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2015年3月

2015年3月31日 (火)

茨木のり子「詩のこころを読む」を読む・谷川俊太郎の「芝生」

(前回からつづく)

 

この「忘れものの感覚」は、詩の大きなテーマの一つですが、

日本語でこれほど澄みきったものとして提出された例は、

今までになかったようば気がします。

――と記して「かなしみ」へのありったけのオマージュを述べた後

次に茨木のり子が挙げるのは

「芝生」という短詩です。 

 

こちらもまたわずか7行の詩で

「かなしみ」から20年余を経て作られました。

 

 

芝生

 

そして私はいつか

どこかから来て

不意にこの芝生の上に立っていた

なすべきことはすべて

私の細胞が記憶していた

だから私は人間の形をし

幸せについて語りさえしたのだ

 

       ――詩集「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」

 

 

とてもスケールの大きな時間が流れている感じがするのは

「二十億光年の孤独」の印象が続いているからでしょうか――。

 

「どこかから来て」の詩行に

宇宙的な時間や空間を感じてしまうからでしょうか。

 

 

茨木のり子はそこのところを

「なんだか宇宙人が書いたような詩だ」という批評があることを紹介し

それならば「かぐや姫」の話に通じるものではないか

――と想像の翅(はね)をひろげ

ああだこうだと繰り返し繰り返し考えたり思ったりして

面白がっています。

 

面白がっていること自体が詩を読むことであるような

詩の楽しみを案内しているかのように。

 

詩が好きで好きでたまらないといった口ぶりが

このあたりに滲(にじ)みます。

 

 

茨木のり子は面白がって詩を読むことを隠そうともせず

新しい発見でもあるかのように

自慢げに披瀝するといってもよいほどですが

20年以上も隔てて作られた二つの詩がつながっている感じがするというのも

その発見の一つのようです。

 

この発見がまた見事に決まっていて

あっと声を出しそうになります!

 

 

「かなしみ」で記憶喪失になったような「僕」が

「芝生」では「細胞が記憶していた」ために

人間のすることを遂行することが出来て

その人間=私が「幸せ」について語ることさえ出来た。

 

このように読めることを

提案するかのようです。

 

 

復活とか再生とか蘇(よみがえ)りとか

光とか希望とか愛とか

……に通じる世界が歌われているのが

「芝生」なのですが

そんな風に詩人は書きません。

 

「かなしみ」は今、「芝生」の上の幸福をつかんでいるのですが

そんな風にも詩人は書きません。

 

 

「あなたの細胞が記憶していたのは何だったのですか?」とたずねても、

作者にもうまく答えられないでしょう。

でも、谷川俊太郎が書いたたくさんの詩のなかに、その答はちゃんと潜んでいますから、

後でふれたいと思います。

――と答えを後述に預けます。

 

 

今回はここまで。

 

 

2015年3月28日 (土)

茨木のり子「詩のこころを読む」を読む・谷川俊太郎の「かなしみ」その3

(前回からつづく)

 

茨木のり子が谷川俊太郎の「かなしみ」を読みながら援用するのが

同じ作者の第2詩集「六十二のソネット」中の「41」という作品。

 

茨木のり子が引用するのは

冒頭の2行ですが

ここでは「41」全行に目を通しましょう。

 

 

41

 

空の青さをみつめていると

私に帰るところがあるような気がする

だが雲を通ってきた明るさは

もはや空へは帰ってゆかない

 

陽は絶えず豪華に捨てている

夜になっても私達は拾うのに忙しい

人はすべていやしい生まれなので

樹のように豊かに休むことがない

 

窓があふれたものを切りとっている

私は宇宙以外の部屋を欲しない

そのため私は人と不和になる

 

去ることは空間や時間を傷つけることだ

そして痛みがむしろ私を責める

私が去ると私の健康が戻ってくるだろう


(角川文庫「現代詩人全集 第10巻 戦後Ⅱ」より。)

 

 

多くの詩人が

「空」へ特別な関心を寄せることに触れて

茨木のり子は谷川俊太郎もその例にもれず

自らの出生(生存)の探求へと向かい

「青い空」を幾つか歌っていることに注目しました。

 

その一つがこの詩。

 

冒頭の

空の青さを見つめていると

私に帰るところがあるような気がする

――がここに呼び出されます。

 

 

この2行が呼び出されのは

「かなしみ」の青い空との類縁を指摘するためにですが

「帰るところ」としての空というテーマともクロスして

「かなしみ」という詩が扱う生存(または死)は

「帰るところ」との類縁に気づくことを促しているようです。

 

 

生まれいずるところは

死して帰るところとおなじところなのである

――などと、身も蓋(ふた)もないようなことを

詩(谷川俊太郎)や茨木のり子が言っているものではありません。

 

 

茨木のり子が持ち出す

小さな子の引例は

ここでもあざやかです。

 

 

小さな子供が自分の家にいるのに「お家へ帰ろう、お家へ帰ろう」と、

じだんだふんで泣いたりすることがあって、おとなは笑いますが、

幼ければ幼いだけ、郷愁(ノスタルジー)と名づけられるこの思いは鮮烈なのかもしれません。

 

 

谷川俊太郎初期の詩の要素の一つに

「郷愁=ノスタルジー」を見い出し

そのことをさりげなく

幼い子供がわけもなく「帰ろう帰ろう」と泣いて聞き分けのないひとときの例を重ねます。

 

 

幼ければ幼いだけ、郷愁(ノスタルジー)と名づけられるこの思いは鮮烈――。

 

少年(青年)が見詰めている青空は

郷愁=ノスタルジーの鮮烈さで

激しく少年(青年)を突き動かしているようです。

 

 

「かなしみ」は谷川俊太郎10代の作品。

 

若い時でなければ書けないまじりっけなしの純粋さを湛(たた)えている

――と茨木は評しますが

この純粋さの由来が

あたかも「お家に帰ろう」と駄々をこねて泣く子供の

「存在の不安」と同質のものであるとでも言いたげで

そうは断言しないところがほがらかです。

 

 

「かなしみ」も「六十二のソネット」の「41」も

傾向として同じ流れの中の詩であり

すべてではないのはもちろんですが

第1詩集「二十億光年の孤独」も

第2詩集「六十二のソネット」も

重なったテーマを歌っている部分があることを

こうして知ることができます。

 

 

今回はここまで。

 

 

かなしみ

 

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに

何かとんでもないおとし物を

僕はしてきてしまったらしい

 

透明な過去の駅で

遺失物係の前に立ったら

僕は余計に悲しくなってしまった

 

 

 

2015年3月27日 (金)

茨木のり子「詩のこころを読む」を読む・谷川俊太郎の「かなしみ」その2

(前回からつづく)

 

かなしみ

 

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに

何かとんでもないおとし物を

僕はしてきてしまったらしい

 

透明な過去の駅で

遺失物係の前に立ったら

僕は余計に悲しくなってしまった

 

 

少年が原っぱで遊び呆(ほお)けていて

ふとした瞬間、息をひそめて

草むらに仰向けに倒れ込んで見上げた青空――。

 

その青空が

青年の眼に今、あります。

 

 

誰しもこんなふうにして青空を見た思い出を持つはずですし

誰しもこの詩に似た感傷を抱いたはずですが

この詩の言葉のようには結ばれなかっただけのことで

その感傷を詩人・谷川俊太郎が代わりに歌ってくれたような気持ちになって

親しく懐かしく感じられる詩といえるでしょう。

 

その感傷を

やや哲学的といいますか

カフカ的といいますか

存在論的といいますか

宇宙論的といいますか

……

 

物思う少年(青年)の

もやもやとした心のうちが

都会を感じさせる「僕」を通して呟(つぶや)かれます。

 

 

もやもやとしているものの正体を

「僕」は今まさにつかまえたような所(時)にいますが

つかまえたものは悲しみなのでした。

 

それは、仰向けになって空を見上げた

その時以前から「僕」に巣食っているもので

だんだん形になってくるようなものでした。

 

「僕」のこの悲しみには

センチメンタルな響きもなく

どちらかといえば乾いた響きがあり

それが生存の悲しみであっても

思索的なトーンを帯びています。

 

 

「あの青い空の波の音」は

確かに青い空を見ていると見えてくるような音ですし

音かと思えば空であって

ことさら都会の少年(青年)の眼差しに映る空(である音)で

この言葉自体が

繊細さ洗練さを表わしていてユニークです。

 

 

茨木のり子の着眼するのは

遺失物係です。

 

遺失物とは落とし物のことですが

「遺失物」といっただけで

カフカやベケットや

何やら不条理な世界へ誘われるようですが

茨木のり子がそちらの方向へ向かうわけではありません。

 

 

遺失物係のいる場所(時間)が

「透明な過去の駅」と設定されているからでしょうか。

 

この遺失物係は

無人であったような気がします

――と茨木のり子は読み取ります。

 

しかも、おとし物が何だったかも忘れてしまって、

忘れたという感覚だけが残っていて。

途方にくれて。

すべてが曖昧(あいまい)で、

それなのに、へんに澄んだ世界です。

――と読んでいきます。

 

 

そして「ものごころがつく」という日本語を引き合いにして

この詩は

ものごころがついた少年(青年)が

自分を客観的にとらえようとして

さまざまな欠落感に悩まされ

その悩みの一つを歌ったものかもしれません

――と青春の歌であることを明らかにします。

 

 

青春の歌

――というにはあまりにも洗練された詩行に満ちていますが

悲しみが歌われるにしても

「僕」が抱いた悲しみには

湿潤(しつじゅん)なものがありません。

 

デビューのころ、

谷川俊太郎はこんな詩を書いていたのです

 

 

今回はここまで。

 

 

2015年3月25日 (水)

茨木のり子「詩のこころを読む」を読む・谷川俊太郎の「かなしみ」

(前回からつづく)

