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2015年2月17日 (火)

茨木のり子の「ですます調」その10・貘さんと金子光晴の交流

(前回からつづく)

 

山之口貘は昭和12年に見合い結婚しますが

仲人になったのが詩人の金子光晴と妻の森三千代でした。

 

 

南千住の泡盛屋「国吉真善(くによししんぜん)」で光晴と初めて会った昭和8年以来、

貘さんは終生、光晴を慕うようにして交流するのですが

この初対面の頃を茨木のり子は次のように記しています。

 

 

金子光晴はあとの章でくわしく書きますが、かれもまた、放浪詩人というにふさわしく、

ヨーロッパ・東南アジアを5年近くも無一文で歩きまわってきたばかりでした。

 

光晴は長い放浪の旅で、国籍だの学歴だの、そんなものがいかにくだらないかを骨身にしみてさとっていました。

 

かれはただ個人としてのはだかの人間しか認めようとしなかった人です。

 

光晴は、はじめて会った貘さんのなかに、よき人間、すぐれた詩人、

いわば「人間のなかの宝石」をひとめでまっすぐに見ぬいたのでした。

 

 

南千住にあった沖縄の酒、泡盛を飲ませる店。

そこで二人の詩人が「太陽光線のように」心を通わせたなれそめは

その場限りのものではありませんでした。

 

やがて貘さんの結婚の仲人を光晴が引き受けるほどの関係になり

昭和38年(1963年)にさんが59歳で亡くなるまで交友は続きます。

 

 

貘さんが金子と交流をはじめたころの様子を

茨木の記述でもう少し読んでおきましょう。

 

 

「遊びにこいよ」といわれて、初対面の日から1週間ばかりたってから、さんは、金子家をおとずれました。

 

金子家といっても、新宿の「竹田屋旅館」の間借り8じょう間で、世帯道具はなに一つない

ガランとした殺風景なへやでした。

 

光晴はさんを歓待したく思いましたが、なにぶん光晴も無一文に近いありさまだったので、

モーニングのしまのズボンを質屋に入れ、5円借りて、神楽坂の「白十字」という店でいっしょにご飯を食べました。

 

1円あれば、かなりの大ごちそうが食べられた時代でした。

 

 

それから、

両国の喫茶店での見合い

無一物に近い所帯を新宿に構えた新婚生活

結婚式も結婚旅行もない結婚披露宴

……と光晴夫妻のサポートが続き

茨木の筆致は面白おかしそうに展開しますが

それをここですべて案内できるものではありません。

 

 

さんが第1詩集「思弁の花」を出すのは

ようやく34歳になってからのことでした。

 

年に4、5篇くらいの詩しか作らなかったというのですから

詩を書きはじめて14、5年の詩を集めても

59篇にしかならないという詩集でした。

 

それだけに

さんの感慨も一入(ひとしお)で

後年、その感慨を詩に歌っています。

 

 

処女詩集

 

『思弁の苑』というのが

ぼくのはじめての詩集なのだ

その『思弁の苑』を出したとき

女房の前もかまわずに

こえはりあげて

ぼくは泣いたのだ

あれからすでに十五、六年も経ったろうか

このごろになってはまたそろそろ

詩集を出したくなったと

女房に話しかけてみたところ

あのときのことをおぼえていやがって

詩集を出したら

また泣きなと来たのだ


(ちくま文庫「うたの心に生きた人々」より。)

 

 

1964年に出した第2詩集「鮪に鰯」に

この詩は収録されました。

 

 

気の利いた詩語が並ぶわけでもない語り口調なのに

詩があふれるばかりの詩です。

 

詩ってこういうのを詩というんだ、と

ふと考えさせてくれて

うれしくなってくるような詩です。

 


途中ですが

今回はここまで。

 

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