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2015年2月

2015年2月27日 (金)

茨木のり子の「ですます調」その15・中也と山之口貘の交流

(前回からつづく)

 

与謝野晶子 1878~1942年

高村光太郎 1883~1956年

山之口貘 1903~1963年

金子光晴 1895~1975年

中原中也 1907~1937年。

 

「うたの心に生きた人々」で茨木のり子が取りあげた4人の詩人は

すべてが中原中也が生きていた時間と重なっていた

――ということにいま気づきました。



2





 




中也の倍以上の時間を生きた人々ばかりで

あらためて中也の短命が悲しいかぎりですが

この4人のうち二人(光太郎とばく)と中也は面識があり

ほかの二人(晶子と光晴)を文壇・詩壇で活躍するのを知っていたはずですから

もう少し生きている時間があったならば

この二人とも面識を持つことがあったかもしれないのです。

 

仮定に意味はありませんが

中也がこの4人の詩人とはかなり近いところ(時・場所)に生きていたことは

記憶にとどめてよいことでしょう。

 

 

与謝野晶子は

ライフワークというべき「源氏物語」の現代語訳を完成し

1938年(昭和13年)に刊行を開始、翌1939年に全6巻本を完結させました。

 

高村光太郎は、昭和13年(1938年)に智恵子と死別しました。

 

山之口貘が第1詩集「思弁の苑」を出すのは昭和13年でした。

 

金子光晴は昭和12年8月に詩集「鮫」を発行しています。

 

 

中也が急逝したのが1937年10月22日ですから

「鮫」の発行を知っていた可能性はありますが

読んだとか詩集を手にしたとかいう記録はなく

確かなことはわかりません。

 

「山羊の歌」を発行した1934年(昭和9年)前後から

文壇・詩壇の情報を中也はかなり詳しく知る状況にありましたが。

 

 

山之口貘との交流も

詩誌「歴程」に同人として参加しているよしみから生じたようです。

 

草野心平、高村光太郎、貘の3人が写っている写真が残っていますから

そこに中也がいても不思議ではなかったほどなのですが、

中也が書いた手紙の中には山之口貘が登場するものが残りました。

 

昭和11年(1936年)6月30日付けで中垣竹之助に宛てた手紙です。

 

全文を読みましょう。

 

 

 先夜は大層失礼致しました。その節は結構な物頂戴致し難有く厚く御礼申上ます。扨、昨日より二度ばかり例のおきゅうの山之口に電話しましたがそのたびに出掛けていますので、只今ハガキにて御意向伝えておきましたから何卒お電話にてお話し下さいまし 当人は両国ビル内に住込んでいる由でございますから却て夜の九時頃が最も可能性が多いことと存じます おきゅうにても何にても早く御快癒の程祈ります

暑さに向います折柄何卒皆々様御健康の程祈ります。

 高橋に暇の時があったらたびたび遊びて(ママ)来られる様御伝え下さいまし。  怱々万々

 (山之口貘――本所区東両国両国ビル本所七、〇五七)

 

(※「新編中原中也全集」第5巻 日記・書簡篇より。新かなに変えてあります。編者。)

 

 

山之口貘はこの頃

鍼灸(しんきゅう)を生業(の一つ)としていたようです。

 

そのことは

貘が書いた中也追悼の一文でも窺い知ることができます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

2015年2月25日 (水)

茨木のり子の「ですます調」その14・金子光晴&森三千代の旅のはじまり

(前回からつづく)

 

愛する女性(それも妻)が

自分以外のほかの男と恋愛関係(肉体関係)になったら

どうしたらよいのか――。

 

人の心も欲望も愛情の関係も

時と場合によっては

自然に生じて激しく強いものであり

反面、儚(はかな)く移ろいやすいものでもありますから

いつ誰にでも降ってかかり得る自由の中に

何気なく生きているもので

他人事なのではありません。

 

一夫一婦制という法律も

自由な恋愛を妨(さまた)げるものではないということで

世の中に婚姻外関係もありふれた風景になりましたが

この時には「姦通罪」などというおぞましい法律が残存していました。

 

女性だけが不倫の罪を負ったのです。


北原白秋のように

姦通罪の相手として

妻の夫から告訴され

拘置されるというケースもありましたが。



 


現在でも不倫といえば

女性の過ちを意味し

男には不倫と言わず女遊びくらいで済まされる傾向はなくなっていません。

 

 

茨木のり子は

こうした男女の不平等を不満気に述べたものでしたが

そのことを突っ込んで論じる場合ではなく

さて金子光晴はどうしたかどのような思いで行動したかに目を向けます。

 

が、そう簡単にその答えが出るものでもなく

こちらもさらりと「男の意地」とコメントしたのです。

 

本当の答えは

その後の二人の放浪に似た長い旅路の中にあったはずでした。

 

 

金子光晴にも森三千代にも

なぜこの事態(事件)が起こったのか

即座に答えられるものではなかったはずですし

その答えを探すという営為を旅の中に委(ゆだ)ねるという選択そのものが

当面の答えなのでした。

 

 

詩人二人(金子光晴と森三千代)の

放浪のような旅のこれがはじまりだったようです。

 

 

あっ、と、ここで中原中也と長谷川泰子の事件を思い出すことになります。

 

中原中也はどうしたか

――とその時、その後のリアクションの足跡を辿り返してみるとき

現象としてまったく異なった形を見せる二人の詩人(金子光晴と中也)の行動の

その真底にあったものは

意外に同じような心境であったかもしれないことが想像できるというものです。

 

 

金子光晴はそのことを多くは語らず

中也は多くを詩に歌った――。

 

そんなふうに言えるでしょうか?

 

言えるものではありません。

 

 

金子光晴が

後年、このことに触れることは少なくても

触れないということではなく

時折、触れざるを得ないときに見せる真剣な面持ちは

事件の深刻さを物語って余りあります。

 

 

たとえば、茨木のり子は「最晩年」(1975年)の中で

そのことに触れようとしたけれど

深く突っ込むのを抑えたと思われる記述を残しました。

 

確信できませんが

晩年の光晴との会話の中には

二人の詩人(金子と茨木)の間に電流のようなものが走ったことが感じられます。

 

その部分を紹介しておきましょう。

 

 

いつか金子さんが拙宅を訪れ、医師である夫に狭心症と心筋梗塞の違いなどについて質問されたことがあった。

 

金子さんは夫を「先生、先生」と呼び、夫は金子さんを「あなたの場合は……あなたはですね」などと医師口調で<あなた>を連発し、私は大層具合の悪い思いをしながら黙っていた。

 

後になってから「茨木さんとこの御夫婦は、他人のつけ入る隙はねえってもンだね」と言われた。

 

