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2015年4月10日 (金)

茨木のり子「詩のこころを読む」を読む・金子光晴の「寂しさの歌」その3

(前回からつづく)

 

「寂しさの歌」を読み進めましょう。

(茨木のり子の読みを一時的に離れています。編者。)

 

 

人は皆、元来(もとより)かわらけ(土器)であるといわれる

――という意味の詩行に立ち止まざるをえません。

 

自己(おのれ)を持たない、

形代(かたしろ)だけが揺れ動いている

――という前の行を受けてこう歌われるのですから

かたしろ(形代)もかわらけ(土器)も

同じようなことなのでしょう。

 

形代とか土器とかが

次のスタンザの「皿」へとつながっていきます。

 

 

使われなくなった不用の皿(欠けている場合が多い)に洗い米が一つまみ載せられて

ネズミヨモギ(鼠蓬)の生い茂る庭のつづきにひっそり置かれてある

とある田舎の風景が浮かんできます。

 

都会の片隅の民家にも

かつてこのような光景が庭先で見られたのを

ぼんやりと記憶にとどめているような気がします。

 

 

十粒ばかりの洗米(あらいごめ)をのせた皿。

鼠よもぎのあいだに

捨てられた欠(かけ)皿。

 

 

寂しさが立ちのぼってくる

幾つかの風景・風物が歌われてきて

この洗い米の風景にはドキンとさせられるものがあります。

 

このうすら寂しいといえばうすら寂しい光景は、

「無」にかえる生の傍らから(死の世界に接した、そのそばから)、

うらばかりよむ習いの(裏ばかりを読むことに慣れた)

さぐりあうこころとこころから(互いに探りを入れあう心と心から)。

――と補強されるのですから。

 

民草(たみくさ)にこびりついたような祈りの風習の底に

探り合う心が生まれている――。

 

 

これらは我が身のことのように

歌われていくのです。

 

 

寂しさは

ふるぼけて黄ろくなったもの

褪(あ)せゆくもの

気むずかしい姑めいた家憲から

すこしづつ目に見えずひろがる。

 

襖(ふすま)や壁の雨もり。

涙じみ。

 

 

落葉炊きの煙り。

小川の水のながれ。

季節のうつりかわり、枝のさゆらぎ

石の言葉、老けゆく草の穂。

 

すぎゆくすべて。

 

 

寂しさは

旅立つ。

 

鰯雲(いわしぐも)。

 

今夜も宿をもとめて、

とぼとぼとあるく。

 

夜もすがら山鳴りをきき

肘(ひじ)を枕にして

地酒の徳利をふる音に、

別れてきた子の泣声が重なります。

 

 

この詩が昭和20年の端午の日に書かれた事実を

詩人は何としても刻みたかったのでしょう。

 

象徴詩法の詩ですが

「別れてきた子」には実際の息子のイメージが露出し

覚悟のようなものが込められていることが想像できます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

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