茨木のり子「詩のこころを読む」を読む・石垣りん「幻の花」
(前回からつづく)
「詩のこころを読む」で
茨木のり子は石垣りん(1920年~2004年)の詩3作を紹介しています。
「峠」の章では「その夜」につづいて「くらし」を
最終章「別れ」で「幻の花」を読むのですが
「くらし」と「幻の花」は「表札など」という詩集に収められているもので
「その夜」より後の作品になります。
「その夜」が収められている「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」は
1959年発行の第1詩集で
「表札など」は1968年発行の第2詩集です。
◇
茨木のり子の「その夜」の読みに
読者を心服(しんぷく)させるものがあるのは
ああ疲れた
ほんとうに疲れた
――などというつぶやきのような言葉が
どうして詩語になるのだろうか、と
おそらくプロの詩人として
真剣にその答えを見つけようとしてきた長い時間を経たからでしょう。
実作者ならではの眼差しが
「その夜」を案内する記述の中に
滲(にじ)んでいます。
そのうえ、
「ああ疲れた」などという言葉がめったに使われることがないのは
一種の見栄(みえ)のせいでしょうか
――とコメントを漏らすところに
独特の突っ張りみたいなものがあり
それは勇ましさと言ってもよい詩人の稟質(ひんしつ)なのでしょう。
◇
「その夜」という詩が放つ輝きと
それを読むもう一人の詩人の感受性が
火花を散らしているような衝撃。
石垣りんという詩人が
名残り惜しくなってきて
もっともっと読んでおきたいという気持ちを抑えられません。
◇
幻の花
庭に
今年の菊が咲いた。
子供のとき、
季節は目の前に、
ひとつしか展開しなかった。
今は見える
去年の菊。
おととしの菊。
十年前の菊。
遠くから
まぼろしの花たちがあらわれ
今年の花を
連れ去ろうとしているのが見える。
ああこの菊も!
そうして別れる
私もまた何かの手にひかれて。
◇
この詩も
庭に咲いた菊の花を見るだけのことを歌ったものです。
なぜそれが詩になるのでしょうか?
――という眼差しでいつしか詩に向かうことになります。
そこのところを茨木のり子は
どのように読んでいるでしょうか。
◇
最終連2行へ。
この詩が流れていく「飛躍」に
その秘密はあるようです。
飛躍でありながら
ちっとも飛躍と感じさせない言葉の流れについて
縷々(るる)、詩人の言葉が述べられています。
◇
今回はここまで。
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