ごくふつうの夫婦のつもりだったが、いろんな組合せの離合集散を視てきた具眼の士の言とあれば、並以上の仲のいい夫婦と太鼓判を押されたようなものであり、よその御夫婦には、他人のつけ入る隙がそんなにすかすか空いているものなのかしら? と笑ったことがあった。

 

(ちくま文庫「茨木のり子集 言の葉2」所収「最晩年」より。改行を加えてあります。編者。)

 

 

男と女の間にある隙(すき)を

金子光晴は

遠い日に経験した三角関係を抜きに口にしたとは思えません。


茨木が

金子と森三千代の遠い日の経験を

思い出さなかったはずもありません。





「最晩年」は

「だ・である調」で書かれている

夫・三浦安信と金子光晴の死についてのエッセイですが

茨木自身も老いの晩熟の域に入ったようで

飄々(ひょうひょう)とした書きっぷりに

一種凄みのようなものが加わっているのは

金子光晴の影なのでしょうか。


 


今回はここまで。

 

「女たちのエレジー」から

 

詩を一つ読んでおきましょう。

 

 

 

 

 

 

洗面器

 

 

 

(僕は長年のあいだ、洗面器といううつわは、僕たちが顔や手を洗うのに湯、水を入れるものとばかり思っていた。ところが爪硅人たちはそれに羊(カンピン) や魚(イカン)や、鶏や果実などを煮込んだカレー汁をなみなみとたたえて、花咲く合歓木の木蔭でお客を待っているし、その同じ洗面器にまたがって広東の女たちは、嫖客の目の前で不浄をきよめ しゃぼりしゃぼりとさびしい音をたてて尿をする。)

 

 

 

洗面器のなかの

 

さびしい音よ。

 

 

 

くれてゆく岬(タンジョン)の

 

雨の碇泊(とまり)。

 

 

 

ゆれて、

 

傾いて、

 

疲れたこころに

 

いつまでもはなれぬひびきよ。

 

 

 

人の生のつづくかぎり

 

耳よ。おぬしは聴くべし。

 

 

 

洗面器のなかの

 

音のさびしさを。

 

 

 

(「女たちのエレジー」より。現代表記に変えてあります。編者。)

 

 

 

 

  

「しゃぼりしゃぼり」は

金子光晴、谷川俊太郎、茨木のり子の鼎談(1975年)の帰り

金子の自宅まで同道した茨木が聞いた

金子の「おしっこ」が

そのようではなかったことを記すために

茨木が引いた音(オノマトペ)です。

 

 

 

「最晩年」にその記述がありました!

2015年2月24日 (火)

茨木のり子の「ですます調」その13・金子光晴の恋愛詩

(前回からつづく)

 

そして君の手を把ってあるときだけ

……神さま他はみなうそでもかまいません

ああこの漏刻(ろうこく)だけを信じさせて下さい

 

 

金子光晴のこの「小曲B」というタイトルの詩の一部を

茨木のり子は紹介して

森三千代への恋歌を紹介します。

 

この時ばかりは天下の無頼詩人も

「神さま」にすがるほかなかったのです!

 

こうして次々に

恋歌が生まれていったことは

それほど知られていません。

 

茨木の記述を続けて読みましょう。

 

 

こういう、ういういしい恋愛詩がたくさん書かれています。ふたりはいっしょに東北旅行にでかけました。

 

塩釜(しおがま)、松島、平泉(ひらいずみ)浅虫(あさむし)、碇ヶ関温泉(いかりがせきおんせん)、十和田湖(とわだこ)を一か月以上もかけてまわりました。

 

「日記一束(いっそく)」という文章のなかに、このときのことが、くわしく書かれています。

散文と詩でつづられた「日記一束」は、ふたりが愛をたしかめあった記録としていま読んでも、あふれるような情感をたたえています。

 

 

1923年(12年)7月に詩集「こがね虫」を刊行、

その2か月後にに関東大震災がありました。

 

森三千代と会ったのは1924年初めで

7月には三千代は懐胎(かいたい)します。

 

東北旅行はこの間に行われたらしく

長男・乾(けん、後に早稲田大学教授となる)はこの時にできたのでしょう。

 

茨木の記述はつづきます。

 

 

大正14年春、一子、乾(けん)が生まれました。森三千代は、東京女高師を卒業する寸前だったのですが、このことが原因で退学させられています。

 

貧乏もどん底で、家賃がはらえず、転々と夜逃げをしたり、親戚と一けん一けん、絶交したりしました。

 

ふつう一般の人から見たら、なんとも理解のしようのない詩人と、長い寮生活を送って、家事などいっさい知らず、知識欲だけではちきれそうな妻――、このふたりがいとなむ家庭は、まったく奇異なものとして、うつったことでしょう。

 

 

茨木のり子の記述は

森三千代からいったん離れますが

ふたたび現れるのは事件があったからです。

 

当初から波乱含みの結婚でしたが

やがて二人に事件がふりかかったのは

あたかも試練のようなことでした。

 

 

光晴の詩人としての状況を

茨木はまず記述します。

 

昭和初期のプロレタリア運動は「かれ草についた火のように燃えさかり」、

光晴もその火の粉を浴びて

詩作の方向を模索する日々の中にありました。

 

昭和2年の芥川龍之介の自殺は

プロレタリア運動隆盛の流れについていけなかったことが原因という説を紹介し

金子光晴も同じようにプロレタリア詩の方向へ一歩を踏み出すかどうか

迷いの中にあったのでした。

 

居場所のない、苦しい日々を送っていたところへ

事件は起きたのでした。

 

そのあたりを茨木は

 

そのうえ、もう一つ、不幸な事件がもちあがりました。夫人、森三千代と、東大の美学科に席を置いていたある美青年との恋愛でした。

 

――と書き起こしますが

これに続けるコメントこそに

茨木固有の女性の眼差しはあります。

 

さらりと要を得たコメントは

あっけないほど俗ですが

ここにも独特のわかりやすさが意図されていますから

じっくり味わいましょう。

 

 

そのころは、妻が恋愛をすると、罪に問われる法律がありました。夫のばあいはどうということもないのですから、まったく理くつに合わない法律です。

 

金子光晴には、たとえ別れるとしても、うばわれた妻を一度は取りもどしてからにしたいという、男の意地がありました。

 

 

金子光晴は真実のところ

どういうことを考えたのでしょう。

 

自由奔放に生きてきたからこその出会いであったはずの自由が

あろうことか妻によって行使され

自分はコキュの身に立たされたのでした。

 

 

今回はここまで。

 

金子光晴の詩集「水の流浪」から

一つを読んでおきましょう。

 

「水の流浪」は

森三千代と会う前に関西方面へ旅した中で作られました。

 

 

雷、女、くだもの

 


遠雷がひびいてくる。海洲のしびにくっつ

 いた牡蠣は雷をきくと、じぶんからピン

 ピン壊れて死ぬそうだ。

 


八つ手の葉が仄かな緑を透かせている部屋

 の磨硝子――その桟に、早蠅が一匹もが

 いている――が、ピ、ピ、ピ、ピと震う。


女は、まじり気ない金無垢だ。その梨地の

 まるい肩を撫でながら私は、荒く編んだ

 籐椅子といっしょにゆすぶっていた。


大きな雷が、いきなり、ふたりの頭を噛じ

 りにやってきた。


あっといって女は、私のふところに顔をつ

 っこんで、せまいところへからだごと入

 ってしまおうとあせる。その顔をのぞき

 こもうとすると、必死にくっついてはな

 れない。力争。くつくつと女は笑ってい

 る。


女のからだをふりまわすと、腕のもげた人

 形のようにぶらぶらになる。


瞬間! その肉を食いたいという熾烈な、

 野獣にかよう欲望がめざめた。


鬱屈した感情が一時に爆発すると、私はと

 め途もしらずわらいだした。


笑い、笑い、笑い!


