寺田透の「氷島」支持論7/「青猫」詩人の必然
(前回からつづく)
「新しき弁証の非有」を
どうにか読み解いたところで
「新年」にはまだ未解明の詩行が
大岩のように聳えています。
◇
この詩を詩と認めない人々が
読解を放棄してしまった詩行が
詩の終わりに入ろうとするところに
また立ち現われるのです。
わが感情は飢えて叫び
わが生活は荒寥たる山野に住めり。
いかんぞ暦数の回帰を知らむ。
――と。
とりわけこの3行中の最後の行。
◇
この行は
この詩の前の方に置かれた
地球はその週暦を新たにするか。
――と呼応しているのですが
これを読み解く寺田の口調は
なにが表明されているのかはっきりしない独白(独創)のようなものをはさんで
一つの断言へと至ります。
自分は十分に理解しているから自明であることが
他者には見えないでいるときに起こりがちな
伝達の一方通行みたいなことがここにあります。
◇
寺田のその一方通行的な(と思われる)読み解きの部分を
ここで原文のまま載せておきましょう。
◇
この最後の句は前の「地球はその週暦を新たにするか」とともに、歌われている事柄の現実性、必然性を認識者としては肯定しながら、しかし一回きりこの世に生きる特殊な個として、その肯定がおのれ自身にとってなんらの価値ももたないということの歌い上げである、と言うほかあるまい。
かれの生きているのは、自分と自分と係わりなきものの二元である。係わりなきものがかれにとっては、おのれの存在の敵だというところにかれの不幸がある。かれはかれの白眼視するものを見下すことができず、むしろかえってそれに切りさいなまれる。
「氷島」一巻の、苛立たしい、激越な朗吟風の声調は、その決裂の声だと言っていいだろう。「乃木坂倶楽部」がよくそのことを語っている。
だから、「いかんぞ」「いかなれば」「いずこに」と歌い出しても、かれは、その問いの形式に、答があろうとは全然考えていない。
◇
だから
――と寺田はこの一方通行的な主張(独白・独創)を
「順接」で受けて断言するのです。
「いかんぞ」も
「いかなれば」も
「いづこに」も
詩人がその問いへの答えを用意しているものではなく
むしろ答えのないことを知っているからこそ
真情を問いの形で言い表した
――という断言です。
それは独特の個性的な読みといえるものでしょうが
なぜ「だから」なのかが伝わってきません。
よく読めば「決裂」がキーワードのようですが。
◇
(一方通行の部分をはさんでいるものの)
「青猫」の典雅で優艶な詩人は「こういうもの」になった
それは必然のことであったと僕には思われる
――と(末行2行を残していますが)「新年」の読みを終え
一定の結論へ至ります。
◇
「新年」をこのように読んだ寺田はやがて
「氷島」の諸詩篇は、
涸渇の様相どころか、他でもなく、
詩の究極のイデヤに詩がもっとも近づいた場合
――という最高の賛辞を表明することになります。
◇
途中ですが
今回はここまで。
◇
乃木坂倶楽部
十二月また来れり。
なんぞこの冬の寒きや。
去年はアパートの五階に住み
荒漠たる洋室の中
壁に寝台(べっと)を寄せてさびしく眠れり。
わが思惟するものは何ぞや
すでに人生の虚妄に疲れて
今も尚家畜の如くに飢えたるかな。
我れは何物をも喪失せず
また一切を失い尽せり。
いかなれば追わるる如く
歳暮の忙がしき街を憂い迷いて
昼もなお酒場の椅子に酔わむとするぞ。
虚空を翔け行く鳥の如く
情緒もまた久しき過去に消え去るべし。
十二月また来れり
なんぞこの冬の寒きや。
訪うものは扉(どあ)を叩(の)っくし
われの懶惰を見て憐れみ去れども
石炭もなく暖炉もなく
白亜の荒漠たる洋室の中
我れひとり寝台(べっと)に醒めて
白昼(ひる)もなお熊の如くに眠れるなり。
(青空文庫「氷島」より。現代表記に直してあります。編者。)
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