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2015年1月17日 (土)

寺田透の「氷島」支持論9/筋肉質の人間・朔太郎

(前回からつづく)

 

 

 

脂肪酸につつまれたような詩人から

 

筋肉質の爽やかな人間へ!

 

 

 

萩原朔太郎の変化を

 

寺田透はこのように表現しました。

 

 

 

 

 

 

そこで持ち出された「氷島」の「詩篇小解」には

 

恋愛詩4篇……凡て昭和5―7年の作。今は既に破き捨てたる、日記の果敢なきエピソードなり。我れの如き極地の人、氷島の上に独り住み居て、そもそも何の愛恋ぞや。過去は恥多く悔多し。これもまた北極の春夜に見たる、侘しき極光(オーロラ)の幻燈なるべし

 

――とあり、

 

 

 

「序文」には

 

近代の抒情詩、概ね皆感覚に偏重し、イマヂズムに走り、或は理智の意匠的構成に耽って、詩的情熱の単なる原質的表現を忘れている。

 

 

 

却ってこの種の詩は、今日の批判で素朴的なものに考えられ、詩の原始形態の部に範疇づけられている。しかしながら思うに、多彩の極致は単色であり、複雑の極致は素朴であり、そしてあらゆる進化した技巧の極致は、無技巧の自然的単一に帰するのである

 

――とあります。

 

 

 

これらの記述が反映されたかのように

 

「氷島」には

 

詩的情熱の素朴純粋な詠嘆が

 

損なわれず飾られぬ姿で表白されている、というのです。

 

 

 

それは

 

涸渇どころか

 

詩の究極のイデヤに

 

詩が最も近づいた場合である、と。

 

 

 

 

 

 

夢見られただけで真に自分のうちに根づいていない、

 

近代的なエキゾチックな

 

ふさわしくないところで爛熟し腐敗し

 

ふさわしくない粉黛(ふんたい)を帯びた

 

――と見なされた「青猫」までの詩風は

 

このようにして朔太郎自身によって否定されたものと寺田は読みます。

 

 

 

 

 

 

朔太郎のこの変化は(詩史的に見れば)

 

自然主義の感情蔑視を敵と見なした出発を自ら否定し

 

自然主義の末流と同じところに行き着いたことを意味している

 

 

 

告白を表現の動機とするというのはその現れであり

 

「月に吠える」や「青猫」が実現した

 

感情世界を創造するフィクションとしての役割や面白みなどを

 

自ら否定したことになる。

 

 

 

 

 

 

これは角度を変えてみれば

 

「氷島」で朔太郎は「愛憐詩篇」へ帰った

 

――ということ。

 

 

 

「帰郷」の

 

いかんぞ故郷に独り帰り

 

さびしくまた利根川の岸に立たんや。

 

汽車は曠野を走り行き

 

自然の荒寥たる意志の彼岸に

 

人の憤怒を烈しくせり。

 

――は、

 

 

 

「愛憐詩篇」の「こころ」と相似形をなしている。

 

 

 

「こころ」は、

 

こころをばなににたとえむ

 

こころはあじさいの花

 

ももいろに咲く日はあれど

 

うすむらさきの

 

――というように甘美で憂愁なストローフ(連)ではじまるのに

 

最後には

 

こころは二人の旅びと

 

されど道づれのたえて物言うことなければ

 

わが心はいつもかくさびしきなり

 

――と無味索漠たる説明口調の自覚の表明で結ばれているのだ

 

 

 

どちらも

 

自己存在の分裂を示している。

 

 

 

 

 

 

自己分裂は、

 

若き日には

 

甘美な嘆きの種であり

 

ナルシシスムの母胎であったものが

 

老いの迫った日には

 

苦しみの種

 

自分へのあいそづかしの根拠でしかない

 

 

 

「極北の住人」は

 

あいそづかしを強烈に劇的に行っただけで

 

自己分裂をよりいっそう推し進めているにすぎない

 

 

 

自己分裂は

 

応答というものもなく

 

前進という可能性もないもので

 

虚無(の深み)は

 

自分を極北の住人と見なす場合も

 

自分のこころを「あじさい」にたとえる場合も

 

変わるところはない。

 

 

 

 

 

 

このことを証明するために

 

今度は「氷島」と「愛憐詩篇」の二つの序文が

 

互いに近似しているものとして呼び出されるのです。

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

「帰郷」と「こころ」の全行を

 

引いておきます。

 

 

 

 

 

 

帰郷

 

    昭和4年の冬、妻と離別し2児を抱えて故郷に帰る

 

 

 

わが故郷に帰れる日

 

汽車は烈風の中を突き行けり。

 

ひとり車窓に目醒むれば

 

汽笛は闇に吠え叫び

 

火焔(ほのお)は平野を明るくせり。

 

まだ上州の山は見えずや。

 

夜汽車の仄暗き車燈の影に

 

母なき子供等は眠り泣き

 

ひそかに皆わが憂愁を探(さぐ)れるなり。

 

鳴呼また都を逃れ来て

 

何所(いずこ)の家郷に行かむとするぞ。

 

過去は寂寥の谷に連なり

 

未来は絶望の岸に向えり。

 

砂礫(されき)のごとき人生かな!

 

われ既に勇気おとろえ

 

暗憺として長(とこし)なえに生きるに倦みたり。

 

いかんぞ故郷に独り帰り

 

さびしくまた利根川の岸に立たんや。

 

汽車は曠野を走り行き

 

自然の荒寥たる意志の彼岸に

 

人の憤怒(いきどおり)を烈しくせり。

 

 

 

 

 

 

こころ

 

 

 

こころをばなににたとえん

 

こころはあじさいの花

 

ももいろに咲く日はあれど

 

うすむらさきの思い出ばかりはせんなくて。

 

 

 

こころはまた夕闇の園生のふきあげ

 

音なき音のあゆむひびきに

 

こころはひとつによりて悲しめども

 

かなしめどもあるかいなしや

 

ああこのこころをばなににたとえん。

 

 

 

こころは二人の旅びと

 

されど道づれのたえて物言うことなければ

 

わがこころはいつもかくさびしきなり。

 

 

 

(青空文庫より。現代表記に直し、適宜、洋数字に変えました。編者。)

 

 

 

 

 

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