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2015年4月

2015年4月29日 (水)

金子光晴「落下傘」の時代・「短章三篇」その2

(前回からつづく)

 

死んだ兵士が

野ざらしになって虚空を見上げている

――という景色が酷似(こくじ)しているからといって

金子光晴がランボーの詩を真似たかというと 

そんなことはこれっぽっちも言えたことではありません。

 

誰しもが

一笑に付して終わりとなる話でしょう。

 

 

第一、

金子光晴の詩の兵士は、

その眼は、鷹にひきずりだされて、窩になった。

――であるし、

ランボーの兵士は、

病気の子供のような笑顔さえうかべて、一眠りしているんだよ。

――ですから、

見え方がまったく違っています。

 

金子光晴の兵士は、

一ケ月もまえからおなじ姿勢で、おなじ場所にじっとしているのだ。

――という事実を詩人は知っていて

それを記録する眼差しさえあるのに

ランボーのは、

燦々と降る陽光の下で眠っていて

今にも起き出してくるような死体として描写されるのですから。

 

 

しかし、戦場の風景を

ランボーも金子光晴も

実際に肉眼で目撃したという経験を詩に作ったのですし

野ざらしの兵士のイメージ(像)は

どちらも実際に見たその戦場のシーンの形象化であることも間違いではありません。

 

 

金子光晴の歌った死者は

象徴詩法をぶっちぎる勢いで

記録的ですらあります。

 

ランボーの「谷間に眠るもの」も

そのように読んでも一向におかしくはなく

幻想と見まごうばかりですが

これもリアルな世界なのです。

 

 

「短章三篇」の「C八達嶺にて」は

「一千人の中国兵」からの狙撃の危険性がある中を

詩人である金子光晴・森三千代の夫妻が視察した事実を

そのまま記録しただけのような詩ですが

詩とした以上は

単に記録ではないということも銘記すべき詩ということになります。

 

それは読めばわかることです。

 

 

燉台(のろしだい)に火はあがらない。

蒼鷹一羽。

 

城壁のすみっこに兵が一人、膝を抱いたまま、死んでいる。

 

 

たとえば任意に抜き出したこれらの詩行は

詩そのものです。

 

 

詩人が心の眼で見たもののうち

最も強く刻まれた景色を

これらの詩行は書き留めています。

 

遠景から近景へ。

 

眼に迫ってくるものは

死んだ兵士――。

 

兵士の眼窩がアップされ

その眼窩が見上げる碧空――。

 

そして近景から遠景へ。

 

鷹が一羽飛んでいた空は

ふたたび歌われて

詩人の思惟へと結ばれます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

中原中也の「谷間の睡眠者」を

読んでおきましょう。

 


 

谷間の睡眠者

 

これは緑の窪、其処に小川は
銀のつづれを小草(おぐさ)にひっかけ、
其処に陽は、矜(ほこ)りかな山の上から
顔を出す、泡立つ光の小さな谷間。

 

若い兵卒、口を開(あ)き、頭は露(む)き出し
頸は露けき草に埋まり、
眠ってる、草ン中に倒れているんだ雲(そら)の下(もと)、
蒼ざめて。陽光(ひかり)はそそぐ緑の寝床に。

 

両足を、水仙菖(すいせんあやめ)に突っ込んで、眠ってる、微笑んで、
病児の如く微笑んで、夢に入ってる。
自然よ、彼をあっためろ、彼は寒い!

 

いかな香気も彼の鼻腔にひびきなく、
陽光(ひかり)の中にて彼眠る、片手を静かな胸に置き、
見れば二つの血の孔(あな)が、右脇腹に開(あ)いている。

 

(中原中也訳「ランボオ詩集」岩波文庫より。「現代かな」に改めました。編者。)

 

2015年4月24日 (金)

金子光晴「落下傘」の時代・「短章三篇」その1

(前回からつづく)

 

茨木のり子の「詩のこころを読む」に戻るところですが

ここでまた「落下傘」という詩集を繙(ひもと)いてみたくなりました。

 

回り道になりますが

急がば回れです。

 

 

パラパラめくっていると

詩集のちょうど真ん中ほどに

「短章三篇」という詩があり

そのうち「A北京」には「1936・12」、

「C八達嶺にて」には「1937年」という日付があるのに目を奪われたからであります。

 

1937年(昭和12年)は

7月に盧溝橋事件があり

日中戦争がはじめられた年ですが

中原中也が死んだ年でもあります。


中也が生存中に

「落下傘」は書きはじめられたというところに

否応もなく引きつけられてしまいます。

 

 

「落下傘」末尾にある「跋」に、

 

この詩集は、日本と中国の戦争が始まってから、終戦10日ほど前までに書かれた詩のうち、比較的前期の作をあつめたもの。すべて発表の目的をもって書かれ、殆んど、半分近くは、困難な情勢の下に危険を冒して発表した。(以下略)

