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2015年6月

2015年6月30日 (火)

茨木のり子「詩のこころを読む」を読む/谷川俊太郎の「愛」へ・その4

(前回からつづく)

 

 

 

ぼくは妖精のように人々の間をとびまわっていたい――。

 

 

 

茨木のり子は谷川俊太郎が 

 

どこにだか明示していませんが

 

このように書いていることを紹介して

 

立ち止まります。

 

 

 

女の子ならともかく、大の男が妖精とは?

 

 

 

 

 

 

妖精……。

 

フェアリー……。

 

 

 

「ピ-ター・パン」のあのティンカー・ベルをすぐさま思い出してしまいますから

 

女の子ならともかく、と茨木のり子はおどけてみせたのでしょうが

 

谷川俊太郎はきっと本気だったのでしょう。

 

 

 

 

 

 

突然ですがここで

 

中原中也の詩に出てくるコボルトを呼んでみましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この小児

 

 

 

コボルト空に往交(ゆきか)えば、

 

野に

 

蒼白(そうはく)の

 

この小児(しょうに)。

 

 

 

 

 

黒雲(くろくも)空にすじ引けば、

 

この小児

 

搾(しぼ)る涙は

 

銀の液……

 

 

 

 

 

     地球が二つに割れればいい、

 

     そして片方は洋行(ようこう)すればいい、

 

     すれば私は“もう片方”に腰掛けて

 

     青空をばかり――

 

 

 

花崗(かこう)の巌(いわお)や

 

浜の空

 

み寺(でら)の屋根や

 

海の果て……

 

 

 

 (「新編中原中也全集」第1巻より。新かなに変えてあります。編者。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中也のコボルトにも

 

茨木のり子が「愛」に読み取った

 

詩のありかとか、詩人の覚悟とかが

 

幾分か歌われていることを想起しないわけにはいきませんから

 

この連想はとんでもない的外れではないでしょう、きっと。

 

 

 

谷川俊太郎のイメージのなかに

 

このコボルトが浮かんでいなかったともいえませんし。

 

 

 

 

 

 

妖精のように

 

どんな場所へも気軽に入ってゆき、

 

 

 

映画の台本

 

作詞

 

絵本

 

マザーグースやスヌーピーの翻訳

 

自作詩朗読

 

……などの異なった分野に進出する谷川俊太郎の多彩な活動は

 

あたかも「タレント」のようですが

 

まったくタレントとは異なるものです。

 

 

 

茨木のり子は

 

そのことを十分に知っていながら

 

さらにそのことにひねりを加えて

 

次のように語ります。

 

 

 

 

 

 

これも結ばれよう結ばれようとしている動きに力を貸したいというあらわれで、

 

かるがるとやってのけているようにみえますが、

 

すべては全力投球で、

 

肉体労働者と同じくらいの消耗をともなう勤勉さです。

 

 

 

(改行を加えてあります。編者。)

 

 

 

 

 

 

「詩のこころを読む」を書いた1970年代当時の妖精ぶりは

 

2015年現在、いっそう旺盛であることは周知のことです。

 

 

 

肉体労働にもタレントにも比肩(ひけん)する活動は

 

それまでの詩人のイメージをぶちこわしました。

 

 

 

 

 

 

茨木のり子によればそれまでの詩人は、

 

俗物を軽蔑し孤高、

 

世に容れられず、

 

ひねくれもの、

 

破滅型、

 

借金の名人、

 

大酒のみ

 

――といったイメージでしたが

 

谷川俊太郎はこれらのイメージをことごとく覆(くつがえ)してしまったのです。

 

 

 

谷川俊太郎の

 

これが新しさでした。

 

 

 

それは

 

「愛」の新しさでもありました。

 

 

 

 

 

 

イマージュという言葉は

 

「愛」に詩語として歌われたのですが

 

実は詩の中に具体的に例示されています。

 

 

 

樹がきこりと

 

少女が血と

 

窓が窓と

 

歌がもうひとつの歌と

 

あらそうことのないように

 

――という詩行(詩語)を茨木のり子は取りあげて、

 

 

 

このイメージは世界とつながっていて、

 

フランスの少女を連想してもいいし、

 

きこりはシベリアでもよく、

 

窓はメキシコ、

 

歌と歌は江差追分とファド……

 

まったく自由です。

 

――と読み解きます。

 

 

 

全世界にむかって開かれた詩は

 

前代未聞であったことを断言するのです。

 

 

 

 

 

 