 

茨木のり子が「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書)を上梓したのは

1979年ですから52歳のときです。

 

自ら言う「峠」の年齢ということになりますが

戦後に詩作をはじめて

すでに30余年の歳月が流れていました。

 

30年以上も詩を書いてきたということを

詩を書かない人が想像するには

自分で続けている趣味だとか習い事だとか習慣だとかと比べて

少しは類推できることかもしれません。

 

社会人なら

自分の仕事一つを思い浮かべてみれば

想像できることかもしれません。

 

30年も同じことを続ければ

どんなことでも熟練の域に達するものです。

 

 

詩とビジネスを同じ土俵に乗せるわけではありませんが

熟練するということにかかる時間の関係には

詩であれビジネスであれ左官の仕事であれ

共通するものがあることに間違いありません。

 

円熟の目利きである詩人・茨木のり子が

第1章にあたる「生まれて」の冒頭(この本の巻頭)に案内するのは

日本現代詩のトップランナー・谷川俊太郎です。

 

谷川俊太郎の名は

知らない人はいないといってよいほど広く知られていますが

「詩のボクシング」とか「ことば遊び」とか「合唱曲の作詞」とか

マルチタレントぶりを知っていても

詩を読んだ人は案外多くないのかも知れません。

 

「ネロ」だとか「二十億光年の孤独」だとかのタイトルを聞いたことがあっても

これらの詩をじっくりと読み

ほかの詩にも目を通した人は少ないのが実情のようです。

どんな傾向の詩を書く詩人であり

どのような来歴があり

どのように詩人として出発し現在に至っているかなどを知っていても

詩そのものをじっくり読んだ人はそう多くはないというのが実情のようです。
 

 

そうであっても

現代詩人の中で最もポピュラーな人気を得ていることは確かです。

 

詩のコーナーを設けているいるような大きな書店では

谷川俊太郎の詩集が犇(ひし)めいています。

 

 

最も知名度の高い詩人ということを

茨木のり子も意識したからか

詩の近しい仲間であり

住まいも近くであったからか

「詩のこころを読む」の1番目に選んだ理由は納得がいくものです。

 

「かなしみ」は

デビュー作「二十億光年の孤独」に収められています。

 

 

かなしみ

 


あの青い空の波の音が聞こえるあたりに

 

何かとんでもないおとし物を

 

僕はしてきてしまったらしい

 

 

 

透明な過去の駅で

 

遺失物係の前に立ったら

 

僕は余計に悲しくなってしまった

 

 

 

 

わずか6行2連の短詩ですが

こういう詩を書くのが谷川俊太郎かなどと

まずはグンと詩(人)が近づいてくるのを感じられるのも

一つには茨木のり子の眼差しの鋭さからくるものに気づきます。

 

独力でこういう詩に出会うまでには

多くの時間がかかることでしょう。

 

 

初めて読んだとき

あの青い空の波の音が聞こえるあたり――という「あの」にぎくりとさせられますが

自分にも「そこ」が見えるような気がすれば

この詩のよい読み手になったというものです。

 

じっとして青空を眺めるなんてことを

遠い昔の少年(少女)時代にしたことを

この詩は懐かしくも思い出させてくれますが

その時感じたものがこの詩のような気持ちであったことをも

この詩は思い出させてくれるようなところがあります。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2015年3月20日 (金)

茨木のり子「詩のこころを読む」を読む・石垣りん「幻の花」

(前回からつづく)

 

「詩のこころを読む」で

茨木のり子は石垣りん(1920年~2004年)の詩3作を紹介しています。

 

「峠」の章では「その夜」につづいて「くらし」を

最終章「別れ」で「幻の花」を読むのですが

「くらし」と「幻の花」は「表札など」という詩集に収められているもので

「その夜」より後の作品になります。

 

「その夜」が収められている「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」は

1959年発行の第1詩集で

「表札など」は1968年発行の第2詩集です。

 

 

茨木のり子の「その夜」の読みに

読者を心服(しんぷく)させるものがあるのは

ああ疲れた

ほんとうに疲れた

――などというつぶやきのような言葉が

どうして詩語になるのだろうか、と

おそらくプロの詩人として

真剣にその答えを見つけようとしてきた長い時間を経たからでしょう。

 

実作者ならではの眼差しが

「その夜」を案内する記述の中に

滲(にじ)んでいます。

 

そのうえ、

「ああ疲れた」などという言葉がめったに使われることがないのは

一種の見栄(みえ)のせいでしょうか

――とコメントを漏らすところに

独特の突っ張りみたいなものがあり

それは勇ましさと言ってもよい詩人の稟質(ひんしつ)なのでしょう。

 

 

「その夜」という詩が放つ輝きと

それを読むもう一人の詩人の感受性が

火花を散らしているような衝撃。

 

石垣りんという詩人が

名残り惜しくなってきて

もっともっと読んでおきたいという気持ちを抑えられません。

 

 

幻の花

 

庭に

今年の菊が咲いた。

 

子供のとき、

季節は目の前に、

ひとつしか展開しなかった。

 

今は見える

去年の菊。

おととしの菊。

十年前の菊。

 

遠くから

まぼろしの花たちがあらわれ

今年の花を

連れ去ろうとしているのが見える。

ああこの菊も!

 

そうして別れる

私もまた何かの手にひかれて。

 

 

この詩も

庭に咲いた菊の花を見るだけのことを歌ったものです。

 

なぜそれが詩になるのでしょうか?

――という眼差しでいつしか詩に向かうことになります。

 

そこのところを茨木のり子は

どのように読んでいるでしょうか。

 

 

最終連2行へ。

 

この詩が流れていく「飛躍」に

その秘密はあるようです。

 

飛躍でありながら

ちっとも飛躍と感じさせない言葉の流れについて

縷々(るる)、詩人の言葉が述べられています。

 

 

今回はここまで。

 

2015年3月17日 (火)

茨木のり子「詩のこころを読む」を読む・石垣りん「その夜」その2

(前回からつづく)

 

「その夜」を読んだとき、ああお見舞いに行きたかったと、痛切におもいました。

――と、

茨木のり子は石垣りんの詩「その夜」を読んだ時のことを記しています。

 

これが第一声です。

 

 

そう記した理由を、

 

貧しければ親族にも甘えかねた

さみしい心が解けてゆく

――という第2連を引いて、

 

ここがぐっときて、胸が痛くなりました。

――と茨木はつづけています。

 

 

胸にぐっときたその後で

詩の作者をお見舞いしたかった、という気持ちを述べたのです。

 

「その夜」が作られたのは

詩人が回復してからのことでしたし

面識もなく病気入院中であることを知る由もなかったのですから

お見舞いする可能性はなかったこともつけ加えて

そう思ったことを一番にコメントしたのです。

 

 

ある一つの詩を読んで

このように思えるのが

詩を読むことなのではないかと感心して

「詩のこころを読む」の世界にはまります。

 

「その夜」を読むヒントを

このようにして

茨木のり子は教えてくれるのですし

「その夜」という詩がグンと近づいてきます。

 

 

このように思うことができれば

詩を読むことができたということにほかならず

それがそう容易ではないところに

詩がある、詩は存在すると思えてなりませんから

どのようにすればこのように思うことができるのか

感心するばかりです。

 

 

のほほんと育ってしまった、うどの大木の私にも、まちがいなく入ってきた何かで、それまでにもたくさん読んできたはずなのに、これが石垣りんの詩との、最初の出逢いでした。

 

 

茨木は、そう思ったいきさつについて

このようにコメントを続けます。
 

茨木にしても

詩と出逢うには時間が必要だったのです。
 

そして、詩との出逢いは

(偶然中の偶然であるような、必然中の必然であるような)

不思議な「えにし(縁)」によってもたらされるものであり

そのことは愛読書ができたり友人ができたりするのと同じようなものと述べるのです。

 

 

ありきたりのようなことのようですが

なかなかこうズバリと「御縁=ごえん」という人はいません。

 

 

好きになっちゃったり

思想的に共感しちゃったり

何かひっかかるものがあったり

面白いと思ったり

……

 

人はいつしか

ある詩(人)と出会うということがあるものですが

それを「縁=えにし」といい「ごえん」というところが

茨木のり子です。

 

 

「その夜」についての茨木のり子の鑑賞はまだまだ続き

石垣りんの生涯を簡単に紹介する中で

また詩にもどって、

 

ああ疲れた

ほんとうに疲れた

 

――の2行を引いてのコメントは

これほど真芯(ましん)を捉えた読みを他に想像できないほどに決まっています。

 

そのことをほかの言葉で伝える(パラフレーズする)ことはできません。

 

 

実に素直に、ふだん言うように投げ出されていて、かえってハッとさせられます。

一種の見栄(みえ)のせいでしょうか、

詩の中に「ああ疲れた ほんとうに疲れた」というような言葉が出てくることはめったになく、

破格といっていいほど大胆な使いかたです。

 

――と、やや長めに第2声を発します。

 

 

このように読むには

「縁」と呼べるような不思議な「おつきあい」を

詩(人)との間に必要とすることでしょう。

 

1行を書くために

詩人が費やす膨大な時間と労力は

想像する以外に知りようがありません。

 

詩人はほかの詩人の苦闘について

想像を絶する想像をすることでしょう。

 

 

小学生のころから詩作をはじめ

こつこつと作りつづけて

40代になって作った詩の一つが「その夜」ということです。

 

この頃、一斉に花を咲かせたように

詩人・石垣りんの詩は

もう一人の詩人に

ほれぼれするくらいの見事さでした。

――と言わせるのです。

 

 

今回はここまで。

 

もう一度、じっくり「その夜」を

味わいましょう。

 

 

その夜

 

女ひとり

働いて四十に近い声をきけば

私を横に寝かせて起こさない

重い病気が恋人のようだ。

 