 

――などとあるのは

詩集が発行された昭和23年(1948年)に書かれたものです。

 

 

詩集「落下傘」のうちで

最も制作年の古いのが「短章三篇」であるかどうか。

 

断定しがたいものがありますが

作品の末尾に制作年が明示された作品だけを見れば

「短章三篇」が最古のものになります。

 

どのような詩でしょう、

まず読んでみましょう。

 

順序が逆になりますが

まず「C八達嶺にて」を読みます。

 

 

C八達嶺にて

 

1937年正月元旦正午森とともに、八達嶺にのぼる。山蔭に一千人程の中国兵がいて折々射ってくるという話をききつつ。

 

燉台(のろしだい)に火はあがらない。

蒼鷹一羽。

 

城壁のすみっこに兵が一人、膝を抱いたまま、死んでいる。一ケ月もまえからおなじ姿勢で、おなじ場所にじっとしているのだ。その眼は、鷹にひきずりだされて、窩になった。だが、その窩がみつめている。空の碧瑠璃。狂風に吹かれる蕩尽。世界の金銀財貨のくずれこむ叫喚。生命も、歴史も、神も、やがては地球みずからもころがりこんでゆくその闇黒を。

 

(中央公論社版「金子光晴全集」第二巻より。「現代かな」に改めました。編者。)

 

 

森は、妻・三千代のことです。


「八達嶺」は万里の長城のどこかでしょうか?

 

 

場所が実際どこにあるか

その事実に目を向けようとすると同時に

「あっ、ランボーだ」と

とんでもない方向に想像の翅(はね)が広がりそうになる作品です。

 

とんでもないかどうか

ここでランボーのその詩「谷間に眠るもの」を呼び出してみましょう。

 

金子光晴本人の訳があります。

 

 

谷間に眠るもの

 

 立ちはだかる山の肩から陽(ひ)がさし込めば、

ここ、青葉のしげりにしげる窪地(くぼち)の、一すじの唄う小流れは、

狂おしく、銀のかげろうを、あたりの草にからませて、

狭い谷間は、光で沸き立ちかえる。

 

 年若い一人の兵隊が、ぽかんと口をひらき、なにも冠(かぶ)らず、

青々と、涼しそうな水菜(みずな)のなかに、頸窩(ぼんのくぼ)をひたして眠っている。

ゆく雲のした、草のうえ、

光ふりそそぐ緑の褥(しとね)に蒼(あお)ざめ、横たわり、

 

 二つの足は、水仙菖蒲(すいせんしょうぶ)のなかにつっこみ、

病気の子供のような笑顔さえうかべて、一眠りしているんだよ。

やさしい自然よ。やつは寒いんだから、あっためてやっておくれ。

 

 いろんないい匂いが風にはこばれてきても、鼻の穴はそよぎもしない。

静止した胸のうえに手をのせて、安らかに眠っている彼の右横腹に、

まっ赤にひらいた銃弾の穴が、二つ。

 

(角川文庫「イリュミナシオン」金子光晴・訳より。)

 



途中ですが

今回はここまで。

 

 

2015年4月20日 (月)

茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む・金子光晴「寂しさの歌」その7

(前回からつづく)

 

「寂しさの歌」「四」へ入ります。

(茨木のり子の読みから離れています。編者。)

 

 

遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもってきたんだ。

――と、いま行われている戦争がはじまったわけ(理由)が冒頭行で歌われます。

 

 

寂しい精神のうぶすな。

 

 

うぶすなは「産土」と書き

正規には「産土神(うぶすながみ)」です。

 

人にはみな生まれた土地の守護神があり

生まれる前から死んだ後まで

その神=産土神(うぶすながみ)に守られるという神道の信仰が

民草(たみくさ)の暮らしに根付いているというのが

この国のありふれた姿です。

 

日本固有の慣わしなのでしょうか。

農耕社会特有の習いなのでしょうか。

淵源は原始宗教とかシャーマニズムとかアニミズムとかに遡(さかのぼ)ることができるのでしょうか。

 

産土信仰は

現在でも農村の暮らしの中に息づいています。

 

 

ここで金子光晴が言っている「うぶすな」は

もっと広い意味をもっているようです。

 

「寂しさを美と感じる土壌」――という意味ほどに受け取ってよいもののようです。

 

日本人の美意識の根っこにあるもの。

 

今行っているこの戦争へと

人々を突き動かしていった寂しさの精神(土壌)を延々と歌ってきた詩は

ここでズバリと「寂しい精神のうぶすな(産土)たち」と正体を明かしたのです。

 

 

戦争をもってきたのは

君たちじゃない。

僕でもない。

 

みんな寂しさのせいなんだ。

うぶすなのせいなんだ。

 

 

銃をかつがせ

寂しさの「釣り出し」にあって

旗がはためいている方へ

母や妻(家族)を捨ててまでして出発した。

 

