書である場合ですから

特に目立つということなのかもしれませんが

明らかにターゲット(読者)への伝達の意志(配慮)があります。

 

伝達を表現より大事にしていることでもあります。

 

 

そしてターゲットは

言葉そのものの面白さに目が開きかかった

青少年男女であり

そうでなくとも

言葉そのものを熟読玩味しようとする成年や老年までをも含みますから

それはインテリゲンチャーばかりではないのです。

 

 

これを文体と呼ぶならそう呼んでいいのですが

「高村光太郎」章中の「『智恵子抄』の背景」の終わりでは

智恵子が狂気を発症し死に至るまでを描き

あいまいさをみじんも残さないこの文体が

光太郎の心をけざやかにくっきりと浮き彫りにする言葉遣いが

息をのむように迫ってきます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2015年1月30日 (金)

茨木のり子の「ですます調」その1・書物初体験の記憶

茨木のり子の「うたの心に生きた人々」が単刊発行されたのは

1967年11月、「さ・え・ら書房」からでした。

 

それが「ちくま文庫」として発行されたのが

1994年9月。

 

「倚りかからず」(ちくま文庫)の「茨木のり子著作目録」では

1955年「対話」(不知火社)

1958年「見えない配達夫」(飯塚書店)

1965年「鎮魂歌」(思潮社)

――に続く4番目の著作と記されています。


1967年は茨木のり子41歳の年です。

 

 

現在も増刷を繰り返しているということで

人気は衰える気配もありません。

 

その理由は

彼女の作品を

詩であれ散文であれ

読んでみればすぐにわかろうというものです。

 

そのような経験を一つ

紹介しておきましょう。

 

 

茨木のり子が書いた現代詩への入門書は

1979年発行の「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書)がありますが

これより10年以上も前に

明治以後の詩人4人(与謝野晶子、高村光太郎、山之口貘、金子光晴)に絞った案内書がこの本で

ようやく最近になってここにたどり着き

夢中になって読んでいます。

 

その中で、

あ、これはどこかで覚えのある経験だなあ

なんだったかなあと自問するものがあり

なかなかその経験が思い出せないでいたところ

ふいに「少年少女○○物語」ってこういうのじゃなかったかな、と

懐かしくもよみがえってくる古い感情がありました。

 

 

赤胴鈴之助やまぼろし探偵やビリー・バックなどの紙の漫画本や

月光仮面や鉄腕アトムなどのテレビ番組より以前の

もっと古くて、ぼんやりかすんでしまった記憶の層にある

書物の初体験――。

 

それは少年画報とかの冒険活劇漫画だったのでしょうか。

 

漫画ではない

文字半分、挿絵半分の少年少女世界文学全集みたいなものだったのでしょうか。

 

記憶は混淆(こんこう)していて

錯綜(さくそう)していて

風化もしていますから定かではないのですが

茨木のり子の「ですます調」は

かなり古いこれらの書物体験の口ぶりを思い出させてくれたのです。

 

 

少年少女や青年男女向けに

意識してわかりやすくやさしく書こうとするもの、

ワクワクドキドキさせ飽きさせないものが

今読んでいる茨木のり子の「うた心に生きた人々」にありますし

かつて初めて読んだ「詩のこころを読む」にはありました。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2015年1月29日 (木)

三好達治の戦争詩について/「ことのねたつな」のたおやめぶり

(前回からつづく)

 

 

 

「ことのねたつな」に

 

「馬」は出てきません。

 

 

 

戦場の馬も

 

銃後の馬も

 

現われません。

 

 

 

 

 

 

いとけなきなれがをゆびに

 

かいならすねはつたなけれ

 

そらにみつやまとことうた

 

ひとふしのしらべはさやけ

 

つまづきつとだえつするを

 

おいらくのちちはききつつ

 

いはれなきなみだをおぼゆ

 

かかるひのあさなあさなや

 

もののふはよものいくさを

 

たたかはすときとはいへど

 

そらにみつやまとのくにに

 

をとめらのことのねたつな

 

 

 

(岩波文庫「三好達治詩集」より。)

 

 

 

 

 

 

「おんたまを故山に迎ふ」「列外馬」とともに

 

戦争を歌った詩として

 

岩波文庫「三好達治詩集」(桑原武夫、大槻鉄男編)が明示しているのが

 

この詩「ことのねたつな」です。

 

 

 

 

 

 

「ことのねたつな」のどこに戦争が歌われているかといえば

 

もののふはよものいくさを(武士は四方の戦を)

 

たたかはすときとはいへど(戦わす時とは言えど)

 

――という詩行で理解できるのですが

 

歌われているのは前線の様子ではなく

 

琴の稽古にいそしむ乙女(おとめ)への励ましです。

 

 

 

 

 

 

「おんたまを故山に迎ふ」と「列外馬」は

 

「艸千里」(昭和14年)に収められていますが

 

「ことのねたつな」は

 

「寒柝(かんたく)」(昭和18年)という戦争詩ばかりを集めた詩集にあり

 

同文庫は「寒柝」からこの詩1篇だけを採録しています。

 

 

 

 

 

 

全行をひらがなにした意図がどこにあるのか。

 

 

 

目を凝らして単語の区切りを見分け

 

意味を受け取るという作業そのものに

 

集中と緊張を強いられ

 

詩世界へ没入すること自体にストレスを設けることによって

 

そのストレスを突破して詩世界へ入ることに異化作用を生じさせる狙いなのか。

 

 

 

ひらがなで示された言葉の意味を理解するのは

 

一種、クロスワードパズルを解くときのような

 

心地よさがあるといったら的外れでしょうか。

 

 

 

「ことのねたつな」は

 

「琴の音絶つな」です。

 

 

 

 

 

 

たおやめぶりに加えて

 

きっかりとした五七調が流麗感を演出しています。

 

 

 

 

 

 

では「寒柝」は

 

このような「たおやめぶり」ばかりの詩に満ちているかというと

 

そうではありません。

 

 

 

タイトルだけを

 

挙げてみましょう。

 

 

 

 

 

 

賊風料峭

 

征戦五閲月

 

乾盃

 

日本の子供

 

われら銃後の少國民

 

梅林小歌

 

皇軍頌歌(一、讐ありき 二、ふる里は 三、萬里の外 四、この日暁、五、勝而不傲)

 

父母の野

 

無償の寶玉

 

軍艦旗

 

こぞのこの朝

 

軍神加藤建夫少将

 

霜晨

 

起て仏蘭西!

 

半宵に声あり

 

青き海見つ

 

寒柝

 

黄の翼緑の翼

 

櫻花繚乱

 

寒駅の昼

 

桃の花

 

老松讃

 

群雀

 

一握の砂

 

さくら

 

撃ちてし止まむ

 

某造船所に於て

 

十柱の神

 

至上の戦旗

 

草奔私唱(※短歌連作)

 

草奔私唱 又

 

あだ一歩近く来れり

 

いざゆかせ

 

葉月のあした

 

ことのねたつな

 

 

 

(筑摩書房「三好達治全集第2巻」より。)

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

2015年1月28日 (水)

三好達治の戦争詩について/「艸千里浜」の思われ人

(前回からつづく)

 

 

 

「艸千里浜」に

 

「二十年(はたとせ)の月日と」とあるのは

 

この詩が作られたのが1939年であるとして

 

1920年(大正9年)以降の年月ということになります。

 

 

 

 

 

 

岩波文庫「三好達治詩集」巻末の年譜を見ると

 

大正9年の項には

 

陸軍士官学校に入学とあり

 

大正11年には中退とあるのですが

 

大正4年には大阪陸軍地方幼年学校に入学(15歳)

 

大正7年に同校を卒業と同時に

 

東京陸軍中央幼年学校本科に進学

 

大正8年には同幼年学校本科の課程を修了し

 

北朝鮮会寧の工兵第19大隊に赴任

 

――といった軍人への経歴を積んでいることがわかります。

 

 

 

 

 

 

駒あそぶ高原(たかはら)の牧(まき)

 

 

 

「大阿蘇」の馬と違って

 

「艸干里浜」に現われる「駒」が遠景に退いたのは

 

20年前の友や思われ人が今やこの世に存在しないことの悲しみを意味するでしょう。

 

 

 

われをおきていずちゆきけむ

 

――は、わたくしを置いてどこへいってしまったのか

 

 

 

名もかなし

 

――には、愛(かな)しいのニュアンスがあります。

 

 

 

 

 

 

「大阿蘇」の馬は

 

雨の中に馬がたっている

 

馬は草をたべている

 

彼らは草をたべている

 

草をたべている

 

あるものはまた草もたべずに きょとんとしてうなじを垂れてたっている

 

馬は草をたべている

 

雨に洗われた青草を 彼らはいっしんにたべている

 

たべている

 

彼らはそこにみんな静かにたっている

 

ぐっしょりと雨に濡れて いつまでもひとつところに彼らは静かに集っている

 

――と、ひたすら立ち、食べ、集まっていることが描写されるだけで

 

そのことによって

 

「永遠の一瞬」という時間が捉えられました。

 

 

 

もしも百年が この一瞬の間にたったとしても 何の不思議もないだろう、と。

 

 

 

 

 

 

ただそれだけを歌うために現われた馬であることによって

 

その背後にある阿蘇山を大写しにした叙景詩でしたが

 

「艸千里浜」では人事が前面に歌われることになります。

 

 

 

 

 

 

「艸千里浜」の友や思われ人が

 

どのような人物を指しているのかを知れば

 

この詩はさらに近づいてくることでしょう。

 

 

 

そのことについて少しだけ触れておきます。

 

 

 

 

 

 

「艸千里」は

 

三好40歳の昭和14年(1939年)に刊行されました。

 

 

 

親友であった小説家、梶井基次郎が死んだのは

 

昭和7年(1932年)。

 

 

 

昭和11年(1936年)には「2.26事件」があり

 

陸軍幼年学校、陸軍士官学校で同志的存在だった西田税(みつぎ)が刑死しています。

 

 

 

「艸千里」の友や思われ人に

 

梶井基次郎や西田税らの面影があることは

 

間違いありません。

 

 

 

もちろんこのほかにも

 

三好の胸に去来した友や思われ人はあったかもしれませんが。

 

 

 

 

 

 

「大阿蘇」から「艸千里浜」へ

 

「艸千里浜」から「列外馬」へ。

 

 

 

「馬」というモチーフが接続してゆく流れは

 

この後どのようなうねりを見せるでしょうか。

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

大阿蘇

 

 

 

雨の中に馬がたっている

 

一頭二頭仔馬をまじえた馬の群れが 雨の中にたっている

 

雨は蕭々(しょうしょう)と降っている

 

馬は草をたべている

 

尻尾も背中も鬣(たてがみ)も ぐっしょりと濡れそぼって

 

彼らは草をたべている

 

草をたべている

 

あるものはまた草もたべずに きょとんとしてうなじを垂れてたっている

 

雨は降っている 蕭々と降っている 

 

山は煙をあげている

 

中嶽(なかだけ)の頂きから うすら黄ろい 重っ苦しい噴煙が濛々(もうもう)とあがっている

 

空いちめんの雨雲と

 

やがてそれはけじめもなしにつづいている

 

馬は草をたべている

 

艸千里浜のとある丘の

 

雨に洗われた青草を 彼らはいっしんにたべている

 

たべている

 

彼らはそこにみんな静かにたっている

 

ぐっしょりと雨に濡れて いつまでもひとつところに彼らは静かに集っている

 

もしも百年が この一瞬の間にたったとしても 何の不思議もないだろう

 

雨が降っている 雨が降っている

 

雨は蕭々と降っている

 

 

 

 

 

 

艸干里浜

 

 

 

われ嘗てこの国を旅せしことあり

 

昧爽(あけがた)のこの山上に われ嘗て立ちしことあり

 

肥(ひ)の国の大阿蘇(おおあそ)の山

 

裾野には青艸しげり

 

尾上には煙なびかう 山の姿は

 

そのかみの日にもかわらず

 

環(たまき)なす外輪山(そとがきやま)は

 

今日もかも

 

思出の藍にかげろう

 

うつつなき眺めなるかな

 

しかはあれ

 

若き日のわれの希望(のぞみ)と

 

二十年(はたとせ)の月日と 友と

 

われをおきていずちゆきけむ

 

そのかみの思われ人と

 

ゆく春のこの曇り日や

 

われひとり齢(よわい)かたむき

 

はるばると旅をまた来つ

 

杖により四方(よも)をし眺む

 