どんなにうめこうと

心を痛めるしたしい人もここにはいない

三等病室のすみのベッドで

貧しければ親族にも甘えかねた

さみしい心が解けてゆく、

 

あしたは背骨を手術される

そのとき私はやさしく、病気に向かっていう

死んでもいいのよ

 

ねむれない夜の苦しみも

このさき生きてゆくそれにくらべたら

どうして大きいと言えよう

ああ疲れた

ほんとうに疲れた

 

シーツが

黙って差し出す白い手の中で

いたい、いたい、とたわむれている

にぎやかな夜は

まるで私ひとりの祝祭日だ。

 

              ――詩集「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」

(「詩のこころを読む」からの孫引きです。編者。)
 

 

2015年3月16日 (月)

茨木のり子「詩のこころを読む」を読む・石垣りん「その夜」

(前回からつづく)

 

茨木のり子の「ですます調」の著作には

「うたの心に生きた人々」(1967年)のほかに

「詩のこころを読む」(1979年)があり

こちらは日本の戦後詩人を中心に

戦前の詩や外国の詩人も2、3取りあげ

茨木のり子の「好きな詩コレクション」の形の作品鑑賞となっています。

 

これから現代詩を読もうとする人々への 

絶好の入門書になっていて

わかり易く深いという点で

類書の中でもひときわ高く聳え立っています。

 

詩史や詩論(史)や詩人論が

ひたすら難解な方向へ向かってとどまるところのない趨勢の外で

茨木のこの書は

詩と出会った感動をそのまま伝えようとする情熱を失わずに

それでも「むずかしさ」ということを恐れずに書かれました。

(「はじめに」より。)

 

 

「もくじ」で数えると

ざっと30人近くの詩人を取り上げて

時には一人の詩人のほかの詩を異なる章で取り上げもして

茨木のり子の好きな詩の魅力が思う存分語られます。

 

たとえば目次は、

 

生まれて

恋唄

生きるじたばた

別れ

 

――という内訳になっていますが

「峠」とは何だろうと

そのページをめくれば、

 

岸田衿子

安西均

吉野弘

石垣りん

永瀬清子

河上肇

――の順に

「峠」に差し掛かった詩人の作品が味わわれます。

 

「峠」については

汗をながしながらのぼってきて、うしろを振りかえると、過ぎこしかたが一望のもとにみえ、これから下ってゆく道もくっきり見える地点。荷物をおろし、つかのま、どんな人も帽子をぬぎ顔などふいて一息いれるところ。年でいうと、40代、50代にあたるでしょうか。峠といっても、たった一つというわけではなく、人によっては三つも四つも越えてゆきます。

――と書かれていて

円熟期を指すことがわかります。

 

石垣りんは

「その夜」が紹介されます。

 

 

その夜

 

女ひとり

働いて四十に近い声をきけば

私を横に寝かせて起こさない

重い病気が恋人のようだ。

 

どんなにうめこうと

心を痛めるしたしい人もここにはいない

三等病室のすみのベッドで

貧しければ親族にも甘えかねた

さみしい心が解けてゆく、

 

あしたは背骨を手術される

そのとき私はやさしく、病気に向かっていう

死んでもいいのよ

 

ねむれない夜の苦しみも

このさき生きてゆくそれにくらべたら

どうして大きいと言えよう

ああ疲れた

ほんとうに疲れた

 

シーツが

黙って差し出す白い手の中で

いたい、いたい、とたわむれている

にぎやかな夜は

まるで私ひとりの祝祭日だ。

 

              ――詩集「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」

 

 

さらっと読み流してしまいそうな詩ですが

茨木のり子がこの詩を読む読み方は

それ自体が茨木のり子にしかできない読み方であり

あっと思うような感激が

じわじわとこみ上げてくるような詩であることを気づかせてくれます。

 

そのような詩の読み方は

容易にはできないことを気づく経験となります。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年3月15日 (日)

現代詩の証言・金子光晴の「こがね虫」その11散文詩「窓飾の妖精」

(前回からつづく)

 

金子光晴が「東方趣味の抒情詩」と呼んだ詩の一群に吸引された形で

詩集「こがね虫」をめくってきました。

 

 

心の廃址は、あやしくも、ワーウィックの大饗宴をひらいた。

然し、夫は埃と熱の現実の饗宴ではなくて、余が心象に映る華やかな、幻燈に過ぎない。

余は、ただ空想(ものがたり)と、此世の「美観」との悲劇的な蒐集家(ラマッスール)であった。

(「自序」)

――と記されたブルッセル郊外での暮らしは

では、どのように歌われているのか。

 

すでに読んできた

「雲」

「三月」

「春」

「陶酔」

――などの詩にその反映はあるでしょうが

やや印象が薄い感じになったのは

「自序」の強い調子にあるのでしょうか。

 

そもそも詩の背景を

実証的な眼差しで探すことが

間違っているのでしょうか。

 

ようやく詩集の全容が見えはじめ

全詩の「地図」が見えて来たところに

このような疑問が生じてきても

その答えを学者の眼(まなこ)で探すこともないでしょう。

 

 

詩集は、2度、3度とめくるうちに

自然に親しみが湧いてくるものがあり

中の幾つかの詩篇には愛着というものさえ抱くことになり

中には一生忘れられない巡り合いになるということもあるのでしょうから

その親しみを大切にすればよいのではないでしょうか。

 

まずは1回目の探検です。

読み足りなかったり

読み間違えたりは幾つもあって致し方ありません。

 

 

「こがね虫」の末尾には散文詩5作が配置され

中にフランドル体験の反映が見られる詩篇があります。

 

その一つ「窓飾の妖精」を読んで

詩集「こがね虫」から離れることにします。

 

 

窓飾の妖精

        身体じゅう文身の悲哀。

        みじんな夜の雨は、青ざめた敷石に燐をとびちらせる。

        ああ、明るいショーウインドーからショーウインドーのノスタルジア

        時折街路樹はふるい落す、紅玉の滴、ヒスイの滴。

 

 黒張りのこうもり傘、鼈甲ぶちの眼鏡、レーンコート、破れた靴底の水びたしな足。諸君。その夜も、このうたのような私の傷心が、商店通りのてすりからてすりを、もたれかかるようにして歩いたものだ。

 ……そうだ。今夜は道ゆく人もまれで、窓飾のなかには、なにかの大饗宴がひらかれていたのだ。そして、もう、いまはみんな引上げて誰もいない。冷徹で、かなしい、がらんとした大広間、ガラスで囲まれたサロンの一隅に、ふと私は、一人の踊り子が、みんなから取りのこされて、泣き入っているのに気づいた。琥珀の裸の胴を折りまげ、うつ伏しているその姿が、天井、床、右左のガラス張りにうつり、うつった姿がまたうつっている。なぐさめ顔の身がるなゴム風船がふわりふわりとそのまわりをあるきながら、それも又、いくつにもなってうつっている。

 

 明るさを追究していったはての悲哀につきあたってしまったのか。華美の極の闇黒。哀楽のはての苦さ。……おどり子はすてられて嘆いているのではない。歓楽の終ったのをかなしんでいるのでもない。じぶんの生身の究極をいたんでいるのだ。哀婉ななま身のおまえ。窓飾の妖精(せい)。―― おまえは、それだ。私は、遂におまえをみたのだ。

 

 くらい夜更けの溝渠、並び倉庫にそうてのかえりみち、古風なくさり木の橋欄にうつろな靴音を反響させて、私はあゆむ。

 

 沈痛な、悲壮な、しかし、誰かに哀訴するような声で言った。

「僕は、とうとう、歓楽の核。哀愍への通路をみてしまった!」

 

(昭森社「金子光晴全集1」より。新かなに変えたほか、改行・1行空きを加えました。編者。)

 

 

「文身」は、入れ墨(いれずみ)のこと。

 

なぜこの詩にそれが出てくるのか。

それを考えるだけで

この詩に近づくことになりそうな言語意識が

この詩を貫いています。

 

文身を施(ほどこ)さないではいられない

人間の悲哀。

 

人間の悲哀が

文身の中にあるということ――。

 

 

2015年現在からほぼ100年前の1919年に

一人の日本の詩人が残した散文詩による証言の

これは一つです。

 

目撃した現実の写実でないことは明らかですが

それが根も葉もない空想でもないところに

1919年に作られたこの詩の意味はあります。

 

 

フランドルとおぼしき街のとあるサロンの

ガラス張りの飾り窓が

この詩の舞台です。

 

その大広間の一隅に

一人の踊り子は取り残されて泣き入っているのを

たまたま通りかかった傷心の「私」は気づきます。

 

天井と床と右左のガラス張りに

その踊り子の琥珀の裸身(胴)を折り曲げた姿が

映っているのです。

 

 

このような景色を詩人が

実際に目撃したのかどうかという方向で

この詩を読むことは自然の流れですが

そのように読む必要があるものではありません。

 

踊り子は「私」に見られている存在であるのは確かなことですが

いつしか見ている「私」は

「おまえ」である踊り子に乗り移ったかのような存在になります。

 

二重三重の鏡面に映し出された踊り子の姿を認めた時から

「私」はすでに踊り子との見境(みさかい)を無くし

「私」を見るように「おまえ」を見ますが……。

 

次の瞬間には

夜更けの暗黒の道を

うつろな靴音を立てて歩いてゆく悲哀の人です。

 

 

この詩が

シャルル・ボードレールだとか

ウェルハーレンだとかの影響下に作られたなんて

さしあたってどうでもよいことです。

 

このような詩が

1919年に作られていたという事実は

今や歴史の一コマになっています。

 

時局や時勢を超越しているようで

大きなスパンで見ると

時代を映し時代の証言となっているということです。

 

 

今回はここまで。

 

 