錺(かざり)職人も

洗濯屋も

手代(商人)たちも

学生も

……

みんな風にそよぐ葦(あし)になっちゃった。

 

 

誰彼の別なく

死ねばよいと教えられたのだ。

 

ちんぴらで、小心で、好人物である人々はみな

「天皇」の名を持ち出されると

目先が真っ暗になって

腕白小僧のように喜び勇んで出て行った(出征した)。

 

 

だが。

 

土地に残った者たちはびくびくし

明日は自分に白羽の矢が向けられるかもしれないと

懐疑と不安に襲われるのを無理やり考えまいとし

どっちにしろ助からない命、せめて今日1日でもと

近くにいる人と振るまい酒して酔い過ごそうとする。

 

エゴイズムと愛情の浅さ。 

沈黙し我慢し、乞食のように生きている。

 

配給の食糧を列を作って待つのは女たち。

 

 

日に日に悲しげになってゆく人々の表情から

国を傾ける民族の運命の

これほどまでに差し迫った深い悲しみを

僕は生まれてこの方見たことはなかった。

 

しかし、もう、どうでもいい。

そんな寂しさなんか

今の今、何でもない。

 

 

僕が。

 

僕が今、本当に寂しがっている寂しさは――。

 

 

この国の零落、民草の暮らしの荒廃の方向とは反対に

一人踏み止まって

寂しさの根っ子を“がっき”と突き止めようとして

まともな世界と一緒に歩いていこうとする一人の意欲ある人がいない。

僕の近辺に一人もまともな意欲(ある人)を見つけられないことだ。

 

そのことだ。

そのことだけなのだ。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2015年4月16日 (木)

茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む・金子光晴「寂しさの歌」その6

 (前回からつづく)

 

「寂しさの歌」「三」へと入っていきます。

(茨木のり子の読みから離れています。編者。)

 

 

僕は実はあの寂しさを軽蔑しつつも

僕自身(の美意識)を形作るものとして秘かに愛着をもっていたことを告白しよう。

 

潮来節(いたこぶし)を。

うらぶれた流しの水調子(みずちょうし)を。

 

「水調子」は三味線を使った音曲というほどの意味でよいでしょう。

巷を行く流しのうらぶれた調子を詩人=僕はかつて(今も)愛好していたのです。

その得も言われぬ寂しい音調、風体を。

 

廓(くるわ)の裏手の街の

あんどん(行灯)やしっぽく(卓袱)の湯気を。

 

立ち回りの、田舎役者が見せる狂気で吊り上がったまなじり。

 

茶漬の味。

風流。

神信心。

 

糞壺のにおいをつけた人たちが、僕のまわりを行き来する日常。

僕もその一人なのだが。

 

 

僕が座っているところのむこうの椅子で

珈琲を飲みながら、僕の読んでいるのと同じ夕刊をその人たちも読む。

 

小学校では、同じ字を教わった。

僕らは互いに日本人だったので、

日本人であるより幸はないと教えられた。

(それは結構なことだが、少々僕らは正直すぎる。)

 

 

何もかも同じような習慣、暮らし。

その根源にあるもの。

 

万世一系の天皇。

 

 

ああ、なにからなにまで、

いやになるほどこまごまと、

僕らは互いに似ていることか。

 

膚のいろから。

眼つきから。

人情から。

潔癖から。

 

 

僕らの命がお互いに僕らのものでない空無からも、

なんと大きな寂しさがふきあげ、

天までふきなびいていることか。

 

 

僕らの命が

どうしたというのでしょう?

 

僕らのものでない空無とは

何でしょう?

 

 

天皇(制)のことでしょうか?

 

 

 

空無から

強大な寂しさが吹き上げ

天に届いている。

 

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

2015年4月14日 (火)

茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む・金子光晴「寂しさの歌」その5

(前回からつづく)

 

ほんとうに君の言うとおり

――の「君」とはいったい誰のことでしょうか。

 

寂しさこそは

この国=日本という国に根っから住み着いた(=土着の)悲しい宿命なのだ 

 

寂しさのほかに何も無い

寂しさだけがある無一物

――と言う「君」は

僕=詩人の分身である以外に考えることはできません。

 

 

寂しさだけが新鮮だ。

寂しさだけの無一物。

 

だが、(無一物の)寂しさの後(あと)には貧困があった。

 

水田の暮らし。

百姓暮らしの長い伝統から

無知と諦めと卑屈から

寂しさは広がる。

 

 

ああ、でも僕の寂しさは

そんな国に生まれあわせてしまったことなのだ。

 

この国で育ち、友だちをつくり

朝は味噌汁にふきのとうを浮かしたやつ

夕には竹の子の山椒和えが載る

はげた塗り膳に座る。

 

こうして祖先から譲り受けた寂寥を

子らに譲り

やがて死んでいく(樒の葉陰に眠る)こと。

 

 

