寺田透の「氷島」支持論11/戦争詩「南京陥落の日に」へ一言
(前回からつづく)
「氷島」は「月に吠える」や「青猫」の詩世界を自ら否定し
自然主義の末流に行き着いたものでありながらも
そのことは詩心の涸渇に結びつくものではなく
それどころか
詩の究極のイデヤに近づいた
――というのが寺田透の鑑賞ということになりますが
この「朔太郎管見」の結びで
これだけは言っておかなければならないという主張を込めるかのように
朔太郎の戦争詩「南京陥落の日に」について
一言、コメントを加えます。
◇
「氷島」の詩境へ舵(かじ)を切った朔太郎が
では「南京陥落の日に」を書いたのは必然だったと見られるかもしれない。
この詩は
杜子美(杜甫)風の、
軍旅の苦痛に寄せた憂いの詠唱にはじまり
強い響きをもたない祝賀の言葉で終わる戦争肯定詩であることは確かである
――という読みを示した寺田は
しかし、と言って
朔太郎がこれを制作した頃を振り返って
思い返すのです。
これは詩人が昭和12年というその時に
なお生きていたために起こった偶発事に過ぎなかったものではないか、と。
かれは、朝日新聞に出たこの詩のほかに
戦争詩を書いていないのである、と。
◇
「氷島」と直接関係することではなく、
紙数も尽きてしまったということもあるでしょうが
「南京陥落の日に」を読めば一目瞭然の
「だるい」「気乗りのしない」詩は
「氷島」詩篇の「鬼気」といっこうに繋(つな)がりません。
「朔太郎管見」の中に引用し
比較を試みれば
その異なり具合ははっきりしたことでしょう。
◇
寺田透の論考の案内を
「南京陥落の日に」を読みながらおしまいにします。
◇
南京陥落の日に
歳まさに暮れんとして
兵士の銃剣は白く光れり。
軍旅の暦は夏秋をすぎ
ゆうべ上海を拔いて百千キロ。
わが行軍の日は憩わず
人馬先に争い走りて
輜重は泥濘の道に続けり。
ああこの曠野に戦うもの
ちかって皆生帰を期せず
鉄兜きて日に焼けたり。
天寒く日は凍り
歳まさに暮れんとして
南京ここに陥落す。
あげよ我等の日章旗
人みな愁眉をひらくの時
わが戦勝を決定して
よろしく万歳を祝うべし。
よろしく万歳を叫ぶべし。
(「青空文庫」より。現代表記に変えました。編者。)
◇
今回はここまで。
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