金子光晴「落下傘」の時代・「さくら」その2
(前回からつづく)
「さくら」は
「二」に入ると男が現れます。
戦争から帰って来た男たちですが
その男たちは豹変(ひょうへん)したかのように
放蕩者(ほうとうもの)が放蕩者ではなくなっています。
根性が変りでもしたかのように
大和心(やまとごころ)の衣(ころも)をかぶった男になるのです。
◇
同時に、あの弱々しかった女たちは
軍神の母になり、銃後の妻に成り変わります。
◇
時あたかも桜花真っ盛り。
(出征する兵士を送る)
涙を太陽の光が祝福する。
◇
ちりばめる螺鈿(らでん)、
落花の卍(まんじ)、
こずえを嵐のわたるときは、ねりあるく白象かともながめられ、
――というのはいずれも桜花の姿態か。
巨大なさくらが花吹雪を飛ばし
散り乱れ
枝々を春嵐が吹く様は
白象が練り歩く姿に見まごう(美しさ)。
◇
桜花の向こうに聳える天守閣。
――という絵葉書のステレオタイプに
胸おどらせて、飽きもせず人は言う。
さくらは、お国とともにある人ごころだ、と。
◇
(そうだろか?)
におやかなさくらしぐれに肌をうずめて
馬鹿な私は、うっとりとして、ただ思います。
桜花の中を泳ぎながら
思うことは淫(みだ)らなことばかり。
雪のように散り舞う鼻紙。
ぬけ毛。
落ち櫛。
あぶらのういた化粧のにごり水。
ふまれたさくら。
泥になったさくら。
みんな同じじゃないか。
◇
ここは
美しいばかりではない桜の
ありのままの姿を受け入れる自然な感じ方を
痴れ者(馬鹿)の私に語らせるヤマです。
◇
鼻紙(はながみ)や
脱け毛や
落ち櫛や
あぶらのういた化粧のにごり水や
……が
生存の必然であるのと同じように
踏まれたり、泥になったりするさくらもまた
さくら。
生存は美しいばかりではない。
美しくあらんとする観念の以前に
生きるために格闘するのだし
万物はやがては死を迎える
――ということまでは歌っていないのかもしれませんが
生きることの内実から眼をそむけて
見失うものがあることへの注意を呼びかけていることは確かでしょう。
もののあわれを観念の死へとショート(短絡)し
美化する危なさ。
◇
さくらよ。
だまされるな。
あすのたくわえもないという
さくらよ。
忘れても、
世の俗説にのせられて
烈女節婦となるな。
散り際がよいとおだてられて、
女のほこり、よろこびを、
かなぐりすてるな。
汚いもんぺをはくな。
◇
最後には
「さくら」は女を励ます歌のようになりますが
その女の背後には同じ道を行く男の存在があることを
読み取らねばならないようです。
男よ!
女にもんぺをはかすな、と。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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