僕が死んだあとも

5年、10年、100年と

未来永劫、寂しさが続き

地の底、海の周辺、列島の果てから果てへ

十重二十重(とえはたえ)に雲霧を込めて

あっという間に時雨れ、また晴れる

うつろいやすい時の雲の千切れには

山や水の傷心を見るような気持ちになり

僕は茫然とする。萎える。

 

 

さてさて。

 

いままで述べてきた寂しさは

この国の古めかしい風物の中にあったものとして拾い出してきたものではないのです。

 

洋服を着て、葉巻を吸い、

西洋乞食みたいに暮らす人の中にも

この寂しさを見ることができるのだ。

 

寄り合いでも喫茶店でも

友と話しているときでも娘とダンスしているときでも

あの寂しさが人々のからだからとっかえひっかえ

湿気(しっけ)のように沁みだし

人々の後ろに影をつくり

サラサラサラと音を立てて

あたりに広がり、立ち込めて

永劫から永劫へ流れていくのを聞いたのだ。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

  

2015年4月13日 (月)

茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む・金子光晴「寂しさの歌」その4

(前回からつづく)

 

「寂しさの歌」の「二」へ読み進みましょう。

(茨木のり子の読みを一時的に離れています。編者。)

 

 

蓬(よもぎ)が生えた庭先に洗い米を供(そな)える民の暮らしの一コマも

寂しさに蔽(おお)われた国土の、深い霧の風景の一つでした。

 

その中から詩人=僕は生まれたのです。

 

霧は、

山頂や峡谷を消すように覆(おお)い

湖上を飛び

生まれて50年もの僕の過去と未来とを閉ざしている。

 

後から後から湧き上がっては

行く手を閉ざしてしまう雲煙とともに

この国では

さびしさだけが新鮮だ、いつも。

 

この寂しさの中から人生のほろ甘さを搾(しぼ)り取り

それを素(もと)にして僕らは詩を書いてきたものだ。

 

 

詩の根拠(よりどころ)が寂しさにあると

ここで自らもよりどころとしてきたものが

寂しさにほかならないことを明らかにします。

 

寂しさだけが新鮮なわけ(理由)が

解き明かされていると言えるでしょう。

 

 

詩を書いてきたのは僕だけのことではない。

僕らみんな。

 

 

寂しさの果てに

桔梗(ききょう)よ紫苑(しおん)よと、花を愛(め)でてきた。

 

零(こぼ)れ落ちる露と一体になってしだれ

手折(たお)られるがままの女たち。

諦(あきら)めた果てに咲く日陰の花。

(そんな寂しさを歌いあげてきた。)

 

 

接吻(キス)の後に残る口の苦さ、化粧のやつれほころび。

その寂しさの奥にあるもの。

 

衰えることが人並み以上に早い(苦界の)女の宿命の暗さから

聞こえてくる常念仏(じょうねんぶつ)を僕は聞く。

 

鼻紙に包んだ一房の黒髪。

(吉原の女は死んで初めて娑婆に出られる。女の遺髪が間に合わせのちり紙にくるまれて舟で送られていく情景)

その髪で繋(つな)いだ太い毛綱。

――この寂しさに曲づけして歌われる「吉原筏(よしわらいかだ)の物語」。

 

 

この寂しさを象嵌(ぞうがん)した(=嵌め込んだ)ような「百目砲(ひゃくめづつ)」。

 

百目砲(ひゃくめづつ)の「百目」は「百匁(ひゃくもんめ)」でおよそ375グラムの重さのことらしい。

百目砲は大砲の一種で、

さまざまなデザインが施され、

象嵌(眼)の技法も使われたらしい。

 

吉原筏も百目砲も

寂しさを閉じ込めたような

音曲であり工芸です。

 

 

四方を海で囲まれ

這(は)いだす隙間(すきま)もないこの国の人たちは

外へ向かわず自らを閉じ込め

この国こそ朝日ののぼる国(日の本=ひのもと)と信じ込んだのだ。

 

 

爪楊枝(つまようじ)を削るように!

細かい作業に打ち込み

しなやかな仮名文字(ひらがな)にもののあわれを綴り、

寂しさで何万回何千回と洗って作り上げた歌枕(うたまくら)の数々。

 

 

象潟(きさがた)

鳰の海(におのうみ)

志賀のさざなみ

鳥海山、羽黒山の雲に突き入る山々。

――は、古今、新古今の旧跡でしょうか。

 

奇瑞(きずい)の湯は、

弘法大師、伝教大師や日蓮ら高僧の行脚(あんぎゃ)の結果現れた奇跡の温泉が

各地に残ることを指しているのでしょう。

 

 

遠山がすみ、山桜、蒔絵螺鈿(まきえらでん)の秋の虫づくし

――は万葉集の美意識、それとも室町のでしょうか。

 

すでに万葉の時代を越えて

中世、江戸をも含む日本美のすべてを象徴しているのでしょうか。

 

