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2015年6月12日 (金)

茨木のり子「詩のこころを読む」を読む・金子光晴の「寂しさの歌」再3

(前回からつづく)

 

貧困のさびしさ、世界で一流国とは認められないさびしさに、耐えきれなかった心たちを、上手に釣られ一にぎりの指導者たちに組織され、内部で解決すべきものから目をそらさされ、他国であばれればいつの日か良いくらしをつかめると死にものぐるいになったのだ
(岩波ジュニア新書「詩のこころを読む」)

――と茨木のり子が記した「上手に釣られ」の「釣られ」という言葉は

「寂しさの歌」の最終連(第4連)の冒頭に、

 

遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもってきたんだ。

君達のせいじゃない。僕のせいでは勿論ない。みんな寂しさがなせるわざなんだ。

寂しさが銃をかつがせ、寂しさの釣出しにあって、旗のなびく方へ、

母や妻をふりすててまで出発したのだ。

かざり職人も、洗濯屋も、手代たちも、学生も、

風にそよぐ民くさになって。

 

――とある「寂しさの釣出し」を受けたものです。

 

 

上手に釣られ、組織されたのは、

貧しさゆえのさびしさや

一流国と認められないさびしさが狙われたもの。

 

丁度、エサで魚が釣られるように

さびしさが釣り出しに利用された。

 

エサに釣られてパクリとやる呼吸で

他国を攻めた戦争。

――と、釣る人間、釣られる魚、そして釣られる人間の関係を金子光晴の詩に読みました。

 

 

茨木のり子は「釣出し」を噛み砕いて

さらに卑近な例をあげます。

 

 

さびしさにいたたまれなくなって、

友人に電話して声をききたくなったり、

旅に出たり、

衝動買いをしてしまったり、

……というような身近な例。

 

そういうことなら自分を許してあげることができますが

もっと大事なことで決断する時、

出所進退を明らかにしなければならない時、

そんな時こそ注意しなくちゃ。

 

寂しさの釣出しは

まずおいしいエサとして目の前にぶら下げられるので

パクリとやってしまいますしね。

 

いつも戦争という形でやってくるものでもないので

油断できませんよ。

――と(こんな詠嘆詞を使っていませんが)

語りかけるような口調で述べています。

 

 

「寂しさの歌」はエンディング(結部)に差し掛かり

詩人が孤絶する中で最も強く感じていた本当の寂しさについて

次のように吐露(とろ)します。

 

 

僕、僕がいま、ほんとうに寂しがっている寂しさは、

この零落の方向とは反対に、

ひとりふみとどまって、寂しさの根元をがっきとつきとめようとして、世界といっし

ょに歩いているたった一人の意欲も僕のまわりに感じられない、そのことだ。その

ことだけなのだ。 

(昭和20・5・5 端午の日)

 

 

第1連、第2連、第3連、そして第4連と歌われてきた

寂しさの風景と

第4連の最終節で歌われる寂しさとは

まったく異なる寂しさがここで歌われているように見えます。

 

そうだとすれば

詩人は同じ仲間の詩人たちや

詩人でなくとも知識人・文化人のことを嘆いたのでしょうか?

 

 

そのように読むことは大いに可能で

この詩が終わって

末尾に「昭和20・5・5 端午の日」とある日付が

そのことを語って余りあるからです。

 

この日付の日に

敗戦の色は濃かったのですし

戦争の原因となり動力となった寂しさの風景は

もはやすでに後の祭り。

 

そんな寂しさなんか、今はなんでもない寂しさであったのですし

やがては終わるであろう戦争の根っ子にあるものは

これからもあり続けるのであろうし

そのことを「がっき」と受け止めて

世界の人々とともに歩んでいこうとする意欲のあるものが

僕の周辺には今いない、

そのことが寂しい――。

 

ここに唐突な感じで現れる「世界」は

「日本」の彼方にあるものであることは疑うことができませんから

それは「西洋」と読み替えてもよい彼方を指します。

そう読んでもおかしくありませんし 

戦争が終わって後のこの国の風景をも

最終連のこの最終句は見透かしているのかもしれません。

 

 

国家に言及した冒頭のニーチェのエピグラフ(序詞)に呼応する最終句を

茨木のり子はキャッチしたのでしょう。

 

パスポートなしでどんなところにも行ける

はるか彼方を夢みさせてくれる詩であることを述べて

「寂しさの歌」を読み終えます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

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