茨木のり子「詩のこころを読む」を読む・金子光晴の「寂しさの歌」
(前回からつづく)
なすべきことはすべて
私の細胞が記憶していた
――という谷川俊太郎の詩「芝生」の詩行の「記憶」について
「何を記憶していたの?」と作者に尋ねる野暮をしなくても
詩集の中にちゃんと答えはありますと記して
茨木のり子が呼び出すのは
「愛」という詩です。
◇
自然な流れに沿えば
ここでその詩「愛」を読みますが
「愛」の感動をより深く味わうために
茨木のり子は1本の補助線を引きます。
それが金子光晴の長詩「寂しさの歌」です。
◇
「芝生」から「愛」へ。
芝生の上の幸福が愛に発展するなんて
まるで絵に描いたような完全変態ですから
やすやすとそうはしないし
そうできないのかも知れませんし
「愛」をより深く読むために
補助線を仕掛けるのです。
◇
歴史化し伝説化したこの長詩「寂しさの歌」を
ここで読まないことには
茨木のり子の訴えようとするものが捉えきれませんから
遠回りして読むことにしましょう。
超のつく長詩ですけれど
急がずに読みましょう。
◇
寂しさの歌
国家はすべての冷酷(れいこく)な怪物のうち、もっとも冷酷なものとおも
われる。それは冷たい顔で欺(あざむ)く。欺瞞(ぎまん)はその口から這い出る。
「我国家は民衆である」と。
ニーチェ 『ツァラトゥストラはかく語る。』
一
どっからしみ出してくるんだ。この寂しさのやつは。
夕ぐれに咲き出たような、あの女の肌からか。
あのおもざしからか。うしろ影からか。
糸のようにほそぼそしたこころからか。
そのこころをいざなう
いかにもはかなげな風物からか。
月光。ほのかな障子明(あか)りからか。
ほね立った畳を走る枯葉からか。
その寂しさは、僕らのせすじに這い込み、
しっ気や、かびのようにしらないまに、
心をくさらせ、膚にしみ出してくる。
金でうられ、金でかわれる女の寂しさだ。
がつがつしたそだちの
みなしごの寂しさだ。
それがみすぎだとおもってるやつの、
おのれをもたない、形代(かたしろ)だけがゆれうごいている寂しさだ。
もとより人は、土器(かわらけ)だ、という。
十粒ばかりの洗米(あらいごめ)をのせた皿。
鼠よもぎのあいだに
捨てられた欠(かけ)皿。
寂しさは、そのへんから立ちのぼる。
「無」にかえる生の傍(かたわ)らから、
うらばかりよむ習いの
さぐりあうこころとこころから。
ふるぼけて黄ろくなったものから、褪(あ)せゆくものから、
たとえば 気むずかしい姑めいた家憲から、
すこしづつ、すこしづつ、
寂しさは目に見えずひろがる。
襖(ふすま)や壁の
雨もりのように。
涙じみのように。
寂しさは、目をしばしばやらせる落葉炊くけぶり。
ひそひそと流れる水のながれ。
らくばくとしてゆく季節のうつりかわり、枝のさゆらぎ
石の言葉、老けゆく草の穂。すぎゆくすべてだ。
しらかれた萱菅(かやすげ)の
丈なす群をおし倒して、
寂しさは旅立つ。
つめたい落日の
鰯雲(いわしぐも)。
寂しさは、今夜も宿をもとめて、
とぼとぼとあるく。
夜もすがら山鳴りをききつつ、
ひとり、肘(ひじ)を枕にして、
地酒の徳利をふる音に、ふと、
別れてきた子の泣声をきく。
二
寂しさに蔽われたこの国土の、ふかい霧のなかから、
僕はうまれた。
山のいただき、峡間を消し、
湖のうえにとぶ霧が
五十年の僕のこしかたと、
ゆく末とをとざしている。
あとから、あとから湧きあがり、閉ざす雲煙とともに、
この国では、
さびしさ丈けがいつも新鮮だ。
この寂しさのなかから人生のほろ甘さをしがみとり、
それをよりどころにして僕らは詩を書いたものだ。
この寂しさのはてに僕らがながめる。桔梗紫苑。
こぼれかかる露もろとも、しだれかかり、手おるがままな女たち。
あきらめのはてに咲く日蔭草。
口紅にのこるにがさ、粉黛(ふんたい)のやつれ。――その寂しさの奥に僕はきく。
衰えはやい女の宿命のくらさから、きこえてくる常念仏を。
……鼻紙に包んだ一にぎりの黒髪。――その髪でつないだ太い毛づな。
この寂しさをふしづけた「吉原筏。」
この寂しさを象眼した百目砲(ひゃくめづつ)。
東も西も海で囲まれて、這い出すすきもないこの国の人たちは、自らをとじこめ、
この国こそまず朝日のさす国と、信じこんだ。
爪楊枝をけずるように、細々と良心をとがらせて、
しなやかな仮名文字につづるもののあはれ。寂しさに千度洗われて、
目もあざやかな歌枕。
象潟(きさがた)や鳰(にお)の海。
羽箒(はぼうき)でえがいた
志賀のさざなみ。
鳥海、羽黒の
雲につき入る峯々、
錫杖(しゃくじょう)のあとに湧出た奇瑞(きずい)の湯。
遠山がすみ、山ざくら、蒔絵螺鈿(らでん)の秋の虫づくし。
この国にみだれ咲く花の友禅もよう。
うつくしいものは惜しむひまなくうつりゆくと、詠嘆をこめて、
いまになお、自然の寂しさを、詩に小説に書きつづる人々。
ほんとうに君の言うとおり、寂しさこそこの国土着の悲しい宿命で、寂しさより他なにものこさない無一物。