 

この国にみだれ咲く花の友禅もよう。

うつくしいものは惜しむひまなくうつりゆくと、詠嘆をこめて、

いまになお、自然の寂しさを、詩に小説に書きつづる人々。

ほんとうに君の言うとおり、寂しさこそこの国土着の悲しい宿命で、寂しさより他なにものこさない無一物。

 

 

――となるに及んでは

紫式部、清少納言、小野小町ばかりでもなさそうで

「いまになお」詩に小説に書く人々とは

現在なお寂しさをよりどころにしている「君」や

あるいは「僕」をも射程に入れているのでしょうか。

 

古代から現代にいたる

この国の詩歌全般、芸能全般、暮らし全般に

眼差しが向けられている

遠大なスケールの中に入り込んでいるようです。

 


 

途中ですが

今回はここまで。

2015年4月10日 (金)

茨木のり子「詩のこころを読む」を読む・金子光晴の「寂しさの歌」その3

(前回からつづく)

 

「寂しさの歌」を読み進めましょう。

(茨木のり子の読みを一時的に離れています。編者。)

 

 

人は皆、元来(もとより)かわらけ(土器)であるといわれる

――という意味の詩行に立ち止まざるをえません。

 

自己(おのれ)を持たない、

形代(かたしろ)だけが揺れ動いている

――という前の行を受けてこう歌われるのですから

かたしろ(形代)もかわらけ(土器)も

同じようなことなのでしょう。

 

形代とか土器とかが

次のスタンザの「皿」へとつながっていきます。

 

 

使われなくなった不用の皿(欠けている場合が多い)に洗い米が一つまみ載せられて

ネズミヨモギ(鼠蓬)の生い茂る庭のつづきにひっそり置かれてある

とある田舎の風景が浮かんできます。

 

都会の片隅の民家にも

かつてこのような光景が庭先で見られたのを

ぼんやりと記憶にとどめているような気がします。

 

 

十粒ばかりの洗米(あらいごめ)をのせた皿。

鼠よもぎのあいだに

捨てられた欠(かけ)皿。

 

 

寂しさが立ちのぼってくる

幾つかの風景・風物が歌われてきて

この洗い米の風景にはドキンとさせられるものがあります。

 

このうすら寂しいといえばうすら寂しい光景は、

「無」にかえる生の傍らから(死の世界に接した、そのそばから)、

うらばかりよむ習いの(裏ばかりを読むことに慣れた)

さぐりあうこころとこころから(互いに探りを入れあう心と心から)。

――と補強されるのですから。

 

民草(たみくさ)にこびりついたような祈りの風習の底に

探り合う心が生まれている――。

 

 

これらは我が身のことのように

歌われていくのです。

 

 

寂しさは

ふるぼけて黄ろくなったもの

褪(あ)せゆくもの

気むずかしい姑めいた家憲から

すこしづつ目に見えずひろがる。

 

襖(ふすま)や壁の雨もり。

涙じみ。

 

 

落葉炊きの煙り。

小川の水のながれ。

季節のうつりかわり、枝のさゆらぎ

石の言葉、老けゆく草の穂。

 

すぎゆくすべて。

 

 

寂しさは

旅立つ。

 

鰯雲(いわしぐも)。

 

今夜も宿をもとめて、

とぼとぼとあるく。

 

夜もすがら山鳴りをきき

肘(ひじ)を枕にして

地酒の徳利をふる音に、

別れてきた子の泣声が重なります。

 

 

この詩が昭和20年の端午の日に書かれた事実を

詩人は何としても刻みたかったのでしょう。

 

象徴詩法の詩ですが

「別れてきた子」には実際の息子のイメージが露出し

覚悟のようなものが込められていることが想像できます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2015年4月 7日 (火)

茨木のり子「詩のこころを読む」を読む・金光晴の「寂しさの歌」その2

(前回からつづく)

 

「寂しさの歌」は口語体非定型詩です。

 

普通の人が経験しない特別の場所や風習を表わす言葉が詩語として使われたり

時々、金子光晴独特の用語があったりするために

やや取っつきにくい部分がありますが

主述関係や文法や

詩行の1行1行や詩語の1語1語(用語)に

意味不明の難解さが多量にあるものではなく

ほとんどが類推(想像)のできる範囲にあり

わかりやすい詩といえるでしょう。

 

なにぶんにも長いので

読むのに時間がかかりますし

よく読めば金子光晴固有の膨大で該博な知識・経験が織り込まれているので

読みこなすには時間がかかりますが。

 

 

構成も4節の起承転結が比較的に明確です。

 

ニーチェの「ツアラトストラ――」がプロローグに配置されたところくらいが

仰々しいといえば仰々しい印象ですが

本文内容の思想性に見合うには

19世紀最大のこの哲学者(現代哲学の源流でもある)を引用する以外になかったのかもしれません。

 