肥の国の大阿蘇の山

 

駒あそぶ高原(たかはら)の牧(まき)

 

名もかなし艸千里浜(くさせんりはま)

 

 

 

(岩波文庫「三好達治詩集」より。現代表記に直しました。編者。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年1月27日 (火)

三好達治の戦争詩について/「列外馬」と阿蘇平原の馬

(前回からつづく)

 

 

 

「列外馬」は口語散文詩ですから

 

新かな表記に直したほうが読みやすく

 

現代感がよみがえります。

 

 

 

旧かなでは

 

現代に通じるパワーが小さいのです。

 

 

 

 

 

 

この詩は

 

どこかで目にした記憶があり

 

「三好達治詩集」(岩波文庫)をめくってみると

 

霾(ばい)」の項があり

 

中に「大阿蘇」があり

 

もう少しめくっていると

 

千里」の中の「千里浜」も阿蘇平原の馬をモチーフに現われ

 

制作年次が異なる「阿蘇の馬」を歌った作品であることがわかります。

 

 

 

大阿蘇のカルデラ平原に降る雨の下に群なす馬は

 

徴用され戦場に駆り出されて

 

病を得て廃馬とされ

 

いまや阿蘇ならぬどこかの草地に捨てられています。

 

 

 

ここに連続を見られるかどうか

 

実証できるものではありませんが

 

無関係であると言い切れないことは確かです。

 

 

 

 

 

 

三好は昭和14年(1939年)に、

 

合本詩集「春の岬」と第6詩集「艸千里」の2冊の詩集を刊行します。

 

 

 

「春の岬」は

 

測量船」「霾」「南窗集」「閒花集」「山果集」の単行詩集を合本にしたもの。

 

1930年から1939年までの三好達治の初期作品が集められました。

 

 

 

 

 

 

「霾」は音読みで「ばい」、訓読みで「つちけむり」。

 

中国大陸北部の黄土が吹き上げられ

 

季節風にのって空を黄褐色に染める。

 

 

 

日本にも飛来し「黄砂」となることはよく知られていますが

 

「霾」は俳句で春を示す季語であり

 

俳句に通じる詩人の自然志向を示すものでしょう。

 

 

 

 

 

 

「霾」に収められた「大阿蘇」と

 

「艸千里」に収められた「艸千里浜」を読んでみましょう。

 

 

 

 

 

 

大阿蘇

 

 

 

雨の中に馬がたっている

 

一頭二頭仔馬をまじえた馬の群れが 雨の中にたっている

 

雨は蕭々(しょうしょう)と降っている

 

馬は草をたべている

 

尻尾も背中も鬣(たてがみ)も ぐっしょりと濡れそぼって

 

彼らは草をたべている

 

草をたべている

 

あるものはまた草もたべずに きょとんとしてうなじを垂れてたっている

 

雨は降っている 蕭々と降っている 

 

山は煙をあげている

 

中嶽(なかだけ)の頂きから うすら黄ろい 重っ苦しい噴煙が濛々(もうもう)とあがっている

 

空いちめんの雨雲と

 

やがてそれはけじめもなしにつづいている

 

馬は草をたべている

 

艸千里浜のとある丘の

 

雨に洗われた青草を 彼らはいっしんにたべている

 

たべている

 

彼らはそこにみんな静かにたっている

 

ぐっしょりと雨に濡れて いつまでもひとつところに彼らは静かに集っている

 

もしも百年が この一瞬の間にたったとしても 何の不思議もないだろう

 

雨が降っている 雨が降っている

 

雨は蕭々と降っている

 

 

 

 

 

 

艸干里浜

 

 

 

われ嘗てこの国を旅せしことあり

 

昧爽(あけがた)のこの山上に われ嘗て立ちしことあり

 

肥(ひ)の国の大阿蘇(おおあそ)の山

 

裾野には青艸しげり

 

尾上には煙なびかう 山の姿は

 

そのかみの日にもかわらず

 

環(たまき)なす外輪山(そとがきやま)は

 

今日もかも

 

思出の藍にかげろう

 

うつつなき眺めなるかな

 

しかはあれ

 

若き日のわれの希望(のぞみ)と

 

二十年(はたとせ)の月日と 友と

 

われをおきていずちゆきけむ

 

そのかみの思われ人と

 

ゆく春のこの曇り日や

 

われひとり齢(よわい)かたむき

 

はるばると旅をまた来つ

 

杖により四方(よも)をし眺む

 

肥の国の大阿蘇の山

 

駒あそぶ高原(たかはら)の牧(まき)

 

名もかなし艸千里浜(くさせんりはま)

 

 

 

(岩波文庫「三好達治詩集」より。現代表記に直しました。編者。)

 

 

 

 

 

 

「大阿蘇」は馬に焦点はあり

 

艸千里浜」は今は亡き友を偲ぶ歌のようですから

 

この二つの詩の馬には

 

主役(近景)と脇役(遠景)ほどの違いがあります。

 

 

 

この違いは

 

どこから来るものでしょうか?

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

2015年1月26日 (月)

三好達治の戦争詩について/「列外馬」の背景

(前回からつづく)

 

 

 

「三好達治詩集」(岩波文庫、桑原武夫・大槻鉄男選、1971年第1刷発行)の解説で

 

「意味深い作品」として挙げられ

 

特別に収録された戦争詩は

 

「おんたまを故山に迎ふ」のほかに、

 

「列外馬」、「ことのねたつな」などがあります。

 

(※「など」とあるのは、戦争を歌った詩が明示されたこれら3作のほかにもあることを示しているようですが、それがどの詩であるのかは不明です。)

 

 

 

次に

 

「艸千里」にある散文詩「列外馬」を読んでみましょう。

 

 

 

 

 

 

列外馬

 

 

 

遠く砲声が轟(とどろ)いている。声もなく降りつづく雨の中に、遠く微かに、重砲の声が轟いている。1発また1発、間遠な間隔をおいて、漠然とした方角から、それは10里も向うから聞えてくる。灰一色(はいいっしょく)の空の下に、それは今朝から、いやそれは昨日からつづいている。雨は10日も降っている。広袤(こうぼう)無限の平野の上に、雨は蕭々と降りつづいている。

 

 

 

ここは泥濘(ぬかるみ)の路である。たわわに稔った水田の間を、路はまっ直ぐ走っている。黄熟した稲の穂は、空しく収穫の時期を逸して、風に打たれて既に向き向きに仆(たお)れている。見渡すかぎり路の左右にうちつづいた、その黄金色(こがねいろ)のほのかな反射の明るみは、密雲にとざされたこの日の太陽が、はや空の高みを渡り了って吊瓶(つるべ)落しに落ちてゆく。午後の時刻を示している。

 

 

 

今ここに一頭の馬――廃馬が佇んでいる。それは廃馬、すっかり馬具を取除かれて路の上に抛り出された列外馬である。それは蹄(ひづめ)を泥に没してきょとんとそこに立っている。それは今うな垂れた馬首を南の方へ向けている。恐らくそれは北の方から、今朝(それとも昨日……)この路の上を一群の仲間と共に南に向かって進軍を続けてきたものであろう。そうしてここで、その重い軛(くびき)から解き放たれて、

 

――とうとうこいつも駄目になった、いいから棄てて行け。

 

 

 

そんな言葉と一緒に、今彼の立っているその泥濘の上に、すっかり裸にされた上で抛り出されたものであろう。そうして間もなく、その時まで彼もまたその一員だったその一隊の軍隊は、再び南の方へと進軍を起して、やがて遠く彼の視界を越えて地平に没し去ったのであろう。

 

 

 

激しい掛け声も、容赦ない柏車(はくしゃ)も鞭打ちも、ついに彼を励まし促し立てることの出来なくなった時、彼はここに棄てられたのである。彼にも急速が与えられた。そうして最後に休息の与えられたその位置に、彼はいつまでも南を向いて立っている、立ちつくしている。尻尾一つ動かそうとするでもなく、ただぐったりと頭を垂れて。

 

 

 

見給え、その高く聳(そび)えた腰骨を、露わな助骨を、無慙な鞍傷を。膝のあたりを縛った繃帯にも既に黝ずんだ血糊がにじんでいるではないか。

 

 

 

たまたまそこへ1台の自動車が通りかかった。自動車はしきりに警笛の音をたてた。彼はそれにも無関心で、車の行手に立ち塞がったまま、ただその視線の落ちたところの路面をじっと見つめていた。車はしずかに彼をよけて通りすぎなければならなかった。

 

 

 

広漠とした平野の中の、彼はそうしていつまでも立ちつくしていた。勿論彼のためには飢えを満すべき一束の枯草も、風雨を避くべき厩舎もない。それらのものが今彼に与えられたところで、もはやそれが何にならう、彼には既に食慾もなく、いたわるべき感覚もなくなっていたに違いない。

 

 

 

それは既に馬ではなかった。ドラクロアの「病馬」よりも一層怪奇な姿をした、ぐっしょり雨に濡れたこの生き物は。この泥まみれの生き物は、生あるものの一切の意志を喪いつくして、そうしてそのことによって、影の影なるものの一種森厳な、神秘的な姿で、そこに淋しく佇んでいた。それは既に馬ではなかった、その覚束ない脚の上にわずかに自らを支えている、この憐れな、孤独な、平野の中の点景物は。

 

 

 

折からまた20人ばかりの小部隊が彼の傍らを過ぎていった。兵士達は彼の上に軍帽のかげから憐憫(れんびん)の一瞥(いちべつ)を投げ、何か短い言葉を口の中で呟いて、そうしてそのまま彼を見捨てて、もう一度彼の姿をふりかえろうともせず、蕭然と雨の中を進んでいた。

 

 

 

雨は声もなく降りつづいている、小止みもなく、雨は10日も降っている。

 

 

 

やがて時が来るだろう、その傷ついた膝を、その虔(つつ)ましい困憊(こんぱい)しきった両膝を泥の上に跪(ひざま)づいて、そうして彼がその労苦から彼自身をとり戻して、最後の憩いに就く時がやがて間もなく来るだろう。

 

 

 

遠く重砲の音、近く流弾の声。

 

 

 

(読みやすくするために、旧かなを新かなに変え、原詩の改行部に1行空きを加えました。適宜、漢数字を洋数字に改めました。編者。)

 

 

 

 

 

 

軍馬として用をなさなくなった廃馬が

 

軍列から離され

 

列の外に捨て去られるのを「列外馬」という。

 

 

 

聞きなれない言葉は

 

かつて陸軍士官学校を中退した詩人こそが知る専門語であったか。

 

 

 

一般人も普通に知っていたものか。

 

 

 

表意文字である漢字に親しい日本人なら

 

容易に意味を理解するところの言葉でしょうけれど

 

やはりこれは戦争の馬なのです。

 

 

 

 

 

 

比較的に長い詩ですが

 

きわめて分かりやすい内容なのは

 

1頭の馬が雨の降る平原に立っているという

 

それだけのことの描写とそのわずかな背景を歌っているからでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

馬の立っているところに

 

 

 

 

 

自動車が通り

 

 

 

重砲、銃弾の音が聞えるというのですから

 

この戦地は大陸のどこかのものなのでしょうか。

 

 

 

それとも、

 

市街地をひかえた

 

どこかの軍事基地か練兵場近辺の平原なのでしょうか。

 

 

 

ドラクロアの絵の引例がありますから

 

西欧の小説などから詩想を得たということもあるかもしれません。

 

 

 

いずれであっても

 

この馬はまた

 

日華事変や満州事変に由来するものなのでしょう。

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

 

2015年1月24日 (土)

三好達治の戦争詩について/「おんたまを故山に迎ふ」その3

 

 

 

 

 

 

(前回からつづく)

 

 

 

 

 

月また雲のたえまを駆け(=月が雲間に走るように見え隠れし)

 

さとおつる影のはだらに(=さっと落ちて影がまだら状になっている地上に)

 

ひるがへるしろきおん旌(はた)(=翻っている白い御旗)

 

われらがうたのほめうたのいざなくもがな(=われらが歌う褒め歌などないほうがよいがなあ)

 

ひとひらのものいはぬぬの(=一枚の物言わぬ布切れが)

 

いみじくも ふるさとの夜かぜにをどる(=なんと心に迫るものか、ふるさとの夜風に踊る)

 

うへなきまひのてぶりかな(=極上の舞の手振りであることよ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第5連に現われる「白い旗」は

 

われらがうたのほめうたのいざなくもがな

 

――と歌われるくだりが晦渋で

 