 

Paul Klee



いつまでも

 

そんなにいつまでも

 

むすばれているのだどこまでも

 

そんなにどこまでもむすばれているのだ

 

弱いもののために

 

愛し合いながらもたちきられているもの

 

ひとりで生きているもののために

 

いつまでも

 

そんなにいつまでも終わらない歌が要(い)るのだ

 

天と地をあらそわせぬために

 

たちきられたものをもとのつながりに戻すため

 

ひとりの心をひとびとの心に

 

塹壕(ざんごう)を古い村々に

 

空を無知な鳥たちに

 

お伽話を小さな子らに

 

蜜を勤勉な蜂たちに

 

世界を名づけられぬものにかえすため

 

どこまでも

 

そんなにどこまでもむすばれている

 

まるで自ら終ろうとしているように

 

まるで自ら全(まった)いものになろうとするように

 

神の設計図のようにどこまでも

 

そんなにいつまでも完成しようとしている

 

すべてをむすぶために

 

たちきられているものはひとつもないように

 

すべてがひとつの名のもとに生き続けられるように

 

樹がきこりと

 

少女が血と

 

窓が窓と

 

歌がもうひとつの歌と

 

あらそうことのないように

 

生きるのに不要なもののひとつもないように

 

そんなに豊かに

 

そんなにいつまでもひろがってゆくイマージュがある

 

世界に自らを真似させようと

 

やさしい目差でさし招くイマージュがある

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(「詩のこころを読む」より。)

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

 

2015年6月28日 (日)

茨木のり子「詩のこころを読む」を読む/谷川俊太郎の「愛」へ・その3

(前回からつづく)

 

 

 

この世には面(おもて)をそむけるような残酷なことが平然とおこなわれ、

 

その反面、涙のにじむようなやさしさもまた、人知れず咲いていたりします。

 

(岩波ジュニア新書「詩のこころを読む」より。)

 

 

 

 

 

 

世界は、

 

断ち切る力(残酷な)=前者と

 

結ばれる力(やさしさ)=後者が渦を巻いている。

 

 

 

芸術は、

 

結ばれようとする力(後者)を形にする精神活動の一つ。

 

 

 

茨木のり子は

 

「愛」の独自な読みに入り

 

このような解を述べます。

 

 

 

「愛」の最終行、

 

世界に自らを真似させようと

 

やさしい目差でさし招くイマージュ。

 

――とある「イマージュ」を読み解くために。

 

 

 

 

 

 

イマージュ。

 

 

 

それはたとえば、

 

モーツアルトを聴く時に全身をひたしてくる、この世ならぬ恍惚感、とか

 

百済観音(くだらかんのん)のほほえみに引き寄せられるこころ、とか

 

舞踏の跳躍や静止の瞬間に魂をうばわれる時、とか。

 

 

 

これらを

 

誘い出すもの。

 

その力。

 

そのやさしさ。

 

 

 

クレーの絵にあるものも

 

このイマージュ。

 

このやさしさ。

 

――と「愛」が歌うところを読むのです。

 

 

 

 

 

 

詩は

 

クレーの絵のただ中にいきなり入って

 

クレーの世界にいる状態を歌っているようですが

 

終わりになって

 

そんなにいつまでもひろがってゆくイマージュがある

 

やさしい目差でさし招くイマージュがある

 

――という詩行にぶつかっては

 

クレーの絵を距離をおいて見ている詩人が現われることになります。





ここで詩人は絵の外側にいて

 

怜悧(れいり)な眼差しを絵に向けています。

 



茨木のり子のいう

 

詩のありか、詩人の覚悟が

 

ここに姿を現わします。

 

 

 

 

 

 

谷川俊太郎のクレーとの出会いは

 

やがて「クレーの絵本」や「クレーの天使」を生みますし

 

「モーツアルトを聴く人」の挿画や表紙にクレーを使うなど

 

繰り返し繰り返し登場しますし

 

詩作の重要な契機(エレメント)になり

 

モチーフになりヒントになりテーマになります。

 

 

 

 

 

「愛」を書いたときには

 

啓示といえるようなものだったのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年6月27日 (土)

茨木のり子「詩のこころを読む」を読む/谷川俊太郎の「愛」へ・その2

(前回からつづく)

 

「愛」には

Paule Kleeに」という献辞がつけられています。

 

クレーの絵の一つを見ているのか、

何枚か見たのか。

クレーという画家(の存在)へ向けて贈ったものか。

そのどちらでもあるのか。

 