2015年3月14日 (土)

現代詩の証言・金子光晴の「こがね虫」その10「自序」について

(前回からつづく)

 

数えてみれば「こがね虫」には

合計で24篇の詩が収録されています。

 

この内の3分の1ほどの詩編を読んできたところで

ようやくその詩世界の右左(みぎひだり)というようなことが分かってきて

地図でいえば土地勘が出て来たというところです。

 

 

初めて詩集を開いたときには

詩集冒頭にある「自序」に何が述べられているのか

ピンと来なかったものですが

今や理解できる範囲に入って来ました。

 

 

「時」の勝(たえ)難い離愁は、宝石函のサフィールや、アメジストの夢を多面にする。

 この心情(こころ)の繊弱さや、駘蕩さ、華美さ、驕慢さは、何処の王宮から流謫されて来

たものであろう。

また、この阿片喫煙者の持つ「美しい幻影(まぼろし)」と、覚醒時の遣方ない悲しさ、寂し

さは……。

 

 

「自序」がこのように書き出されるのを

少しは親しく読めるようになっているのです。

 

 

若し、「夢」の晴衣裳が無かったなら、若し、「涙」がいつも、涸濁して居たら、此髑髏は、

何たる惨めな地獄行であったろう。

 

 

このあたりは

詩集が生まれた動機について書かれているということでしょう。

 

1919年に25歳であった詩人・金子光晴の

胸のうちを支配していたのは

「離愁」でした。

 

「時の離愁」でした。

 

 

「自序」はしばらく

詩歌が詩人とともにあったことを述べた後、

「こがね虫」1巻こそが生命をかけた渾身の作品(贅沢な遊び)であることを宣言し

この詩集が生まれた直接的な経緯にふれます。

 

詩人・金子光晴を決定づけたと後に言われるようになる

二つの外遊の内の最初の経験の記述に入ります。

 

その記述のさわりの部分――。

 

 

西暦1919年2月、余の欧羅巴旅行は積歳の膿漿(アイテルング)を切解した。

それは、永年の「懈怠(おこたり)」を、いみじくも脱套した。

 

 余は「無目的」の爽快を呼吸した。

 

 生涯の楽しい蜜月、ブルッセル郊外、ショーセー、ダックトに沿える小村、デヒーガムに

居住せる6か月間、まことに、余は、一際の覊絆を忘れ、心ゆくばかり寛かな「煙草の時」

を享楽した。

 

静かな散策――心落着いた読書三昧。楽しい詩作、そうした毎日の、孤独な、然し、

真率な生活は、余が半生の静かな回顧への、貴い機縁を残してくれた。

 

 余は、再びあい難かった、幼時代の純真と、放胆と、虚栄(ヴァニティー)に依って、

此期間、専心自身の肖像(ポルトウレー)を画き続けた。

 

(以下略。)

 

 

金子光晴の数ある詩集の中でも

「こがね虫」の「自序」ほど

詩の背景についての力のこもった意志表明をしたものは他にないでしょう。

 

読む進めると、

 余が、余自身の詩作について解説することは、すべて控えねばなるまい。何故なら、

夫は、余の詩作が、直接に諸君に語るべきが順序である。

――とあり、

ここで「自序」は終わるのかと思いきや

言い足りなかったとばかり

詩への思いや詩人の来歴などについても

熱っぽく語り続けたのです。

 

「自序」は

以下のように結ばれます。

 

 

ただ、願わくば荒々しい「鞭」よ!

盲目の「鞭」よ!

此「夢」を苛酷く醒さざれ!

 




「自序」はまた一篇の詩のようであり

一つの詩で終わり

詩本文へと連なっていきます。



 

今回はここまで。

 

 

2015年3月13日 (金)

現代詩の証言・金子光晴の「こがね虫」その9「陶酔」

(前回からつづく)

 

「こがね虫」第2章にあたる「誘惑」には

「パラダイス」

「悪魔」

「春」

「誘惑」

「神話」

「幻術」

「陶酔」

――の7篇が収められていますが

「金亀子」以降の「東方趣味の、抒情詩」と詩人のいう夢幻世界に入る前の制作だからでしょうか

趣の異なる世界が歌われています。

 

「作品年表」には、

「悪魔」「パラダイス」等と、同時に、「章句」を書いた時期が可成長く、凡そ2、3か月にわたった。

そして、40許の章句が出来上ったが、帰郷後、散佚して、ここに載せた4、5の作を除いては特殊なものがない。

――とある1群の詩で、

フランドル滞在中の長い期間を

詩人はこれらの詩境に馴染んでいたことが明らかにされています。

 

同じ時期に作られたからといって

作品が同じ詩境のものであるとは限りませんが

「章句」の流れが「誘惑」の詩群にあると見ても

見当はずれではないでしょう。

 

 

詩集「こがね虫」を初めてめくってみた時に

「春が来た。春が来た。」ではじまるフレーズに親しみを覚え

この鑑賞記のスタートとした詩「春」は「誘惑」の章にあります。

 

「誘惑」の末尾に置かれているのが

「陶酔」です。

 

 

陶酔

 

 今日青空は焼爛(やきただ)れる恋の日のはげしさでうち続いている。

 

今日業炎の爐に見えざる千の恒星がとどろく。

 

今日陶棺(すえもののひつぎ)の山嶽は祈りの如く燃え、

長い長い砂浜は絹のいぶきを吐く。

 

今日森林の精霊界は海底よりもしずかに、

老杉の列は猩猩緋を掛けめぐらし、

 

鎧扉が金の塵を少しづつ運ぶ。

 

今日あらゆる、聖なる炎の息がこの世界を火爐で煉り、

今日あらゆる、時刻は我を深入する。

 

     二

 

 私はふじつぼあつまる岩蔭にしずかに眠る。

小さな金鎖の如く海はゆらぎ。

 

岩角に虹の扉がひらかれ、

捧呈物(ささげもの)の波は岩をのり越えてひろがる。

 

海の青が私の背を越え、

私の手足が長々とのびて、海盤車(ひとで)の如く海底を潜る。

 

岩礁の底の紅藻の森を私は巡歴し

青遍羅(あおべら)や河豚や石花菜(てんぐさ)や

魚貝の夢、竜人のくにをみてすぎる。

 

ああ、この世ならぬハルモニー

悲しく点るいのちの燈火よ。

 

     三

 

 私は青春の強酒をのんで自滅を願うもの。

金羊毛の争奪者。

 

忽ち、紅金襴の岩礁の間に、

猛獣の炎の口腔をひらく深渕。

美貌の外洋は、はるかに環り。

 

美麗きわまりない琺瑯の水蛇類がその水たまりに棲む。

紅糸青糸が私のからだに巻きつき、

生血は、なんの痛みもおぼえず他の命に逃れてゆく。

白蓮の花の燈明も、

恍惚となった意識に夢の如く遠ざかる。

 

ああ、紫金(しこん)の島影は渺か、大洋の彼方に没落し、

臨終は今、水平線に早鐘を打つ。

浮萍(うきぐさ)の波動は、

私の屍の上に勝鬨をあげる。

 

(昭森社「金子光晴全集1」より。新かなに変えたほか、適宜、ルビを削除し又は加えました。編者。)

 

 

花菖蒲の咲き乱れる夜の庭園の水辺(鴛鴦の巻)とは

遥かに隔たった別世界にやって来たのでしょうか。

 

別世界ではありながら

やがては東方の楽園へと繋がっていく兆しをも

ここに見た方がよいのでしょうか。

 

 

こちらは真昼の世界。

 

青空は焼き爛れ

焼き爛れる恋。

 

青空が恋です。

 

 

視界がグンと開けるのは

ここに現れる自然が

北欧フランドルのものだからでしょうか。

 

自然が

文字通りの自然ではなく

象徴としての自然であっても

そのように感じられる理由が

ここにあっておかしくありません。

 

 

千の恒星

陶棺の山

長い長い砂浜

 

森林の精霊界

海底

老杉の列

……

 

これら壮大な自然は

業炎の爐の内で燃えるものです。

 

私はその内部に深く深く入ります。

 

 

そこは海です。

岩陰からやがて海底へ。

 


藤壺

ヒトデ

紅藻

青べら

河豚(ふぐ)

天草

……と

次々に登場する海の生命は

魚貝の夢。

竜人のくに。

 

この世ならぬハーモニー。(二)

 

 

私がいまそのただ中にある青春は

強い酒を求めて自滅を願う。

 

さながら金羊毛を奪還しようとするイアソン。

 

 

最終節(三)は

イアソンの金羊毛奪還の冒険を歌うかのようです。

 

 

今回はここまで。

 

 

2015年3月11日 (水)

現代詩の証言・金子光晴の「こがね虫」その8「鴛鴦の巻」

(前回からつづく)

 

「金亀子」の章の次には

「風雅帖」という章があり

「五月雨の巻」

「鴛鴦の巻」

「紅葉の巻」という3連作詩が配置されています。

 

中の「鴛鴦の巻」を読みましょう。

 

 

「風雅帖」には序詞があり

この3作品のすべてにかかっていますから

まずそれを読みます。

 

「金亀子」末尾のコーラスと同じ位置で

詩本体を案内し進行役を果たす口ぶりのためにか( )でくくられたそれは

「お囃子(はやし)」のようでもありますが

詩人が案内するようでもあります。

 

(みめかたち麗かな者ばかり此世にあれ。

軽やかな管弦に、絲遊の一日を戯れてあれ。

悲も、痛も強からざれ。

例えば恋する身も、

花鳥絵草子の夢であれ。)

 

これらコーラスが

10字下げでパーレン( )にくくられ

章全体の序詞になっているのです。

 

 

鴛鴦の巻

 