読み過ごせない重要なところですが

 

「いざなくもがな」に立ち止まざるを得ません。

 

 

 

 

 

「もがな」は願望を表わす終助詞で「……であってほしい」の意味であるなら

 

「なくもがな」は「……でなくありたい」になりますから

 

そこに「いざ」という感動詞が加えられても強調するくらいのことで

 

「さて、ないほうがよろしかろう」の意味になり、

 

「われらが歌う褒め歌などないほうがよい」と読めます。

 

 

 

 

 

こう読んでいいものか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全7連構成のうちのこの連(第5連)のこの行は

 

さりげなく目立ちませんが

 

ひねり出したような言葉使いを感じさせ

 

この詩への詩人のたくらみ(技)があるところ(のよう)です。

 

 

 

 

 

死んだ兵士をいくら褒めたところで

 

それは空しい

 

――という詩人の心の声がひょっこり現われたところ(のよう)です。

 

 

 

 

 

月が雲の陰になり

 

また現われては地上にまだらの影を作る

 

そこに白い旗が風に靡(なび)くのは

 

あれはまるで

 

そこに死者が息づいているのを見ているようだ。

 

 

 

 

 

そのひと時に浸(ひた)っているだけで十分である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「白い旗(旌)」は

 

棒切れに白い布をくくりつけたような粗末なものであったか

 

弔いのために村で用意してあるしっかりしたものであったか

 

どちらであっても

 

その旗は

 

物言わずに

 

折から吹き渡る夜風に揺れている様(さま)が

 

この上もなく(心のこもった)手振りの舞であると歌われるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第6連そして最終連は、

 

 

 

かへる日をたのみたまはでありけらし(帰る日を願うこともないようでした)

 

――と出征していった兵士(第1連)が

 

思いのすべてを果たして

 

何物を余すというのか(何も余さず)

 

残すところもなく肉体を投げうって

 

遺骨ばかりがお帰りになった

 

 

 

 

 

二つとない祖国、二つとない命どころか

 

妻も子も親族までも捨てて

 

出征したあの兵士であることの

 

わずかな印だけである御骨(おほね)がお帰りになった

 

――と歌われるのですが

 

ここは詩のはじまりを繰り返すようでありながら

 

単なる繰り返し(ルフラン)を歌っているのではありません。

 

 

 

 

 

帰らないと誓った兵士は

 

骨になって無言で帰還したのですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この詩は

 

その悲しみに寄り添いその悲しみを歌い

 

村人たちのその悲しみを慰める歌であり

 

兵士の御霊(おんたま)を鎮(しず)める歌です。

 

 

 

 

 

その点に絞って(他意はないように)読むことができますが

 

それではこの詩は

 

この詩が書かれた時代や時局と無縁に成立したのでしょうか。

 

 

 

 

 

そんなはずはありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おんたまを故山に迎ふ」は

 

昭和14年(1939年)に刊行された第6詩集「艸千里」に収められています。

 

 

 

 

 

ということは

 

この詩の戦争は

 

太平洋戦争や第2次世界大戦のことではありません。

 

 

 

 

 

それらへと続く時代のはじまりを告げた

 

満州事変とか日華事変とかの戦争のことです。

 

 

 

 

 

いずれにしても

 

抽象的、観念的な戦争なのではなく

 

実際にあったリアルな戦争の1局面(銃後などという言葉があります)を歌ったもので

 

そのことを離れて読んでは詩を遠ざけることになるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「艸千里」を三好が刊行した昭和14年に

 

三好は40歳。

 

 

 

 

 

日華事変は2年前の昭和12年、

 

満州事変は昭和6年でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おんたまを故山に迎ふ



 

ふたつなき祖国のためと

 

ふたつなき命のみかは

 

妻も子もうからもすてて

 

いでまししかの兵(つは)ものは つゆほども

 

かへる日をたのみたまはでありけらし

 

はるばると海山こえて

 

げに

 

還る日もなくいでましし

 

かのつはものは

 


この日あきのかぜ蕭々と黝(くろず)みふく

 

ふるさとの海べのまちに

 

おんたまのかへりたまふを

 

よるふけてむかへまつると

 

ともしびの黄なるたづさへ

 

まちびとら しぐれふる闇のさなかに

 

まつほどし 潮騒(しほさゐ)のこゑとほどほに

 

雲はやく

 

月もまたひとすぢにとびさるかたゆ 瑟々(しつしつ)と楽の音きこゆ

 


旅びとのたびのひと日を

 

ゆくりなく

 

われもまたひとにまじらひ

 

うばたまのいま夜のうち

 

楽の音はたえなんとして

 

しぬびかにうたひつぎつつ

 

すずろかにちかづくものの

 

荘厳のきはみのまへに

 

こころたへ

 

つつしみて

 

うなじうなだれ

 


国のしづめと今はなきひともうなゐの

 

遠き日はこの樹のかげに 閧(とき)つくり

 

讐(あだ)うつといさみたまひて

 

いくさあそびもしたまひけむ

 

おい松が根に

 

つらつらとものをこそおもへ

 


月また雲のたえまを駆け

 

さとおつる影のはだらに

 

ひるがへるしろきおん旌(はた)

 

われらがうたのほめうたのいざなくもがな

 

ひとひらのものいはぬぬの

 

いみじくも ふるさとの夜かぜにをどる

 

うへなきまひのてぶりかな

 


かへらじといでましし日の

 

ちかひもせめもはたされて

 

なにをかあます

 

のこりなく身はなげうちて

 

おん骨はかへりたまひぬ

 


ふたつなき祖国のためと

 

ふたつなき命のみかは

 

妻も子もうからもすてて

 

いでまししかのつはものの

 

しるしばかりの おん骨はかへりたまひぬ

 

 

 

 

 

(岩波文庫「三好達治詩集」より。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年1月23日 (金)

三好達治の戦争詩について/「おんたまを故山に迎ふ」その2

(前回からつづく)

 

 

 

「おんたま」とは

 

「御霊」か「御魂」のことか

 

 

 

「御霊=みたま」ならよく聞き

 

「たましい」に尊敬の意味を強めて使うのであろうことぐらいと

 

何かの折に自分でも使えるような気がしますが

 

「おんたま」となると

 

かしこまりすぎて

 

なかなか普段は使えるものでなく

 

一般人には遠い言葉です。

 

 

 

 

 

 

三好達治は

 

出征した兵士が遺骨となって帰郷した光景を

 

偶々(たまたま)通りかかった旅の途上で見たのでしょうか。

 

 

 

実際に見たものでないのかもしれませんが

 

帰還した御遺骨を迎えるどこかの村(人)に託して

 

自らの鎮魂歌としたのでしょうか。

 

 

 

はじまりは、たましい(魂)として登場し

 

終わりには、おほね(骨)として現われて

 

目に見えない魂が

 

やがてリアルな遺骨であることを歌った詩です。

 

 

 

そのような歌い方をされている詩です。

 

 

 

 

 

 

もう一度読んでみましょう。

 

 

 

 

 

 

おんたまを故山に迎ふ



 

ふたつなき祖国のためと

 

 

 

ふたつなき命のみかは

 

妻も子もうからもすてて

 

いでまししかの兵(つは)ものは つゆほども

 

かへる日をたのみたまはでありけらし

 

はるばると海山こえて

 

げに

 

還る日もなくいでましし

 

かのつはものは

 


この日あきのかぜ蕭々と黝(くろず)みふく

 

ふるさとの海べのまちに

 

おんたまのかへりたまふを

 

よるふけてむかへまつると

 

ともしびの黄なるたづさへ

 

まちびとら しぐれふる闇のさなかに

 

まつほどし 潮騒(しほさゐ)のこゑとほどほに

 

雲はやく

 

月もまたひとすぢにとびさるかたゆ 瑟々(しつしつ)と楽の音きこゆ

 


旅びとのたびのひと日を

 

ゆくりなく

 

われもまたひとにまじらひ

 

うばたまのいま夜のうち

 

楽の音はたえなんとして

 

しぬびかにうたひつぎつつ

 

すずろかにちかづくものの

 

荘厳のきはみのまへに

 

こころたへ

 

つつしみて

 

うなじうなだれ

 


国のしづめと今はなきひともうなゐの

 

遠き日はこの樹のかげに 閧(とき)つくり

 

讐(あだ)うつといさみたまひて

 

いくさあそびもしたまひけむ

 

おい松が根に

 

つらつらとものをこそおもへ

 


月また雲のたえまを駆け

 

さとおつる影のはだらに

 

ひるがへるしろきおん旌(はた)

 

われらがうたのほめうたのいざなくもがな

 

ひとひらのものいはぬぬの

 

いみじくも ふるさとの夜かぜにをどる

 

うへなきまひのてぶりかな

 


かへらじといでましし日の

 

ちかひもせめもはたされて

 

なにをかあます

 

のこりなく身はなげうちて

 

おん骨はかへりたまひぬ

 


ふたつなき祖国のためと

 

ふたつなき命のみかは

 

妻も子もうからもすてて

 

いでまししかのつはものの

 

しるしばかりの おん骨はかへりたまひぬ

 

 

 

(岩波文庫「三好達治詩集」より。)

 

 

 

 

 

 

詩は

 

旅人の目で御霊の帰還をとらえますが

 

「おんたまを故山に迎ふ」のタイトルが示すように

 

この旅人は「迎える」主体でもあります。

 

 

 

秋風が蕭々と吹き

 

時雨降る闇

 

潮騒(しおさい)が聞える海辺

 

 

 

雲の流れは速く

 

月もそれに連れて飛び去っていく空の果てから

 

瑟々(しつしつ)と楽の音が聞えて来ます

 

 

 

村人の葬送の列が

 

笛太鼓(?)を演奏する音が

 

詩人に近づいているのでしょう

 

 

 

こころたへ

 

つつしみて

 

うなじうなだれ

 

 

 

――の主格は詩人その人でしょう。

 

 

 

 

 

 

死んでしまった兵士も

 

幼き日には

 

この老松の根元で遊び

 

「あだをうつぞー」と鬨の声をあげて

 

戦争ごっこに興じたことがあったであろう

 

――と故人を思い返す人になっています。

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

 

2015年1月21日 (水)

三好達治の戦争詩について/「おんたまを故山に迎ふ」

(前回からつづく) 

 

寺田透が朔太郎の戦争詩に言及したのですから

ここで三好達治の戦争詩についても

触れておくのは義務のようなことでしょう。

 

寺田がそれをやってくれれば文句はなかったのですが

そこまでは「管見」で展開されるはずはありませんでした。

 

 

 ですからここで(このブログで)

少しだけそれに触れておきましょう。

 

 

 

「氷島」を読むきっかけは

 

そもそも三好の「氷島」否定の「解説」にありましたし

 

多量の戦争詩を書いた三好が

 

戦後も「朔太郎読み」では第一人者の位置にあり続け

 

一般読者向けの文庫本の解説者に起用され続けている(現在も!)ことに

 

異和感を覚えるからでもありましたし。

 

 

 

 

 

 

今年2015年は

 

三好達治没後50年ということで

 

(TPPの行方次第で危ういものがありますが)

 

三好の著作権の保護期間が終了する年ですし、

 

また戦後70年ということで

 

文学者の戦争責任への議論が活発になることも予想されますが

 

そういうこととは別にしても

 

三好達治の詩作品は

 

戦争と深く関っていますから

 

じっくりと読んでおきたいというのが

 

このブログのスタンスです。

 

 

 

 

 

 

といっても

 

文学とか評論とか批判とかをするつもりも余裕も力量もなく

 

あくまでも一読者の鑑賞メモほどのことであることに変わりありません。

 

 

 

 

 

 

岩波文庫の「三好達治詩集(桑原武夫・大槻鉄男選」」(1971年第1刷発行)は

 

解説を三好の三高時代の学友・桑原武夫が書いていますが

 

その末尾に、

 

 

 

戦争詩は収録しなかった。しかし「おんたまを故山に迎ふ」、「列外馬」、「ことのねたつな」などは

 

意味深い作品であるので、とくに採用した。

 

――とあるのは、

 

これらの詩が戦争詩であることをあきらかにした上で収録したという意味のはずです。

 

 

 

ここに挙げられている3作には

 

どうしてでも目を通しておかないわけにはいきません。

 

 

 

読むというより

 

まずは目を通しておくことからはじめてみます。

 

 

 

今回は「おんたまを故山に迎ふ」です。

 

 

 

 

 

 

おんたまを故山に迎ふ


 

ふたつなき祖国のためと

 

