茨木のり子の「ですます調」その12・金子光晴のファムファタル
(前回からつづく)
茨木のり子が金子光晴のことを書いたものは幾つかあり
中でもまとまった著作は
「金子光晴――その言葉たち」(「ユリイカ」1972年5月初出)や
「最晩年」(「現代詩手帖」1975年9月初出)です。
これらはいずれも
「茨木のり子集 言の葉2」(ちくま文庫)で読めます。
ほかにも金子光晴の名は
折りあるごとに登場しますが
これらのほとんどが「ですます調」でないのは
比較的後期の著作ということになります。
◇
「金子光晴――その言葉たち」は
月刊雑誌「ユリイカ」の求めに応じた書き下ろしですが
十分な時間を与えられない不満を述べながらも
冒頭から力のこもった展開で
金子光晴へのありったけのオマージュの中に
茨木の自在な眼差しが飛び交います。
これまた「入門書」と呼んでよい著作ですが
「である調」で書かれ
冒頭の導入部などはさながら密度の高い散文詩のようです。
◇
「うたの心に生きた人々」(1967年)が
詩の初心者向けに書かれたことと「ですます調」であることは
意図されたことに違いありませんから
読み手はいつも心の中をまっさらにして
頭の中の知識もゼロにして読むことを許容されています。
ゆったりとか構えることなく読んでいるうちに
光晴のファムファタル(運命の女)といってよい森三千代は
山之口貘の物語のなかに
まずはさりげなく登場しました。
◇
新しい生活のスタートをきりましたが、アパートにはなにもなく、正式の仲人になっていた金子光晴、三千代夫妻
は見かねて、自分の家のちゃぶ台やら、こまごまとした炊事道具を運びました。
――というのは、
貘さんの結婚を追った第2章「求婚の広告」のくだりです。
◇
金子光晴と森三千代とのなれそめは
「金子光晴」の第5章「詩集『こがね虫』」で
次のように記述されます。
◇
これまでにも金子光晴は『人間』『日本詩人』などの同人詩誌にも関係していたのですが、
こんどまた新しく『風景』という詩誌をだそうということになりました。
女性の同人もふたりはいることになり、
「ええ? ふたりも!」
といってみな、大いにはりきりました。
ひとりの女性は森三千代(もりみちよ)といい、東京女子高等師範(しはん)学校(いまのお茶の水女子大学)の
学生でした。
男女共学ではなかった当時、女高師というのは、女の最高学府にあたりました。
森三千代は、オリーブ色のはかまをはいて、勝ち誇ったような、健康そうな、カリカリしたむすめでした。
『風景』という同人雑誌は四号まででましたが、金子光晴と森三千代は、いつしか愛しあうようになっていました。
◇
途中ですが今回はここまで。
金子光晴の代表作の一つを読んでおきましょう。
◇
反対
僕は少年の頃
学校に反対だった。
僕は、いままた
働くことに反対だ。
僕は第一、健康とか
正義とかがきらいなのだ。
健康で正しいほど
人間を無情にするものはない
むろん、やまと魂(だましい)は反対だ
義理人情もへどが出る。
いつの政府にも反対であり、
文壇画壇にも尻を向けている。
なにしに生まれてきたと問わるれば、
躊躇なく答えよう。反対しにと。
ぼくは、東にいるときは、
西にゆきたいと思い、
きもの左前、靴は右左、
袴(はかま)はうしろ前、馬には尻をむいて乗る。
人のいやがるものこそ、僕の好物。
とりわけ嫌いは、気の揃(そろ)うということだ。
僕は信じる。反対こそ、人生で
唯(ただ)一つ立派なことだと。
反対こそ、生きていることだ。
反対こそ、じぶんをつかむことだ。
(「うたの心に生きた人々」より。)
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