「二十億光年の孤独」から3年後の「愛について」で

「愛」を歌った詩人は

副題にパウル・クレーへのオマージュ(賛歌)を付したのです。

 

 

茨木のり子はそこのところを

クレーの絵の何かを見てハッとし、それにうながされて出来あがったからでしょうか、しかし、作者はここで自分自身をもよく語ってしまっています。詩を書くいわれ、、そして、覚悟のようなものを。

――と書いて、谷川俊太郎のアウトラインを語りはじめます。

 

18歳くらいからはじめた詩作は

「かなしみ」のような自然発生的に生まれるナイーブさにはじまり、

だんだん自覚的なものになっていった。

 

学校嫌いの結果、高校卒。

大学は行けるのに行かなかった、という流れのハシリ的存在だった。

 

――などと詩人の誕生課程を手短かに語り、

 

 

荒廃した世相のなかで、

みんな打ちひしがれて、しょぼくれて、絶望的な詩ばかりあふれていた時、

そんな世の中でもたしかに存在する、

自分のたった1回きりの青春を思うさま謳歌しました。

(岩波ジュニア新書「詩のこころを読む」より。改行を加えてあります。編者。)

 

――と青春を謳歌した詩人像を浮きぼりにします。

 

この部分は前に一度引きましたが

詩や生き方や経歴などへの世間の風当たりは強く

賛嘆の声があがるいっぽうきびしいものもあったのです。

 

 

詩壇での評価をここで詳しく見るわけにはいきませんが

詩人で評論も書く北川透が

「危機のなかの創造――谷川俊太郎論」のなかで、

 

それにしても、谷川俊太郎はまともに論じられることの少い詩人である。

 

第一級の詩人や思想家はなぜ、現代詩と人間状況の危機をもっとも鋭敏に反映している詩人の一人として、谷川俊太郎の詩を緻密な批評の俎上にのせないのだろうか。

 

――などと不満気に書いたのは1965年のことです。

(「現代詩手帖」同年5月号、後に「詩と思想の自立」所収。)

 

「二十億光年の孤独」が1952年。

「六十二のソネット」が1953年。

「愛について」が1955年。

 

北川透のこの評論は

時事風刺詩を集めた「落首九十九」(1964年)の刊行をきっかけに書かれたものでした。

 

 

この評論をたまたま読んだのですが

これにどのような反響があったのでしょうか。

 

「詩のこころを読む」が刊行されたのは1979年でしたから

北川透の谷川俊太郎評価は

早い時期に属するものだったのでしょう。

 

 

しゃにむに書いてゆくうち、なんのために生まれてきたか、自分はどんな詩を書いてゆくべきかがつかめてきたように見えます。

――と茨木のり子が記すのは

詩の同人誌「櫂」を通じて

身近な交流を続ける中での観察も含まれているからのことでしょう。

 

 

これを、詩人の覚悟というふうに茨木のり子はとらえました。

 

覚悟の定まった域に入って出されたのが

第3詩集「愛について」でした。

 

「愛」は

その詩集の主旋律を形成する詩ということになります。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

2015年6月21日 (日)

茨木のり子「詩のこころを読む」を読む/谷川俊太郎の「愛」へ

(前回からつづく)

 

敗戦の年に14歳(12月15日に誕生)だったのですから

谷川俊太郎は2015年6月の今83歳。

 

折しも、先日(6月19日)の朝日新聞朝刊記事は

歳月を感じさせる谷川俊太郎と大岡信の友情を伝えています。

 

 

詩友・大岡信が今月出したばかりの選集「丘のうなじ」(童話屋・刊)で

谷川俊太郎が詩作品の選者を担当し

本の最後には谷川の「微醺(びくん)をおびて」という新作詩を載せていることを案内しています。

 

 

「微醺をおびて」は

40年前の1975年、谷川俊太郎特集を組んだ雑誌(「現代詩手帖」10月臨時増刊「谷川俊太郎」か)に寄せた

大岡の詩への返詩であるそうです。

 

大岡は「初秋午前五時白い器の前にたたずみ/谷川俊太郎を思ってうたふ述懐の唄」という
長いタイトルの詩を贈ったのですが、

朝日の記事にはその一部が紹介されています。

 

君のうたを眼で逐ふと

涼しい穴がぽかりとあいた

牧草地の雨が

糞(ふん)を静かに洗ふのが君のうたさ

 

――は、その一部です。

 