ふたつなき命のみかは

 

妻も子もうからもすてて

 

いでまししかの兵(つは)ものは つゆほども

 

かへる日をたのみたまはでありけらし

 

はるばると海山こえて

 

げに

 

還る日もなくいでましし

 

かのつはものは

 


この日あきのかぜ蕭々と黝(くろず)みふく

 

ふるさとの海べのまちに

 

おんたまのかへりたまふを

 

よるふけてむかへまつると

 

ともしびの黄なるたづさへ

 

まちびとら しぐれふる闇のさなかに

 

まつほどし 潮騒(しほさゐ)のこゑとほどほに

 

雲はやく

 

月もまたひとすぢにとびさるかたゆ 瑟々(しつしつ)と楽の音きこゆ

 


旅びとのたびのひと日を

 

ゆくりなく

 

われもまたひとにまじらひ

 

うばたまのいま夜のうち

 

楽の音はたえなんとして

 

しぬびかにうたひつぎつつ

 

すずろかにちかづくものの

 

荘厳のきはみのまへに

 

こころたへ

 

つつしみて

 

うなじうなだれ

 


国のしづめと今はなきひともうなゐの

 

遠き日はこの樹のかげに 閧(とき)つくり

 

讐(あだ)うつといさみたまひて

 

いくさあそびもしたまひけむ

 

おい松が根に

 

つらつらとものをこそおもへ

 


月また雲のたえまを駆け

 

さとおつる影のはだらに

 

ひるがへるしろきおん旌(はた)

 

われらがうたのほめうたのいざなくもがな

 

ひとひらのものいはぬぬの

 

いみじくも ふるさとの夜かぜにをどる

 

うへなきまひのてぶりかな

 


かへらじといでましし日の

 

ちかひもせめもはたされて

 

なにをかあます

 

のこりなく身はなげうちて

 

おん骨はかへりたまひぬ

 


ふたつなき祖国のためと

 

ふたつなき命のみかは

 

妻も子もうからもすてて

 

いでまししかのつはものの

 

しるしばかりの おん骨はかへりたまひぬ

 

 

 

(岩波文庫「三好達治詩集」より。) 

 

 

 

 

 

 

とりあえずは

 

こんな詩であるという案内です。

 

 

 

 

 

 

文語詩であり、歴史的かな遣いであるのを

 

ここで現代かな遣いへ直すことをためらうのは

 

古語表現を敢えて現代表記に直す意味はうすいものと考えるからです。

 

 

 

文語詩を選択した時点で

 

現代人への浸透を狭めているという認識は

 

このブログのものでありますが

 

だからといって現代表記への変更を強行するものではありません。

 

 

 

 

 

 

ついでにここで言っておきますが

 

中原中也の詩や散文を案内するときに

 

極力、現代表記に直しているのは

 

そうすることで中也の作品が現代(人)に何ら異和感なく通じるものだからです。

 

 

 

 

 

 

もう一つついでに言っておきますが

 

目下読み込んでいる茨木のり子の評論集「うたの心に生きた人々」(ちくま文庫)は

 

与謝野晶子、高村光太郎、山乃口貘、金子光晴の4人の詩人を紹介していますが

 

「はじめに」で茨木が、

 

 

 

うた・詩は、ほとんどが旧かなづかいでしたので、

 

新かなづかいに変えて引用させていただいたことを、おことわりしておきます。

 

 

 

――と書いているのに遭遇して

 

あらためて意を強くしました。

 

 

 

 

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

2015年1月19日 (月)

寺田透の「氷島」支持論11/戦争詩「南京陥落の日に」へ一言

(前回からつづく)

 

 

 

「氷島」は「月に吠える」や「青猫」の詩世界を自ら否定し

 

自然主義の末流に行き着いたものでありながらも

 

そのことは詩心の涸渇に結びつくものではなく

 

それどころか

 

詩の究極のイデヤに近づいた

 

――というのが寺田透の鑑賞ということになりますが

 

この「朔太郎管見」の結びで

 

これだけは言っておかなければならないという主張を込めるかのように

 

朔太郎の戦争詩「南京陥落の日に」について

 

一言、コメントを加えます。

 

 

 

 

 

 

「氷島」の詩境へ舵(かじ)を切った朔太郎が

 

では「南京陥落の日に」を書いたのは必然だったと見られるかもしれない。

 

 

 

この詩は

 

杜子美(杜甫)風の、

 

軍旅の苦痛に寄せた憂いの詠唱にはじまり

 

強い響きをもたない祝賀の言葉で終わる戦争肯定詩であることは確かである

 

――という読みを示した寺田は

 

しかし、と言って

 

朔太郎がこれを制作した頃を振り返って

 

思い返すのです。

 

 

 

これは詩人が昭和12年というその時に

 

なお生きていたために起こった偶発事に過ぎなかったものではないか、と。

 

 

 

かれは、朝日新聞に出たこの詩のほかに

 

戦争詩を書いていないのである、と。

 

 

 

 

 

 

「氷島」と直接関係することではなく、

 

紙数も尽きてしまったということもあるでしょうが

 

「南京陥落の日に」を読めば一目瞭然の

 

「だるい」「気乗りのしない」詩は

 

「氷島」詩篇の「鬼気」といっこうに繋(つな)がりません。

 

 

 

「朔太郎管見」の中に引用し

 

比較を試みれば

 

その異なり具合ははっきりしたことでしょう。

 

 

 

 

 

 

寺田透の論考の案内を

 

「南京陥落の日に」を読みながらおしまいにします。

 

 

 

 

 

 

南京陥落の日に

 


歳まさに暮れんとして
兵士の銃剣は白く光れり。
軍旅の暦は夏秋をすぎ
ゆうべ上海を拔いて百千キロ。
わが行軍の日は憩わず
人馬先に争い走りて
輜重は泥濘の道に続けり。
ああこの曠野に戦うもの
ちかって皆生帰を期せず
鉄兜きて日に焼けたり。

天寒く日は凍り
歳まさに暮れんとして
南京ここに陥落す。
あげよ我等の日章旗
人みな愁眉をひらくの時
わが戦勝を決定して
よろしく万歳を祝うべし。
よろしく万歳を叫ぶべし。

 

(「青空文庫」より。現代表記に変えました。編者。)

 

 

 

 

 

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

2015年1月18日 (日)

寺田透の「氷島」支持論10/「蝶を夢む」にはじまる

(前回からつづく)

 

 

 

「愛憐詩篇」の序文には、

 

やさしい純情にみちた過去の日を記念するために、このうすい葉っぱのような詩集を出すことにした。(略) この詩集を世に出すのは、改めてその鑑賞的評価を問うためではなく、まったく私自身への過去を追憶したいためである。あるひとの来歴に対するのすたるじやとも言えるだろう

 

 

 

――とあり、

 

 

 

 

 

 

 

「氷島」には、

 

……著者は、すべての芸術的野心を廃棄し、単に「心のまま」に、自然の感動に任せて書いたのである。したがって著者は、決して自ら、その詩集の価値を世に問おうと思って居ない。この詩集の正しい批判は、おそらく芸術品であるよりも、著者の実生活の記録であり、切実に書かれた心の日記であるのだろう

 

 ――とあります。

 

(現代表記に直してあります。編者。)

 

 

 

 

 

 

ここに見られるように

 

「来歴」と「心の日記」は

 

老若の差、

 

乾湿の差、

 

甘美辛苦の差はあっても

 

骨組みは符号している

 

――と読めるでしょう。

 

 

 

 

 

 

「氷島」への寺田の読み解きは

 

このあたりでほぼ終えられるのですが

 

結びに「氷島」の詩風は朔太郎の作品歴のいつごろ芽生えたのだろうか

 

――という問いを加えます。

 

 

 

「氷島」と「愛憐詩篇」の序文に述べられている内容が相似していても

 

「氷島」の詩篇を作らせた詩風や詩法が

 

なお具体的に実作としてはじめられたのはいつのどの詩(集)なのか

 

 

 

その見当をつけようとします。

 

 

 

 

 

 

「郷土望景詩」には

 

パテティックで慷慨調である点で

 

「氷島」を予感させるものがあるけれど

 

もう少し遡(さかのぼ)って

 

「蝶を夢む」にはじまりがある

 

――というのが寺田の主張です。

 

 

 

 

 

 

それを例証するために取り出されるのが

 

「蝶を夢む」中の「まずしき展望」です。

 

 

 

げにきょうの思いは悩みに暗く
そはおもたく沼地に渇きて苦痛なり
いずこに空虚のみつべきありや
風なき野道に遊戯をすてよ
われらの生活は失踪せり。

 

――という「まずしき展望」の後半部ですが

 

この詩にめぐり逢った思索者・寺田透が抱いたのは

 

解放感でした。

 

 

 

 

 

 

花のすえる匂い

 

なまあたたかい夜

 

軟体動物という言葉の呼びさます感覚

 

閉された庭

 

羊歯類

 

ほのじろい、うつけたような桜

 

透けて見える草の根

 

流れすぎる春の潮の肌ざわり。

 

 

 

そういう幻想が醸成する

 

さびしいという言葉さえエロティックな

 

明暗を定めがたい

 

けだるげな無限旋律による輪舞のような

 

「青猫」の詩境を僕とて感じられないわけではない

 

 

 

その架空の詩世界を作り出した詩人の技術が

 

そのからだの内部から分泌された

 

有機的な、体液のような技法であることを

 

わからないものではない

 

 

 

しかしまだそこには

 

辿りついていない、もどかしさを感じさせる何か

 

借り物めいた

 

決定的でない何かがある

 

 

 

 

 

 

「青猫」というご馳走(という言葉を寺田は使っていませんが)をしたたかに振舞われた後に

 

「まずしき展望」を読んだからという理由だけでないことは

 

すでに延々と述べてきたとおり。

 

 

 

より明確にいえば

 

「『青猫』以後」こそが芸術的かつ現代的である

 

――という結論に至るのです。

 

 

 

「まずしき展望」の全行を上げておきましょう。

 

 

 

 

 

 

まずしき展望

まずしき田舍に行きしが
かわける馬秣(まぐさ)を積みたり
雑草の道に生えて
道に蝿のむらがり
くるしき埃のにおいを感ず。
ひねもす疲れて畔(あぜ)に居しに
君はきゃしゃなる洋傘(かさ)の先もて
死にたる蛙を畔に指せり。
げにきょうの思いは悩みに暗く
そはおもたく沼地に渇きて苦痛なり
いずこに空虚のみつべきありや
風なき野道に遊戯をすてよ
われらの生活は失踪せり。

 

 

 

(青空文庫より。現代表記に直しました。編者。)

 

 

 

 

 

 

 

 

今回はここまで。

 

 

2015年1月17日 (土)

寺田透の「氷島」支持論9/筋肉質の人間・朔太郎

(前回からつづく)

 

 

 

脂肪酸につつまれたような詩人から

 

筋肉質の爽やかな人間へ!