きちがいのような大笑いと、雷が部屋のな

 かをころげまわった。

 


笑いと雷とは、おなじ軌道を走り回る。

           (大正十五年十二月)

 


(講談社「日本現代文学全集77」より。現代かなに改め、改行を加えました。編者。)

2015年2月22日 (日)

茨木のり子の「ですます調」その12・金子光晴のファムファタル

(前回からつづく)

 

茨木のり子が金子光晴のことを書いたものは幾つかあり

中でもまとまった著作は

「金子光晴――その言葉たち」(「ユリイカ」1972年5月初出)や

「最晩年」(「現代詩手帖」1975年9月初出)です。


これらはいずれも

「茨木のり子集 言の葉2」(ちくま文庫)で読めます。

 

ほかにも金子光晴の名は

折りあるごとに登場しますが

これらのほとんどが「ですます調」でないのは

比較的後期の著作ということになります。

 

 

「金子光晴――その言葉たち」は

月刊雑誌「ユリイカ」の求めに応じた書き下ろしですが

十分な時間を与えられない不満を述べながらも

冒頭から力のこもった展開で

金子光晴へのありったけのオマージュの中に

茨木の自在な眼差しが飛び交います。

 

これまた「入門書」と呼んでよい著作ですが

「である調」で書かれ

冒頭の導入部などはさながら密度の高い散文詩のようです。

 

 

「うたの心に生きた人々」(1967年)が

詩の初心者向けに書かれたことと「ですます調」であることは

意図されたことに違いありませんから

読み手はいつも心の中をまっさらにして

頭の中の知識もゼロにして読むことを許容されています。

 

ゆったりとか構えることなく読んでいるうちに

光晴のファムファタル(運命の女)といってよい森三千代は

山之口の物語のなかに

まずはさりげなく登場しました。


 

新しい生活のスタートをきりましたが、アパートにはなにもなく、正式の仲人になっていた金子光晴、三千代夫妻

見かねて、自分の家のちゃぶ台やら、こまごまとした炊事道具を運びました。

 

――というのは、

さんの結婚を追った第2章「求婚の広告」のくだりです。

 

 

金子光晴と森三千代とのなれそめは

「金子光晴」の第5章「詩集『こがね虫』」で

次のように記述されます。

 

 

これまでにも金子光晴は『人間』『日本詩人』などの同人詩誌にも関係していたのですが、

こんどまた新しく『風景』という詩誌をだそうということになりました。

 

女性の同人もふたりはいることになり、

「ええ? ふたりも!」

といってみな、大いにはりきりました。

 

ひとりの女性は森三千代(もりみちよ)といい、東京女子高等師範(しはん)学校(いまのお茶の水女子大学)の

学生でした。

 

男女共学ではなかった当時、女高師というのは、女の最高学府にあたりました。

 

森三千代は、オリーブ色のはかまをはいて、勝ち誇ったような、健康そうな、カリカリしたむすめでした。

 

『風景』という同人雑誌は四号まででましたが、金子光晴と森三千代は、いつしか愛しあうようになっていました。

 

 

途中ですが今回はここまで。

金子光晴の代表作の一つを読んでおきましょう。

 

 

反対

 

僕は少年の頃

学校に反対だった。

僕は、いままた

働くことに反対だ。

 

僕は第一、健康とか

正義とかがきらいなのだ。

健康で正しいほど

人間を無情にするものはない

 

むろん、やまと魂(だましい)は反対だ

義理人情もへどが出る。

いつの政府にも反対であり、

文壇画壇にも尻を向けている。

 

なにしに生まれてきたと問わるれば、

躊躇なく答えよう。反対しにと。

ぼくは、東にいるときは、

西にゆきたいと思い、

 

きもの左前、靴は右左、

袴(はかま)はうしろ前、馬には尻をむいて乗る。

人のいやがるものこそ、僕の好物。

とりわけ嫌いは、気の揃(そろ)うということだ。

 

僕は信じる。反対こそ、人生で

唯(ただ)一つ立派なことだと。

反対こそ、生きていることだ。

反対こそ、じぶんをつかむことだ。

 

(「うたの心に生きた人々」より。)

2015年2月20日 (金)

茨木のり子の「ですます調」その11・現代詩巨人への糸口

(前回からつづく)


