茨木のり子「詩のこころを読む」を読む・谷川俊太郎の「かなしみ」その3
(前回からつづく)
茨木のり子が谷川俊太郎の「かなしみ」を読みながら援用するのが
同じ作者の第2詩集「六十二のソネット」中の「41」という作品。
茨木のり子が引用するのは
冒頭の2行ですが
ここでは「41」全行に目を通しましょう。
◇
41
空の青さをみつめていると
私に帰るところがあるような気がする
だが雲を通ってきた明るさは
もはや空へは帰ってゆかない
陽は絶えず豪華に捨てている
夜になっても私達は拾うのに忙しい
人はすべていやしい生まれなので
樹のように豊かに休むことがない
窓があふれたものを切りとっている
私は宇宙以外の部屋を欲しない
そのため私は人と不和になる
去ることは空間や時間を傷つけることだ
そして痛みがむしろ私を責める
私が去ると私の健康が戻ってくるだろう
(角川文庫「現代詩人全集 第10巻 戦後Ⅱ」より。)
◇
多くの詩人が
「空」へ特別な関心を寄せることに触れて
茨木のり子は谷川俊太郎もその例にもれず
自らの出生(生存)の探求へと向かい
「青い空」を幾つか歌っていることに注目しました。
その一つがこの詩。
冒頭の
空の青さを見つめていると
私に帰るところがあるような気がする
――がここに呼び出されます。
◇
この2行が呼び出されのは
「かなしみ」の青い空との類縁を指摘するためにですが
「帰るところ」としての空というテーマともクロスして
「かなしみ」という詩が扱う生存(または死)は
「帰るところ」との類縁に気づくことを促しているようです。
◇
生まれいずるところは
死して帰るところとおなじところなのである
――などと、身も蓋(ふた)もないようなことを
詩(谷川俊太郎)や茨木のり子が言っているものではありません。
◇
茨木のり子が持ち出す
小さな子の引例は
ここでもあざやかです。
◇
小さな子供が自分の家にいるのに「お家へ帰ろう、お家へ帰ろう」と、
じだんだふんで泣いたりすることがあって、おとなは笑いますが、
幼ければ幼いだけ、郷愁(ノスタルジー)と名づけられるこの思いは鮮烈なのかもしれません。
◇
谷川俊太郎初期の詩の要素の一つに
「郷愁=ノスタルジー」を見い出し
そのことをさりげなく
幼い子供がわけもなく「帰ろう帰ろう」と泣いて聞き分けのないひとときの例を重ねます。
◇
幼ければ幼いだけ、郷愁(ノスタルジー)と名づけられるこの思いは鮮烈――。
少年(青年)が見詰めている青空は
郷愁=ノスタルジーの鮮烈さで
激しく少年(青年)を突き動かしているようです。
◇
「かなしみ」は谷川俊太郎10代の作品。
若い時でなければ書けないまじりっけなしの純粋さを湛(たた)えている
――と茨木は評しますが
この純粋さの由来が
あたかも「お家に帰ろう」と駄々をこねて泣く子供の
「存在の不安」と同質のものであるとでも言いたげで
そうは断言しないところがほがらかです。
◇
「かなしみ」も「六十二のソネット」の「41」も
傾向として同じ流れの中の詩であり
すべてではないのはもちろんですが
第1詩集「二十億光年の孤独」も
第2詩集「六十二のソネット」も
重なったテーマを歌っている部分があることを
こうして知ることができます。
◇
今回はここまで。
◇
かなしみ
あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい
透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった
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