詩誌「詩学」そして詩のグループ「櫂」にはじまる

長い交流の中でこそ

1975年の大岡のこの詩は生まれたものなのでしょう。

 

 

この詩から40年。

「おおおかぁ」

「君」

――と互いを詩の中で呼び合う親密な時間が

2015年現在にも実現したことになります。

 

 

谷川俊太郎の返詩の一部も紹介されています。

その一部の中に、

 

でもおれたち二人の肉だんごもいつかは

おとなしくことばと活字に化してしまうのかな

――という詩行はあります。

 

 

かつて「いつか死ねることの慰め」(「対詩」1981~1983年)を歌ったり

ほかにも幾つかの死に関する詩を歌った詩人が

83歳の今、「もうちょっと具体的になってきている」(同朝日記事の詩人の発言)テーマを

ここでも言葉にしていて

ギクリとしないではいられません。

 

エッセイ集「ひとり暮らし」(2001年)では、

1999年12月に69歳になった感想を述べていました(「ある日」)が

それから早くも10余年の歳月が流れました。

 

 

茨木のり子が「詩のこころを読む」で読んでいる

「かなしみ」は詩集「二十億光年の孤独」(1952年)に、

「芝生」は詩集「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」(1975年)に、

「愛」は「愛について」(1955年)にそれぞれ収められていますが

「愛」が歌われてから60年、

今年は、戦後70年です。

 

何もかもが

歴史化されていくようですが

詩はその時々に作られたものでありながら

その時々の時をとらえ

後になって読んでも

その時の中に人々を誘い込んでしまうのは

どのような仕掛けがあるからでしょうか。

 

 

Paul Klee

 

いつまでも

そんなにいつまでも

むすばれているのだどこまでも

そんなにどこまでもむすばれているのだ

弱いもののために

愛し合いながらもたちきられているもの

ひとりで生きているもののために

いつまでも

そんなにいつまでも終わらない歌が要(い)るのだ

天と地をあらそわせぬために

たちきられたものをもとのつながりに戻すため

ひとりの心をひとびとの心に

塹壕(ざんごう)を古い村々に

空を無知な鳥たちに

お伽話を小さな子らに

蜜を勤勉な蜂たちに

世界を名づけられぬものにかえすため

どこまでも

そんなにどこまでもむすばれている

まるで自ら終ろうとしているように

まるで自ら全(まった)いものになろうとするように

神の設計図のようにどこまでも

そんなにいつまでも完成しようとしている

すべてをむすぶために

たちきられているものはひとつもないように

すべてがひとつの名のもとに生き続けられるように

樹がきこりと

少女が血と

窓が窓と

歌がもうひとつの歌と

あらそうことのないように

生きるのに不要なもののひとつもないように

そんなに豊かに

そんなにいつまでもひろがってゆくイマージュがある

世界に自らを真似させようと

やさしい目差でさし招くイマージュがある

 

(「詩のこころを読む」より孫引きです。)

 

 

「寂しさの歌」が終わり

「愛」がはじまる――。

 

茨木のり子は

「詩のこころを読む」で

金子光晴の長詩「寂しさの歌」と双子座のように似ているという読みをほどこしたのが

谷川俊太郎の「愛」でした。

 

こんなスケールの中で

いつしか谷川俊太郎の詩を読むことに

もはや何の異和感もありません。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

2015年6月16日 (火)

谷川俊太郎の14歳と金子光晴の三つの戦争/同時代について・2

(前回からつづく)

 

 

 

茨木のり子は

昭和初年に生まれた世代の典型でしたが

14歳の時に敗戦を迎えたのが

疎開世代と茨木のり子が呼ぶ谷川俊太郎です。

 

20歳が敗戦だった茨木のり子。

14歳が敗戦だった谷川俊太郎。

 

金子光晴は敗戦の年、50歳でした。

 


自分の身に引き替えて

小学校高学年から中学、高校、大学2・3年生あたりまでの人生を考えれば

茨木のり子の無念さを少しくらいは想像できるでしょう。

 