茨木のり子が「うたの心に生きた人々」の山之口貘を案内する中で

金子光晴を何度も呼び出して

二人の詩人の「なさぬ仲」といってもよい関係を明らかにしますが

茨木本人の金子光晴との出会いも

詩という文学のフィールドばかりでなく

現実の生活の中での親交に及んだという点で特別です。



「うたの心に生きた人々」の中ではしかし

その親交について触れられることはありません。


あくまで金子光晴という詩人の詩心(うたの心)を追い

その生涯を追うにとどめ

私的な交流を記述しません。


そうすることによって

金子光晴という詩人を客観的に位置づけようとしたのでしょう。


詩人の評伝の輪郭(りんかく)を鮮明に保ちながら

詩人の「うたの心」に迫るために

茨木は私的交流を持ち出さなかったのです。



「うたの心に生きた人々」の金子光晴の章は、

1 風がわりな少年

2 中退の青春

3 山師のころ

4 第一回の外遊

5 詩集「こがね虫」

6 海外放浪の長い旅

7 むすこの徴兵をこばむ

8 戦後になって

――という構成で書かれていますが

この、日本現代詩の巨人といって過言ではない詩人の足跡を

ここで詳しく辿ることはできません。


その糸口になるようなことを探してみますと――。


山之口貘の章で

折につけて現れる詩人の妻・森三千代と光晴の

「ややこしいような」「超俗的な」関係を

茨木のり子はどのように記述しているかに焦点を絞って

読んでみることにしましょう。



今は巨大な詩塊(しかい)を前にして

その入口を見つけるような作業が必要ということなのですが

最終章「戦後になって」で触れられている

詩集「人間の悲劇」(1952年)を読むことができるには

このステップが役に立つことでしょう。



その前に

金子光晴の詩を一つでもよいから

目を通しておくことにしましょう。



金子光晴は

生涯にわたって色々な詩を残しましたが

戦後に書かれたこの詩集を

茨木のり子が金子光晴の項の終わりで紹介しているのは

特別の意味が込められていそうです。


それは「うたの心に生きた人々」の巻末でもありますし

この文庫の末尾に「人間の悲劇」の記述を置いたのには

茨木のり子のメッセージが込められたことが想像できます。


「――答辞に代えて奴隷根性の歌――」として

同書に引用された詩を読んでおきましょう。



奴隷(どれい)というものには、

ちょいと気のしれない心理がある。

じぶんはたえず空腹でいて

主人の豪華な献立のじまんをする。


奴隷たちの子孫は代々

背骨がまがってうまれてくる。

やつらはいう。

『四足(よつあし)で生れてもしかたがなかった』と


というのもやつらの祖先と神さまとの

約束ごとと信じこんでるからだ。

主人は、神さまの後裔(こうえい)で

奴隷は、狩犬の子や孫なのだ。


だから鎖でつながれても

靴で蹴られても当然なのだ。

口笛をきけば、ころころし

鞭の風には、目をつむって待つ。


どんな性悪(しょうわる)でも、飲んべでも

蔭口たたくわるものでも

はらの底では、主人がこわい。

土下座(どげざ)した根性は立ちあがれぬ。


くさった根につく

白い蛆(うじ)。

倒れるばかりの

大木のしたで。


いまや森のなかを雷鳴(らいめい)が走り

いなずまが沼地をあかるくするとき

『鎖を切るんだ。

自由になるんだ』と叫んでも、


やつらは、浮かない顔でためらって

『御主人のそばをはなれて

あすからどうして生きてゆくべ。

第一、申訳のねえこんだ』という。

         ――答辞に代えて奴隷根性の歌――


(「うたの心に生きた人々」(ちくま文庫)より。)



「奴隷」とは

忘れられてしまったような言葉のようですが

よく考えれば(よく考えなくとも!)

世の中に今も充満している現実ですよね。



今回はここまで。

 

2015年2月17日 (火)

茨木のり子の「ですます調」その10・貘さんと金子光晴の交流

(前回からつづく)

 

山之口貘は昭和12年に見合い結婚しますが

仲人になったのが詩人の金子光晴と妻の森三千代でした。

 

 

南千住の泡盛屋「国吉真善(くによししんぜん)」で光晴と初めて会った昭和8年以来、

貘さんは終生、光晴を慕うようにして交流するのですが

この初対面の頃を茨木のり子は次のように記しています。

 

 

金子光晴はあとの章でくわしく書きますが、かれもまた、放浪詩人というにふさわしく、

ヨーロッパ・東南アジアを5年近くも無一文で歩きまわってきたばかりでした。

 

光晴は長い放浪の旅で、国籍だの学歴だの、そんなものがいかにくだらないかを骨身にしみてさとっていました。

 

かれはただ個人としてのはだかの人間しか認めようとしなかった人です。

 

光晴は、はじめて会った貘さんのなかに、よき人間、すぐれた詩人、

いわば「人間のなかの宝石」をひとめでまっすぐに見ぬいたのでした。

 

 

南千住にあった沖縄の酒、泡盛を飲ませる店。

そこで二人の詩人が「太陽光線のように」心を通わせたなれそめは

その場限りのものではありませんでした。

 

やがて貘さんの結婚の仲人を光晴が引き受けるほどの関係になり

昭和38年(1963年)にさんが59歳で亡くなるまで交友は続きます。

 

 

貘さんが金子と交流をはじめたころの様子を

茨木の記述でもう少し読んでおきましょう。

 

 

「遊びにこいよ」といわれて、初対面の日から1週間ばかりたってから、さんは、金子家をおとずれました。

 

金子家といっても、新宿の「竹田屋旅館」の間借り8じょう間で、世帯道具はなに一つない

ガランとした殺風景なへやでした。

 

光晴はさんを歓待したく思いましたが、なにぶん光晴も無一文に近いありさまだったので、

モーニングのしまのズボンを質屋に入れ、5円借りて、神楽坂の「白十字」という店でいっしょにご飯を食べました。

 

1円あれば、かなりの大ごちそうが食べられた時代でした。

 

 

それから、

両国の喫茶店での見合い

無一物に近い所帯を新宿に構えた新婚生活

結婚式も結婚旅行もない結婚披露宴

……と光晴夫妻のサポートが続き

茨木の筆致は面白おかしそうに展開しますが

それをここですべて案内できるものではありません。

 

 

さんが第1詩集「思弁の花」を出すのは

ようやく34歳になってからのことでした。

 

年に4、5篇くらいの詩しか作らなかったというのですから

詩を書きはじめて14、5年の詩を集めても

59篇にしかならないという詩集でした。

 

それだけに

さんの感慨も一入(ひとしお)で

後年、その感慨を詩に歌っています。

 

 

処女詩集

 

『思弁の苑』というのが

ぼくのはじめての詩集なのだ

その『思弁の苑』を出したとき

女房の前もかまわずに

こえはりあげて

ぼくは泣いたのだ

あれからすでに十五、六年も経ったろうか

このごろになってはまたそろそろ

詩集を出したくなったと

女房に話しかけてみたところ

あのときのことをおぼえていやがって

詩集を出したら

また泣きなと来たのだ


(ちくま文庫「うたの心に生きた人々」より。)

 

 

1964年に出した第2詩集「鮪に鰯」に

この詩は収録されました。

 

 

気の利いた詩語が並ぶわけでもない語り口調なのに

詩があふれるばかりの詩です。

 

詩ってこういうのを詩というんだ、と

ふと考えさせてくれて

うれしくなってくるような詩です。

 


途中ですが

今回はここまで。

 

2015年2月12日 (木)

茨木のり子の「ですます調」その9・胸のすく山之口貘の絶品

(前回からつづく)

 

茨木のり子という詩人は

戦後に出発したのですから

戦前から活動してきた詩人とは異なり

「純然たる戦後詩人」(鮎川信夫)ということになるようです。

 

これは言い換えれば

茨木のり子の詩を読むことは

戦後詩を読む出発点にもなるということですし

戦後70年の足跡を辿るということでもあります。

 

いっぽう戦前から活動を継続している戦後詩人もあるわけですから

出発点を戦前に求めてもよいのですが

戦後詩を読む糸口として

茨木のり子はわかりやすい目印になるということです。

 

茨木のり子のわかりやすさは

こんなところにもあります。

 

 

ここで1963年に発行(初版)された

「現代詩人全集 第10巻 戦後Ⅱ」(角川文庫)に収録された詩人を列挙してみましょう。

 