だが、寂しさの後は貧困。水田から、うかばれない百姓ぐらしのながい伝統から
無知とあきらめと、卑屈から寂しさはひろがるのだ。
ああ、しかし、僕の寂しさは、
こんな国に僕がうまれあわせたことだ。
この国で育ち、友を作り、
朝は味噌汁にふきのとう、
夕食は、筍(たけのこ)のさんしょうあえの
はげた塗膳(ぬりぜん)に坐ることだ。
そして、やがて老、祖先からうけたこの寂寥を、
子らにゆずり、
櫁(しきみ)の葉のかげに、眠りにゆくこと。
そして僕が死んだあと、五年、十年、百年と、
永恆(えいごう)の末の末までも寂しさがつづき、
地のそこ、海のまわり、列島のはてからはてかけて、
十重に二十重に雲霧をこめ、
たちまち、しぐれ、たちまち、はれ、
うつろいやすいときのまの雲の岐れに、
いつもみずみずしい山や水の傷心おもうとき、
僕は、茫然とする。僕の力はなえしぼむ。
僕はその寂しさを、決して、この国のふるめかしい風物のなかからひろい出したのではない。
洋服をきて、巻きたばこをふかし、西洋の思想を口にする人達のなかにもそっくり同じようにながめるのだ。
よりあいの席でも喫茶店でも、友と話しているときでも断髪の小娘とおどりながらでも、
あの寂しさが人々のからだから湿気のように大きくしみだし、人々のうしろに影をひき、
さら、さら、さらさらと音を立て、あたりにひろがり、あたりにこめて、永恆から永恆へ、ながれはしるのをきいた。
三
かつてあの寂しさを軽蔑し、毛嫌いしながらも僕は、わが身の一部としてひそかに執着していた。
潮来節を。うらぶれたながしの水調子を。
廓うらのそばあんどんと、しっぽくの湯気を。
立廻り、いなか役者の狂信徒に似た吊上がった眼つき。
万人が戻ってくる茶漬の味、風流。神信心。
どの家にもある糞壺のにおいをつけた人たちが、僕のまわりをゆきかうている。
その人達にとって、どうせ僕も一人なのだが。
僕の坐るむこうの椅子で、珈琲を前に、
僕のよんでる同じ夕刊をその人たちもよむ。
小学校では、おなじ字を教わった。僕らは互いに日本人だったので、
日本人であるより幸はないと教えられた。
(それは結構なことだ。が、少々僕らは正直すぎる。)
僕らのうえには同じように、万世一系の天皇がいます。
ああ、なにからなにまで、いやになるほどこまごまと、僕らは互いににていることか。
膚のいろから、眼つきから、人情から、潔癖から、
僕らの命がお互いに僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、
天までふきなびいていることか。
四
遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもってきたんだ。
君達のせいじゃない。僕のせいでは勿論ない。みんな寂しさがなせるわざなんだ。
寂しさが銃をかつがせ、寂しさの釣出しにあって、旗のなびく方へ、
母や妻をふりすててまで出発したのだ。
かざり職人も、洗濯屋も、手代たちも、学生も、
風にそよぐ民くさになって。
誰も彼も、区別はない。死ねばいいと教えられたのだ。
ちんぴらで、小心で、好人物な人々は、「天皇」の名で、目先まっくらになって、腕白のようによろこびさわいで出ていった。
だが、銃後ではびくびくもので
あすの白羽の箭(や)を怖れ、
懐疑と不安をむりにおしのけ、
どうせ助からぬ、せめて今日一日を、
ふるまい酒で酔ってすごそうとする。
エゴイズムと、愛情の浅さ。
黙々として忍び、乞食のように、
つながって配給をまつ女たち。
日に日にかなしげになってゆく人々の表情から
国をかたむけた民族の運命の
これほどさしせまった、ふかい寂しさを僕はまだ、生まれてからみたことはなかったのだ。
しかし、もうどうでもいい。僕にとって、そんな寂しさなんか、今は何でもない。
僕、僕がいま、ほんとうに寂しがっている寂しさは、
この零落の方向とは反対に、
ひとりふみとどまって、寂しさの根元をがっきとつきとめようとして、世界といっし
ょに歩いているたった一人の意欲も僕のまわりに感じられない、そのことだ。その
ことだけなのだ。
(昭和20・5・5 端午の日)
――詩集「落下傘」
(「詩のこころを読む」より。読みやすくするために、「新かな」に改めました。編者。)
◇
「書きうつし終えたら、どっと疲れてしまったほど長い長い詩。」という感想を
茨木のり子は漏らしますが
それはこの詩を筆写し、あるいは入力する人に共通する思いでありましょう。
◇
大河のうねりのように迫力のある長編詩
けれど少しのたるみもなく
読む人を乗せて大海へと流れ入るような感銘をあたえてくれます
――と続ける茨木のり子の鑑賞は
これから読んでみて初めてわかることです。
◇
じっくり詩行の1行1行に分け入って
時間をかけて読んでみましょう、まず。
◇
今回はここまで。
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