金子光晴「落下傘」の時代・「さくら」その1
(前回からつづく)
「さくら」は
詩集末尾の「寂しさの歌」から数えて5番目に配置されていて
末尾に昭和19・5・5の日付のある詩。
続く「鷹」の末尾には、
昭和20・5月。特別攻撃隊のニュースをきいて憤懣やる方なく。
――とあり、
続く「――東京の廃墟に立って」は、
昭和20・6・20。
「わが生に与う」に日付はなく
「寂しさの歌」に、
昭和20・5・5 端午の日
――と詩集の結びに入って記録の傾向がやや強調されたのか
その意図はなかったのか。
◇
桜花(さくら)が
女性そのものとして歌われ出すのに
抵抗感はなく自然なのは
象徴詩法の世界に馴染(なじ)んだからでしょうか。
◇
さくら
一
おしろいくずれ、
紅のよごれの
うす花桜。
酔わされたんだよう。
これもみすぎ世すぎさ。
あそばれたままの、しどけなさ。
雨にうたれ、色も褪(さ)めて、
汗あぶら、よごれたままでよこたわる
雲よりもおおきな身の疲憊(つかれ)よ。
女はなんたる弱いものだろう。
家柄とあい性でむすばれる
よい花嫁。
しきたりのまえの伏し目がち。
鉄気くさい貞操、女 今川。
水仕業、ぬい針、世帯やつれて、
あるいは親たちのために身うりして、
あるいは愛するがゆえにしりぞいて、
あきらめに生きる心根のいじらしさ。
それこそは、花の花。
花の下の小ぐらさ。哀しい仄(ほの)明かり。
近々と花はおもてをよせながら
かたらいもえで
はやちりかかる風情。
染井、よし野。
遠山桜。
糸ざくら。
ことしの春を送る花。
この国のやさしい女たちの
いのちのかぎり、悔もなく
天にも地にも咲映えて。
八重一重
手鞠(てまり)、緋ざくら、
遅桜。
2
戦争がはじまってから男たちは、放蕩ものが生まれかわったように戻ってきた。
敷島のやまとごごろへ。
あの弱々しい女たちは、軍神の母、銃後の妻。
日本は桜のまっ盛り。
涙をかざる陽の光、
ちりばめる螺鈿(らでん)、落花の卍、こずえを嵐のわたるときは、ねりあるく白象かともながめられ、
花にうく天守閣。――その一枚のえはがきにも
胸おどらせて、人はいう。
さくらは、みくにのひとごごろと。
におやかなさくらしぐれに肌うずもれて
世のしれものの私は、陶然として、
ただおもう。
さくらのなかをおよぎながら
おもうことは淫らなことばかり。
雪とちりまう鼻紙よ
ぬけ毛、落ち櫛、
あぶらのういた化粧のにごり水。
ふまれたさくら。
泥になったさくら。
さくらよ。
だまされるな。
あすのたくわえなしという
さくらよ。忘れても、
世の俗説にのせられて
烈女節婦となるなかれ。
ちり際よしとおだてられて、
女のほこり、よろこびを、
かなぐりすてることなかれ。
きたないもんぺをはくなかれ。
(中央公論社版「金子光晴全集」第2巻より。「新かな」に改め、適宜、ルビを加えました。編者。)
◇
化粧の白が崩れ
口紅は乱れる
うす花桜の女。
うす花桜は
咲き初めというより
盛りをすぎてうすら白くなった桜でしょうか。
◇
酔わされたんだ。
みすぎ世すぎのためなのさ。
あそばれて、しどけなく。
雨にうたれ、色も褪(さ)めて、
汗あぶら、よごれたままでよこたわっている
雲よりも大きい疲れ。
汚れたままで横たわっている
――のは桜ですが女でもあります。
疲れをためた女の存在が
この詩行によって
ブローアップされます。
◇
詩人は
女がそこに存在するかのように
さくらを見ています。
◇
その女は
なんと弱いものか。
家柄とあい性でむすばれる花嫁。
しきたりの伏し目。
鉄気くさいの鉄気は、「かなけ」「かなっけ」か?
堅苦しく貞操を守ろうとし
教訓書「女今川」のいう通りに
生きようとする。
水仕業(水仕事)や、ぬい針やで、世帯やつれして、
あるいは親たちのためにと説き伏されて身売りして、
あるいは愛するがゆえにと思わされて身を引いて、
あきらめに生きる心根がいじらしい。
◇
これが、花の中の花。
花の小ぐらさだ。
哀しい仄(ほの)明かりだ。
◇
近々と花(女)はおもて(顔)を寄せながら
語らいもえで(語らって燃えもせず?)
早くも散りかかる風情(様子)である。
染井、よし野。
遠山桜。
糸ざくら。
……。
色々な姿態(すがた)を見せて。
◇
ことしの春を送る花。
この国のやさしい女たちは
いのちのかぎり、悔いもなく
天にも地にも咲き映える。
八重一重
手鞠(てまり)、
緋ざくら、
遅桜。
……
色々に形を変えて。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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