おお、陰惨な夜の雨は、

くらやみの水辺の朱欄の廻廊をこめて降りつづく。

花菖蒲の蔭の木橋に、

悽艶な嬢子と少年は今めぐりあう。

 

悔恨、嘆き、歔欷(きょき)が暗夜をこめ、

雪洞(ぼんぼり)の顔はうっとり照らしあう。

 

忽ちゆれる簪、振袖はそのまま鴛鴦の姿となり、

二つの花燈籠のように静に水面を滑りでる。

明い粉黛の眩(まど)わしに、

こまやかな霧雨はふりしぶき、

杜若のしげり重なるあいだを潜ってゆく。

 

瑯玕洞(ろうかんどう)の扉は次々に開け、

暗い鏡の間は、

いろどる炎をうけて驚倒する。

 

(昭森社「金子光晴全集1」より。新かなに変えたほか、適宜、ルビを削除し又は加えました。編者。)

 

 

「鴛鴦(えんおう)」は「鴛鴦の契り」の故事で有名なオシドリ。

今では、仲のよい夫婦のシンボルになっています。

 

「歔欷(きょき)」はすすりなき。

すでに「三月」で使われているのを読みました。

 

「瑯玕洞」は、「瑯玕(ろうかん)」は「玉(ぎょく)に似た美しい石。また珠(たま)のような実の成る樹木の名、
また美しい緑色の竹の名」の意味を持ち、古代中国・山東省に地名が残る景勝地らしい。

 

出典・題材が何にあるのか

明らかでありませんが

夜の「朱欄の廻廊」に雨が降りこめているのですから

この詩の背景にある「都雅(みやび)」は

わび・さびの日本美ではなく

東方=中国のものであることのようです。

 

 

「悽艶な」嬢子と少年が

その場所で巡り合うのです。

 

男女が巡り合った初めから

悔恨、嘆き、歔欷(きょき)の中にあり

すでにいわくありげなのは

女性が「悽艶な」ところに由来するようですが

そのことは定かでありません。

 

男女はいつしか鴛鴦の姿と化し

花燈籠となって

杜若(かきつばた)の群生する水面を分け入って行くのです。

 

 

今回はここまで。

 

2015年3月 9日 (月)

現代詩の証言・金子光晴の「こがね虫」その7「金亀子」

(前回からつづく)

 

「翡翠の家」の夢幻郷のような世界に分け入った後ですから

今度は詩集全体を俯瞰(ふかん)してみましょう。

 

少し頭を冷やすという意味もあり

ここで「こがね虫」の目次を眺めておきましょう。

 

 

「こがね虫」

 

自序

 

<燈火の邦>

三月

時は嘆く

翡翠の家

章句

 

<誘惑>

パラダイス

悪魔

誘惑

神話

幻術

陶酔

 

<金亀子>

二十五歳

金亀子

 

<風雅帖>

五月雨の巻

鴛鴦の巻

紅葉の巻

 

<拾遺二篇>

熊笹

鐘は鳴る

 

<散文詩>

羅紗売

窓飾の妖精

墳墓

浴場

 

二十五歳の懶惰は金色に眠っている(吉田一穂)

詩集「黄金虫」の跋にかえて(佐藤惣之助)

 

<作品年表>

 

 

「春」

「二十五歳」

「雲」

「三月」

「翡翠の家」

 

……という具合に

詩集の配列とは関係なく

気の赴くままに5篇を読んできました。

 

 

これを詩集の配列順にざっと読み返してみるだけで、

 

白金の嶺(雲)

金襴てらし眩うわれらが意想(雲)

金晴の曙の空は(三月)

金色の若草に降りそそぐ(三月)

金紗の陽炎を投げあげる(三月)

黄金より浪費する刻々(三月)

美しい金鋲(三月)

金のこのみを採る日(翡翠の家)

金花虫(たまむし)の脣(翡翠の家)

金のかるたを弄んだ(翡翠の家)

咲乱れた金糸梅(翡翠の家)

黄金の空間を疾走してゆく(春)

金色に眠っている(二十五歳)

……などと、

「金」が万遍(まんべん)なく現れるのを

たやすく見つけることができます。

 

「金」は金という文字だけで表わされるものでないのですから

他にも「金」を見つけ出すことができるに違いありません。

 

 

詩集「こがね虫」において

「金」の充満は偶然のものではないでしょう。

 

 

そして「金」の権化(ごんげ)みたいな生き物が金亀子(こがね虫)です。

 

この生き物は章題にも取られて2篇の詩が収められ

詩集タイトルにもなるのですから

注目しないわけにいきません。

 

それを読みましょう。

 

 

金亀子(こがねむし)

 

柳蔭暗く、煙咽鳴する頃、

黄丁字の花、幽かにこぼれ敷く頃、

 

新月(にいづき)、繊(ほそ)くのぼる頃、

 

常夜燈を廻る金亀子の如く

少年は、恋慕し、嘆く。

 

     二

 

 其夜、少年は秘符の如く、美しい巴旦杏(はたんきょう)の少女を胸にいだく。

少年の焔の頬は桜桃(ゆすらうめ)の如くうららかであった。

少年のはじらいの息は紅貝の如くかがようた。

 

おずおずと寄り添うおそれに慄えつつ

少年の悲しいまごころは、

花鰧(はなおこぜ)の如く危惧を夢みていた。

 

煩悩焦思の梢、梢を、

鶏冠菜(とさかのり)の如くかき乱れた。

 

少年は身も魂も破船の如くうちくだけた。

 

ああ、盲目の蘆薈(ろわい)や梵香にむせびつつ、

少年は嗤うべき見せ物であった。

          (恋の風流こそ優しけれ

          恋の堕獄こそ愛(めで)たけれ)

 

(昭森社「金子光晴全集1」より。新かなに変えたほか、適宜、ルビを削除し又は加えました。編者。)

 

 

柳蔭暗く、煙咽鳴する頃、 

――は、

リュウイン・クラク、エン・オエツスルコロでしょうか。

ヤナギカゲ・クラク、ケムリ・エンメイスルコロでしょうか。

 

意味は漢字によってなんとか理解できますが

発音がスムーズに出てきません。

 

 

黄色の丁字(クローブ)の花が散り初めて

わずかに地面に落ちている頃。

 

新月が、か細い線を描いてのぼる頃。

 

これらの「時」が

時候(自然の時間)を指示するだけのものでないことには注意しなくてはなりません。

 

 

金亀子が常夜燈をめぐる虫として現れるところに

メタファーの個性(ユニーク)があります。

 

ここでは太陽光を燦々と浴びる真昼の黄金虫なのではありません。

 

それは「恋」のメタファーです。

 

 

そして、その恋の主人公である少年は

身も魂も

破船のごとくうちくだけるのです――。

 

 

そして、少年のこの恋は

合唱隊(コーラス)に歌われて

幕が下りるのです。


風流風雅は恋の道

落ちた道こそ楽しけれ――。

 

 

今回はここまで。

 

2015年3月 8日 (日)

現代詩の証言・金子光晴の「こがね虫」その6「翡翠の家」続

お(前回からつづく)

 

「こがね虫」の巻末に金子光晴自身が記した「作品年表」というものがあり

その中に、

「翡翠の家」は東方趣味で、

後に「金亀子」の諸作へ発展した抒情詩の最初の試作

――とあるのに惹かれて「金亀子」の章を追うと

そこには「二十五歳」「金亀子」の2作があるだけであり

肩すかしを食らった気分になります。

 

「金亀子」の諸作とは

この2作品のことだったのか

これでは発展といえないではないかと早合点しそうでしたが

じっくりと考え直せば

ここは「金亀子」以降の諸作と読むべきところで

「風雅帖」や「散文詩」などを含めているという推定にいたります。

 

「作品年表」をそのように読まないと

行き詰まってしまいます。

 

 

金子光晴は「こがね虫」の「作品年表」で

1919年(の制作)を振り返ったのです。

 

「翡翠の家」は

一に、東方趣味であり

二に、抒情詩の最初の試作である

三に、それが7月下旬に完成した

――ということを記録しておきたかったには

特別の思い入れがあったことがここに示されているのでしょう。

 

 

詩集「こがね虫」は

「翡翠の家」で頂点の輝きに達します。

 

そう断定できるのは

この詩の、特に第2節、第3節の「抒情」が

ひときわ絢爛華麗にして幻想的

ひときわ直情的で物語的でもあるからです。

 

象徴表現の極みにありながら「私」の感受性が吐露(とろ)され

二つの要素が渾然一体になっています。

 

 

詩人は詩集巻末の「作品年表」で

その達成の制作日を記録しておく必要(衝動)に駆られたともいえますが

そういえば「こがね虫」への自己評価は

すでに「自序」に縷々(るる)として宣言されていました。

 

曰く、

余の秘愛「こがね虫」一巻こそは、余が生命を賭(と)した贅沢な遊戯(あそび)である。

倡優の如く余は、「都雅(みやび)」を精神(こころ)とし、願わくば、艶(つや)白粉、臙脂の屍臘となろうものを……。

「こがね虫」は其綺羅な願である。

 

 

「倡優」は俳優のことですが、「詩経」「楚辞」に現れる原初の「道化」のイメージが込められているか。

「屍臘(しろう)」はミイラのこと。

 

「臙脂(えんじ)の屍臘(しろう)」を渇望するまでに

「みやび」を追求した詩群を

詩人は命がけの贅沢(ぜいたく)と自賛したのですから

只事ではありません。

 

 

この自賛(オマージュ)に

最も相応しいのが「翡翠の家」といえることでしょう。

 

「翡翠の家」に分け入って

第2節、第3節だけを読むことにします。

 

 

     二

 

 其頃、私は孤(ひと)り、友遊びを嫌い始めた。

其頃、私は鬱病の如くおもい憧れた。

 