 

 

 

萩原朔太郎の変化を

 

寺田透はこのように表現しました。

 

 

 

 

 

 

そこで持ち出された「氷島」の「詩篇小解」には

 

恋愛詩4篇……凡て昭和5―7年の作。今は既に破き捨てたる、日記の果敢なきエピソードなり。我れの如き極地の人、氷島の上に独り住み居て、そもそも何の愛恋ぞや。過去は恥多く悔多し。これもまた北極の春夜に見たる、侘しき極光(オーロラ)の幻燈なるべし

 

――とあり、

 

 

 

「序文」には

 

近代の抒情詩、概ね皆感覚に偏重し、イマヂズムに走り、或は理智の意匠的構成に耽って、詩的情熱の単なる原質的表現を忘れている。

 

 

 

却ってこの種の詩は、今日の批判で素朴的なものに考えられ、詩の原始形態の部に範疇づけられている。しかしながら思うに、多彩の極致は単色であり、複雑の極致は素朴であり、そしてあらゆる進化した技巧の極致は、無技巧の自然的単一に帰するのである

 

――とあります。

 

 

 

これらの記述が反映されたかのように

 

「氷島」には

 

詩的情熱の素朴純粋な詠嘆が

 

損なわれず飾られぬ姿で表白されている、というのです。

 

 

 

それは

 

涸渇どころか

 

詩の究極のイデヤに

 

詩が最も近づいた場合である、と。

 

 

 

 

 

 

夢見られただけで真に自分のうちに根づいていない、

 

近代的なエキゾチックな

 

ふさわしくないところで爛熟し腐敗し

 

ふさわしくない粉黛(ふんたい)を帯びた

 

――と見なされた「青猫」までの詩風は

 

このようにして朔太郎自身によって否定されたものと寺田は読みます。

 

 

 

 

 

 

朔太郎のこの変化は(詩史的に見れば)

 

自然主義の感情蔑視を敵と見なした出発を自ら否定し

 

自然主義の末流と同じところに行き着いたことを意味している

 

 

 

告白を表現の動機とするというのはその現れであり

 

「月に吠える」や「青猫」が実現した

 

感情世界を創造するフィクションとしての役割や面白みなどを

 

自ら否定したことになる。

 

 

 

 

 

 

これは角度を変えてみれば

 

「氷島」で朔太郎は「愛憐詩篇」へ帰った

 

――ということ。

 

 

 

「帰郷」の

 

いかんぞ故郷に独り帰り

 

さびしくまた利根川の岸に立たんや。

 

汽車は曠野を走り行き

 

自然の荒寥たる意志の彼岸に

 

人の憤怒を烈しくせり。

 

――は、

 

 

 

「愛憐詩篇」の「こころ」と相似形をなしている。

 

 

 

「こころ」は、

 

こころをばなににたとえむ

 

こころはあじさいの花

 

ももいろに咲く日はあれど

 

うすむらさきの

 

――というように甘美で憂愁なストローフ(連)ではじまるのに

 

最後には

 

こころは二人の旅びと

 

されど道づれのたえて物言うことなければ

 

わが心はいつもかくさびしきなり

 

――と無味索漠たる説明口調の自覚の表明で結ばれているのだ

 

 

 

どちらも

 

自己存在の分裂を示している。

 

 

 

 

 

 

自己分裂は、

 

若き日には

 

甘美な嘆きの種であり

 

ナルシシスムの母胎であったものが

 

老いの迫った日には

 

苦しみの種

 

自分へのあいそづかしの根拠でしかない

 

 

 

「極北の住人」は

 

あいそづかしを強烈に劇的に行っただけで

 

自己分裂をよりいっそう推し進めているにすぎない

 

 

 

自己分裂は

 

応答というものもなく

 

前進という可能性もないもので

 

虚無(の深み)は

 

自分を極北の住人と見なす場合も

 

自分のこころを「あじさい」にたとえる場合も

 

変わるところはない。

 

 

 

 

 

 

このことを証明するために

 

今度は「氷島」と「愛憐詩篇」の二つの序文が

 

互いに近似しているものとして呼び出されるのです。

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

「帰郷」と「こころ」の全行を

 

引いておきます。

 

 

 

 

 

 

帰郷

 

    昭和4年の冬、妻と離別し2児を抱えて故郷に帰る

 

 

 

わが故郷に帰れる日

 

汽車は烈風の中を突き行けり。

 

ひとり車窓に目醒むれば

 

汽笛は闇に吠え叫び

 

火焔(ほのお)は平野を明るくせり。

 

まだ上州の山は見えずや。

 

夜汽車の仄暗き車燈の影に

 

母なき子供等は眠り泣き

 

ひそかに皆わが憂愁を探(さぐ)れるなり。

 

鳴呼また都を逃れ来て

 

何所(いずこ)の家郷に行かむとするぞ。

 

過去は寂寥の谷に連なり

 

未来は絶望の岸に向えり。

 

砂礫(されき)のごとき人生かな!

 

われ既に勇気おとろえ

 

暗憺として長(とこし)なえに生きるに倦みたり。

 

いかんぞ故郷に独り帰り

 

さびしくまた利根川の岸に立たんや。

 

汽車は曠野を走り行き

 

自然の荒寥たる意志の彼岸に

 

人の憤怒(いきどおり)を烈しくせり。

 

 

 

 

 

 

こころ

 

 

 

こころをばなににたとえん

 

こころはあじさいの花

 

ももいろに咲く日はあれど

 

うすむらさきの思い出ばかりはせんなくて。

 

 

 

こころはまた夕闇の園生のふきあげ

 

音なき音のあゆむひびきに

 

こころはひとつによりて悲しめども

 

かなしめどもあるかいなしや

 

ああこのこころをばなににたとえん。

 

 

 

こころは二人の旅びと

 

されど道づれのたえて物言うことなければ

 

わがこころはいつもかくさびしきなり。

 

 

 

(青空文庫より。現代表記に直し、適宜、洋数字に変えました。編者。)

 

 

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ

 

にほんブログ村

 

 

 

 

 

 

2015年1月14日 (水)

寺田透の「氷島」支持論8/シェストフ的実存

(前回からつづく)

 

 

 

今日の思惟するものを断絶して

 

百度(たび)もなお昨日の悔恨を新たにせん。

 

 

 

「新年」は

 

末行でこの2行を歌って閉じます。

 

 

 

 

 

 

何度でも何度でも同じ情念に苦しもうという心情の表白

 

――と、この詩行を読んで

 

寺田はここに歌われる思惟について考察し

 

またも「弁証法」を呼び出します。

 

 

 

ここで思惟とは

 

恒常不変の弁証法を軌道とし、方法とするもの、

 

つまり理性ということになる

 

 

 

合理、連続、明証、それらを手がかりとして

 

きのうによってきょうを、

 

きょうによってあすを予想し説明する、

 

持続的なもの体系的なもの、

 

それらを信奉することになるだろう

 

 

 

「大井町」に歌われた

 

貧しくうすよごれた日常的な姿をとるにせよ

 

持続し体系的なものは理性である

 

 

 

それを断絶して

 

百度もなお昨日の悔恨を新たにすると歌うのは

 

詩人がシェストフの徒になったからである

 

――と指摘するのです。

 

 

 

 

 

 

「新年」に現われる実存はシェストフに由来するということが

 

「氷島」評価が頂点に至ろうとするときに

 

寺田によって主張されたことは記憶されてよいことでしょう。

 

 

 

しかし、詩はそのように読まれたからといって

 

近くなるものではないことも銘記しておかねばなりません。

 

 

 

シェストフの名が挙がったからといって

 

詩が読めるものではないはずですから。

 

 

 

 

 

 

この決意。

 

 

 

何度でも何度でも

 

百度でも悔恨してみせるという決意。

 

 

 

それは涸渇ではなく、

 

自己への覚醒を語っている。

 

 

 

ここに寺田の鑑賞の到達点があります。

 

 

 

 

 

 

この覚醒は、

 

やわらかいもの変現(ママ)するもの、

 

甘美なものの断念が必要である

 

 

 

そのことが覚醒を涸渇と見誤られただけの話ではなかったか。

 

 

 

 

 

 

覚醒とは

 

宮沢賢治風に言えば

 

脂肪酸につつまれた詩人・朔太郎が

 

筋肉質の爽やかな人間になったということである。

 

 

 

 

 

 

シェストフが登場し

 

宮沢賢治が登場し。

 

そして、

 

「氷島」の「詩篇小解」と「序文」が

 

呼び出されます。

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

「大井町」をあげておきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

大井町

 

 

 

おれは泥靴を曳きずりながら

 

ネギや ハキダメのごたごたする

 

運命の露地(ろじ)をよろけあるいた。

 

ああ 奥さん! 長屋の上品な嬶(かかあ)ども

 

そこのきたない煉瓦の窓から

 

乞食のうす黒いしゃっぽの上に

 

鼠(ねずみ)の尻尾でも投げつけてやれ。

 

それから構内の石炭がらを運んできて

 

部屋中いっぱい やけに煤煙でくすぼらせろ。

 

そろそろ夕景が薄(せま)ってきて

 

あっちこっちの家根の上に

 

亭主の”しゃべる”が光り出した。

 

へんに紙屑(かみくづ)がべらべらして

 

かなしい日光のさしてるところへ

 

餓鬼共(がきども)のヒネびた声がするではないか。

 

おれは空腹になりきっちゃって

 

そいつがバカに悲しくきこえ

 

大井町織物工場の暗い軒から

 

わあっと言って飛び出しちゃった。

 

 

 

(「日本の詩歌 萩原朔太郎」より。現代表記に直してあります。編者。)

 

 

 

 

 

にほんブログ村 本ブログへ

 

にほんブログ村

 

 

 

 

 

 

2015年1月13日 (火)

寺田透の「氷島」支持論7/「青猫」詩人の必然

(前回からつづく)

 

 

 

「新しき弁証の非有」を

 

どうにか読み解いたところで

 

「新年」にはまだ未解明の詩行が

 

大岩のように聳えています。

 

 

 

 

 

 

この詩を詩と認めない人々が

 

読解を放棄してしまった詩行が

 

詩の終わりに入ろうとするところに

 

また立ち現われるのです。

 

 

 

わが感情は飢えて叫び

 

わが生活は荒寥たる山野に住めり。

 

いかんぞ暦数の回帰を知らむ。

 

――と。

 

 

 

とりわけこの3行中の最後の行。

 

 

 

 

 

 

この行は

 

この詩の前の方に置かれた

 

地球はその週暦を新たにするか。

 

――と呼応しているのですが

 

これを読み解く寺田の口調は

 

なにが表明されているのかはっきりしない独白(独創)のようなものをはさんで

 

一つの断言へと至ります。

 

 

 

自分は十分に理解しているから自明であることが

 

他者には見えないでいるときに起こりがちな

 

伝達の一方通行みたいなことがここにあります。

 

 

 

 

 

 

寺田のその一方通行的な(と思われる)読み解きの部分を

 

ここで原文のまま載せておきましょう。

 

 

 

 

 

 

この最後の句は前の「地球はその週暦を新たにするか」とともに、歌われている事柄の現実性、必然性を認識者としては肯定しながら、しかし一回きりこの世に生きる特殊な個として、その肯定がおのれ自身にとってなんらの価値ももたないということの歌い上げである、と言うほかあるまい。

 

 

 

かれの生きているのは、自分と自分と係わりなきものの二元である。係わりなきものがかれにとっては、おのれの存在の敵だというところにかれの不幸がある。かれはかれの白眼視するものを見下すことができず、むしろかえってそれに切りさいなまれる。

 

 

 

「氷島」一巻の、苛立たしい、激越な朗吟風の声調は、その決裂の声だと言っていいだろう。「乃木坂倶楽部」がよくそのことを語っている。

 

 

 

だから、「いかんぞ」「いかなれば」「いずこに」と歌い出しても、かれは、その問いの形式に、答があろうとは全然考えていない。

 

 

 

 

 

 

だから

 

――と寺田はこの一方通行的な主張(独白・独創)を

 

「順接」で受けて断言するのです。

 

 

 

「いかんぞ」も

 

「いかなれば」も

 

「いづこに」も

 

詩人がその問いへの答えを用意しているものではなく

 

むしろ答えのないことを知っているからこそ

 

真情を問いの形で言い表した

 

――という断言です。

 

 

 

それは独特の個性的な読みといえるものでしょうが

 

なぜ「だから」なのかが伝わってきません。

 

 

 

 

 

よく読めば「決裂」がキーワードのようですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

(一方通行の部分をはさんでいるものの)

 

「青猫」の典雅で優艶な詩人は「こういうもの」になった

 

それは必然のことであったと僕には思われる

 

――と末行2行を残していますが)「新年」の読みを終え

 

一定の結論へ至ります。

 

 

 

 

 

 

「新年」をこのように読んだ寺田はやがて

 

「氷島」の諸詩篇は、

 

涸渇の様相どころか、他でもなく、

 

詩の究極のイデヤに詩がもっとも近づいた場合

 

――という最高の賛辞を表明することになります。

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

乃木坂倶楽部

 

 

 

十二月また来れり。

 

なんぞこの冬の寒きや。

 

去年はアパートの五階に住み

 

荒漠たる洋室の中

 

壁に寝台(べっと)を寄せてさびしく眠れり。

 

わが思惟するものは何ぞや

 

すでに人生の虚妄に疲れて

 

今も尚家畜の如くに飢えたるかな。

 

我れは何物をも喪失せず

 

また一切を失い尽せり。

 

いかなれば追わるる如く

 

歳暮の忙がしき街を憂い迷いて

 

昼もなお酒場の椅子に酔わむとするぞ。

 

虚空を翔け行く鳥の如く

 

情緒もまた久しき過去に消え去るべし。

 

 

 

十二月また来れり

 

なんぞこの冬の寒きや。

 

訪うものは扉(どあ)を叩(の)っくし

 

われの懶惰を見て憐れみ去れども

 

石炭もなく暖炉もなく

 

白亜の荒漠たる洋室の中

 

