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2015年6月15日 (月)

茨木のり子の11歳と中原中也「蛙声」/同時代について

(前回からつづく)

 

茨木のり子が日中戦争の開始を知ったのは

小学校5年生の時で

始業前の校庭でドッジボールをしている最中のことでした。

 

「戦争がはじまったんだって。いやだねえ」

「ふうン、どこと?」

「支那とだが」

――という三河弁まじりの会話で「はたちが敗戦」というエッセイを書き出します。

 

昭和12年(1937年)のことでした。

この時の年齢は11歳。

 

 

盧溝橋事件にはじまった日支事変のニュースを

大人たちから聞き知ったのでしょうか

ラジオや新聞で知ったのでしょうか

校庭でドッジボールをする合間に交わした会話に耳がそばだつのは

この頃に中原中也が存命中であり

丁度、「ランボウ詩集」の翻訳を完成した時期であるからです。

 

中也が死んだ年に

茨木のり子は小学校5年生だったのですね!

 

中也は次に「在りし日の歌」の清書を終え

小林秀雄に原稿を託してまもなく

結核性の病気にかかってあっけなく死んでしまいますが

茨木のり子が小学校5年生だった時に

中原中也が旺盛な創作活動を行っていたという事実が

遠い日のことではないことを教えてくれて目が覚めるのです。

 

戦後70年の歳月ですが

なんだかちょっと前のことのようではないですか!

盧溝橋事件から

80年も経っていないのです。

 

 

昭和16年(1941年)に真珠湾攻撃があり太平洋戦争へ。

茨木のり子、この時、15歳。

 

昭和20年(1945年)の敗戦時に20歳(はたち)でした。

 

11歳から20歳の8年間を戦争下で暮らしたのですから

中原中也の生きた時間にまっすぐに繋がっている時代を

引き続いて茨木のり子は生きたのです。

 

 

「在りし日の歌」最終詩「蛙声」を

思い出してみましょう。

 

 


蛙声

 
天は地を蓋(おお)い、

そして、地には偶々(たまたま)池がある。

その池で今夜一(ひ)と夜(よ)さ蛙は鳴く……

――あれは、何を鳴いてるのであろう?

 

その声は、空より来(きた)り、

空へと去るのであろう?

天は地を蓋い、

そして蛙声(あせい)は水面に走る。

 

よし此(こ)の地方(くに)が湿潤(しつじゅん)に過ぎるとしても、

疲れたる我等(われら)が心のためには、

柱は猶(なお)、余りに乾いたものと感(おも)われ、

 

頭は重く、肩は凝(こ)るのだ。

さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、

その声は水面に走って暗雲(あんうん)に迫る。

 

(「新編中原中也全集」第1巻より。新かなに変えてあります。編者。)

 

 

直接に関係ありませんが

中也がこの詩を歌った時代を

茨木のり子は呼吸していたのでした。

 

同時代を生きた時間があったのです。

 

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

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