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2015年3月 2日 (月)

茨木のり子の「ですます調」その17・山之口貘が読んだ中也の詩「夏」

(前回からつづく)

 

僕は先日、次のような言葉のある中原の詩を読んだ。

或る日僕は死んだ。とあった。そうして女中が机の上のものを片づけたという風なことがあって、最後には、さっぱりした さっぱりした。とあった。

――と山之口貘が中也追悼文の終わりに記した詩は
「夏」と題した生前発表詩です。

 

 

 

僕は卓子(テーブル)の上に、
ペンとインキと原稿紙のほかなんにも載(の)せないで、
毎日々々、いつまでもジッとしていた。

 

いや、そのほかにマッチと煙草(たばこ)と、
吸取紙(すいとりがみ)くらいは載っかっていた。
いや、時とするとビールを持って来て、
飲んでいることもあった。

 

戸外(そと)では蝉がミンミン鳴いた。
風は岩にあたって、ひんやりしたのがよく吹込(ふきこ)んだ。
思いなく、日なく月なく時は過ぎ、

 

とある朝、僕は死んでいた。
卓子(テーブル)に載っかっていたわずかの品は、
やがて女中によって瞬(またた)く間(ま)に片附(かだづ)けられた。
――さっぱりとした。さっぱりとした。

(「新編中原中也全集」第1巻 詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

「夏」は

昭和12年(1937年)8月に創刊された

タブロイド判の月刊新聞「詩報」の第2号に初出し

「文学界」の昭和12年12月号(同年12月1日付け発行)に発表されました。

 

原稿を託された小林秀雄が

生前の「詩報」への発表を知らずに

「文学界」の「中原中也追悼号」に

「遺作集四篇」として掲載した作品の一つでしたから

こちらは没後発表ということです。

 

 

山之口貘は

このどちらかを読んだものでしょうか。

 

生原稿を読む機会があったと考えられなくもありませんが

発表詩を読んだ可能性が高いでしょう。

 

 

前にこの詩を読んだ時の感想は

今でも筆者(合地)の中で変わりません。

 

その一部を引いておきましょう。

 

 

「夏」の制作は

昭和12年8月下旬~9月4日と推定されていますから

10月22日の死亡日の

およそ2か月前に

歌われた詩ということになります。

 

詩人が

自分の死を

 

思いなく、日なく月なく時は過ぎ、

 

とある朝、僕は死んでいた。

 

――と歌うのをなぞっていると

予言というよりも

自分の死を

詩人は肉眼で見ていたのではないかと

疑いたくなるような

リアルなものが感じられます。

 

これは

 

ホラホラ、これが僕の骨だ、

(1934年4月28日制作の「骨」)

 

――と同じものですが

これを歌って約2か月して

実際に詩人が亡くなってしまうことを知れば

「これが僕の骨だ」にあった滑稽感はなくなり

詩人の死への畏怖が

否応もなく重々しく伝わってきます。

 

ひるがえって

「骨」を読み返せば

この「夏」の3年以上前に作られた「骨」から

滑稽感は消えうせ

リアル感がかぶさってくるのですから

不思議といえば不思議

……。

 

となれば

 

倦怠(けだい)のうちに死を夢む

(1930年1~2月制作推定の「汚れつちまつた悲しみに……」)

 

――の「死」も

いまここによみがえってきて

ゾクゾクしてくるものがあります。

(※若干、体裁を変えてあります。編者。)

 

 

詩の中で

さっぱりしたと歌っている詩人は

死にたかったのではなく

さっぱりとした気持ちになりたかったことを歌った詩ですが

死は突然、詩人を襲ったのでした。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

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