現代詩の証言・金子光晴の「こがね虫」その5「翡翠の家」
(前回からつづく)
「こがね虫」の第1章にあたる「燈火の邦」には
「雲」
「三月」
「時は嘆く」
「翡翠の家」
「章句」
――の5作が配置されていますが
「翡翠の家」については、
東方趣味で、後に「金亀子」の諸作へ発展した抒情詩の最初の試作
――と詩人自らが述べる(「作品年表」)ように
幾分か詩に変化が起こります。
◇
翡翠の家
林叢に、金のこのみを採る日、
燦(きらめ)きゆれる青葦の空に、蜻蛉(とんぼ)釣る日、
梢に盲目の兜虫を摘む日、
其頃、私は頬赤い少年であった。
私は熱病ほどに、空想し求める少年であった。
二
其頃、私は孤(ひと)り、友遊びを嫌い始めた。
其頃、私は鬱病の如くおもい憧れた。
緋桜の顔や、金花虫(たまむし)の脣や、
典麗優雅の処女(おとめ)らは、面映ゆる藤波や、絵日傘の下に、上気して。
或日は、五月雨降るつれづれに金のかるたを弄(もてあそ)んだ。
沈香(じんこう)や月檀香(げったんきょう)、素馨(そけい)はあたりに悩乱し漾(ただよ)うた。
珊瑚樹の如く明るく処女らはもえ、
指、指は青畳の上を惚々と零(こぼ)れた。
私は綾錦の振袖のかげに隠れ、
いつも、いつも虔(つつま)しく涙ぐんでいた。
一人の処女(おとめ)は私を庇(かば)い、弟のようにさし覗き、燃ゆる頬を推しあてて、宥(なだ)めなぐさめた。
緑藻の黒髪は私のうえに振りさがった。
息もつかれぬ窒息から、私は必死にのがれ出て、夢現の中をすりぬけた。
此身が赤裸の如くに恥かしく、
心は麻苧(あさお)の如くふり乱れた。
其頃、私は羞恥を罪業より恐れていた。
三
私は竹縁を離れまっしぐらに奥庭の方へ走っていった。
咲乱れた金糸梅(びようやなぎ)、山吹のなかを
粉雨や、雫が手足を真紅に濡らした。
熱い涙が私の顔中に流れた。
私はただちに水辺の花菖蒲のなかに下りていった。
はや、こらえなく声立てて啜りあげた。
妖芬(ようふん)高い花菖蒲は、みどりの茎や葉や、臙脂(えんじ)の根から、
水々しい涙を無限に吸上げ、
巨大な花燈籠は狂気の如く、私の顔のまわりに回転し、燃え反映(うつ)った。
その葉脈は生々と私を取囲んだ。
精霊達は私を殉情に導いていった。
ああいつしか私は泣噦(じゃく)り泣噦(じゃく)りして、泣き止んだ。
四
其頃、私は、情愛豊な少年であった。
其頃私の世界に総てのちかいは美しかった。
其頃の日々は、暗い、単調な私の生涯に、思出の細い燐寸を擦った。
其頃、私の涙は薄荷水であった。
其頃の懊悩は花綾(はなあや)であった。
其頃私の恋い心は茴香(ういきょう)であった。
其頃私は神々よりも幸であった。
其頃私は神々よりも幸であった。
(昭森社「金子光晴全集1」より。新かなに変えたほか、適宜、ルビを削除し又は加えました。編者。)
◇
ここで抒情詩が初めて作られたと詩人は言うのですが
では「雲」「三月」「時は嘆く」は抒情詩ではないかというと
そうとはっきり言えるものでもなさそうなので
変化というよりも
連続している感じは残り続けます。
竹縁とか花菖蒲とか茴香(ういきょう)とか
……
歌われている風景が東方的であることや
季節がめぐったことほどの中にしか変化はなく
抒情がこの詩で初めて生まれたということでもなさそうです。
◇
が、やがて「金亀子(こがねむし)」の諸作へ発展した、と記されるほどですから
そのような自作案内を無視するわけにもいきません。
◇
詩人の案内するそのような眼差しに沿えば
其頃、私は頬赤い少年であった。
――と第1節に早くも現れる「私」には
抒情がよりストレートに歌われているものと読むことができるのかもしれません。
それまでにも「私」は登場しましたが
第1節にいきなり出てくることはありませんでした。
この詩には
「私」が包み隠さずといった感じで
第1節に登場し
最終節まで登場するのです。
そのことと抒情とに
大いなる関係があることは間違いないはずです。
◇
私は熱病ほどに、空想し求める少年であった。
其頃、私は孤(ひと)り、友遊びを嫌い始めた。
其頃、私は鬱病の如くおもい憧れた。
私は綾錦の振袖のかげに隠れ、
いつも、いつも虔(つつま)しく涙ぐんでいた。
其頃、私は羞恥を罪業より恐れていた。
◇
このように第2節にも「私」は露出しますし
第3節にも第4節にも
「私」は充満します。
◇
そして、この「私」はどうやら
「恋い心」を経験するのですが
それが単に「心」の経験なのか
何らか実態のある「恋」だったのか
詩の全行にわたって「翡翠の家」の出来事として歌われた内実は
幻のようでありリアルなようであり
いずれであってもほかの言葉には言い換えられない
この詩の極度に鮮やかな世界が実現しています。
それは、
熱病ほどに空想され
鬱病のように思い憧れられた出来事であったようですが
そのような出来事が実際に体験されたものかどうか
そんなことは定かではありません。
それは、
其頃私は神々より幸であった。
――と断言されるほどのことですから
その幸は想像するしか近づく方法はありません。
◇
今回はここまで。
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