 

末尾に「昭和20・5・5 端午の日」とあり

東京(3月10日)、

名古屋(3月12日)、

大阪(3月14日)、

神戸(3月16日)、

名古屋(3月25日)と大空襲が続き

4月には沖縄戦開始

……と列島各地が焦土と化す状況下で書かれたものであることがわかります。

 

一億玉砕、七生報国が叫ばれる中で

このような詩が作られていたこと自体が歴史の一コマであり

その奇跡は伝説にもなっています。

 

 

吉原筏(よしわらいかだ)、

百目砲(ひゃくめづつ)、

水調子(みずちょうし)

常念仏(じょうねんぶつ)

形代(かたしろ)

洗米(あらいごめ・あらいよね)

……などの聞きなれない名詞は

頑張って辞書を引くなり

ググったりして

意味を知る必要があるものもあります。

 

おもざし

うしろ影

障子明り

みすぎ

涙じみ

……などの古語っぽい用語も

厳密な意味をつかめなくてもなんとか想像することができますし

それができなければ辞書やウィキペディアに当たればよいでしょう。

 

 

これらは2015年現在の大都会では

ほとんど見ることのできなくなった風物であり

使われなくなった言葉ですが

戦前の日本社会では

それほど疎遠なものではなかったようです。

 

 

言葉や風物が

昭和20年(1945年)と現在とでは

歴史の彼方に風化してしまったようなものもありますが

詩の中で蘇(よみがえ)るというようなことが起こるのも

詩の醍醐味(だいごみ)の一つといってよいでしょうから

じっくりゆっくり味わうことにしましょう。

 

そんなチャンス(機会)は

めったにないのですから!

 

 

では「寂しさの歌」を

茨木のり子の読みからいったん離れて

「一」から順に読んでいくことにしましょう。

 

 

「どっから」は「どこから」ですが

「どっから」と詩人がしたかったのは

「汚れっちまった」と中原中也が歌った言語意識と

似ているようなことでしょう。

 

しゃべり言葉で入ることによって

この詩は読者に親しみのある世界となって現れます。

 

いきなり引きずり込まれる感じで

寂しさの生まれてくるところを探している詩人の気持ちに

同期するのです。

 

 

どっから来るんだろう?

 

それは

夕暮れの中に、ポッと咲き出したような

あの女の肌からか

面差しからか

後ろ姿からか

――と、ふだん美しいと感じている女の湯上りの姿のような

そこはかとない幽玄の存在(の色気)。

 

ここは「あの女の」「肌」ではなく

「あの」「女の肌」と読むべきところでしょう。

 

糸のように細々とした心からか。

その心を誘う周囲の風景からか。

 

月光からか。

障子明りからか。

古くなって節目(ふしめ)浮き出た畳に吹き飛ばされてきて走る枯葉からか。

 

 

寂しさは

僕の背筋に這いこみ

湿気や黴(かび)のように

僕の知らないまま

心を腐らせ、

皮膚に沁み出てくる。

 

 

寂しさの風景が

次から次に繰り返しくりかえし

クレッシェンドしデクレッシェンドし

螺旋的に下降し上昇し

歌われていきます。

 

 

次に現れる女も

先ほど夕闇に現れた女でしょうか。

 

金で売られ金で買われる

苦界の女の寂しさ。

飢えの中で育った

孤児(みなしご)の寂しさ。

 

それを生業(なりわい)と思っているやつの

己のない心のない、人形が揺れ動いている寂しさ。

元々、人は土器(かわらけ)だと言われるが。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2015年4月 5日 (日)

茨木のり子「詩のこころを読む」を読む・金子光晴の「寂しさの歌」

(前回からつづく)

 

なすべきことはすべて

私の細胞が記憶していた

――という谷川俊太郎の詩「芝生」の詩行の「記憶」について

「何を記憶していたの?」と作者に尋ねる野暮をしなくても

詩集の中にちゃんと答えはありますと記して

茨木のり子が呼び出すのは

「愛」という詩です。

 

 

自然な流れに沿えば

ここでその詩「愛」を読みますが

「愛」の感動をより深く味わうために

茨木のり子は1本の補助線を引きます。

 

それが金子光晴の長詩「寂しさの歌」です。

 

 

「芝生」から「愛」へ。

 

芝生の上の幸福が愛に発展するなんて

まるで絵に描いたような完全変態ですから

やすやすとそうはしないし

そうできないのかも知れませんし

「愛」をより深く読むために

補助線を仕掛けるのです。

 

 

歴史化し伝説化したこの長詩「寂しさの歌」を

ここで読まないことには

茨木のり子の訴えようとするものが捉えきれませんから

遠回りして読むことにしましょう。

 

超のつく長詩ですけれど

急がずに読みましょう。

 

 

寂しさの歌   

 

