萩原朔太郎の「新年」
「AULD LANG SYNE!(蛍の光)」を歌って
「時」は確実に流れ(たように感じ)
そして「新年」が訪れました。
◇
昭和7年(1932年)1月1日の萩原朔太郎を呼び出しましょう。
詩人47歳(数え年)の新年です。
◇
新年
新年来り
門松は白く光れり。
道路みな霜に凍りて
冬の凜烈たる寒気の中
地球はその週暦を新たにするか。
われは尚悔いて恨みず
百度(たび)もまた昨日の弾劾を新たにせむ。
いかなれば虚無の時空に
新しき弁証の非有を知らんや。
わが感情は飢えて叫び
わが生活は荒寥たる山野に住めり。
いかんぞ暦数の回帰を知らむ
見よ! 人生は過失なり。
今日の思惟するものを断絶して
百度(たび)もなお昨日の悔恨を新たにせん。
(青空文庫「氷島」より。詩篇、小解ともに、歴史的かな遣いを新かな・新漢字に改めました。ブログ編者。)
◇
悔いて恨みず
――は「忍びて終わり悔いなし」(高倉健)に通じるでしょうか。
◇
百度(たび)もまた昨日の弾劾を新たにせむ。
百度(たび)もなお昨日の悔恨を新たにせん。
――の烈しさは
大きな飢渇(きかつ)の塊(かたまり)のようで
とらえどころがありません。
しかし、
歳を経るにしたがい
振れるものがあることを感じるのです。
◇
以下は「詩篇小解」という
詩人の自註です。
◇
新年 新年来り、新年去り、地球は百度回転すれども、宇宙に新しきものあることなし。年年歳歳、我れは昨日の悔恨を繰返して、しかも自ら悔恨せず。よし人生は過失なるも、我が欲情するものは過失に非ず。いかんぞ一切を弾劾するも、昨日の悔恨を悔恨せん。新年来り、百度過失を新たにするも、我れは尚悲壯に耐え、決して、決して、悔いざるべし。昭和七年一月一日。これを新しき日記に書す。
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