緋桜の顔や、金花虫(たまむし)の脣や、

典麗優雅の処女(おとめ)らは、面映ゆる藤波や、絵日傘の下に、上気して。

或日は、五月雨降るつれづれに金のかるたを弄(もてあそ)んだ。

 

沈香(じんこう)や月檀香(げったんきょう)、素馨(そけい)はあたりに悩乱し漾(ただよ)うた。

 

珊瑚樹の如く明るく処女らはもえ、

指、指は青畳の上を惚々と零(こぼ)れた。

 

私は綾錦の振袖のかげに隠れ、

いつも、いつも虔(つつま)しく涙ぐんでいた。

 

一人の処女(おとめ)は私を庇(かば)い、弟のようにさし覗き、燃ゆる頬を推しあてて、宥(なだ)めなぐさめた。

緑藻の黒髪は私のうえに振りさがった。

息もつかれぬ窒息から、私は必死にのがれ出て、夢現の中をすりぬけた。

 

此身が赤裸の如くに恥かしく、

心は麻苧(あさお)の如くふり乱れた。

 

其頃、私は羞恥を罪業より恐れていた。

 

     三

 

私は竹縁を離れまっしぐらに奥庭の方へ走っていった。

咲乱れた金糸梅(びようやなぎ)、山吹のなかを

粉雨や、雫が手足を真紅に濡らした。

 

熱い涙が私の顔中に流れた。

 

私はただちに水辺の花菖蒲のなかに下りていった。

はや、こらえなく声立てて啜りあげた。

 

妖芬(ようふん)高い花菖蒲は、みどりの茎や葉や、臙脂(えんじ)の根から、

水々しい涙を無限に吸上げ、

巨大な花燈籠は狂気の如く、私の顔のまわりに回転し、燃え反映(うつ)った。

その葉脈は生々と私を取囲んだ。

 

精霊達は私を殉情に導いていった。

ああいつしか私は泣噦(じゃく)り泣噦(じゃく)りして、泣き止んだ。

 

(昭森社「金子光晴全集1」より。新かなに変えたほか、適宜、ルビを削除し又は加えました。編者。)

 

 

やたらな説明はナンセンスでしょう。

 

何度読んでも飽き足らない詩世界を

堪能(たんのう)されることだけが待たれています。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

2015年3月 7日 (土)

現代詩の証言・金子光晴の「こがね虫」その5「翡翠の家」

(前回からつづく)

 

「こがね虫」の第1章にあたる「燈火の邦」には

「雲」

「三月」

「時は嘆く」

「翡翠の家」

「章句」

――の5作が配置されていますが

「翡翠の家」については、

東方趣味で、後に「金亀子」の諸作へ発展した抒情詩の最初の試作

――と詩人自らが述べる(「作品年表」)ように

幾分か詩に変化が起こります。

 

 

翡翠の家

 

 林叢に、金のこのみを採る日、

燦(きらめ)きゆれる青葦の空に、蜻蛉(とんぼ)釣る日、

梢に盲目の兜虫を摘む日、

 

其頃、私は頬赤い少年であった。

私は熱病ほどに、空想し求める少年であった。

 

     二

 

 其頃、私は孤(ひと)り、友遊びを嫌い始めた。

其頃、私は鬱病の如くおもい憧れた。

 

緋桜の顔や、金花虫(たまむし)の脣や、

典麗優雅の処女(おとめ)らは、面映ゆる藤波や、絵日傘の下に、上気して。

或日は、五月雨降るつれづれに金のかるたを弄(もてあそ)んだ。

 

沈香(じんこう)や月檀香(げったんきょう)、素馨(そけい)はあたりに悩乱し漾(ただよ)うた。

 

珊瑚樹の如く明るく処女らはもえ、

指、指は青畳の上を惚々と零(こぼ)れた。

 

私は綾錦の振袖のかげに隠れ、

いつも、いつも虔(つつま)しく涙ぐんでいた。

 

一人の処女(おとめ)は私を庇(かば)い、弟のようにさし覗き、燃ゆる頬を推しあてて、宥(なだ)めなぐさめた。

緑藻の黒髪は私のうえに振りさがった。

息もつかれぬ窒息から、私は必死にのがれ出て、夢現の中をすりぬけた。

 

此身が赤裸の如くに恥かしく、

心は麻苧(あさお)の如くふり乱れた。

 

其頃、私は羞恥を罪業より恐れていた。

 

     三

 

私は竹縁を離れまっしぐらに奥庭の方へ走っていった。

咲乱れた金糸梅(びようやなぎ)、山吹のなかを

粉雨や、雫が手足を真紅に濡らした。

 

熱い涙が私の顔中に流れた。

 

私はただちに水辺の花菖蒲のなかに下りていった。

はや、こらえなく声立てて啜りあげた。

 

妖芬(ようふん)高い花菖蒲は、みどりの茎や葉や、臙脂(えんじ)の根から、

水々しい涙を無限に吸上げ、

巨大な花燈籠は狂気の如く、私の顔のまわりに回転し、燃え反映(うつ)った。

その葉脈は生々と私を取囲んだ。

 

精霊達は私を殉情に導いていった。

ああいつしか私は泣噦(じゃく)り泣噦(じゃく)りして、泣き止んだ。

 

     四


其頃、私は、情愛豊な少年であった。

其頃私の世界に総てのちかいは美しかった。


其頃の日々は、暗い、単調な私の生涯に、思出の細い燐寸を擦った。

其頃、私の涙は薄荷水であった。

其頃の懊悩は花綾(はなあや)であった。

其頃私の恋い心は茴香(ういきょう)であった。


其頃私は神々よりも幸であった。

其頃私は神々よりも幸であった。


(昭森社「金子光晴全集1」より。新かなに変えたほか、適宜、ルビを削除し又は加えました。編者。)

 

 

ここで抒情詩が初めて作られたと詩人は言うのですが

では「雲」「三月」「時は嘆く」は抒情詩ではないかというと

そうとはっきり言えるものでもなさそうなので

変化というよりも

連続している感じは残り続けます。

 

竹縁とか花菖蒲とか茴香(ういきょう)とか

……

歌われている風景が東方的であることや

季節がめぐったことほどの中にしか変化はなく

抒情がこの詩で初めて生まれたということでもなさそうです。

 

 

が、やがて「金亀子(こがねむし)」の諸作へ発展した、と記されるほどですから

そのような自作案内を無視するわけにもいきません。

 

 

詩人の案内するそのような眼差しに沿えば

其頃、私は頬赤い少年であった。

――と第1節に早くも現れる「私」には

抒情がよりストレートに歌われているものと読むことができるのかもしれません。

 

それまでにも「私」は登場しましたが

第1節にいきなり出てくることはありませんでした。

 

この詩には

「私」が包み隠さずといった感じで

第1節に登場し

最終節まで登場するのです。

 

そのことと抒情とに

大いなる関係があることは間違いないはずです。

 

 

私は熱病ほどに、空想し求める少年であった。

其頃、私は孤(ひと)り、友遊びを嫌い始めた。

其頃、私は鬱病の如くおもい憧れた。

 

私は綾錦の振袖のかげに隠れ、

いつも、いつも虔(つつま)しく涙ぐんでいた。

 

其頃、私は羞恥を罪業より恐れていた。

 

 

このように第2節にも「私」は露出しますし

第3節にも第4節にも

「私」は充満します。

 

 

そして、この「私」はどうやら

「恋い心」を経験するのですが

それが単に「心」の経験なのか

何らか実態のある「恋」だったのか

詩の全行にわたって「翡翠の家」の出来事として歌われた内実は

幻のようでありリアルなようであり

いずれであってもほかの言葉には言い換えられない

この詩の極度に鮮やかな世界が実現しています。

 

それは、

熱病ほどに空想され

鬱病のように思い憧れられた出来事であったようですが

そのような出来事が実際に体験されたものかどうか

そんなことは定かではありません。

 

それは、

其頃私は神々より幸であった。

――と断言されるほどのことですから

その幸は想像するしか近づく方法はありません。

 

 

今回はここまで。

 

 

2015年3月 6日 (金)

現代詩の証言・金子光晴の「こがね虫」その4「三月」

(前回からつづく)

 

1919年4月頃に着想し7月中頃に「時は嘆く」とともに完成したと

金子光晴自ら「作品年表」に記した「三月」は

「雲」につづいて

「こがね虫」第1章「燈火の邦」の2番目にあります。

 

 

三月

 

ああ、三月が近づいた。

 

金晴(きんばれ)の曙の空は、

紅色の樹林は夢見つつ唄う。

緑樹の季節が近づいた。

 

草叢に鈴蘭の揺れる日は近づいた。

空気が花々の膩紛(にふん)と没薬(もつやく)に咽(むせ)び、

五感を持つ者の歌い、且つ嘆く時は近づいた。

少年の物思いの日は近づいた。

 

ああ此身の記念の三月、美しい三月。

 

     二

 

 今日、紫の山々はうらうら霞み、

銀の雨は四阿(あずまや)のほとりの、金色の若草に降りそそぐ。

それは、はじめての恋のめざめの歔欷(すすりなき)か。

嬉しさに、悶えに惚々(こつこつ)と聴入り、

黒髪熱く少女らは悩乱する。

 

庭園はひそめきや狂おしい接吻の音にみちみちて、

青篠竹や山櫨(さんざし)の結い垣の間を、

春の雨は、六弦琴の如く歌い連れる。

 

遂にはそれも悔(くい)の、嗚咽(おえつ)の単律と変る。

 

     三

 

 ああ、三月が近づいた。

小川は萌黄(もえぎ)の初草に、金紗の陽炎を投げあげる。

野山はあてやかな衣装に引映え、

小村は檉柳(かわやなぎ)、小米桜に朧(おぼろ)めく。

 