14歳の時に敗戦を迎えた谷川俊太郎は

だから戦争の打撃はさほど大きくはなかったと言っては乱暴でしょうか。


成人が敗戦を経験したのと

少年(青年)が経験したのとの違いを比べて

その経験の深浅を単純に推しはかるのはナンセンスです。


それにしても

6歳も年長の茨木のり子からすれば

損傷された青春という点では

谷川俊太郎の打撃は軽度なものに見えて自然なことであったでしょう。 


もちろん、そんなふうに発言しているわけではありませんが。



荒廃した世相のなかで、

みんな打ちひしがれて、

しょぼくれて、

絶望的な詩ばかりあふれていた時、

谷川俊太郎はそんな世の中でもたしかに存在する、

自分のたった一回きりの青春を思うさま謳歌しました

――と茨木のり子が「詩のこころを読む」で谷川俊太郎を紹介したのは

そのような背景があってのことでしょう。


青春を謳歌する時間が

谷川俊太郎には残されていたのでした。



1944年(昭和19) 12~13歳

都立豊多摩中学校(旧、府立第十三中学校)に入学する。帽子に付ける徽章は、もう金属製ではなくて、瀬戸物だった。カーキ色のスフのべらべらの制服を着て、ゲートルを巻かされた。


1945年(昭和20) 13~14歳

空襲が激しくなり、5月に東京山の手大空襲があった。友人と自転車で近所の焼け跡へ行き、焼死体を見る。7月、母とともに、その里である京都府久世郡淀町に疎開した。9月、京都府立桃山中学校に転学。

 
1946年(昭和21) 14~15歳

3月、東京の杉並の家に帰り、豊多摩中学校(のちの都立豊多摩高校)に復学。ベートーベンの音楽に感激して夢中で聴き始めた。

(岩波文庫「谷川俊太郎詩集」巻末年譜より。)



 

谷川俊太郎の年譜から

敗戦前後の3年間をピックアップしてみると

こんなふうに記録されています。


谷川俊太郎の経験にも

戦争の影が及んでいます。



金子光晴の場合はどうだったか。


それをきちんと見るには

全著作に当たってみなければなりませんが

いまとりあえず自伝「詩人」から拾うことができるところを拾っておきましょう。



もともと、もらわれっ子であり、親たちの気まぐれの御相伴で、赤ん坊のときから、ちやほや祭りあげられたり、忘れたように放任されたりして、感情をもてあそばれてきたために、極端な得意と、奈落の淋しさうぃ味わされ、感じやすい少年になっていたうえ、日清戦争にうまれ、日露戦争を小学校の時に、さらに中学時代に第一次欧州大戦を経験したということは、その過剰な刺激のために、感性のささくれ立った子供を、異常性格にするに充分な条件であったかもしれない。



 

自伝「詩人」の

まだ序章のうちにある中学校までの来歴を語る途中で

金子光晴はこのように振りかえっています。


別のところでも ――



明治、大正、昭和と、三つの時代に跨って、僕は生きてきた。明治、大正、昭和の三時代の複雑な変転に添うて生きてきたことは、やはり問題で、僕の成長にも世相の変転相がからんでいて、一一にらみあわさなければわからないし、日清、日露の戦争のあいだに人となった人物ということを度外視しては、僕一個の人間を考えることができない。僕の感情の起伏の歴史は、戦争の好景気や、その反動、周囲の人間の気風に密接につながっているのだ。

(旺文社文庫「詩人」より。)



数奇にして波乱万丈の人生を

具体的に詳細に回想する自伝の折々に

このような述懐がはさまれるのです。



途中ですが

今回はここまで。

 

 

2015年6月15日 (月)

茨木のり子の11歳と中原中也「蛙声」/同時代について

(前回からつづく)

 

茨木のり子が日中戦争の開始を知ったのは

小学校5年生の時で

始業前の校庭でドッジボールをしている最中のことでした。

 

「戦争がはじまったんだって。いやだねえ」

「ふうン、どこと?」

「支那とだが」

――という三河弁まじりの会話で「はたちが敗戦」というエッセイを書き出します。

 

昭和12年(1937年)のことでした。

この時の年齢は11歳。

 

 

盧溝橋事件にはじまった日支事変のニュースを

大人たちから聞き知ったのでしょうか

ラジオや新聞で知ったのでしょうか

校庭でドッジボールをする合間に交わした会話に耳がそばだつのは

この頃に中原中也が存命中であり

丁度、「ランボウ詩集」の翻訳を完成した時期であるからです。

 

中也が死んだ年に

茨木のり子は小学校5年生だったのですね!

 

中也は次に「在りし日の歌」の清書を終え

小林秀雄に原稿を託してまもなく

結核性の病気にかかってあっけなく死んでしまいますが

茨木のり子が小学校5年生だった時に

中原中也が旺盛な創作活動を行っていたという事実が

遠い日のことではないことを教えてくれて目が覚めるのです。

 

戦後70年の歳月ですが

なんだかちょっと前のことのようではないですか!

