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2015年5月25日 (月)

金子光晴「落下傘」の時代・茨木のり子の「最晩年」

(前回からつづく)

 

茨木のり子に「最晩年」というエッセイがあります。

 

「現代詩手帖」の「追悼特集・金子光晴」(1975年9月初出)に寄せたものですが

中に印象に残る記述がこのエッセイの結びにあり

いま「落下傘」の鑑賞を離れるにあたって

不意に思い出されて

どうしても紹介したくなりました。

 

 

「最晩年」とは

茨木のり子が

夫、安信の死に続いた金子光晴の死のことを

ともどもに回想し記録したことから命名された

エッセイのタイトルです。

 

二人の死は

1975年4月18日にあった山本安英の会主催の「ことばの勉強会」の模様から

説き起こされます。

 

金子光晴、谷川俊太郎と茨木のり子による鼎談が

岩波ビル9階会議室でこの日行われ

200人あまりの聴衆の熱気で溢れた今や歴史的なシーンですが

その翌日、病床にあった茨木の夫・安信の容態が急変し

肝臓癌が発見された末

およそ1か月後に他界してしまいます。

 

鼎談の内容や

帰り道での金子の様子、

小康を得た夫に金子の近況を語って聞かせる様子など

茨木の散文の筆先は冴えに冴え

息を飲む場面が続きますが

夫の告別式を済ませた茨木に金子光晴がふっと漏らした言葉を

このエッセイは書きとどめたのです。

 

「最晩年」は

「茨木のり子集 言の葉2」(ちくま文庫)に収められています。

 

 

足の悪い金子さんは骨箱の前に座り遺影に見入り「幾つ? ふうん、56ねえ、仏式でもないようですね」無宗教でやった告別式の残影をちらちら眺め、鉦もならさず線香も立てず、合掌もされなかった。「いま花屋から花が届きますからね、<いささか>からのいささかの志です」

 

 「いささか」というのは金子光晴、中島可一郎、岩田宏、私とで2号迄出していた小詩誌の名である。香奠を供えてふっと私のほうを振りかえり、「いまは八方ふさがりに思うでしょうが、そんなことは何でもないの、心配しなくっていいの、僕だって八方ふさがりばかりだったけどね、こうして生きてきたんだから。その人間になんらかの美点があれば、かならず共同体が助けてくれるもンです」ふしぎなことを聞くものかな。

(※改行を加え、洋数字に変換しました。編者。)

 

 

――とここまでを引用して来たブログ編者は

ここで引用を打ち切って

金子光晴の共同体意識について感想なり意見なりを述べたいところですが

それよりもこの件(くだり)に続けられる部分に

気を惹かれるところなのです。

 

 

 私のカランとした頭はそう思っていた。共同体など信じていなかったのが金子さんではなかったか。しかし時が経って何度か反芻するうち、やっぱりこの中には彼の人間認識なり哲学なりがかっきり嵌め込まれてるのを感じ、自分一人の所有にしておくことは勿体ないと思われてくる。私以上に打ちのめされている人も多い筈である。風のように軽い、そして体験の裏打ちのある故にずしりと重くもあるこの言葉を、敢えて書き記しておくことにする。

 

 それだけ言うと、ひらりと身をかわすように帰ろうとされた。(後略)

 

 

共同体という言葉を残して

茨木宅を後にした5月末から1か月後の6月30日に

金子光晴の訃報が茨木のり子にもたらされますから

これが最後に聞いた言葉になりました。

 

 

詩集「落下傘」に充満する日本主義への痛烈な批判を読んできた者には

もう一度、この詩集を読み返してみることを薦めているような

詩人・茨木のり子のエッセイではありませんか。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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