我れひとり寝台(べっと)に醒めて

 

白昼(ひる)もなお熊の如くに眠れるなり。

 

 

 

 

 

(青空文庫「氷島」より。現代表記に直してあります。編者。)

 

 

 

 

 

 

2015年1月12日 (月)

寺田透の「氷島」支持論6/「虚無の時空」の奇蹟

(前回からつづく)

 

 

 

詩の鑑賞を記すのは散文ですから

 

散文に目を奪われてしまって

 

肝心の詩をそっちのけにする危険な傾向があります。

 

 

 

あくまで詩を読もうとして

 

他者の鑑賞記録を読むのですから

 

詩から離れないようにすることが大切です。

 

 

 

 

 

 

新年

 

 

 

 

 

新年来り

 

門松は白く光れり。

 

道路みな霜に凍りて

 

冬の凜烈たる寒気の中

 

地球はその週暦を新たにするか。

 

われは尚悔いて恨みず

 

百度(たび)もまた昨日の弾劾を新たにせむ。

 

いかなれば虚無の時空に

 

新しき弁証の非有を知らんや。

 

わが感情は飢えて叫び

 

わが生活は荒寥たる山野に住めり。

 

いかんぞ暦数の回帰を知らむ

 

見よ! 人生は過失なり。

 

今日の思惟するものを断絶して

 

百度(たび)もなお昨日の悔恨を新たにせん。

 

 

 

 

 

(青空文庫「氷島」より。現代表記に直してあります。編者。)

 

 

 

 

 

 

 

 

思想者・寺田透の「新年」読解は

 

まだまだ続きます。

 

 

 

 

 

 

朔太郎にとって現世は

 

自然界も人間界も

 

かれを救い慰め明日への活力を与えてくれるものではなく、

 

 

 

我れ既に生活して、長く疲れたれども、帰すべき港を知らず。

 

暗澹として碇泊し、心みな錆びて牡蠣に食われたり。

 

――と「品川沖観艦式」に自註(詩篇小解)しているような境地にあり、

 

虚無以外ではなかった。

 

 

 

虚無は与えず励まさぬものであった。

 

 

 

 

 

 

であるから

 

「新しき弁証の有」(「新しき弁証の非有」にではなく!)

 

――それは進歩や成長の安泰を打ち砕くもの!――に

 

はかなくも熱烈な望みをかけることしかなくなっている。

 

 

 

生き延びる可能性はそこにしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

「弁証の有」は変化(進歩)、

 

 

 

 

 

「弁証の非有」は非・変化(進歩)

 

 

 

 

 

――ということでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日の悔恨、昨日の弾劾を新たにする間に

 

「新しき弁証」の発生を期待できるのではなかろうか。

 

 

 

悔恨、弾劾を繰り返すことに

 

懲りることはない。

 

なんら苦にならない。

 

 

 

むしろその中から

 

光は見えるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

「新しき弁証の有」と「新しき弁証の非有」と。

 

 

 

 

 

 

朔太郎の存在を否定しにかかる外部存在、

 

すなわち変化をとどめるもの。

 

 

 

それに対峙する「止揚形態以外の変化の発生」を

 

奇蹟を待つように期待する

 

 

 

止揚形態以外の変化とは

 

弁証法以外の運動法則ということですから

 

とても稀な変化ということになります。

 

 

 

ディアレクティケー(弁証法)の一般法則を超える奇蹟

 

――を朔太郎は望んでいたのであり

 

その望みを「新年」の(あの)2行

 

いかなれば虚無の時空に

 

新しき弁証の非有を知らんや。

 

――で歌ったのである。

 

 

 

 

 

 

「新しき弁証の非有」を

 

ようやく読み解いてなお

 

「新年」は読み終えられていません。

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

 

2015年1月11日 (日)

寺田透の「氷島」支持論5/「弁証の非有」という詩語

(前回からつづく)

 

 

 

新年

 

 

 

新年来り

 

門松は白く光れり。

 

道路みな霜に凍りて

 

冬の凜烈たる寒気の中

 

地球はその週暦を新たにするか。

 

われは尚悔いて恨みず

 

百度(たび)もまた昨日の弾劾を新たにせむ。

 

いかなれば虚無の時空に

 

新しき弁証の非有を知らんや。

 

わが感情は飢えて叫び

 

わが生活は荒寥たる山野に住めり。

 

いかんぞ暦数の回帰を知らむ

 

見よ! 人生は過失なり。

 

今日の思惟するものを断絶して

 

百度(たび)もなお昨日の悔恨を新たにせん。

 

 

 

(青空文庫「氷島」より。現代表記に直してあります。編者。)

 

 

 

 

 

 

朔太郎の「新年」第8、9行に

 

いかなれば虚無の時空に

 

新しき弁証の非有を知らんや。

 

――とあり

 

とりわけ第9行中の「弁証の非有」を詩語らしからぬものと読む人は多くあるらしく

 

ここでも「氷島」評価の分かれ目となるのですが

 

寺田透は積極的にこれを読み解こうとします。

 

 

 

 

 

 

それがまたむずかしいのです。

 

 

 

そもそも「弁証」を説明しようとすれば

 

空疎な哲学用語の語彙解説になり

 

あらかじめこのあたりを了解済みであると前提すれば

 

これが何を言っているのかわからなくなって

 

詩から離れていくばかりです。

 


ここはしかし重要なところなので

 

飽きずに追いかけてみましょう。

 

 

 

 

 

 

およそ進歩があるためには、即自と対自の対立、抗争と止揚という

 

ディアレクティックの形式は、

 

不変でなければならないだろう。

 

――とおもむろに寺田は語りはじめます。

 

 

 

進歩があるということは

 

弁証法(という運動)の形が不変でなければならない。

 

 

 

その運動の形(式)は

 

即自、対自の対立、抗争、そして止揚

 

――と一般に説明されるところを

 

いちいち寺田は説明しません。

 

 

 

 

 

 

形式は不変であらねばならないときに

 

この形式に盛られる事実は進化する。

 

 

 

弁証の項の内容は

 

歴史的に進化していく。

 

 

 

それだけのこと。

 

 

 

 

 

 

次の段階を

 

新しい弁証の形式が律する(統制し支配し)というようなことになれば

 

前代後代との比較は不可能になり

 

進歩の概念そのものも成立しなくなる。

 

 

 

このことを

 

「新しき弁証の非有」と朔太郎は言った。

 

 

 

 

 

 

どうすれば

 

虚無の時空に

 

新しい弁証の非有を

 

知ることがあるか。

 

 

 

知ることはない。

 

知る。

 

 

 

どちらの意味にも取れそうです。

 

 

 

 

 

 

できれば他の言葉に置き換えて説明してくれれば

 

解りやすくなったかもしれないところを寺田は控えました。

 

 

 

 

 

 

(わたくし=朔太郎という)実存あるいは人間の存在は

 

虚無の時空に棲(す)んで久しく

 

……

 

 

 

進歩もしない退歩もしない。

 

しかし

 

変化しない世界なんてあるものか。

 

 

 

進歩しないのがわかっている以上

 

何度でも何度でも

 

昨日の弾劾を新たにし

 

昨日の悔恨を新たにする。

 

 

 

弾劾し

 

悔恨も繰り返す。

 

  

 

このあたりに

 

望みはあるかもしれない。

 

……というように読み替えることができるかもしれません。

 

 

 

 

 

 

朔太郎がその中にあった虚無は深かったのです。

 

 

 

「新年」はそれ(虚無)を歌いますが

 

そこに埋没する歌ではありません。

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年1月 9日 (金)

寺田透の「氷島」支持論4/ねじまげられた言葉使い

(前回からつづく)

 

 

 

「いかんぞ」という起句は

 

通常なら「や」という結句と呼応して反語表現(否定)とするものですから

 

文法的には「立たずや」「立たざらんや」とするところですが

 

ここに否定句がないのはおかしいと

 

三好達治なら指摘するところです。

 

 

 

 

 

 

ところが寺田は

 

ここには「いずこに家郷はあらざるべし!」と同様の

 

「ねじまげられた使いざま」があるのであって

 

反語的機能は成立しないと読み直します。

 

 

 

いかんぞ故郷に独り帰り

 

さびしくまた利根川の岸に立たんや。

 

――を「立つ」意志として取ることが可能とするのです。

 

 

 

起句「いかんぞ」は結句「や」とともに

 

肯定・強調の役をするだけである、と。

 

 

 

 

 

 

「帰郷」の詩人は

 

にっちもさっちも行かない混迷の渦の中にありました。

 

 

 

昭和7年制作の「新年」がこうして

 

「帰郷」と同じように誤解され易い(または理解され難い)表現が現われる例として

 

呼び出されます。

 

 

 

 

 

 

道路みな霜に凍りて

 

冬の凛烈たる寒気の中

 

地球はその週暦を新たにするか。

 

われは悔いて恨みず

 

百度もまた昨日の弾劾を新たにせむ。

 

 

 

 

 

 

賛否の分かれるこの詩を読み解く寺田の論法は

 

熟慮に熟慮を重ねたことが想像される

 

核心を突いたものになります。

 

 

 

かつてこの詩をめぐって

 

帝大生である杉浦民平らと議論を重ねた時間が

 

現在(「朔太郎管見」発表の1958年当時)も尾を引いているとでもいうように

 

杉浦の最近(同)の発言を寺田は引きながら

 

誤解されやすく理解し難い詩行を解釈してみせます。

 

 

 

杉浦民平がかつて理解不能としたところです。

 

 

 

 

 

 

寺田の読み解きを要約することは至難であるのは

 

詩行そのものが多様な解釈の可能な難解さをもつからですが

 

「『青猫』以後」の序文を読みながら

 

ディアレクティケー(弁証法)のレトリックに共感できるのは

 

杉浦よりも自分であると言って

 

果敢に「新年」を読み進みます。

 

 

 

 

 

 

「青猫以後」の序文には

 

「進歩はどこにもない。実にあるのはただ変化のみ」とあり

 

「進歩史観」(という語を朔太郎は使っていません)へのアンチ・テーゼが宣言されているのですが

 

このことは利根川のほとりに帰ることも

 

あす東京に出て来ることも等価の

 

流転の一局面にすぎないものかもしれないとして

 

いかなれば虚無の時空に

 

新しき弁証の非有を知らんや

 

――という詩行をよみほぐします。

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

「新年」全行を

 

現代表記で掲出しておきます。

 

 

 

 

 

 

新年

 

 

 

新年来り

 

門松は白く光れり。

 

道路みな霜に凍りて

 

冬の凜烈たる寒気の中

 

地球はその週暦を新たにするか。

 

われは尚悔いて恨みず

 

百度(たび)もまた昨日の弾劾を新たにせむ。

 

いかなれば虚無の時空に

 

新しき弁証の非有を知らんや。

 

わが感情は飢えて叫び

 

わが生活は荒寥たる山野に住めり。

 

いかんぞ暦数の回帰を知らむ

 

見よ! 人生は過失なり。

 

今日の思惟するものを断絶して

 

百度(たび)もなお昨日の悔恨を新たにせん。

 

 

 

(青空文庫「氷島」より。)

 

 

寺田透の「氷島」支持論3/弁証法のレトリック

(前回からつづく)

 

 

 

「いかんぞ」という起句は

 

通常なら「や」という結句と呼応して反語表現(否定)とするものですから

 

文法的には「立たずや」「立たざらんや」とするところですが

 

ここに否定句がないのはおかしいと

 

三好達治なら指摘するところです。

 

 

 

 

 

 

ところが寺田は

 

ここには「いずこに家郷はあらざるべし!」と同様の

 

「ねじまげられた使いざま」があるのであって

 

反語的機能は成立しないと読み直します。

 

 

 

いかんぞ故郷に独り帰り

 

さびしくまた利根川の岸に立たんや。

 

――を「立つ」意志として取ることが可能とするのです。

 

 

 

起句「いかんぞ」は結句「や」とともに

 

肯定・強調の役をするだけである、と。

 

 

 

 

 

 

「帰郷」の詩人は

 

にっちもさっちも行かない混迷の渦の中にありました。

 

 

 

昭和7年制作の「新年」がこうして

 

「帰郷」と同じように誤解され易い(または理解され難い)表現が現われる例として

 

呼び出されます。

 

 

 

 

 

 

道路みな霜に凍りて

 

冬の凛烈たる寒気の中

 

地球はその週暦を新たにするか。

 

われは悔いて恨みず

 

百度もまた昨日の弾劾を新たにせむ。

 