盧溝橋事件から

80年も経っていないのです。

 

 

昭和16年(1941年)に真珠湾攻撃があり太平洋戦争へ。

茨木のり子、この時、15歳。

 

昭和20年(1945年)の敗戦時に20歳(はたち)でした。

 

11歳から20歳の8年間を戦争下で暮らしたのですから

中原中也の生きた時間にまっすぐに繋がっている時代を

引き続いて茨木のり子は生きたのです。

 

 

「在りし日の歌」最終詩「蛙声」を

思い出してみましょう。

 

 


蛙声

 
天は地を蓋(おお)い、

そして、地には偶々(たまたま)池がある。

その池で今夜一(ひ)と夜(よ)さ蛙は鳴く……

――あれは、何を鳴いてるのであろう?

 

その声は、空より来(きた)り、

空へと去るのであろう?

天は地を蓋い、

そして蛙声(あせい)は水面に走る。

 

よし此(こ)の地方(くに)が湿潤(しつじゅん)に過ぎるとしても、

疲れたる我等(われら)が心のためには、

柱は猶(なお)、余りに乾いたものと感(おも)われ、

 

頭は重く、肩は凝(こ)るのだ。

さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、

その声は水面に走って暗雲(あんうん)に迫る。

 

(「新編中原中也全集」第1巻より。新かなに変えてあります。編者。)

 

 

直接に関係ありませんが

中也がこの詩を歌った時代を

茨木のり子は呼吸していたのでした。

 

同時代を生きた時間があったのです。

 

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

2015年6月12日 (金)

茨木のり子「詩のこころを読む」を読む・金子光晴の「寂しさの歌」再3

(前回からつづく)

 

貧困のさびしさ、世界で一流国とは認められないさびしさに、耐えきれなかった心たちを、上手に釣られ一にぎりの指導者たちに組織され、内部で解決すべきものから目をそらさされ、他国であばれればいつの日か良いくらしをつかめると死にものぐるいになったのだ
(岩波ジュニア新書「詩のこころを読む」)

――と茨木のり子が記した「上手に釣られ」の「釣られ」という言葉は

「寂しさの歌」の最終連(第4連)の冒頭に、

 

遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもってきたんだ。

君達のせいじゃない。僕のせいでは勿論ない。みんな寂しさがなせるわざなんだ。

寂しさが銃をかつがせ、寂しさの釣出しにあって、旗のなびく方へ、

母や妻をふりすててまで出発したのだ。

かざり職人も、洗濯屋も、手代たちも、学生も、

風にそよぐ民くさになって。

 

――とある「寂しさの釣出し」を受けたものです。

 

 

上手に釣られ、組織されたのは、

貧しさゆえのさびしさや

一流国と認められないさびしさが狙われたもの。

 

丁度、エサで魚が釣られるように

さびしさが釣り出しに利用された。

 

エサに釣られてパクリとやる呼吸で

他国を攻めた戦争。

――と、釣る人間、釣られる魚、そして釣られる人間の関係を金子光晴の詩に読みました。

 

 

茨木のり子は「釣出し」を噛み砕いて

さらに卑近な例をあげます。

 

 

さびしさにいたたまれなくなって、

友人に電話して声をききたくなったり、

旅に出たり、

衝動買いをしてしまったり、

……というような身近な例。

 

そういうことなら自分を許してあげることができますが

もっと大事なことで決断する時、

出所進退を明らかにしなければならない時、

そんな時こそ注意しなくちゃ。

 

寂しさの釣出しは

まずおいしいエサとして目の前にぶら下げられるので

パクリとやってしまいますしね。

 

いつも戦争という形でやってくるものでもないので

油断できませんよ。

――と(こんな詠嘆詞を使っていませんが)

語りかけるような口調で述べています。

 

 

「寂しさの歌」はエンディング(結部)に差し掛かり

詩人が孤絶する中で最も強く感じていた本当の寂しさについて

次のように吐露(とろ)します。

 

 

僕、僕がいま、ほんとうに寂しがっている寂しさは、

この零落の方向とは反対に、

ひとりふみとどまって、寂しさの根元をがっきとつきとめようとして、世界といっし

ょに歩いているたった一人の意欲も僕のまわりに感じられない、そのことだ。その

ことだけなのだ。 

(昭和20・5・5 端午の日)

 

 

第1連、第2連、第3連、そして第4連と歌われてきた

寂しさの風景と

第4連の最終節で歌われる寂しさとは

まったく異なる寂しさがここで歌われているように見えます。

 

そうだとすれば

詩人は同じ仲間の詩人たちや

詩人でなくとも知識人・文化人のことを嘆いたのでしょうか?

