茨木のり子の「ですます調」その15・中也と山之口貘の交流
(前回からつづく)
与謝野晶子 1878~1942年
高村光太郎 1883~1956年
山之口貘 1903~1963年
金子光晴 1895~1975年
中原中也 1907~1937年。
「うたの心に生きた人々」で茨木のり子が取りあげた4人の詩人は
すべてが中原中也が生きていた時間と重なっていた
――ということにいま気づきました。
中也の倍以上の時間を生きた人々ばかりで
あらためて中也の短命が悲しいかぎりですが
この4人のうち二人(光太郎とばく)と中也は面識があり
ほかの二人(晶子と光晴)を文壇・詩壇で活躍するのを知っていたはずですから
もう少し生きている時間があったならば
この二人とも面識を持つことがあったかもしれないのです。
仮定に意味はありませんが
中也がこの4人の詩人とはかなり近いところ(時・場所)に生きていたことは
記憶にとどめてよいことでしょう。
◇
与謝野晶子は
ライフワークというべき「源氏物語」の現代語訳を完成し
1938年(昭和13年)に刊行を開始、翌1939年に全6巻本を完結させました。
高村光太郎は、昭和13年(1938年)に智恵子と死別しました。
山之口貘が第1詩集「思弁の苑」を出すのは昭和13年でした。
金子光晴は昭和12年8月に詩集「鮫」を発行しています。
◇
中也が急逝したのが1937年10月22日ですから
「鮫」の発行を知っていた可能性はありますが
読んだとか詩集を手にしたとかいう記録はなく
確かなことはわかりません。
「山羊の歌」を発行した1934年(昭和9年)前後から
文壇・詩壇の情報を中也はかなり詳しく知る状況にありましたが。
◇
山之口貘との交流も
詩誌「歴程」に同人として参加しているよしみから生じたようです。
草野心平、高村光太郎、貘の3人が写っている写真が残っていますから
そこに中也がいても不思議ではなかったほどなのですが、
中也が書いた手紙の中には山之口貘が登場するものが残りました。
昭和11年(1936年)6月30日付けで中垣竹之助に宛てた手紙です。
全文を読みましょう。
◇
先夜は大層失礼致しました。その節は結構な物頂戴致し難有く厚く御礼申上ます。扨、昨日より二度ばかり例のおきゅうの山之口に電話しましたがそのたびに出掛けていますので、只今ハガキにて御意向伝えておきましたから何卒お電話にてお話し下さいまし 当人は両国ビル内に住込んでいる由でございますから却て夜の九時頃が最も可能性が多いことと存じます おきゅうにても何にても早く御快癒の程祈ります
暑さに向います折柄何卒皆々様御健康の程祈ります。
高橋に暇の時があったらたびたび遊びて(ママ)来られる様御伝え下さいまし。 怱々万々
(山之口貘――本所区東両国両国ビル本所七、〇五七)
(※「新編中原中也全集」第5巻 日記・書簡篇より。新かなに変えてあります。編者。)
◇
山之口貘はこの頃
鍼灸(しんきゅう)を生業(の一つ)としていたようです。
そのことは
貘が書いた中也追悼の一文でも窺い知ることができます。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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