 

 

 

 

 

賛否の分かれるこの詩を読み解く寺田の論法は

 

熟慮に熟慮を重ねたことが想像される

 

核心を突いたものになります。

 

 

 

かつてこの詩をめぐって

 

帝大生である杉浦民平らと議論を重ねた時間が

 

現在(「朔太郎管見」発表の1981年当時)も尾を引いているとでもいうように

 

杉浦の最近(同)の発言を寺田は引きながら

 

誤解されやすく理解し難い詩行を解釈してみせます。

 

 

 

杉浦民平がかつて理解不能としたところです。

 

 

 

 

 

 

寺田の読み解きを要約することは至難であるのは

 

詩行そのものが多様な解釈の可能な難解さをもつからですが

 

「『青猫』以後」の序文を読みながら

 

ディアレクティケー(弁証法)のレトリックに共感できるのは

 

杉浦よりも自分であると言って

 

果敢に「新年」を読み進みます。

 

 

 

 

 

 

「青猫以後」の序文には

 

「進歩はどこにもない。実にあるのはただ変化のみ」とあり

 

「進歩史観」(という語を朔太郎は使っていません)へのアンチ・テーゼが宣言されているのですが

 

このことは利根川のほとりに帰ることも

 

あす東京に出て来ることも等価の

 

流転の一局面にすぎないものかもしれないとして

 

いかなれば虚無の時空に

 

新しき弁証の非有を知らんや

 

――という詩行をよみほぐします。

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

「新年」全行を

 

現代表記で掲出しておきます。

 

 

 

 

 

 

新年

 

 

 

新年来り

 

門松は白く光れり。

 

道路みな霜に凍りて

 

冬の凜烈たる寒気の中

 

地球はその週暦を新たにするか。

 

われは尚悔いて恨みず

 

百度(たび)もまた昨日の弾劾を新たにせむ。

 

いかなれば虚無の時空に

 

新しき弁証の非有を知らんや。

 

わが感情は飢えて叫び

 

わが生活は荒寥たる山野に住めり。

 

いかんぞ暦数の回帰を知らむ

 

見よ! 人生は過失なり。

 

今日の思惟するものを断絶して

 

百度(たび)もなお昨日の悔恨を新たにせん。

 

 

 

(青空文庫「氷島」より。)

 

 

2015年1月 8日 (木)

寺田透の「氷島」支持論2/思惟する詩のはじまり

(前回からつづく)

 

 

 

「漂泊者の歌」を、

 

 

 

日は断崖の上に登り

 

憂いは陸橋の下を低く歩めり。

 

無限に遠き空の彼方

 

続ける鉄路の棚の背後(うしろ)に

 

一つの寂しき影は漂う。

 

 

 

――と読みはじめる寺田に現われる帝大生の杉浦民平の下宿の風景。

 

 

 

そこには立原道造が登場します。

 

 

 

 

 

 

今でもそう読んで行くと、僕の眼前には、本郷菊坂の杉浦の下宿の一間にさしこむ赤茶けた日のいろだの、掛け机とならんでおいてあった杉浦には不似合と思うひともあるかも知れないやさしいデザインの坐り机、

 

 

 

そのそばで早口に言いあいをしている色の黒い長身の立原と色白で背の低い杉浦の姿が浮び、その声まで聞えて来るような気がする。

 

 

 

 

 

(※「近代文学鑑賞講座」中の「朔太郎管見」より。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

学生服の寺田は少し離れた床の間の前で

 

二人の討論を聞いています。

 

 

 

二人のやりとりに

 

寺田は疎隔(そかく)を感じています。

 

 

 

やさしい、繊細な、軟かな感情を表現する

 

詩的な口舌の技術がかれらにはあって、

 

 

 

それがみずからを「感性上の貴族」とするための楯(たて)のように見えて

 

攻撃の材料としたのでしょうか

 

寺田はいつも立原を傷つける役を演じる「田舎侍」になってしまいます――。

 

 

 

 

 

 

文京区の本郷菊坂は

 

樋口一葉や宮沢賢治の旧居跡などで知られる古い家並みが多く

 

近くに東京大学へ通じる正門や赤門もあるため

 

周辺には学生街も抱えている

 

現在もかわらぬ歴史的風景の残る街です。

 

 

 

その一角に

 

杉浦の下宿もありました。

 

 

 

 

 

 

「青猫」ではなく

 

「氷島」に心を奪われるというのは

 

田舎侍だからであろうか

 

そうではないことを言いたいのだ

 

――と寺田は遠い日を思い出しながら主張し

 

本論へと入っていきます。

 

 

 

そして

 

朔太郎が詩人として思惟するひとで真にありえたのは

 

「氷島」という詩集においてであった

 

――という全面的な「氷島」支持論の結論が

 

まずは述べられます。

 

 

 

思惟のひと。

 

その始原へ。

 

 

 

 

 

 

そこで遡(さかのぼ)られるのは

 

大正6年作とされる遺稿「都会と田舎」に、

 

 

 

ありとあらゆる官能のよろこびとそのなやみと、

 

ありとあらゆる近代の思想とその感情と

 

およそありとあらゆる「人間的なるもの」のいっさい

 

――と歌われた「都会」でした。

 

 

 

その「都会」と

 

荒涼とした自然と貧困で不活発な人間しか存在しない「田舎」。

 

 

 

二つの世界の往還(行きつ戻りつ)をやめた詩人が

 

かれ自身に、

 

上州人らしいかれ自身になった

 

――ことを詩集「氷島」に読むことができるというのです。

 

 

 

それは

 

第1詩集「月に吠える」よりも古い詩篇がしめすところに

 

朔太郎が戻ったことではないか。

 

 

 

寺田がそしてまた遡るのは

 

朔太郎が大正2年晩夏に歌った

 

「利根川のほとり」の次のくだりです。

 

 

 

 

 

 

きのふまた身を投げんと思ひて

 

利根川のほとりをさまよひしが

 

水の流れはやくして

 

わがなげきせきとむるすべもなければ

 

おめおめと生きながらへて

 

今日もまた河原に來り石投げてあそびくらしつ。

 

 

 

 

 

 

だから、

 

 

 

ああ汝 漂泊者!

 

過去より来りて未来を過ぎ

 

久遠の郷愁を追い行くもの。

 

――と自分自身へ呼びかける「漂泊者の歌」は

 

今日もまた河原に来り石投げてあそびくらしつ。

 

――と歌った利根川の河原へ帰ることを夢見て歌われた歌ではなかったかと読むのです。

 

 

 

そして、

 

 

 

ああ汝 寂寥の人

 

悲しき落日の坂を登りて

 

意志なき断崖を漂泊(さまよ)い行けど

 

いずこに家郷はあらざるべし。

 

汝の家郷は有らざるべし!

 

――の「家郷は有らざるべし!」は

 

家郷を持ったこともなく

 

持たないことを悲しみもしない心での叫びであるはずがない

 

 

 

この投げつけるような調子は

 

家郷をしのんでやまない自分の心に投げつける

 

礫(つぶて)の音だ。

 

 

 

 

 

 

また、

 

 

 

「いずこに」も

 

はじめから否定を想定しているものではなく

 

「いずこにかあらん!」という

 

やがて否定され悲嘆となることへの期待を示していて、

 

 

 

それは「帰郷」の

 

まだ上州の山は見えずや。

 

――というフレーズが、

 

 

 

過去は寂寥の谷に連り

 

未来は絶望の岸に向えり。

 

砂礫のごとき人生かな!

 

…………

 

いかんぞ故郷に帰り

 

さびしくまた利根川の岸に立たんや。

 

汽車は曠野を走り行き

 

自然の荒寥たる意志の彼岸に

 

人の憤怒を烈しくせり。

 

――と続けられていることに注目します。

 

 

 

ここで歌われているのは

 

傷ついた戦士が

 

車に乗せられて故郷へ運ばれる途中で言う言葉である。

 

 

 

 

 

 

いかんぞ故郷に独り帰り

 

さびしくまた利根川の岸に立たんや。

 

 

 

「いかんぞ……や」は

 

「どうして……するわけがない」という反語表現のはずですから

 

どうして故郷に独り帰り

 

さびしくまた利根川の岸に立たないことがあろう

 

――という意味になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

立とうとする

 

立つのである

 

利根川の岸に立つのである。

 

――と寺田はこのくだりに詩人の意志を汲み取ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

「帰郷」も

 

「漂泊者の歌」に

 

 

 

つながっている。

 

 

 

「漂泊者の歌」に

 

上州への恋慕(という言葉は使われていませんが)を

 

寺田は読み取ろうとするかのようです。

 

 

 

 

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「利根川のほとり」全行の

 

 

 

 

 

現代かな表記を掲出しておきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

利根川のほとり

 

 

 

きのうまた身を投げんと思いて

 

利根川のほとりをさまよいしが

 

水の流れはやくして

 

わがなげきせきとむるすべもなければ

 

おめおめと生きながらえて

 

今日もまた河原に来り石投げてあそびくらしつ。

 

きのうきょう

 

ある甲斐もなきわが身をばかくばかりいとしと思ううれしさ

 

たれかは殺すとするものぞ

 

抱きしめて抱きしめてこそ泣くべかりけれ。

 

  

2015年1月 7日 (水)

寺田透の「氷島」支持論/立原道造、杉浦民平との親交の中で

 

 

僕は朔太郎が好きでなかった。好きになろうとは思っていたが、やはり好きでなかった。十代の末から二十代のはじめにかけてのことだ。

 

――と寺田透は「朔太郎管見」を書き出します。

 

 

 

しかしそのうち、まるで有刺鉄線をもって装幀したような、いらいらと乾燥し、硬い感じの、まるで遠い荒蕪地帯から送られて来た遺品ででもありそうな「氷島」が発刊された。この詩集は勢いはげしく僕を貫いた。

 

――と。

 

 

 

 

 

 

この書き出しがさらに

 

杉浦民平や立原道造のようなそれまでもよく萩原朔太郎に通じたものたちはここに涸渇(こかつ)と焦燥をみとめ、これを朔太郎の衰退(すいたい)の証拠としたと覚えているが、(かれらは山村暮鳥を愛していた)僕には、朔太郎は、この詩集においてもっとも僕の近くに迫ったように感じられたものである。

 

――と補強されるところが寺田の論考の個性というものです。

 

 

 

寺田透は東京帝大で

 

杉浦民平や立原道造と一つの同人雑誌の仲間でした。

 

 

 

 

 

 

寺田透(1915~1995年)。

 

杉浦民平(1913~2001年)。

 

立原道造(1914~1939年)。

 

――という3人の生存期間に

 

中原中也(1907~1937年)をかぶせてみれば

 

中也の5、6歳下の世代が大学生だった頃に

 

「氷島」が発行されたということが浮かびあがってきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

立原と中也は「四季」で肩を並べているのですから

 

この4人は中也の同時代人ということになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1934年(昭和9年)に「氷島」は発行され

 

 

 

 

 

同じ年に「山羊の歌」も発行され

 

 

 

 

 

立原道造の「萱草に寄す」は1937年(昭和12年)に発行されています。

 

 

 

 

 

 

中也は1937年(昭和12年)に

 

立原は1939年(昭和14年)に亡くなり

 

寺田、杉浦は15年戦争を生き抜きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

寺田透は

 

杉浦、立原との親交の様子を織りまぜて

 

「氷島」の衝撃を語り出しました。

 

 

 

表紙をめくって

 

目に飛び込んできたのは

 

冒頭詩「漂泊者の歌」でした。

 

 

 

 

 

 

漂泊者の歌

 

 

 

 

 

日は断崖の上に登り

 

憂いは陸橋の下を低く歩めり。

 

無限に遠き空の彼方

 

続ける鉄路の棚の背後(うしろ)に

 

一つの寂しき影は漂う。

 

 

 

ああ汝 漂泊者!

 

過去より来りて未来を過ぎ

 

久遠の郷愁を追い行くもの。

 

いかなれば蹌爾として

 

時計の如くに憂い歩むぞ。

 

石もて蛇を殺すごとく

 

一つの輪廻を断絶して

 

意志なき寂寥を踏み切れかし。

 

 

 

 

 

ああ 悪魔よりも孤独にして

 

汝は氷霜の冬に耐えたるかな!