 

 

そのように読むことは大いに可能で

この詩が終わって

末尾に「昭和20・5・5 端午の日」とある日付が

そのことを語って余りあるからです。

 

この日付の日に

敗戦の色は濃かったのですし

戦争の原因となり動力となった寂しさの風景は

もはやすでに後の祭り。

 

そんな寂しさなんか、今はなんでもない寂しさであったのですし

やがては終わるであろう戦争の根っ子にあるものは

これからもあり続けるのであろうし

そのことを「がっき」と受け止めて

世界の人々とともに歩んでいこうとする意欲のあるものが

僕の周辺には今いない、

そのことが寂しい――。

 

ここに唐突な感じで現れる「世界」は

「日本」の彼方にあるものであることは疑うことができませんから

それは「西洋」と読み替えてもよい彼方を指します。

そう読んでもおかしくありませんし 

戦争が終わって後のこの国の風景をも

最終連のこの最終句は見透かしているのかもしれません。

 

 

国家に言及した冒頭のニーチェのエピグラフ(序詞)に呼応する最終句を

茨木のり子はキャッチしたのでしょう。

 

パスポートなしでどんなところにも行ける

はるか彼方を夢みさせてくれる詩であることを述べて

「寂しさの歌」を読み終えます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

2015年6月10日 (水)

茨木のり子「詩のこころを読む」を読む・金子光晴の「寂しさの歌」再2

(前回からつづく)

 

「詩のこころを読む」で茨木のり子はどのようなことを記しているのか

――という角度に絞って

 ようやく「寂しさの歌」へアクセスすることができる段取りになりました。

 

 

茨木のり子が「最晩年」を書いたのは1975年。

「詩のこころを読む」を書いたのは1979年。

 

 

ということは

 「共同体」という言葉を金子光晴が呟いたのを聞いた時が先で

 「詩のこころを読む」を書く頭の中には

 このことが意識されていたということになりそうですが 

「共同体」の言葉は現れません。

 

では

茨木のり子は「寂しさの歌」」をどのように読んだか――。

 

 

戦争によって損なわれた青春については

胸にわだかまるものが積もりに積もっていて

書きたいこと、吐き出してしまいことは渦巻いていたに違いませんし

だから(と断言してよいでしょう)

「詩」へ向かったのでしょうし

「わたしが一番きれいだったとき」や「根府川の海」のような詩を書き

「はたちが敗戦」のようなエッセイを書いたのでしょうが

詩やエッセイを書いても

戦争とは何だったのかについての思索は完成されなかったのでしょう。

 

 

そのようなときに

「詩のこころを読む」を書く機会を得て

これは初心者向けの案内という性格でしたから

できるだけわかり易く噛み砕いて

 読む人に伝えなければならないという目的に加えて

 (私の)戦争とはどんなことだったのかを

あらためて茨木のり子に考えさせるところとなったのです。

 

そこで即座に現れたのが

金子光晴でした。

 

 

ずいぶんと色々なことを書こうとしている様子がありますが

ここで読んでおきたいところは一つです。

 

かんたんに贋金(にせがね)をつかんでしまう日本人の心の風景――その心臓部を射ぬいている

――と「寂しさの歌」を読むところです。

 

 

 

第2次世界大戦時における日本とは何だったのか、なぜ戦争をしたのか、その理由が本を読んでも記録をみても私にはよくわかりません。

頭でもわからないし、まして胸にストンと落ちる納得のしかたができませんでした。

――という2行にはじまり、

東洋各国との戦争は侵略であることがはっきりしましたが、アメリカとの戦いは結局なんだったのか、原爆をおとされたことで被害国でもあり、全体は実に錯綜(さくそう)しています。そんなわけのわからないもののために、私の青春時代を空費させられてしまったこと、いい青年たちがたくさん死んでしまったこと、腹がたつばかりです。

――と続け、

 

私の子供の頃には、娘をつぎつぎ売らなければ生きていけない農村社会があり、人の恐れる軍隊が天国のように居心地よく思われるほどの貧しい階層があり、うらぶれた貧困の寂しさが逆流、血路をもとめたのが戦争だったのでしょうか。

 