秋谷豊

藤富保男

長谷川龍生

堀川正美

茨木のり子

石川逸子

城侑

金井直

川崎洋

木島始

清岡卓行

黒田喜夫

牟礼慶子

中江俊夫

中村稔

澤村光博

関根弘

嶋岡晨

新藤千恵

生野幸吉

菅原克己

鈴木喜緑

高野喜久雄

滝口雅子

谷川雁

谷川俊太郎

寺山修司

富岡多恵子

山本太郎

安水稔和

吉野弘

吉岡実

 

以上の32人です。

 

 

「うたの心に生きた人々」で茨木のり子はいま

山之口の活動を追う戦前にいます。

 

その第3章「さんの詩のつくりかた」では

一つの詩が生まれるまでにどれほどの時間が費やされるか

その鬼のような推敲ぶりを案内します。

 

山之口貘が

短い詩を一つ作り出すために

200枚、300枚の原稿用紙を使うことはしょっちゅうで

一番ぴったりしたことばを求めて

原稿用紙を引き破り引きちぎり

出来上がったときには書き損じの反古(ほご)の中に埋まっていたというエピソードは

誇張とはいえないものがあったようです。



茨木のり子はそこのところを、

さんの詩は頭でこしらえたものではなく、自分の血で書いたものでした。

思想でも論理でも、自分の血からでたものしか書こうとしなかった人です。

――と捉えます。

 

次の短い詩が

そのような苦闘の後に生まれたものでることを伝える「ですます調」は冴えざえとして

山之口の詩心に迫ります。

 

 

博学と無学

 

あれを読んだか

これを読んだかと

さんざん無学にされてしまった揚句

ぼくはその人にいった

しかしヴァレリーさんでも

ぼくのなんぞ

読んでない筈だ

 

 

詩の鑑賞が

その詩の背景をなす多量の知識の多寡(たか)で決まるような

よくありがちな風景への

山之口、渾身の一撃!

 

これに加えた茨木のり子のコメントは、

博学をもって鳴ったフランスの詩人、ポウル・ヴァレリイでも、山之口の詩は読んではいまい。

だったらかれも無学といえるんじゃないか。

まことにさっそうとした、胸のすくような、絶品の詩です

――とピタリと決めて胸を刺します。


珍しくここでは「ですます調」を逸脱します。

 


途中ですが

今回はここまで。

 

2015年2月10日 (火)

茨木のり子の「ですます調」その8・戦後詩の出発

(前回からつづく)

 

読み終えてから

それが何を言いたかったかわからないということがない。

 

伝達しようとしていることが

すっきりくっきりはっきりしていて

そうだそうだと溜飲を下げてくれる文(や詩)が

茨木のり子の著作のほとんどです。

 

これは当たり前のようで

珍しいケースです。

 

 

代表作の「わたしが一番きれいだったとき」を読んでみましょう。

 

そのことを明確に理解することになるでしょう。

 

 

わたしが一番きれいだったとき


わたしが一番きれいだったとき

街々はがらがら崩れていって

とんでもないところから

青空なんかが見えたりした

 

わたしが一番きれいだったとき

まわりの人達が沢山死んだ

工場で 海で 名もない島で

わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった

 

わたしが一番きれいだったとき

だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった

男たちは挙手の礼しか知らなくて

きれいな眼差だけを残し皆発っていった


わたしが一番きれいだったとき

わたしの頭はからっぽで

わたしの心はかたくなで

手足ばかりが栗色に光った


わたしが一番きれいだったとき

わたしの国は戦争で負けた

そんな馬鹿なことってあるものか

ブラウスの腕をまくり卑屈な街をのし歩いた


わたしが一番きれいだったとき

ラジオからはジャズが溢れた

禁煙を破ったときのようにくらくらしながら

わたしは異国の甘い音楽をむさぼった


わたしが一番きれいだったとき

わたしはとてもふしあわせ

わたしはとてもとんちんかん

わたしはめっぽうさびしかった


だから決めた できれば長生きすることに

年とってから凄く美しい絵を描いた

フランスのルオー爺さんのように

                   ね

 

(筑摩書房「茨木のり子集 言の葉Ⅰ」所収「見えない配達夫」より。)

  

 

まずはこの詩に難解な言葉はひとつもなく

何が歌われているかがすんなりと読み手の心の中に落ちてきて

あ、これは戦争中に青春にさしかかった女性が

戦争が終わって開放的気分になったときの気持ちを歌った詩であることを知るでしょう。

 

これからは自由におもいっきり青春を謳歌できるとみなぎる気持ちの中には

もはや残り少なくなった青春の時間を振り返る気持ちもあり

それが戦争のために奪われてしまったという怒りとか嘆きとかがあるのですが

怒りや嘆きにとどまっているだけではなく

気を取り直してこれからの時間を命を大切に生きよう

画家ルオーが長生きして爺さんになって数々の傑作を残したように

自分も豊かに創造的な暮らしをして行こうと励まし

同じような目にあった女性たちへエールを送る

――という詩であることを理解します。

 

 

戦争をさらっと批判している感じです。

 

青春を台無しにされてしまったのに

恨みつらみをを述べるというよりも(もちろん、それはあるのですが)

最後にはこれからの暮らしを豊かにして行こうと

未来に向ける眼差しが歌われるのです。

 

 

失われた青春に足を引きずられているよりも

それと決別し

新たな出発を宣言している。

 

それもせわしなく生き急ごうとするでもなく

ルオーの生涯のような。

 

悠々として創造活動にいそしむような。

 

 

ここには

一人の女性詩人の出発が

歌われているのです。

 

それは戦後詩の出発を告げる

形の一つでもありました。

 

 

「わたしが一番きれいだったとき」の初出は1957年2月「詩文芸」で

それが1958年発行の第2詩集「見えない配達夫」に収録されています。

 

戦後10年少しして発表されたということですから

この10年の間に詩の言葉は磨かれたということもあるのでしょう。

 

怒りや嘆きは

直截さを弱められているのかもしれませんが

それにしても詩はまっすぐな感じはっきりした感じ。


輪郭があざやかです。

 

 

このあたりのことは

1963年発行の「現代詩人全集 第10巻 戦後Ⅱ」(角川文庫)の解説で

鮎川信夫が「純然たる戦後派」として何人かの詩人をあげる中で

「詩的意識のうえに戦争の影響をあまり受けていない詩人」の一人として

まっさきに茨木のり子の名を入れていることと関係していることでしょう。

 


途中ですが

今回はここまで。

 

2015年2月 7日 (土)

茨木のり子の「ですます調」その7・貘さんが乗り移る時!

