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« 寺田透の「氷島」支持論2/思惟する詩のはじまり | トップページ | 寺田透の「氷島」支持論4/ねじまげられた言葉使い »

2015年1月 9日 (金)

寺田透の「氷島」支持論3/弁証法のレトリック

(前回からつづく)

 

 

 

「いかんぞ」という起句は

 

通常なら「や」という結句と呼応して反語表現(否定)とするものですから

 

文法的には「立たずや」「立たざらんや」とするところですが

 

ここに否定句がないのはおかしいと

 

三好達治なら指摘するところです。

 

 

 

 

 

 

ところが寺田は

 

ここには「いずこに家郷はあらざるべし!」と同様の

 

「ねじまげられた使いざま」があるのであって

 

反語的機能は成立しないと読み直します。

 

 

 

いかんぞ故郷に独り帰り

 

さびしくまた利根川の岸に立たんや。

 

――を「立つ」意志として取ることが可能とするのです。

 

 

 

起句「いかんぞ」は結句「や」とともに

 

肯定・強調の役をするだけである、と。

 

 

 

 

 

 

「帰郷」の詩人は

 

にっちもさっちも行かない混迷の渦の中にありました。

 

 

 

昭和7年制作の「新年」がこうして

 

「帰郷」と同じように誤解され易い(または理解され難い)表現が現われる例として

 

呼び出されます。

 

 

 

 

 

 

道路みな霜に凍りて

 

冬の凛烈たる寒気の中

 

地球はその週暦を新たにするか。

 

われは悔いて恨みず

 

百度もまた昨日の弾劾を新たにせむ。

 

 

 

 

 

 

賛否の分かれるこの詩を読み解く寺田の論法は

 

熟慮に熟慮を重ねたことが想像される

 

核心を突いたものになります。

 

 

 

かつてこの詩をめぐって

 

帝大生である杉浦民平らと議論を重ねた時間が

 

現在(「朔太郎管見」発表の1981年当時)も尾を引いているとでもいうように

 

杉浦の最近(同)の発言を寺田は引きながら

 

誤解されやすく理解し難い詩行を解釈してみせます。

 

 

 

杉浦民平がかつて理解不能としたところです。

 

 

 

 

 

 

寺田の読み解きを要約することは至難であるのは

 

詩行そのものが多様な解釈の可能な難解さをもつからですが

 

「『青猫』以後」の序文を読みながら

 

ディアレクティケー(弁証法)のレトリックに共感できるのは

 

杉浦よりも自分であると言って

 

果敢に「新年」を読み進みます。

 

 

 

 

 

 

「青猫以後」の序文には

 

「進歩はどこにもない。実にあるのはただ変化のみ」とあり

 

「進歩史観」(という語を朔太郎は使っていません)へのアンチ・テーゼが宣言されているのですが

 

このことは利根川のほとりに帰ることも

 

あす東京に出て来ることも等価の

 

流転の一局面にすぎないものかもしれないとして

 

いかなれば虚無の時空に

 

新しき弁証の非有を知らんや

 

――という詩行をよみほぐします。

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

「新年」全行を

 

現代表記で掲出しておきます。

 

 

 

 

 

 

新年

 

 

 

新年来り

 

門松は白く光れり。

 

道路みな霜に凍りて

 

冬の凜烈たる寒気の中

 

地球はその週暦を新たにするか。

 

われは尚悔いて恨みず

 

百度(たび)もまた昨日の弾劾を新たにせむ。

 

いかなれば虚無の時空に

 

新しき弁証の非有を知らんや。

 

わが感情は飢えて叫び

 

わが生活は荒寥たる山野に住めり。

 

いかんぞ暦数の回帰を知らむ

 

見よ! 人生は過失なり。

 

今日の思惟するものを断絶して

 

百度(たび)もなお昨日の悔恨を新たにせん。

 

 

 

(青空文庫「氷島」より。)

 

 

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