海岸に沿う波浪は狂噪に労れ、薔薇色に眠り、

若者らが、渚に瞳を落し、

渺かに、散策し彷徨う頃は近づいた。

 

黄金より浪費する刻々は近づいた。

悲哀が、生涯の扉に、

美しい金鋲を打つ日は近づいた。

夜々の寝苦しい頃は近づいた。

 

摘草に、絵燈籠、花祭に、

一生只一度の、

奇しき馴染の日は近づいた。

 

此世の蠱惑(こわく)も、悲しみも、欣求(ごんぐ)も

なべてよきリトムの頃は近づいた、

 

ああ、恋の三月、偽謾(いつわり)の三月。

 

私らが書籍を机に伏せ、

何もかも忘れて酔う時は近づいた。

 

(昭森社「金子光晴全集1」より。新かなに変えたほか、適宜、ルビを削除し又は加えました。編者。)

 

 

すこし馴染んできたせいか

喉(のど)につかえるような二字熟語の類(たぐい)も

さして気にならなくなり

読み進めることができるようになってきます。

 

膩紛(にふん)と没薬(もつやく)は、植物の息吹きを表わす比喩でしょう。

「労れ」は「まぎれ」でしょうか。

「渺かに」は「はるかに」で、「雲」にも現れました。

「リトム」はリズムの意味のフランス語。

 

読み通してしまえば

さらりと詩の大意も自ずとつかめるようになります

 

 

そういえば

「雲」も「三月」も3節構成ということに気づきますし

次の「時は嘆く」も3節の詩ですから

同じころに作られて

同じようなモチーフの詩であることもわかってきて

さらに詩集に馴染んでくるのです。

 

 

近づいた――というルフランを追い

それらの主語を追えば

この詩の流れに乗ったようなもので

この詩の中に入り込み

この詩の世界の呼吸とシンクロすることができるでしょう。

 

近づいたのは

何だったのでしょうか。

 

 

第1節で近づいたのは、

 

三月

緑樹の季節

草叢に鈴蘭の揺れる日

五感を持つ者の歌い、且つ嘆く時

少年の物思いの日

 

第3節で近づいたのは、

 

三月

散策し彷徨う頃

浪費する刻々

悲哀

寝苦しい頃

奇しき馴染の日

なべてよきリトムの頃

何もかも忘れて酔う時

 

――と解体してしまえば味気ないものになりますが

最終行の「何もかも忘れて酔う時」には

ほかの何物にも負けない強い響きが漂(ただよ)います。

 

 

第2節は

第1節を受けると同時に弾(はじ)け

序破急の「破」を作り

第3節の「急」へなだれ込むようです。

 

 

今回はここまで。

 

 

2015年3月 5日 (木)

現代詩の証言・金子光晴の「こがね虫」その3「雲」

(前回からつづく)

 

「こがね虫」には

冒頭に長めのまえがき(「自序」)があり

巻末には詩人・吉田一穂(いっすい)と作詞家・佐藤惣之助(そうのすけ)の跋(ばつ)があるほかに

ふたたび光晴の「作品年表」というあとがきがあります。

 

その「作品年表」には

「こがね虫」所収作品の制作年のあらましが

次のように述べられています。

 

 

余の製作月日の順序として「雲」は、1919年、5月、余がフランドル訪問の2ヶ月後位の製作である。「三月」は4月頃からの着想で、7月中頃に「時は嘆く」と同時に完成した。「翡翠の家」は、東方趣味で、後に「金亀子」の諸作へ発展した抒情詩の最初の試作である。夫は、7月下旬に完成した。

 

「悪魔」「パラダイス」等と、同時に、「章句」を書いた時期が可也長く、凡そ2、3ヶ月にわたった。そして、40許の章句が出来上ったが、帰郷後、散佚して、ここに載せた4、5の作を除いては特殊なものがない。

 

(※洋数字に変え、改行を加えてあります。編者。)

 

 

「こがね虫」が

金子光晴最初の外遊の所産であることはよく知られたことですが

その冒頭章「燈火の邦」の冒頭詩が「雲」です。

 

つまり、最初の外遊を歌った詩集の最初に置かれた詩です。

 

この冒頭に戻って

「雲」を読みましょう。

 

 

 

雲よ。

栄光ある蒼空の騎乗よ。

 

渺(はる)か、青銅の森の彼方を憾動し、

こころ、王侯の如く傲(おご)り、

国境と、白金(プラチナ)の嶺をわたる者よ。

 

お前の心情に栄えている閲歴を語れ。

放縦な胸の憂苦を語れ。

 

 

憂欝児よ、聞け。

 

それは、地上に春が紫の息をこめ、

微風が涼しい樹皮を車乗する頃

ああ、ようやく、思慕する魂が、寂寞の径(こみち)を散策し、嘆く頃、

 

萌芽がいろいろな笛を吹き鳴らす頃、

蕨(わらび)の白い路を、野兎らのおどる頃、

 

山峡を繞(めぐ)る鳶色の喬木林は燃え、

金襴(きんらん)てらし眩(まど)うわれらが意想と、精根は

乱れ燥(さわ)がない私自らをどんなに裕々とうつしつつ

無辺の山上湖をわたったか。

 

どんなに私らは賞揚し

どんなに私らは自負したか。

 

夕暮、

大火が紅焔(プロミネンス)のごとく、黒い寥林(りょうりん)のうしろを走る頃まで

私らの無言の爆発は、朱色のしずかな天空をどんなにかぎりもなく擾(さわ)がしたか。

 

どんなに選ばれた者だけが続いたろうか。

 

どんなに数多い哀楽を、夢を追ったことか。

 

 

しかし、

この世の薫匂(にお)やかなすべての約束は忘られ、

茅簷(ぼうえん)の花は、冷たい土にまろび落ちる。

 

森の部屋は燥がしくからっぽになった。

穂草は悲しみにまで届いてしまった。

 

いつしか、私らは疾走する風の手にとらわれ

紅雀は発狂し

荊棘(いばら)の、青空を翔(と)ぶ。

荒寂(あれさび)れた田野は

悲しい柩(ひつぎ)の列をならべる。

 

憂欝児よ。

その時私らは運命を知りつくした者のごとく失神する。

季節は只

悦楽のさだめに私を見送る。

 

(昭森社「金子光晴全集1」より。新かなに変えたほか、適宜、ルビを振りました。編者。)

 

 

耳慣れない難語、熟語がありますが

こだわらずに読み進みます。

雲は、栄光ある蒼空の騎乗、と呼びかけられるのです。

馬に見立てたのです。

そして、過去の輝かしい歴史と

胸に残る憂苦とを語るようにうながすのです。

 

 

ここに現れる自然が

フランドルのものであることを

知っていた方が知らない方よりよいと言えるでしょうか。

 

必ずしもそうではないにしても

やはりこの場合は

フランドルの森の反映を読むのが自然ということになりましょう。

 

 

中に出てくる「憂鬱児」は

詩人自身のことでしょう。

 

異邦にあって

詩人は物思う少年でした。

 

 

2は、栄光の閲歴を

3は、一転し、なにかただならぬ事態が起こったことを歌いますが

それは、

冷たい土にまろび落ち

さわがしくからっぽになり

悲しみにまで届き

……

悲しい柩の列

失神

……などと喩(ゆ)で示され

具体的には何が起きたのかが明かされませんが

何かが起きたことが歌われるのです。

 

 

季節が変わり

  「悦楽のさだめ」へと「私」を見送ったと

ここで

詩人が現われて

 閲歴(旅)のはじまりが告げられます。

 

 

今回はここまで。

 

2015年3月 4日 (水)

現代詩の証言・金子光晴の「こがね虫」その2「二十五歳」

(前回からつづく)

 

詩集というのは魔物が潜んでいる森とでもいうのでしょうか

宝が隠されているという島=宝島なのでしょうか

なんともなしに読みはじめたものが

2、3も読むとかすかな手ごたえを感じるようになり

やがて一つ二つと気に入る詩に出会うことになり

ついには身も心も奪われる共感を味わうようなことがしばしば起こります。

 

初期段階のほのかな共鳴は

皮膚感覚とか触覚とかへの刺激にすぎないものかもしれませんが

この刺激を感じられれば

次第に詩世界への没入の道筋に乗っているはずのものですから

この時にぼんやりしているものではいけません。

 

肌の感覚を

さやかに研ぎ澄ます時です。

 

 

「春」は「こがね虫」の2番目の章「誘惑」にあり

「誘惑」の章の次には「金亀子」という章があり

これは「こがねむし」と読むのですから

どうやら詩集題はここらあたりから取られたものと想像できますが

この章の初めにあるのが「二十五歳」です。

 

「二十五歳」にも

こがね虫のイメージは現れるというわけです。

 

それを読んでみましょう。

 

 

二十五歳

 

振子は二十五歳の時刻を刻む。

 

それは若さと熱祷(いのり)の狂乱(ものぐるひ)の時刻をきざむ。

それは碧天のエーテルの波動を乱打する。

 

それは池水や青葦の間を輝き移動してゆく。

虹彩や夢の甘い擾乱が渉り。

 

鐘楼や森が、時計台が、油画のごとく現れてくる。

 

それは二十五歳の万象風景の凱歌である。

 

     二

 

私の鏡には二十五歳の顔容がおちこんでいる。

二十五歳の哄笑や、歓喜や、情熱が映っている。

 

二十五歳の双頬は朱粉に熾えている。

二十五歳の眸子は月石の如く潤み、

 

ああ、二十五歳の椚林(くぬぎばやし)や、荊棘墻(いばらがき)や、円屋根(ドーム)や、電柱がそのうしろに移ってゆく。

二十五歳の微風や十姉妹の管弦楽が私をめぐる。

 

空気も、薔薇色の雲も、

あの深邃(しんすい)なところにあるみえざる天界も二十五歳である。

 