(前回からつづく)

 

文章には流れというものがあって

たとえばそれは川の流れのようであって

時にゆっくりとゆったりと

滾々(こんこん)と滔々(とうとう)と

時に激しく波立ち

猛烈なスピードで

曲がったりまっすぐになったりひとつも休むことなく

時に清く

時に淀(よど)んで

時に気高く優しく

時に獰猛(どうもう)に怒り狂い

……。

 

長い文章の流れの

その一部が喚起(かんき)する

その時々の喜怒哀楽(感動)は

流れのはじまりからずっと辿(たど)ってきたからこそ得られるものですから

その一部を抜き出したところで

その感動を他人に伝えられるものではなく

同じような感動を伝えるというのは困難です。

 

 

茨木のり子の「ですます調」は

流れに乗って

やってきました。

 

さん一家は

空襲を避け

妻の故郷・茨城県のとある村に。

 

 

空襲もはげしくなってきて、あかんぼうを育てながらの東京生活は危険きわまりないものになってきたので、

昭和19年の暮れ、妻の実家のあった茨城県結城郡飯沼村の安田家へ疎開しました。

 

おばあさんは背中にくくりつけられたあかんぼうを見て、

「どれどれ、このやろ、きたのかこのやろ。」

といってよろこびました。

 

この地方ではなんでも「やろう」を下につけて呼び、ネズミもネコも、「ネズミやろう」「ネコやろう」となるのでした。

 

さん一家は、安田疎開と呼びすてにされましたが、そうしたなかでも泉はすくすくと大きくなり、

この地方のことばを習いおぼえて、さんに向かって、

「コノヤロ、バカヤロ。」

などという、はつらつとした女の子に育っていました。


(「うたの心に生きた人々」より。改行・行空きを加えてあります。)

 

 

ドレドレコノヤロキタノカコノヤロといって

あかんぼうは祝福されるのです。

 

コノヤロバカヤロといって

さんは

成長したあかんぼうから慕われるのです。

 

(笑)

 

 

茨木のり子の口ぶりは

さんの口ぶりになっています!

 

 

茨木のり子が「ですます調」で書いたのは

「うたの心に生きた人々」(1967年)や

「詩のこころを読む」(1979年)であり

比較的、初期の散文著作です。

 

ところが

後期の散文集である「一本の茎の上に」(1994年)の中にも

「山本安英の死」が1975年、

「おいてけぼり」が1976年、

「花一輪といえども」が1979年と、

70年代に書いたものがありますから

年代によって「ですます調」を使ったのではなく

内容によって使い分けたか

もしくは本にまとめる時点で

文体を整理し統一したということも考えられます。

 

初期散文を意識的に「ですます調」を使って書いたというより

結果的に初期散文に「ですます調」が多くなったということのようですが

後期の散文著作に「ですます調」があるのかないのか。

 

 

すこし調べてみましたら

やはり後期の散文に「ですます調」は見つけることはできませんでした。

 

 

「うたの心に生きた人々」と「詩のこころを読む」は

どちらも現代詩(人)への入門書という性格から

「ですます調」を使っているものと推察できますが

そうであっても(なくても)

茨木のり子の書くものが

わかりやすく、はきはきしていて

伝達することを第一にしていることは

「だ・である体」で書かれた「一本の茎の上で」を読んでいても

変わりがないようです。

 

 

そして――。

 

これらのことは

茨木のり子の詩についても

言えそうです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

 

2015年2月 6日 (金)

茨木のり子の「ですます調」その6・山之口貘のユーモア

(前回からつづく)

 

「うたの心に生きた人々」で高村光太郎の次には

ボヘミアン詩人・山之口が取り上げられます。

 

その章を読み進めていて

あるところに差し掛かって

ドーッと笑いが爆発してしまう記述がいくつもあり

これはもちろん素材である山之口獏という詩人のもつユーモア(人間味)のせいであるけれど

これを書いている茨木のり子という詩人のユーモアでもあるな、

と感心するところを紹介しましょう。

 

ここで「ですます調」であることが

この爆笑を誘い出すものとなんらかの関係がありそうでいて

そうと断言できるものでもなく

でも「だ・である体」では伝わらない秘密があるように思えてなりません。

 

 

山之口貘は

どのような詩を書いたのでしょうか。

 

茨木が紹介するのは

「自己紹介」という詩です。

 

 

自己紹介


ここに寄り集まった諸氏(しょし)よ

先ほどから諸氏の位置に就いて考えているうちに

考えている僕の姿に僕は気がついたのであります。

僕ですか?

これはまことに自惚(うぬぼ)れるようですが

びんぼうなのであります

 

 

第1詩集「思弁の苑」は

1938年、貘さん34歳のときに出版され

その中にあるのがこの「自己紹介」です。

 

ついでに「処女詩集」という題の作品も読んでおきましょう。

 

 

処女詩集

 

『思弁の苑』というのが

ぼくのはじめての詩集なのだ

その『思弁の苑』を出したとき

女房の前もかまわずに

こえはりあげて

ぼくは泣いたのだ

あれからすでに十五、六年も経っただろうか

このごろになってはまたそろそろ

詩集を出したくなったと

女房に話しかけてみたところ

あのときのことをおぼえていやがって

詩集を出したら

また泣きなと来たのだ

 

(「うたの心に生きた人々」より。)

 

 

なんの説明もいらない詩は

ただ味わわれることを待っているだけです。

 

 

山之口(1903~1963)は

沖縄出身の「貧乏詩人」として広く知られていますが

この詩は自らそれを宣言しアピールした詩ということになります。

 

貧乏であることを

人からあれやこれやと聞かれるまえに

どうせ聞かれることになるものなら

こちらから宣言しちゃったほうが後々スムーズにゆくだろう

――という幾分か諧謔(かいぎゃく)も混ざるような内容ですが。

 

 

茨木が追うのは

貧乏であることからくる苦労とか惨状とかであるよりも

「貘さん」として親しまれた詩人の精神性であることに違いはなく

それはつまりは

詩人・山之口獏の詩そのものにほかなりません。

 

詩人の生涯を追いかけながら

詩人の作る詩の生まれる根源(源泉)を探って

詩とは何かみたいなことも考えていきます。

 

 

1 ルンペン詩人

2 求婚の広告

3 貘さんの詩のつくりかた

4 ミミコの詩

5 沖縄へ帰る

6 精神の貴族

――という構成の内容を紹介できるものではありませんが

 

この詩「処女詩集」に登場する女房(貘さんの妻の静江さん)の実家に疎開したときのこと。

 

このときのことを記述する

茨木のり子の「ですます調」は

さんのユーモア(人間味)の呼吸が乗り移ったかのような口ぶりになり

さんの世界の中に没入したのか

さん自身が案内しているかのような面白みがあります。

 

 

昭和19年、生まれたばかりの長女に「泉」と命名

いつしか「ミミコ」と呼ばれるようになる赤ん坊を

はじめて見る貘さんの妻の家族。

 

その歓迎ぶり。

 

それを記述する茨木のり子の筆致――。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 


2015年2月 5日 (木)