国家はすべての冷酷(れいこく)な怪物のうち、もっとも冷酷なものとおも

われる。それは冷たい顔で欺(あざむ)く。欺瞞(ぎまん)はその口から這い出る。

「我国家は民衆である」と。

                     ニーチェ 『ツァラトゥストラはかく語る。』

 

       一

 

どっからしみ出してくるんだ。この寂しさのやつは。

夕ぐれに咲き出たような、あの女の肌からか。

あのおもざしからか。うしろ影からか。

 

糸のようにほそぼそしたこころからか。

そのこころをいざなう

いかにもはかなげな風物からか。

 

月光。ほのかな障子明(あか)りからか。

ほね立った畳を走る枯葉からか。

 

その寂しさは、僕らのせすじに這い込み、

しっ気や、かびのようにしらないまに、

心をくさらせ、膚にしみ出してくる。

 

金でうられ、金でかわれる女の寂しさだ。

がつがつしたそだちの

みなしごの寂しさだ。

 

それがみすぎだとおもってるやつの、

おのれをもたない、形代(かたしろ)だけがゆれうごいている寂しさだ。

もとより人は、土器(かわらけ)だ、という。

 

十粒ばかりの洗米(あらいごめ)をのせた皿。

鼠よもぎのあいだに

捨てられた欠(かけ)皿。

 

寂しさは、そのへんから立ちのぼる。

「無」にかえる生の傍(かたわ)らから、

うらばかりよむ習いの

さぐりあうこころとこころから。

 

ふるぼけて黄ろくなったものから、褪(あ)せゆくものから、

たとえば 気むずかしい姑めいた家憲から、

すこしづつ、すこしづつ、

寂しさは目に見えずひろがる。

襖(ふすま)や壁の

雨もりのように。

涙じみのように。

 

寂しさは、目をしばしばやらせる落葉炊くけぶり。

ひそひそと流れる水のながれ。

らくばくとしてゆく季節のうつりかわり、枝のさゆらぎ

石の言葉、老けゆく草の穂。すぎゆくすべてだ。

 

しらかれた萱菅(かやすげ)の

丈なす群をおし倒して、

寂しさは旅立つ。

つめたい落日の

鰯雲(いわしぐも)。

 

寂しさは、今夜も宿をもとめて、

とぼとぼとあるく。

 

夜もすがら山鳴りをききつつ、

ひとり、肘(ひじ)を枕にして、

地酒の徳利をふる音に、ふと、

別れてきた子の泣声をきく。

 

        二

 

寂しさに蔽われたこの国土の、ふかい霧のなかから、

僕はうまれた。

 

山のいただき、峡間を消し、

湖のうえにとぶ霧が

五十年の僕のこしかたと、

ゆく末とをとざしている。

 

あとから、あとから湧きあがり、閉ざす雲煙とともに、

この国では、

さびしさ丈けがいつも新鮮だ。

この寂しさのなかから人生のほろ甘さをしがみとり、

それをよりどころにして僕らは詩を書いたものだ。

 

この寂しさのはてに僕らがながめる。桔梗紫苑。

こぼれかかる露もろとも、しだれかかり、手おるがままな女たち。

あきらめのはてに咲く日蔭草。

 

口紅にのこるにがさ、粉黛(ふんたい)のやつれ。――その寂しさの奥に僕はきく。

衰えはやい女の宿命のくらさから、きこえてくる常念仏を。

……鼻紙に包んだ一にぎりの黒髪。――その髪でつないだ太い毛づな。

この寂しさをふしづけた「吉原筏。」

 

この寂しさを象眼した百目砲(ひゃくめづつ)。

 

東も西も海で囲まれて、這い出すすきもないこの国の人たちは、自らをとじこめ、

この国こそまず朝日のさす国と、信じこんだ。

 

爪楊枝をけずるように、細々と良心をとがらせて、

しなやかな仮名文字につづるもののあはれ。寂しさに千度洗われて、

目もあざやかな歌枕。

 

象潟(きさがた)や鳰(にお)の海。

羽箒(はぼうき)でえがいた

志賀のさざなみ。

鳥海、羽黒の

雲につき入る峯々、

 

錫杖(しゃくじょう)のあとに湧出た奇瑞(きずい)の湯。

 

遠山がすみ、山ざくら、蒔絵螺鈿(らでん)の秋の虫づくし。

この国にみだれ咲く花の友禅もよう。

うつくしいものは惜しむひまなくうつりゆくと、詠嘆をこめて、

いまになお、自然の寂しさを、詩に小説に書きつづる人々。

ほんとうに君の言うとおり、寂しさこそこの国土着の悲しい宿命で、寂しさより他なにものこさない無一物。

 

だが、寂しさの後は貧困。水田から、うかばれない百姓ぐらしのながい伝統から

無知とあきらめと、卑屈から寂しさはひろがるのだ。

 