山巓(さんてん)は二十五歳の影をそんなに希望多く囲み、

海は、私の前で新鮮な霧を引裂く。

 

二十五歳の糸雨はものうく匂やかである。

二十五歳の色色の小鳥は煙っている。

 

二十五歳の行楽はゆるやかな紫煙草の輪に環かれ

二十五歳の懶惰は金色に眠っている。

 

     三

 

二十五歳の夢よ。二十五歳の夢よ。

どんなに高いだろう。

二十五歳の愛欲はどんなに求めるだろう。

二十五歳の皮膚はどんなに多く

罪の軟膏をぬるであろう。 

 

二十五歳の綺羅はどんなにはでやかであろう。

 

二十五歳の好尚はどんなにみやびであろう。

 

(昭森社「金子光晴全集1」「こがね虫」より。新かなに変えました。編者。)

 

 

「こがね虫」の「こがね」は

ここでは「金色」です。

 

「こがね虫」は青春のシンボルであり

詩集題もそのシンボルであることが

だんだんわかってきました。

 

 

二十五歳の双頬は朱粉に熾えている。

二十五歳の眸子は月石の如く潤み、

 

――とは、

25歳の二つの頬は赤く燃え

25歳の眼(まなこ)は月の石のように潤(うるお)っている、ということで

なんと「硬い」言葉使いだろうなどと感じますが

そのように歌わなければならなかった理由そのものこそ

続いて歌われる内容なのでしょう。

 

 

「頬ほお」は音読みで「キョウ」ですから「ソウキョウ」

朱紛は「シュフン」と音読みし「赤い粉」ですが

男子にも白粉(おしろい)のようなものがあったのでしょうか。

 

あったとすれば

それは中国での風習でしょうか。

日本にもあったのでしょうか。

 

そういう文化について

金子光晴は人並み以上の造詣(ぞうけい)がある詩人です。

 

そのことを

硬いといえば硬いといえるのはやむを得ないことですし

眼を眸子(ぼうし)としたなども

この時期の詩風の要請からきたものなのですから

硬くてもよかったのです。

 

 

ああ、

二十五歳の椚林(くぬぎばやし)や、

荊棘墻(いばらがき)や、

円屋根(ドーム)や、

電柱がそのうしろに移ってゆく。

 

二十五歳の微風や

十姉妹の管弦楽が私をめぐる。

 

――というように25歳の「私」は歌われる理由があったということです。

 

 

空気も

薔薇色の雲も

天界も

山巓(さんてん)も

海も

霧も

糸雨も

小鳥も

行楽も

……

 

二十五歳の懶惰は金色に眠っている。

――とこの詩の第2連は結ばれるのです。

 

 

結ばれるのですが

そのことに絞り込んであたかも結論のように

金色の懶惰(きんいろのらんだ)を歌っているのではなく

それは宇宙の中にある現象の一つであるかのように歌われているのです。

 

 

夢よ、(お前は)どんなに高いだろう。

愛欲は、どんなに求めるだろう。

皮膚は、どんなに多く罪の軟膏をぬるであろう。 

綺羅は、どんなにはでやかであろう。

好尚は、どんなにみやびであろう。

――は、これから刻まれる25歳という時刻への

出発を告げるもののようです。

 

この詩は

すでに出発されたその25歳という時刻を

捕まえておくための歌であろうとして書かれたものでしょう。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年3月 3日 (火)

現代詩の証言・金子光晴の「こがね虫」その1「春」

(前回からつづく)

 

茨木のり子の詩集を一通りそろえて

彼女の詩を読みながら

散文著作「うたの心に生きた人々」(ちくま文庫)に沿って

明治以降の詩人4人の足跡を辿ることになり

与謝野晶子

高村光太郎

山之口貘

金子光晴と順を追って

時にはいつもながらの寄り道をして

これら現代詩の巨人たちのアウトラインほどはつかめたようなところに来ました。

 

詩人の足跡の背後には

滔々と流れる現代詩の

もはや歴史となった詩(人)の

さまざまな息づかいにも少し触れることになりました。

 

 

茨木のり子自身が残した詩の業績の一端にも触れ

そのことによって

日本の現代詩、ことさら戦後詩への糸口をつかむことができました。

 

戦後に出発した茨木のり子の足跡を辿ることで

今度は戦後詩史を辿る足がかりをつかんだことにもなりました。

 

 

茨木のり子が取りあげた4人の詩人のうち

金子光晴は戦前(それも大正デモクラシーの時代)から

戦争を経て戦後を生き抜いた現代詩の証言者のような存在ですから

もう少し詩を突っ込んで読んでおきましょう。

 

 

「こがね虫」は

1923年(大正12年)7月に出された金子光晴の第2詩集です。

 

直後に関東大震災がありました。

 

 

燈火の邦

誘惑

金亀子

風雅帖

拾遺二篇

散文詩

――と6章に分けられた2番目の章「誘惑」に「春」があります。

 

 

 

 春が来た。春が来た。

 

郊外の森や、枳殻(からたち)の、紅紗の垣根に春が来た。

下萌の悩ましい春が来た。

 

温泉の如く朦朧と、地界を立騰る春が来た。

駒鳥や、鶫(つぐみ)や、草雲雀の春が来た。

 

春が来た。春が来た。

 

   二

 

 地球は、霧の帯と五色の投糸の中にある。

 

地球は、傲れる業火の巨塊となり、黄金の空間を疾走してゆく。

地球は、昏倒する強酒の海を抱く。太陽は、真赤な手鼓(タンブール)を、

森や、林に擾がしく叩く。

 

   三

 

 春が来た。春が来た。

 

氷窟、氷窟は、水晶殿の如く鳴りさわぎ、

雪解(ゆきげ)が、山谷に歓呼して来た。

 

世界中の陽炎が小溝に踊ってきた。

 

私のしていることは悉く、幻術なのだ。

 

私の血液は、量を越えてあふれ。

私の涙腺はきらきらと顫えて来た。

 

耕地や果樹園が更紗衣につつまれた。

 

美女桜や柳が薫り、煙って来た。

 

世界が火の傘(からかさ)の如く旋回して来た。

       (此物狂わしい進行曲が

       私の心に悪業の蠱惑を種殖く。)

 

(昭森社「金子光晴全集1」「こがね虫」より。新かなに変えました。編者。)

 

 

茨木のり子の案内にある詩ではなく

全集をパラパラめくりはじめて

「やさしそうな」感じがしたので

引いてみました。

 

立騰る=たちあがる

傲れる業火=おごれるごうか

擾がしく=さわがしく

顫えて=ふるえて

……

 

やや難しい言葉使いですが

漢字は表意文字ですから

「表音」にとらわれることなく

その漢字の意味を取れば自ずと意味は通じるはずです。

 


 

枳殻(からたち)

紅紗の垣根

駒鳥

鶫(つぐみ)

草雲雀

美女桜や柳

……といった草木、花鳥

 

地球

太陽

氷窟

山谷

……といった大自然

 

それらが、

私の血液、

私の涙腺を解き放つ。

 

 

火の傘(からかさ)のように

――という象徴表現に結ばれていく詩の終わり。

 

 

末尾の

悪業の蠱惑を種殖く(あくごうのこわくをたねまく)

――とある「悪業」を誤解しなければ

「春」が私=詩人にもたらす解放への疼(うず)きを読むことができることでしょう。

 

 

金子光晴は

詩人としての初期に

このような「夢」のある詩を書いていたのです。

 

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年3月 2日 (月)

茨木のり子の「ですます調」その17・山之口貘が読んだ中也の詩「夏」

(前回からつづく)

 

僕は先日、次のような言葉のある中原の詩を読んだ。

或る日僕は死んだ。とあった。そうして女中が机の上のものを片づけたという風なことがあって、最後には、さっぱりした さっぱりした。とあった。

――と山之口貘が中也追悼文の終わりに記した詩は
「夏」と題した生前発表詩です。

 

 

 

僕は卓子(テーブル)の上に、
ペンとインキと原稿紙のほかなんにも載(の)せないで、
毎日々々、いつまでもジッとしていた。

 

いや、そのほかにマッチと煙草(たばこ)と、
吸取紙(すいとりがみ)くらいは載っかっていた。
いや、時とするとビールを持って来て、
飲んでいることもあった。

 

戸外(そと)では蝉がミンミン鳴いた。
風は岩にあたって、ひんやりしたのがよく吹込(ふきこ)んだ。
思いなく、日なく月なく時は過ぎ、

 

とある朝、僕は死んでいた。
卓子(テーブル)に載っかっていたわずかの品は、
やがて女中によって瞬(またた)く間(ま)に片附(かだづ)けられた。
――さっぱりとした。さっぱりとした。

(「新編中原中也全集」第1巻 詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

「夏」は

昭和12年(1937年)8月に創刊された

タブロイド判の月刊新聞「詩報」の第2号に初出し

「文学界」の昭和12年12月号(同年12月1日付け発行)に発表されました。

 

原稿を託された小林秀雄が

生前の「詩報」への発表を知らずに

「文学界」の「中原中也追悼号」に

「遺作集四篇」として掲載した作品の一つでしたから

こちらは没後発表ということです。

 

 

山之口貘は

このどちらかを読んだものでしょうか。

 

生原稿を読む機会があったと考えられなくもありませんが

発表詩を読んだ可能性が高いでしょう。

 

 

前にこの詩を読んだ時の感想は

今でも筆者(合地)の中で変わりません。

 

その一部を引いておきましょう。

 

 

「夏」の制作は

昭和12年8月下旬~9月4日と推定されていますから

10月22日の死亡日の

およそ2か月前に

歌われた詩ということになります。

 

詩人が

自分の死を

 

思いなく、日なく月なく時は過ぎ、

 

とある朝、僕は死んでいた。

 

――と歌うのをなぞっていると