寺田透の「氷島」支持論8/シェストフ的実存
(前回からつづく)
今日の思惟するものを断絶して
百度(たび)もなお昨日の悔恨を新たにせん。
「新年」は
末行でこの2行を歌って閉じます。
◇
何度でも何度でも同じ情念に苦しもうという心情の表白
――と、この詩行を読んで
寺田はここに歌われる思惟について考察し
またも「弁証法」を呼び出します。
ここで思惟とは
恒常不変の弁証法を軌道とし、方法とするもの、
つまり理性ということになる
合理、連続、明証、それらを手がかりとして
きのうによってきょうを、
きょうによってあすを予想し説明する、
持続的なもの体系的なもの、
それらを信奉することになるだろう
「大井町」に歌われた
貧しくうすよごれた日常的な姿をとるにせよ
持続し体系的なものは理性である
それを断絶して
百度もなお昨日の悔恨を新たにすると歌うのは
詩人がシェストフの徒になったからである
――と指摘するのです。
◇
「新年」に現われる実存はシェストフに由来するということが
「氷島」評価が頂点に至ろうとするときに
寺田によって主張されたことは記憶されてよいことでしょう。
しかし、詩はそのように読まれたからといって
近くなるものではないことも銘記しておかねばなりません。
シェストフの名が挙がったからといって
詩が読めるものではないはずですから。
◇
この決意。
何度でも何度でも
百度でも悔恨してみせるという決意。
それは涸渇ではなく、
自己への覚醒を語っている。
ここに寺田の鑑賞の到達点があります。
◇
この覚醒は、
やわらかいもの変現(ママ)するもの、
甘美なものの断念が必要である
そのことが覚醒を涸渇と見誤られただけの話ではなかったか。
◇
覚醒とは
宮沢賢治風に言えば
脂肪酸につつまれた詩人・朔太郎が
筋肉質の爽やかな人間になったということである。
◇
シェストフが登場し
宮沢賢治が登場し。
そして、
「氷島」の「詩篇小解」と「序文」が
呼び出されます。
◇
途中ですが
今回はここまで。
「大井町」をあげておきます。
◇
大井町
おれは泥靴を曳きずりながら
ネギや ハキダメのごたごたする
運命の露地(ろじ)をよろけあるいた。
ああ 奥さん! 長屋の上品な嬶(かかあ)ども
そこのきたない煉瓦の窓から
乞食のうす黒いしゃっぽの上に
鼠(ねずみ)の尻尾でも投げつけてやれ。
それから構内の石炭がらを運んできて
部屋中いっぱい やけに煤煙でくすぼらせろ。
そろそろ夕景が薄(せま)ってきて
あっちこっちの家根の上に
亭主の”しゃべる”が光り出した。
へんに紙屑(かみくづ)がべらべらして
かなしい日光のさしてるところへ
餓鬼共(がきども)のヒネびた声がするではないか。
おれは空腹になりきっちゃって
そいつがバカに悲しくきこえ
大井町織物工場の暗い軒から
わあっと言って飛び出しちゃった。
(「日本の詩歌 萩原朔太郎」より。現代表記に直してあります。編者。)
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