三好達治の戦争詩について/「おんたまを故山に迎ふ」その2
(前回からつづく)
「おんたま」とは
「御霊」か「御魂」のことか
「御霊=みたま」ならよく聞き
「たましい」に尊敬の意味を強めて使うのであろうことぐらいと
何かの折に自分でも使えるような気がしますが
「おんたま」となると
かしこまりすぎて
なかなか普段は使えるものでなく
一般人には遠い言葉です。
◇
三好達治は
出征した兵士が遺骨となって帰郷した光景を
偶々(たまたま)通りかかった旅の途上で見たのでしょうか。
実際に見たものでないのかもしれませんが
帰還した御遺骨を迎えるどこかの村(人)に託して
自らの鎮魂歌としたのでしょうか。
はじまりは、たましい(魂)として登場し
終わりには、おほね(骨)として現われて
目に見えない魂が
やがてリアルな遺骨であることを歌った詩です。
そのような歌い方をされている詩です。
◇
もう一度読んでみましょう。
◇
おんたまを故山に迎ふ
ふたつなき祖国のためと
ふたつなき命のみかは
妻も子もうからもすてて
いでまししかの兵(つは)ものは つゆほども
かへる日をたのみたまはでありけらし
はるばると海山こえて
げに
還る日もなくいでましし
かのつはものは
この日あきのかぜ蕭々と黝(くろず)みふく
ふるさとの海べのまちに
おんたまのかへりたまふを
よるふけてむかへまつると
ともしびの黄なるたづさへ
まちびとら しぐれふる闇のさなかに
まつほどし 潮騒(しほさゐ)のこゑとほどほに
雲はやく
月もまたひとすぢにとびさるかたゆ 瑟々(しつしつ)と楽の音きこゆ
旅びとのたびのひと日を
ゆくりなく
われもまたひとにまじらひ
うばたまのいま夜のうち
楽の音はたえなんとして
しぬびかにうたひつぎつつ
すずろかにちかづくものの
荘厳のきはみのまへに
こころたへ
つつしみて
うなじうなだれ
国のしづめと今はなきひともうなゐの
遠き日はこの樹のかげに 閧(とき)つくり
讐(あだ)うつといさみたまひて
いくさあそびもしたまひけむ
おい松が根に
つらつらとものをこそおもへ
月また雲のたえまを駆け
さとおつる影のはだらに
ひるがへるしろきおん旌(はた)
われらがうたのほめうたのいざなくもがな
ひとひらのものいはぬぬの
いみじくも ふるさとの夜かぜにをどる
うへなきまひのてぶりかな
かへらじといでましし日の
ちかひもせめもはたされて
なにをかあます
のこりなく身はなげうちて
おん骨はかへりたまひぬ
ふたつなき祖国のためと
ふたつなき命のみかは
妻も子もうからもすてて
いでまししかのつはものの
しるしばかりの おん骨はかへりたまひぬ
(岩波文庫「三好達治詩集」より。)
◇
詩は
旅人の目で御霊の帰還をとらえますが
「おんたまを故山に迎ふ」のタイトルが示すように
この旅人は「迎える」主体でもあります。
秋風が蕭々と吹き
時雨降る闇
潮騒(しおさい)が聞える海辺
雲の流れは速く
月もそれに連れて飛び去っていく空の果てから
瑟々(しつしつ)と楽の音が聞えて来ます
村人の葬送の列が
笛太鼓(?)を演奏する音が
詩人に近づいているのでしょう
こころたへ
つつしみて
うなじうなだれ
――の主格は詩人その人でしょう。
◇
死んでしまった兵士も
幼き日には
この老松の根元で遊び
「あだをうつぞー」と鬨の声をあげて
戦争ごっこに興じたことがあったであろう
――と故人を思い返す人になっています。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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