貧困のさびしさ、世界で一流国とは認められないさびしさに、耐えきれなかった心たちを、上手に釣られ一にぎりの指導者たちに組織され、内部で解決すべきものから目をそらさされ、他国であばれればいつの日か良いくらしをつかめると死にものぐるいになったのだ、と考えたとき、私の経験した戦争(12歳から20歳まで)の意味がようやくなんとか胸に落ちたのでした。

――と締めくくったところです。

 

 

 

この、最後の行の、

 私の経験した戦争(12歳から20歳まで)の意味がようやくなんとか胸に落ちたのでした。

――というところ。

 

ここが大事です。

この1行が茨木のり子の金子光晴との出逢いの意味の全てです。

 

 

私の青春を奪った戦争とは何だったのか――。

 

本や記録を読んでもわからなかったことが

金子光晴の詩を読んで

胸に落ちた、と茨木のり子は書いたのです。

 

その詩の一つが「寂しさの歌」でした。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 「寂しさの歌」は、

 即興的ではありましたがかなりじっくりと読みましたから

 蛇足ながらその記事へリンクしておきます。

 茨木のり子「詩のこころを読む」を読む・金子光晴の「寂しさの歌

 

2015年6月 6日 (土)

茨木のり子の同時代年表その1

Ibarakidoujidai1_3

2015年6月 5日 (金)

茨木のり子「詩のこころを読む」を読む・金子光晴の「寂しさの歌」再1

(前回からつづく)

 

茨木のり子には「はたちが敗戦」というエッセイがあり

この詩人の輪郭(りんかく)をくっきりとさせるものの一つとしてとりわけ有名です。

 

「茨木のり子集 言の葉Ⅰ」(ちくま文庫)で読むことができますが

同文庫の巻末資料「初出一覧」には

たいまつ新書36「ストッキングであるく時」(堀場清子編、1978・5)への書き下ろしとありますから

純然たる詩誌への発表ではなかったことが理解できます。

 

この新書を読んでいませんからはっきり言えませんが

戦争で失われた青春を敗戦と同時に取り戻した

――といった内容のアンソロジーと想像できますから

茨木のり子にぴったりしたテーマだったのでしょう。

 

茨木のり子という詩人が

そのように位置づけられて

詩誌以外のメディアに登場したことを示しているものと見てよいはずです。

 

 

その「はたちが敗戦」の中に

薬剤師への道を捨てて戯曲作家を志し

その後、詩の道へ転じた経緯(いきさつ)が書かれてあります。

 

 

茨木のり子は

昭和21年にあった読売新聞の「戯曲」募集に応募し

選外佳作に選ばれたのですが

これをきっかけに新劇女優・山本安英と相知ることになり

多くの芝居を見、戯曲を読む中で

詩を勉強しようと決意します。

 

なぜ詩だったのか。

 

そこのところは

茨木のり子自身の言葉で読んでおかないといけません。

 

 

沢山の芝居を観、戯曲を読むうち、台詞の言葉がなぜか物足らないものに思えてきた。生意気にもそれは台詞の中の<詩>の欠如に思われてきたのである。詩を本格的に勉強してみよう、それからだなどと詩関係の本を漁るうち、金子光晴氏の詩に出逢った。

(ちくま文庫「はたちが敗戦」より。)

 

 

戯曲(台詞で作られている)の中の「詩の欠如」が

詩人・茨木のり子のモチベーションとなったのでした。

 

 

急ぎ足で書かれてあるせいか

詩誌への発表ではないせいか

回想であり整理されてあるせいか

余計なことはちっとも書かずに

山本安英と金子光晴の二人の固有名だけにズバリ触れているところは

いかにも茨木のり子らしいところですが

詩人として出発しようとしていたまさにこの時に

自然に金子光晴の名があげられているところに

驚きを感じる人は多いことではないでしょうか。

 

 

驚こうと驚くまいと

茨木のり子は詩を書こうとしていた当初に

金子光晴の詩に出会ったのでした。

その詩が実際にはどの詩であったか
「金子光晴――その言葉たち」(1972年5月「ユリイカ」)などに
若干、具体例が記されていますが
それは記憶に残った一部の詩であることでしょう。

中に「洪水」の6行が引用されているところがありますから
詩集「落下傘」を読んだことは間違いありません。

「寂しさの歌」も
この時に目を通したことも容易に想像できます。

 

 

「落下傘」の最終詩「寂しさの歌」を

茨木のり子はどう読んだか。

 

ようやく

そこへ辿りつきました。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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