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2015年1月18日 (日)

寺田透の「氷島」支持論10/「蝶を夢む」にはじまる

(前回からつづく)

 

 

 

「愛憐詩篇」の序文には、

 

やさしい純情にみちた過去の日を記念するために、このうすい葉っぱのような詩集を出すことにした。(略) この詩集を世に出すのは、改めてその鑑賞的評価を問うためではなく、まったく私自身への過去を追憶したいためである。あるひとの来歴に対するのすたるじやとも言えるだろう

 

 

 

――とあり、

 

 

 

 

 

 

 

「氷島」には、

 

……著者は、すべての芸術的野心を廃棄し、単に「心のまま」に、自然の感動に任せて書いたのである。したがって著者は、決して自ら、その詩集の価値を世に問おうと思って居ない。この詩集の正しい批判は、おそらく芸術品であるよりも、著者の実生活の記録であり、切実に書かれた心の日記であるのだろう

 

 ――とあります。

 

(現代表記に直してあります。編者。)

 

 

 

 

 

 

ここに見られるように

 

「来歴」と「心の日記」は

 

老若の差、

 

乾湿の差、

 

甘美辛苦の差はあっても

 

骨組みは符号している

 

――と読めるでしょう。

 

 

 

 

 

 

「氷島」への寺田の読み解きは

 

このあたりでほぼ終えられるのですが

 

結びに「氷島」の詩風は朔太郎の作品歴のいつごろ芽生えたのだろうか

 

――という問いを加えます。

 

 

 

「氷島」と「愛憐詩篇」の序文に述べられている内容が相似していても

 

「氷島」の詩篇を作らせた詩風や詩法が

 

なお具体的に実作としてはじめられたのはいつのどの詩(集)なのか

 

 

 

その見当をつけようとします。

 

 

 

 

 

 

「郷土望景詩」には

 

パテティックで慷慨調である点で

 

「氷島」を予感させるものがあるけれど

 

もう少し遡(さかのぼ)って

 

「蝶を夢む」にはじまりがある

 

――というのが寺田の主張です。

 

 

 

 

 

 

それを例証するために取り出されるのが

 

「蝶を夢む」中の「まずしき展望」です。

 

 

 

げにきょうの思いは悩みに暗く
そはおもたく沼地に渇きて苦痛なり
いずこに空虚のみつべきありや
風なき野道に遊戯をすてよ
われらの生活は失踪せり。

 

――という「まずしき展望」の後半部ですが

 

この詩にめぐり逢った思索者・寺田透が抱いたのは

 

解放感でした。

 

 

 

 

 

 

花のすえる匂い

 

なまあたたかい夜

 

軟体動物という言葉の呼びさます感覚

 

閉された庭

 

羊歯類

 

ほのじろい、うつけたような桜

 

透けて見える草の根

 

流れすぎる春の潮の肌ざわり。

 

 

 

そういう幻想が醸成する

 

さびしいという言葉さえエロティックな

 

明暗を定めがたい

 

けだるげな無限旋律による輪舞のような

 

「青猫」の詩境を僕とて感じられないわけではない

 

 

 

その架空の詩世界を作り出した詩人の技術が

 

そのからだの内部から分泌された

 

有機的な、体液のような技法であることを

 

わからないものではない

 

 

 

しかしまだそこには

 

辿りついていない、もどかしさを感じさせる何か

 

借り物めいた

 

決定的でない何かがある

 

 

 

 

 

 

「青猫」というご馳走(という言葉を寺田は使っていませんが)をしたたかに振舞われた後に

 

「まずしき展望」を読んだからという理由だけでないことは

 

すでに延々と述べてきたとおり。

 

 

 

より明確にいえば

 

「『青猫』以後」こそが芸術的かつ現代的である

 

――という結論に至るのです。

 

 

 

「まずしき展望」の全行を上げておきましょう。

 

 

 

 

 

 

まずしき展望

まずしき田舍に行きしが
かわける馬秣(まぐさ)を積みたり
雑草の道に生えて
道に蝿のむらがり
くるしき埃のにおいを感ず。
ひねもす疲れて畔(あぜ)に居しに
君はきゃしゃなる洋傘(かさ)の先もて
死にたる蛙を畔に指せり。
げにきょうの思いは悩みに暗く
そはおもたく沼地に渇きて苦痛なり
いずこに空虚のみつべきありや
風なき野道に遊戯をすてよ
われらの生活は失踪せり。

 

 

 

(青空文庫より。現代表記に直しました。編者。)

 

 

 

 

 

 

 

 

今回はここまで。

 

 

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