茨木のり子の「ですます調」その5・光太郎の「山羊の歌」続

(前回からつづく)

 

高村智恵子が亡くなったのは

昭和13年(1938年)の秋、10月5日でした。

 

中也の死はその前年(昭和12年10月22日)ですから、

およそ1年後になります。

 

智恵子と中也の死の間に何の関係もありませんが

昭和9年末の「山羊の歌」の発行で

光太郎が装の仕事を通じて中也に協力していたころ

光太郎の妻である智恵子の病状は悪化の傾向にあり

中也はおそらく光太郎の苦悩を知っていたはずなのですから

その頃を回想する光太郎の脳裡には

交互に二人の思い出が現れて不思議ではありません。

 

 

昭和14年に光太郎が書いた中也追悼文の中で

「山羊の歌」の装を引き受けたことを

「前からの約束事のよう」と記したのは

そうした、何やら運命的な出会いを含ませたものと読むこともできるでしょう。

 

中也の思い出が

智恵子への思い出に連なっていったのです!

 

 

中也と光太郎は

詩誌「歴程」の同人でした。

 

光太郎が第1詩集「道程」の改訂版を出すのは昭和15年(1940年)、

「智恵子抄」は翌16年に出します。

 

 

中原中也の日記に

高村光太郎に関しての記述は2か所あり

一つは昭和2年2月の読書欄に、

 

ロダンの言葉 高村光太郎訳、

リリュリ ロマン・ロラン。高村光太郎訳

――とメモ、

 

もう一つは昭和11年10月8日付けで、

 

草野に誘われて高村氏訪問。そこへ尾崎喜八現れ4人で葛飾区柴又にゆく。

尾崎という男はチョコチョコする男。草野は又妙な奴。甚だ面白くなかった。

 

――とあるものです。

 

 

前者は、読書記録に過ぎませんが

昭和2年に翻訳者としての光太郎を

中也が少なくとも知っていたことを示すものです。


なぜこの書物を中也が読むことになったか

その経緯の中に光太郎との接点があった可能性を示唆するものです。

 

翻訳者としての光太郎である以上に

光太郎との面識を得るきっかけの一つであったかもしれないのです。

 

そうであるなら

昭和2年の時点で

二人の交友のはじまりを告げるものになります。

 

すくなくとも交友の兆しです。

 

 

後者は

実際に会ったときのことを書いた日記ですが

光太郎へのコメントはなにもありません。

 

草創期の「歴程」の集まり(単なる遊びだったのか)に誘われた中也は

仲間うち特有の溜め口や馴れ合いをよく思わず

日記にそれを吐露(とろ)したのでしょう。

 

しかし、光太郎を「氏」付きで記述したのは

畏敬の気持ちがあったからにほかなりません。

 

 

4人そろって

いったい何をしに葛飾・柴又へ行ったのかが

大いに気になるところです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。


 

「智恵子抄」から

昭和10年作の「風にのる智恵子」

12年の作「千鳥と遊ぶ智恵子」を読んでおきます。

 

 

風にのる智恵子


狂った智恵子は口をきかない
ただ尾長や千鳥と相図する
防風林の丘つづき
いちめんの松の花粉は黄いろく流れ
五月晴の風に九十九里の浜はけむる
智恵子の浴衣が松にかくれ又あらわれ
白い砂には松露がある
わたしは松露をひろいながら
ゆっくり智恵子のあとをおう
尾長や千鳥が智恵子の友だち
もう人間であることをやめた智恵子に
恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場
智恵子飛ぶ

 


千鳥と遊ぶ智恵子


人っ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわって智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
砂に小さな趾あとをつけて
千鳥が智恵子に寄って来る。
口の中でいつでも何か言ってる智恵子が
両手をあげてよびかえす。
ちい、ちい、ちい――
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをぱらぱら投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向うへ行ってしまった智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。

 

(新潮文庫「高村光太郎詩集」より。新かな・新漢字に変えてあります。編者。)

 

 

 

2015年2月 2日 (月)

茨木のり子の「ですます調」その4・光太郎の「山羊の歌」

(前回からつづく)

 

中原中也の第1詩集「山羊の歌」は

難産のすえ昭和9年(1934年)に発行されましたが

その装幀を高村光太郎が手がけたことは有名です。

 

青山二郎が頼まれていた仕事でしたが

難航していた出版交渉がこの年末にバタバタとまとまって

文圃堂から発行されることが決ったときに

青山は旅行に出ていたため

急遽、光太郎が担当することになったのです。

 

光太郎はいわばピンチヒッターでしたが

堂々とした感じの本が出来あがりました。

 

 

「新編中原中也全集」第1巻 詩Ⅰ・解題篇に

「山羊の歌」の詳細な「詩集解題」があり

書誌、奥付、造本、構成と配列順序

――のデータが記録されています。

 

「書誌」の項で、装幀 高村光太郎、発行者 野々上慶一、

「造本」の項には、四六倍判、箱入り上製本、

「箱」は貼箱、

――などとあり、

 

「表紙」は、丸背厚表紙。赤口局紙(黄色)。背文字は詩集名、著者名とも純金箔押し。

平の文字は詩集名を墨刷、著者名を朱刷。

「本文」は、総頁152頁、用紙は英国製厚口コットン紙(薄鼠色)。

――などと案内されています。

 

これらデータを見るだけで

豪華でもなく

質素でもなく

瀟洒(しょうしゃ)といった感じの本がイメージできます。

 

瀟洒といっても

絵画的なもの(ビジュアル)を排して

中味を内部から湧き出させることを狙った外観(体裁)が目論(もくろ)まれた感じです。

 

 

こうしたイメージは

中原中也自らが望んだものであり

その意向を光太郎が汲んで制作したものであるらしく

二人の芸術家の交感の跡がそれとなく伝わってきます。

 

両者の間にどのような会話が交わされたのでしょうか?