ああ、しかし、僕の寂しさは、

こんな国に僕がうまれあわせたことだ。

この国で育ち、友を作り、

朝は味噌汁にふきのとう、

夕食は、筍(たけのこ)のさんしょうあえの

はげた塗膳(ぬりぜん)に坐ることだ。

そして、やがて老、祖先からうけたこの寂寥を、

子らにゆずり、

櫁(しきみ)の葉のかげに、眠りにゆくこと。

 

そして僕が死んだあと、五年、十年、百年と、

永恆(えいごう)の末の末までも寂しさがつづき、

地のそこ、海のまわり、列島のはてからはてかけて、

十重に二十重に雲霧をこめ、

たちまち、しぐれ、たちまち、はれ、

うつろいやすいときのまの雲の岐れに、

いつもみずみずしい山や水の傷心おもうとき、

僕は、茫然とする。僕の力はなえしぼむ。

 

僕はその寂しさを、決して、この国のふるめかしい風物のなかからひろい出したのではない。

洋服をきて、巻きたばこをふかし、西洋の思想を口にする人達のなかにもそっくり同じようにながめるのだ。

よりあいの席でも喫茶店でも、友と話しているときでも断髪の小娘とおどりながらでも、

あの寂しさが人々のからだから湿気のように大きくしみだし、人々のうしろに影をひき、

さら、さら、さらさらと音を立て、あたりにひろがり、あたりにこめて、永恆から永恆へ、ながれはしるのをきいた。

 

          三

 

かつてあの寂しさを軽蔑し、毛嫌いしながらも僕は、わが身の一部としてひそかに執着していた。

潮来節を。うらぶれたながしの水調子を。

廓うらのそばあんどんと、しっぽくの湯気を。

立廻り、いなか役者の狂信徒に似た吊上がった眼つき。

万人が戻ってくる茶漬の味、風流。神信心。

どの家にもある糞壺のにおいをつけた人たちが、僕のまわりをゆきかうている。

その人達にとって、どうせ僕も一人なのだが。

 

僕の坐るむこうの椅子で、珈琲を前に、

僕のよんでる同じ夕刊をその人たちもよむ。

小学校では、おなじ字を教わった。僕らは互いに日本人だったので、

日本人であるより幸はないと教えられた。

(それは結構なことだ。が、少々僕らは正直すぎる。)

 

僕らのうえには同じように、万世一系の天皇がいます。

 

ああ、なにからなにまで、いやになるほどこまごまと、僕らは互いににていることか。

膚のいろから、眼つきから、人情から、潔癖から、

僕らの命がお互いに僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、

天までふきなびいていることか。

 

         四

 

遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもってきたんだ。

君達のせいじゃない。僕のせいでは勿論ない。みんな寂しさがなせるわざなんだ。

 

寂しさが銃をかつがせ、寂しさの釣出しにあって、旗のなびく方へ、

母や妻をふりすててまで出発したのだ。

かざり職人も、洗濯屋も、手代たちも、学生も、

風にそよぐ民くさになって。

 

誰も彼も、区別はない。死ねばいいと教えられたのだ。

ちんぴらで、小心で、好人物な人々は、「天皇」の名で、目先まっくらになって、腕白のようによろこびさわいで出ていった。

 

だが、銃後ではびくびくもので

あすの白羽の箭(や)を怖れ、

懐疑と不安をむりにおしのけ、

どうせ助からぬ、せめて今日一日を、

ふるまい酒で酔ってすごそうとする。

エゴイズムと、愛情の浅さ。

黙々として忍び、乞食のように、

つながって配給をまつ女たち。

日に日にかなしげになってゆく人々の表情から

国をかたむけた民族の運命の

これほどさしせまった、ふかい寂しさを僕はまだ、生まれてからみたことはなかったのだ。

しかし、もうどうでもいい。僕にとって、そんな寂しさなんか、今は何でもない。

 

僕、僕がいま、ほんとうに寂しがっている寂しさは、

この零落の方向とは反対に、

ひとりふみとどまって、寂しさの根元をがっきとつきとめようとして、世界といっし

ょに歩いているたった一人の意欲も僕のまわりに感じられない、そのことだ。その

ことだけなのだ。 

(昭和20・5・5 端午の日)

                        ――詩集「落下傘」

 

(「詩のこころを読む」より。読みやすくするために、「新かな」に改めました。編者。)

 

 

「書きうつし終えたら、どっと疲れてしまったほど長い長い詩。」という感想を

茨木のり子は漏らしますが

それはこの詩を筆写し、あるいは入力する人に共通する思いでありましょう。

 

 

大河のうねりのように迫力のある長編詩

けれど少しのたるみもなく

読む人を乗せて大海へと流れ入るような感銘をあたえてくれます

――と続ける茨木のり子の鑑賞は

これから読んでみて初めてわかることです。

 

 

じっくり詩行の1行1行に分け入って

時間をかけて読んでみましょう、まず。

 

 

今回はここまで。

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