 

かつて何物をも信ずることなく

 

汝の信ずるところに憤怒を知れり。

 

かつて欲情の否定を知らず

 

汝の欲情するものを弾劾せり。

 

いかなればまた愁い疲れて

 

やさしく抱かれ接吻(きす)する者の家に帰らん。

 

かつて何物をも汝は愛せず

 

何物もまたかつて汝を愛せざるべし。

 

 

 

 

 

ああ汝 寂寥の人

 

悲しき落日の坂を登りて

 

意志なき断崖を漂泊(さまよ)い行けど

 

いずこに家郷はあらざるべし。

 

汝の家郷は有らざるべし!

 

 

 

(青空文庫「氷島」より。新かな・新漢字に改めました。編者。)

 

 

 

 

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

2015年1月 6日 (火)

茨木のり子の自由の時間/「倚りかからず」の骨組みについて

茨木のり子の漂泊や放浪は

自由に近く

その自由は晩年には寂寥を道づれにすることになりました。

 

 

晩年というほどの年輪にさしかかったころに

詩集「倚りかからず」は編まれたにもかかわらず

このころの自由には初々(ういうい)しさが滲んでいます。

 

冒頭詩「木は旅が好き」の次に配置された

「鶴」の旅もまた

自由の変奏曲として聴くことができるかもしれません。

 

 

 

鶴が

ヒマラヤを越える

たった数日間だけの上昇気流を捉えて

巻きあがり巻きあがりして

九千メートルに近い峨峨(がが)たるヒマラヤ山系を

越える

カウカウと鳴きかわしながら

どうやってリーダーを決めるのだろう

どうやって見事な隊列を組むのだろう

 

涼しい北で夏の繁殖を終え

育った雛もろとも

越冬地のインドへ命がけの旅

映像が捉えるまで

誰にも信じることができなかった

白皚皚(はくがいがい)のヒマラヤ山系

突き抜けるような蒼い空

遠目にもけんめいな羽ばたきが見える

 

なにかへの合図でもあるような

純白のハンカチ打ち振るような

清冽な羽ばたき

羽ばたいて

羽ばたいて

 

わたしのなかにわずかに残る

澄んだものが

はげしく反応して  さざなみ立つ

今も

目をつむれば

まなかいを飛ぶ

アネハヅルの無垢ないのちの

無数のきらめき

一九九三・一・四 NHK「世界の屋根・ネパール」

 (ちくま文庫「倚りかからず」より。)



詩集「倚りかからず」には

18篇の詩が収録されていますが(※「あとがき」にある15篇という計算は間違いでしょう)

冒頭に置かれた「木の旅」と「鶴の旅」は

やがて世界各地・日本各地の風俗へ、

ピカソやマザー・テレサといった歴史的人物を歌った

「想像の旅」に変わり

中には実際に出かけた場所の見聞を歌ったものもあり

ニュースを題材にしたものもあり

……

末尾に至って「行方不明の時間」で結ばれます。

 

 

木の旅や鶴の旅は

詩人自身の日常の断面へと舞い戻り

最後には「行方不明の時間」で終わるのです。

 

ポワンと一人

なにもかもから離れて

 

詩人は世界から断絶した

まったき自由の時間(これを旅と言わない理由がありません)にもぐりこもうとします。

 

その「行方不明の時間」も読んでみましょう。

 

 

行方不明の時間


人間には

行方不明の時間が必要です。

 

なぜかはわからないけれど

そんなふうに囁くものがあるのです

 

三十分であれ 一時間であれ

ポワンと一人

なにものからも離れて

うたたねにしろ

瞑想にしろ

不埒なことをいたすにしろ

遠野物語の寒戸の婆のような

ながい不明は困るけれど

ふっと自分の存在を掻き消す時間は必要です

 

所在 所業 時間帯

日々アリバイを作るいわれもないのに

着信音が鳴れば

ただちに携帯を取る

道を歩いているときも

バスや電車の中でさえ

<すぐに戻れ>や<今 どこに?>に

答えるために

 

遭難のとき助かる率は高いだろうが

電池が切れていたり圏外であったりすれば

絶望はさらに深まるだろう

シャツ一枚 打ち振るよりも

私は家に居てさえ

ときどき行方不明になる

ベルが鳴っても出ない

電話が鳴っても出ない

今は居ないのです

 

目には見えないけれど

この世のいたる所に

透明な回転ドアが設置されている

不気味でもあり 素敵でもある 回転ドア

うっかり押したり

あるいは

不意に吸いこまれたり

一回転すれば あっという間に

あの世へとさまよい出る仕掛け

さすれば

もはや完全なる行方不明

残された一つの愉しみでもあって

その折は

あらゆる約束ごとも

すべては

チャラよ

 

(前同。)

 

 

詩集という「旅」の

建築物のような骨組み。

この絶妙な構成。

堅牢さ。

 

冒頭2篇と末尾の詩にはさまれている詩を

一つ一つもう一度味わってみようという気がそそられます。


詩集を編むという意志が見えるではありませんか。

 

2015年1月 4日 (日)

茨木のり子の「漂泊・放浪」/「木は旅が好き」

新年だから特別ということではありませんし

浮かれているわけではありませんし

実情、むしろその反対の気分がいつもあるのですが

やはり新年は1年のうちで

「時」を感じる一番の節目(ふしめ)であるのは確かですから

こうして軌道を外れて

道草するのもまたよかろうということにしましょう。

 

 

たまたま文庫本の「清冽」(後藤正治著)で茨木のり子に接し

詩集「倚りかからず」(ちくま文庫)

「茨木のり子 言の葉Ⅰ~Ⅲ」(同)

散文集「一本の茎の上に」(同)

評論「うたの心に生きた人々――与謝野晶子・高村光太郎・山之口貘・金子光晴」(同)

「茨木のり子詩集・谷川俊太郎選」(岩波文庫)

――とまずは入手しやすい文庫本を買い求め

中には書店で取り寄せ注文したり

第2詩集「見えない配達夫」(日本図書センター)は古書店で見つけたり

……と次々に手に入れ

短時間に多くの詩やエッセイなどを読みはじめることになりました。

 

まだその一部しか読んでいませんが。

 

 

萩原朔太郎の詩集「氷島」への賛否両論をみていく順路を放棄したものではなく

「時」に感じての一休みみたいなものですが

もう少し茨木のり子の詩を読んでおきたくなったのは

「倚りかからず」をめくっていて

冒頭の詩「木は旅が好き」に現われる「放浪」「漂泊」が

朔太郎の「漂泊」へとかすかに反響している感じがしたからです。

 

 

まったく関係ないと言えば

そうも言えるのですが

関係なかったとしても

「放浪」「漂泊」について歌った詩であることに違いはありませんから。

 

とにかく読んでみましょう。

 

 

木は旅が好き

 

木は

いつも

憶っている

旅立つ日のことを

ひとつところに根をおろし

身動きならず立ちながら

 

花をひらかせ 虫を誘い 風を誘い

結実を急ぎながら

そよいでいる

どこか遠くへ

どこか遠くへ

 

ようやく鳥が実を啄(ついば)む

野の獣が実を嚙(かじ)る

リュックも旅行鞄もパスポートも要らないのだ

小鳥のお腹なんか借りて

木はある日 ふいに旅立つ――空へ

ちゃっかり船に乗ったのもいる

 

ポトンと落ちた種子が

<いいところだな 湖がみえる>

しばらくここに滞在しよう

小さな苗木となって根をおろす

元の木がそうであったように

分身の木もまた夢みはじめる

旅立つ日のことを

 

幹に手をあてれば

痛いほどにわかる

木がいかに旅好きか

放浪へのあこがれ

漂泊へのおもいに

いかに身を捩っているのかが

 

(ちくま文庫「倚りかからず」より。)

 

 

「木」に仮託した放浪・漂泊への願望を

女だてらとみなす声もきこえそうですが

漂泊・放浪は男の特権であると決ったものでもないでしょう。

 

「あこがれ」「おもい」とあるところが

この詩のいのちなのでしょうし

その主語が「木」であるところに

茨木のり子がいます。

 

 

朔太郎がこの詩を読んだら

どんな感想をもらすでしょうか?


中也はどう言うでしょうか。

2015年1月 3日 (土)

中原中也の新年(昭和10年)/「冷たい夜」

 

 

 

 

中原中也の正月は

 

どのような心模様であったでしょうか。

 

 

 

昭和11年(1936年)の日記に

 

正月の記載がありますから

 

それを開くとこんな具合です。

 

 

 

 

 

 

1月6日

 

馬鹿者どもというものは、相手がしょんぼりしてると、張合がないようなことを云うけれど、それでて、

 

相手がしょんぼりしてれば自己満足しているものなんだ。フランス語。ルナールの日記。

 

 

 

 

 

 

この冬に詩人は

 

山口の実家に帰省していません。

 

 

 

「馬鹿者ども」とは

 

文学関係のだれかであるか

 

付き合いのあっただれかのことか

 

だれかであることを特定できません。

 

 

 

 

 

正月早々、「人事」が詩人の心を占めていたことを物語りますが

 

「フランス語。ルナールの日記。」とあるところに注目しましょう。

 

 

 

詩人は正月早々であっても

 

あたかも現代の受験生のような猛烈な勉強中であったのです。

 

 

 

 

 

 

「冷たい夜」は

 

この頃に制作されたもののようで

 

詩人が前年末に同人となることを承諾した

 

詩誌「四季」へ発表した初めての詩です。

 

 

 

「四季」初出の後

 

「在りし日の歌」に収録されました。

 

 

 

 

 

 

冷たい夜

 

 

 

冬の夜に

 

私の心が悲しんでいる

 

悲しんでいる、わけもなく……

 

心は錆(さ)びて、紫色をしている。

 

 

 

丈夫な扉の向うに、

 

古い日は放心している。

 

丘の上では

 

棉(わた)の実が罅裂(はじ)ける。

 

 

 

此処(ここ)では薪(たきぎ)が燻(くすぶ)っている、

 

その煙は、自分自らを

 

知ってでもいるようにのぼる。

 

 

 

誘われるでもなく

 

覓(もと)めるでもなく、

 

私の心が燻る……

 

 

 

(日記、詩篇ともに「新編中原中也全集」より。新かな・新漢字に改めました。編者。)

 

 

 

 

 

 

詩人の「時」は

 

俗事の中を流れてはいません。

 

 

 

ひとえに「心」に向かっています。

 

 

 

 

 

 

 

2015年1月 1日 (木)

萩原朔太郎の「新年」

 

 

AULD LANG SYNE!(蛍の光)」を歌って

 

「時」は確実に流れ(たように感じ)

 

そして「新年」が訪れました。

 




昭和7年(1932年)1月1日の萩原朔太郎を呼び出しましょう。

 

詩人47歳(数え年)の新年です。

 


 


新年

 


新年来り

 

門松は白く光れり。

 

道路みな霜に凍りて

 

冬の凜烈たる寒気の中

 

地球はその週暦を新たにするか。

 

われは尚悔いて恨みず

 

百度(たび)もまた昨日の弾劾を新たにせむ。

 

いかなれば虚無の時空に

 

新しき弁証の非有を知らんや。

 

わが感情は飢えて叫び

 

わが生活は荒寥たる山野に住めり。

 

いかんぞ暦数の回帰を知らむ

 

見よ! 人生は過失なり。

 

今日の思惟するものを断絶して

 

百度(たび)もなお昨日の悔恨を新たにせん。

 


(青空文庫「氷島」より。詩篇、小解ともに、歴史的かな遣いを新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)

 


 

 

 

悔いて恨みず

 

――は「忍びて終わり悔いなし」(高倉健)に通じるでしょうか。

 

 

 

 


百度(たび)もまた昨日の弾劾を新たにせむ。

 

百度(たび)もなお昨日の悔恨を新たにせん。

 

――の烈しさは

 

大きな飢渇(きかつ)の塊(かたまり)のようで

 

とらえどころがありません。

 


しかし、

 

歳を経るにしたがい

 

振れるものがあることを感じるのです。

 

 

 

 


以下は「詩篇小解」という

 

詩人の自註です。

 


 


 新年  新年来り、新年去り、地球は百度回転すれども、宇宙に新しきものあることなし。年年歳歳、我れは昨日の悔恨を繰返して、しかも自ら悔恨せず。よし人生は過失なるも、我が欲情するものは過失に非ず。いかんぞ一切を弾劾するも、昨日の悔恨を悔恨せん。新年来り、百度過失を新たにするも、我れは尚悲壯に耐え、決して、決して、悔いざるべし。昭和七年一月一日。これを新しき日記に書す。

 

 

 

 

 

 

 

 

« 2014年12月 | トップページ | 2015年2月 »