 

そのことを想像するだけで

ワクワクしてきます。

 

 

この時(昭和9年末)、

高村光太郎52歳、

中原中也27歳。

 

光太郎は、療養中の妻・智恵子の看病に心血を注ぎ

中也は、第1子誕生を生地・山口にひかえていました。

 

 

この時のことは

「山羊の歌」の出版社であった文圃堂社主・野々上慶一の回想や

青山二郎の残した著作の中などに散見されますが

制作当事者である光太郎が

中也追悼文の中で触れているのは貴重な証言ですから

その部分だけを読んでおきましょう。

 

追悼文は「夭折を惜しむ」という題で

昭和14年4月10日発行の「歴程」同年4月号に掲載されたもので、

 

中原中也君の思いがけない夭折を実になごり惜しく思う。

私としては又たのもしい知己の一人を失ったわけだ。

 

――とはじまる短い文です。

 

中原君とは生前数える程しか会っていず、その多くはあわただしい酒席の間であって、

しみじみ二人で話し交した事もなかったがその談笑のうちにも不思議に心は触れ合った。

 

中原君が突然「山羊の歌」の装をしてくれと申し入れて来た時も、

何だか約束事のような感じがして安心して引きうけた。


(「新編中原中也全集」別巻(下)資料・研究篇より。)

 

 

これは書き出しの部分で

背後には草野心平や青山二郎らとの繋がりがあったようですが

「約束事のような」という表現には

光太郎の人を射抜くような眼差しがあります。

 

人を見るのに射抜くような眼差しがあります。

 

中也がこの申し入れをしたときは初対面だったのではなく

どこかで、それもどこかの酒席で会っていたことがあって

互いにその中で共感するものを感じ取っていた、というようなことだったのでしょう、きっと。

 

 

途中ですが

今回はここまで。



「智恵子抄」から大正15年の作「夜の二人」を読んでおきましょう。

 

 

夜の二人


私達の最後が餓死であろうという予言は、
しとしとと雪の上に降る霙まじりの夜の雨の言った事です。
智恵子は人並はづれた覚悟のよい女だけれど
まだ餓死よりは火あぶりの方をのぞむ中世期の夢を持っています。
私達はすっかり黙ってもう一度雨をきこうと耳をすましました。
少し風が出たと見えて薔薇の枝が窓硝子に爪を立てます。

 

(新潮文庫「高村光太郎詩集」より。新かな・新漢字に変えてあります。編者。)

 

 

 

 

 

 

2015年2月 1日 (日)

茨木のり子の「ですます調」その3・高村光太郎「伝」

(前回からつづく)

 

「うたの心に生きた人々」の中の「高村光太郎」の章は

 

1 高村光雲のむすこ

2 パリでの人間開眼(かいげん)

3 父と対立

4 『智恵子抄』の背景

5 日本人の「典型」

――という構成ですが、

 

 

「『智恵子抄』の背景」では、

光太郎と智恵子の出会いから

「上高地の恋」を経ての結婚

第一詩集「道程」の出版

そして智恵子が狂気を発症し死に至るまでを描きます。

 

その口ぶりの特徴あるところを

この流れにそってところどころ拾うと

こんなふうです。

 

 

智恵子はそんなことにはおかまいなく、純粋に光太郎の心の中めがけて、パッと飛びこんでしまったのです。

光太郎はびっくりし、たじろぎ、ショックでその不良性をさえ失ってしまいました。


「あの頃」という詩のなかで、



智恵子のまじめな純粋な

息をもつかない肉薄に

或日はっと気がついた。

わたくしの眼から珍しい涙がながれ、

わたくしはあらためて智恵子に向た。


智恵子はにこやかにわたくしを迎え、

その清浄な甘い香りでわたくしを包んだ。

わたくしはその甘美に酔て一切を忘れた。


わたくしの猛獣性をさえ物ともしない

この天の族なる一女性の不可思議力に

無頼(ぶらい)のわたくしは初めて自己の位置を知た。



と書いています。

 

 

光太郎と智恵子が、結婚に賭けた夢は、ひとりの彫刻家と、ひとりの画家が、共同生活をいとなみ、

それぞれの精進をつづけてゆくといった、永遠の学生生活のように若々しく意欲あふれるものでした。

 

 

智恵子はだれの目にも美人とうつる、いわば万人向きの美人ではなく、(略)



だれからも美人とみられるより、ひとりのひとによって発見された美のほうが、

よりすてきではないでしょうか。

 

 

昭和7年(1932)智恵子が47歳になったとき、とつぜん、睡眠薬アダリンを飲んで、

自殺未遂に終わるという事件が起こりました。

 

 

昭和9年は、父、光雲が83歳でなくなるという不幸があり、そのうえ、千葉県九十九里浜に療養させていた

智恵子の症状もますます悪化しました。

 

 

狂気の智恵子を考えるとき、たった一つの救いとなるものは、マニキュア用の小さなはさみで、

子どものように、無心に切って、じつに美しい紙絵をつくっていることです。

 

 

南品川のゼームス坂病院に入院していた、死の前年の、1年半くらいのあいだに、

千数百枚も切ったのでした。

 

 

光太郎がいくと、それはうれしそうな顔をして、そのひざに抱かれて、だれにも見せなかった紙絵を、

うやうやしく見せるのが、あわれでした。

光太郎がほめると、うれしそうに、はずかしそうに、何度も何度もおじぎをするのでした。

 

……等々。


(※読みやすくするために、改行をいれたり、洋数字に変えたりしてあります。編者。)

 

 

引きずり込まれ

引用がついつい長くなってしまいますが

これは抜粋(ばっすい)です。

 

原文を味わうものではありません。

 

 

うれしそうに、はずかしそうに、何度も何度もおじぎをするのでした。

――というところにさしかかっては

読み手のだれしもが書き手の茨木のり子の「こころ」と

直(じか)に触れるような共鳴をおぼえるにちがいありません。

 

光太郎と智恵子の結びつきが

まっすぐに伝わってきて

何度も読み返したくなるようなところですが

茨木の書き振りはむしろ控えめです。

 

 

夢中になって

書物を読み進めるこの感覚――。

 

それで思い出すのが

少年少女のための冒険物語とか偉人伝などの文体です。

 

エジソン伝とか

ナイチンゲールの物語とかが、

記憶の古層から

ふっと抜け出してくるのです。

 

茨木のり子が

偉人伝や冒険譚をイメージしていたかはわかりませんが。

 

 

このくだりにさしかかる頃、

この感覚とはまったく異なる

ある重要なことに気づき

思わず、あっと、息を飲みました。

 

中原中也の「山羊の歌」の表紙が

光太郎のこのような状況で制作されたことを思い出したからです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。



「智恵子抄」から

光太郎が智恵子とともに智恵子の故郷・福島県二本松を訪れたときの詩を読んでおきます。

 


樹下の二人

 

――みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ――


あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

うやって言葉すくなに座っていると、
うっとりねむるような頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
この大きな冬のはじめの野山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでいるよろこびを、
下を見ているあの白い雲にかくすのは止しましょう。

あなたは不思議な仙丹を魂の壺にくゆらせて、
ああ、何という幽妙な愛の海ぞこに人を誘うことか、
ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
無限の境に烟るものこそ、
こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
こんなにも苦渋を身に負う私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
むしろ魔もののように捉えがたい
妙に変幻するものですね。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫(さかぐら)。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡った北国(きたぐに)の木の香に満ちた空気を吸おう。
あなたそのもののようなこのひいやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗おう。
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
ここはあなたの生れたふるさと、
この不思議な別個の肉身を生んだ天地。
まだ松風が吹いています、
もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教えて下さい。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

(新潮文庫「高村光太郎詩集」より。新かな・新漢字に変えてあります。編者。)

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