« 茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む・金子光晴「寂しさの歌」その4 | トップページ | 茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む・金子光晴「寂しさの歌」その6 »

2015年4月14日 (火)

茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む・金子光晴「寂しさの歌」その5

(前回からつづく)

 

ほんとうに君の言うとおり

――の「君」とはいったい誰のことでしょうか。

 

寂しさこそは

この国=日本という国に根っから住み着いた(=土着の)悲しい宿命なのだ 

 

寂しさのほかに何も無い

寂しさだけがある無一物

――と言う「君」は

僕=詩人の分身である以外に考えることはできません。

 

 

寂しさだけが新鮮だ。

寂しさだけの無一物。

 

だが、(無一物の)寂しさの後(あと)には貧困があった。

 

水田の暮らし。

百姓暮らしの長い伝統から

無知と諦めと卑屈から

寂しさは広がる。

 

 

ああ、でも僕の寂しさは

そんな国に生まれあわせてしまったことなのだ。

 

この国で育ち、友だちをつくり

朝は味噌汁にふきのとうを浮かしたやつ

夕には竹の子の山椒和えが載る

はげた塗り膳に座る。

 

こうして祖先から譲り受けた寂寥を

子らに譲り

やがて死んでいく(樒の葉陰に眠る)こと。

 

 

僕が死んだあとも

5年、10年、100年と

未来永劫、寂しさが続き

地の底、海の周辺、列島の果てから果てへ

十重二十重(とえはたえ)に雲霧を込めて

あっという間に時雨れ、また晴れる

うつろいやすい時の雲の千切れには

山や水の傷心を見るような気持ちになり

僕は茫然とする。萎える。

 

 

さてさて。

 

いままで述べてきた寂しさは

この国の古めかしい風物の中にあったものとして拾い出してきたものではないのです。

 

洋服を着て、葉巻を吸い、

西洋乞食みたいに暮らす人の中にも

この寂しさを見ることができるのだ。

 

寄り合いでも喫茶店でも

友と話しているときでも娘とダンスしているときでも

あの寂しさが人々のからだからとっかえひっかえ

湿気(しっけ)のように沁みだし

人々の後ろに影をつくり

サラサラサラと音を立てて

あたりに広がり、立ち込めて

永劫から永劫へ流れていくのを聞いたのだ。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

  

« 茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む・金子光晴「寂しさの歌」その4 | トップページ | 茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む・金子光晴「寂しさの歌」その6 »

現代詩の証言者・金子光晴を読む」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む・金子光晴「寂しさの歌」その4 | トップページ | 茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む・金子光晴「寂しさの歌」その6 »

2020年10月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

最近の記事

カテゴリー

無料ブログはココログ