茨木のり子「詩のこころを読む」を読む/谷川俊太郎の「愛」へ・その3
(前回からつづく)
この世には面(おもて)をそむけるような残酷なことが平然とおこなわれ、
その反面、涙のにじむようなやさしさもまた、人知れず咲いていたりします。
(岩波ジュニア新書「詩のこころを読む」より。)
◇
世界は、
断ち切る力(残酷な)=前者と
結ばれる力(やさしさ)=後者が渦を巻いている。
芸術は、
結ばれようとする力(後者)を形にする精神活動の一つ。
茨木のり子は
「愛」の独自な読みに入り
このような解を述べます。
「愛」の最終行、
世界に自らを真似させようと
やさしい目差でさし招くイマージュ。
――とある「イマージュ」を読み解くために。
◇
イマージュ。
それはたとえば、
モーツアルトを聴く時に全身をひたしてくる、この世ならぬ恍惚感、とか
百済観音(くだらかんのん)のほほえみに引き寄せられるこころ、とか
舞踏の跳躍や静止の瞬間に魂をうばわれる時、とか。
これらを
誘い出すもの。
その力。
そのやさしさ。
クレーの絵にあるものも
このイマージュ。
このやさしさ。
――と「愛」が歌うところを読むのです。
◇
詩は
クレーの絵のただ中にいきなり入って
クレーの世界にいる状態を歌っているようですが
終わりになって
そんなにいつまでもひろがってゆくイマージュがある
やさしい目差でさし招くイマージュがある
――という詩行にぶつかっては
クレーの絵を距離をおいて見ている詩人が現われることになります。
◇
ここで詩人は絵の外側にいて
怜悧(れいり)な眼差しを絵に向けています。
茨木のり子のいう
詩のありか、詩人の覚悟が
ここに姿を現わします。
◇
谷川俊太郎のクレーとの出会いは
やがて「クレーの絵本」や「クレーの天使」を生みますし
「モーツアルトを聴く人」の挿画や表紙にクレーを使うなど
繰り返し繰り返し登場しますし
詩作の重要な契機(エレメント)になり
モチーフになりヒントになりテーマになります。
「愛」を書いたときには
啓示といえるようなものだったのかもしれません。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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