茨木のり子の「ですます調」その4・光太郎の「山羊の歌」
(前回からつづく)
中原中也の第1詩集「山羊の歌」は
難産のすえ昭和9年(1934年)に発行されましたが
その装幀を高村光太郎が手がけたことは有名です。
青山二郎が頼まれていた仕事でしたが
難航していた出版交渉がこの年末にバタバタとまとまって
文圃堂から発行されることが決ったときに
青山は旅行に出ていたため
急遽、光太郎が担当することになったのです。
光太郎はいわばピンチヒッターでしたが
堂々とした感じの本が出来あがりました。
◇
「新編中原中也全集」第1巻 詩Ⅰ・解題篇に
「山羊の歌」の詳細な「詩集解題」があり
書誌、奥付、造本、構成と配列順序
――のデータが記録されています。
「書誌」の項で、装幀 高村光太郎、発行者 野々上慶一、
「造本」の項には、四六倍判、箱入り上製本、
「箱」は貼箱、
――などとあり、
「表紙」は、丸背厚表紙。赤口局紙(黄色)。背文字は詩集名、著者名とも純金箔押し。
平の文字は詩集名を墨刷、著者名を朱刷。
「本文」は、総頁152頁、用紙は英国製厚口コットン紙(薄鼠色)。
――などと案内されています。
これらデータを見るだけで
豪華でもなく
質素でもなく
瀟洒(しょうしゃ)といった感じの本がイメージできます。
瀟洒といっても
絵画的なもの(ビジュアル)を排して
中味を内部から湧き出させることを狙った外観(体裁)が目論(もくろ)まれた感じです。
◇
こうしたイメージは
中原中也自らが望んだものであり
その意向を光太郎が汲んで制作したものであるらしく
二人の芸術家の交感の跡がそれとなく伝わってきます。
両者の間にどのような会話が交わされたのでしょうか?
そのことを想像するだけで
ワクワクしてきます。
◇
この時(昭和9年末)、
高村光太郎52歳、
中原中也27歳。
光太郎は、療養中の妻・智恵子の看病に心血を注ぎ
中也は、第1子誕生を生地・山口にひかえていました。
◇
この時のことは
「山羊の歌」の出版社であった文圃堂社主・野々上慶一の回想や
青山二郎の残した著作の中などに散見されますが
制作当事者である光太郎が
中也追悼文の中で触れているのは貴重な証言ですから
その部分だけを読んでおきましょう。
追悼文は「夭折を惜しむ」という題で
昭和14年4月10日発行の「歴程」同年4月号に掲載されたもので、
中原中也君の思いがけない夭折を実になごり惜しく思う。
私としては又たのもしい知己の一人を失ったわけだ。
――とはじまる短い文です。
中原君とは生前数える程しか会っていず、その多くはあわただしい酒席の間であって、
しみじみ二人で話し交した事もなかったがその談笑のうちにも不思議に心は触れ合った。
中原君が突然「山羊の歌」の装幀をしてくれと申し入れて来た時も、
何だか約束事のような感じがして安心して引きうけた。
(「新編中原中也全集」別巻(下)資料・研究篇より。)
◇
これは書き出しの部分で
背後には草野心平や青山二郎らとの繋がりがあったようですが
「約束事のような」という表現には
光太郎の人を射抜くような眼差しがあります。
人を見るのに射抜くような眼差しがあります。
中也がこの申し入れをしたときは初対面だったのではなく
どこかで、それもどこかの酒席で会っていたことがあって
互いにその中で共感するものを感じ取っていた、というようなことだったのでしょう、きっと。
◇
途中ですが
今回はここまで。
◇
「智恵子抄」から大正15年の作「夜の二人」を読んでおきましょう。
◇
夜の二人
私達の最後が餓死であろうという予言は、
しとしとと雪の上に降る霙まじりの夜の雨の言った事です。
智恵子は人並はづれた覚悟のよい女だけれど
まだ餓死よりは火あぶりの方をのぞむ中世期の夢を持っています。
私達はすっかり黙ってもう一度雨をきこうと耳をすましました。
少し風が出たと見えて薔薇の枝が窓硝子に爪を立てます。
(新潮文庫「高村光太郎詩集」より。新かな・新漢字に変えてあります。編者。)
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