茨木のり子の11歳と中原中也「蛙声」/同時代について
(前回からつづく)
茨木のり子が日中戦争の開始を知ったのは
小学校5年生の時で
始業前の校庭でドッジボールをしている最中のことでした。
「戦争がはじまったんだって。いやだねえ」
「ふうン、どこと?」
「支那とだが」
――という三河弁まじりの会話で「はたちが敗戦」というエッセイを書き出します。
昭和12年(1937年)のことでした。
この時の年齢は11歳。
◇
盧溝橋事件にはじまった日支事変のニュースを
大人たちから聞き知ったのでしょうか
ラジオや新聞で知ったのでしょうか
校庭でドッジボールをする合間に交わした会話に耳がそばだつのは
この頃に中原中也が存命中であり
丁度、「ランボウ詩集」の翻訳を完成した時期であるからです。
中也が死んだ年に
茨木のり子は小学校5年生だったのですね!
中也は次に「在りし日の歌」の清書を終え
小林秀雄に原稿を託してまもなく
結核性の病気にかかってあっけなく死んでしまいますが
茨木のり子が小学校5年生だった時に
中原中也が旺盛な創作活動を行っていたという事実が
遠い日のことではないことを教えてくれて目が覚めるのです。
戦後70年の歳月ですが
なんだかちょっと前のことのようではないですか!
盧溝橋事件から
80年も経っていないのです。
◇
昭和16年(1941年)に真珠湾攻撃があり太平洋戦争へ。
茨木のり子、この時、15歳。
昭和20年(1945年)の敗戦時に20歳(はたち)でした。
11歳から20歳の8年間を戦争下で暮らしたのですから
中原中也の生きた時間にまっすぐに繋がっている時代を
引き続いて茨木のり子は生きたのです。
◇
「在りし日の歌」最終詩「蛙声」を
思い出してみましょう。
◇
蛙声
天は地を蓋(おお)い、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一(ひ)と夜(よ)さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いてるのであろう?
その声は、空より来(きた)り、
空へと去るのであろう?
天は地を蓋い、
そして蛙声(あせい)は水面に走る。
よし此(こ)の地方(くに)が湿潤(しつじゅん)に過ぎるとしても、
疲れたる我等(われら)が心のためには、
柱は猶(なお)、余りに乾いたものと感(おも)われ、
頭は重く、肩は凝(こ)るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走って暗雲(あんうん)に迫る。
(「新編中原中也全集」第1巻より。新かなに変えてあります。編者。)
◇
直接に関係ありませんが
中也がこの詩を歌った時代を
茨木のり子は呼吸していたのでした。
同時代を生きた時間があったのです。
◇
途中ですが
今回はここまで。
« 茨木のり子「詩のこころを読む」を読む・金子光晴の「寂しさの歌」再3 | トップページ | 谷川俊太郎の14歳と金子光晴の三つの戦争/同時代について・2 »
「110現代詩の長女/茨木のり子の世界」カテゴリの記事
- 折に触れて読む名作・選/茨木のり子「六月」(2016.02.28)
- 折に触れて読む名作・選/茨木のり子「最上川岸」(2016.02.27)
- 折に触れて読む名作・選/茨木のり子「鯛」(2016.02.26)
- 折に触れて読む名作・選/茨木のり子「鶴」(2016.02.25)
- 茨木のり子の11歳と中原中也「蛙声」/同時代について(2015.06.15)
« 茨木のり子「詩のこころを読む」を読む・金子光晴の「寂しさの歌」再3 | トップページ | 谷川俊太郎の14歳と金子光晴の三つの戦争/同時代について・2 »
コメント