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2015年3月31日 (火)

茨木のり子「詩のこころを読む」を読む・谷川俊太郎の「芝生」

(前回からつづく)

 

この「忘れものの感覚」は、詩の大きなテーマの一つですが、

日本語でこれほど澄みきったものとして提出された例は、

今までになかったようば気がします。

――と記して「かなしみ」へのありったけのオマージュを述べた後

次に茨木のり子が挙げるのは

「芝生」という短詩です。 

 

こちらもまたわずか7行の詩で

「かなしみ」から20年余を経て作られました。

 

 

芝生

 

そして私はいつか

どこかから来て

不意にこの芝生の上に立っていた

なすべきことはすべて

私の細胞が記憶していた

だから私は人間の形をし

幸せについて語りさえしたのだ

 

       ――詩集「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」

 

 

とてもスケールの大きな時間が流れている感じがするのは

「二十億光年の孤独」の印象が続いているからでしょうか――。

 

「どこかから来て」の詩行に

宇宙的な時間や空間を感じてしまうからでしょうか。

 

 

茨木のり子はそこのところを

「なんだか宇宙人が書いたような詩だ」という批評があることを紹介し

それならば「かぐや姫」の話に通じるものではないか

――と想像の翅(はね)をひろげ

ああだこうだと繰り返し繰り返し考えたり思ったりして

面白がっています。

 

面白がっていること自体が詩を読むことであるような

詩の楽しみを案内しているかのように。

 

詩が好きで好きでたまらないといった口ぶりが

このあたりに滲(にじ)みます。

 

 

茨木のり子は面白がって詩を読むことを隠そうともせず

新しい発見でもあるかのように

自慢げに披瀝するといってもよいほどですが

20年以上も隔てて作られた二つの詩がつながっている感じがするというのも

その発見の一つのようです。

 

この発見がまた見事に決まっていて

あっと声を出しそうになります!

 

 

「かなしみ」で記憶喪失になったような「僕」が

「芝生」では「細胞が記憶していた」ために

人間のすることを遂行することが出来て

その人間=私が「幸せ」について語ることさえ出来た。

 

このように読めることを

提案するかのようです。

 

 

復活とか再生とか蘇(よみがえ)りとか

光とか希望とか愛とか

……に通じる世界が歌われているのが

「芝生」なのですが

そんな風に詩人は書きません。

 

「かなしみ」は今、「芝生」の上の幸福をつかんでいるのですが

そんな風にも詩人は書きません。

 

 

「あなたの細胞が記憶していたのは何だったのですか?」とたずねても、

作者にもうまく答えられないでしょう。

でも、谷川俊太郎が書いたたくさんの詩のなかに、その答はちゃんと潜んでいますから、

後でふれたいと思います。

――と答えを後述に預けます。

 

 

今回はここまで。

 

 

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