茨木のり子「詩のこころを読む」を読む/谷川俊太郎の「愛」へ・その2
(前回からつづく)
「愛」には
「Paule Kleeに」という献辞がつけられています。
クレーの絵の一つを見ているのか、
何枚か見たのか。
クレーという画家(の存在)へ向けて贈ったものか。
そのどちらでもあるのか。
「二十億光年の孤独」から3年後の「愛について」で
「愛」を歌った詩人は
副題にパウル・クレーへのオマージュ(賛歌)を付したのです。
◇
茨木のり子はそこのところを
クレーの絵の何かを見てハッとし、それにうながされて出来あがったからでしょうか、しかし、作者はここで自分自身をもよく語ってしまっています。詩を書くいわれ、、そして、覚悟のようなものを。
――と書いて、谷川俊太郎のアウトラインを語りはじめます。
18歳くらいからはじめた詩作は
「かなしみ」のような自然発生的に生まれるナイーブさにはじまり、
だんだん自覚的なものになっていった。
学校嫌いの結果、高校卒。
大学は行けるのに行かなかった、という流れのハシリ的存在だった。
――などと詩人の誕生課程を手短かに語り、
◇
荒廃した世相のなかで、
みんな打ちひしがれて、しょぼくれて、絶望的な詩ばかりあふれていた時、
そんな世の中でもたしかに存在する、
自分のたった1回きりの青春を思うさま謳歌しました。
(岩波ジュニア新書「詩のこころを読む」より。改行を加えてあります。編者。)
――と青春を謳歌した詩人像を浮きぼりにします。
この部分は前に一度引きましたが
詩や生き方や経歴などへの世間の風当たりは強く
賛嘆の声があがるいっぽうきびしいものもあったのです。
◇
詩壇での評価をここで詳しく見るわけにはいきませんが
詩人で評論も書く北川透が
「危機のなかの創造――谷川俊太郎論」のなかで、
それにしても、谷川俊太郎はまともに論じられることの少い詩人である。
第一級の詩人や思想家はなぜ、現代詩と人間状況の危機をもっとも鋭敏に反映している詩人の一人として、谷川俊太郎の詩を緻密な批評の俎上にのせないのだろうか。
――などと不満気に書いたのは1965年のことです。
(「現代詩手帖」同年5月号、後に「詩と思想の自立」所収。)
「二十億光年の孤独」が1952年。
「六十二のソネット」が1953年。
「愛について」が1955年。
北川透のこの評論は
時事風刺詩を集めた「落首九十九」(1964年)の刊行をきっかけに書かれたものでした。
◇
この評論をたまたま読んだのですが
これにどのような反響があったのでしょうか。
「詩のこころを読む」が刊行されたのは1979年でしたから
北川透の谷川俊太郎評価は
早い時期に属するものだったのでしょう。
◇
しゃにむに書いてゆくうち、なんのために生まれてきたか、自分はどんな詩を書いてゆくべきかがつかめてきたように見えます。
――と茨木のり子が記すのは
詩の同人誌「櫂」を通じて
身近な交流を続ける中での観察も含まれているからのことでしょう。
◇
これを、詩人の覚悟というふうに茨木のり子はとらえました。
覚悟の定まった域に入って出されたのが
第3詩集「愛について」でした。
「愛」は
その詩集の主旋律を形成する詩ということになります。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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