寺田透の「氷島」支持論6/「虚無の時空」の奇蹟
(前回からつづく)
詩の鑑賞を記すのは散文ですから
散文に目を奪われてしまって
肝心の詩をそっちのけにする危険な傾向があります。
あくまで詩を読もうとして
他者の鑑賞記録を読むのですから
詩から離れないようにすることが大切です。
◇
新年
新年来り
門松は白く光れり。
道路みな霜に凍りて
冬の凜烈たる寒気の中
地球はその週暦を新たにするか。
われは尚悔いて恨みず
百度(たび)もまた昨日の弾劾を新たにせむ。
いかなれば虚無の時空に
新しき弁証の非有を知らんや。
わが感情は飢えて叫び
わが生活は荒寥たる山野に住めり。
いかんぞ暦数の回帰を知らむ
見よ! 人生は過失なり。
今日の思惟するものを断絶して
百度(たび)もなお昨日の悔恨を新たにせん。
(青空文庫「氷島」より。現代表記に直してあります。編者。)
◇
思想者・寺田透の「新年」読解は
まだまだ続きます。
◇
朔太郎にとって現世は
自然界も人間界も
かれを救い慰め明日への活力を与えてくれるものではなく、
我れ既に生活して、長く疲れたれども、帰すべき港を知らず。
暗澹として碇泊し、心みな錆びて牡蠣に食われたり。
――と「品川沖観艦式」に自註(詩篇小解)しているような境地にあり、
虚無以外ではなかった。
虚無は与えず励まさぬものであった。
◇
であるから
「新しき弁証の有」(「新しき弁証の非有」にではなく!)
――それは進歩や成長の安泰を打ち砕くもの!――に
はかなくも熱烈な望みをかけることしかなくなっている。
生き延びる可能性はそこにしかない。
◇
「弁証の有」は変化(進歩)、
「弁証の非有」は非・変化(進歩)
――ということでしょうか。
◇
昨日の悔恨、昨日の弾劾を新たにする間に
「新しき弁証」の発生を期待できるのではなかろうか。
悔恨、弾劾を繰り返すことに
懲りることはない。
なんら苦にならない。
むしろその中から
光は見えるかもしれない。
◇
「新しき弁証の有」と「新しき弁証の非有」と。
◇
朔太郎の存在を否定しにかかる外部存在、
すなわち変化をとどめるもの。
それに対峙する「止揚形態以外の変化の発生」を
奇蹟を待つように期待する
止揚形態以外の変化とは
弁証法以外の運動法則ということですから
とても稀な変化ということになります。
ディアレクティケー(弁証法)の一般法則を超える奇蹟
――を朔太郎は望んでいたのであり
その望みを「新年」の(あの)2行
いかなれば虚無の時空に
新しき弁証の非有を知らんや。
――で歌ったのである。
◇
「新しき弁証の非有」を
ようやく読み解いてなお
「新年」は読み終えられていません。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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