カテゴリー

2024年1月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« 2015年6月 | トップページ | 2015年8月 »

2015年7月

2015年7月23日 (木)

茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む/岸田衿子・「別れ」の流れ・続

(前回からつづく)

 

石垣りんから永瀬清子という流れは

実はすでに「峠」の章で見られました。

 

「峠」では

はじめに岸田衿子の「小学校の椅子」から入り

「一生おなじ歌を歌い続けるのは」を読み

安西均、吉野弘を読んだ後に

石垣りんの「その夜」と「くらし」を読み

永瀬清子の「諸国の天女」を読んで

河上肇で締めくくったのですが

石垣りんから永瀬清子への流れについては

先にこのブログでも読解を試みました。

 

 

はじめは気がつかなかったのですが

一通り読み通してみて

似通った風景があることを知り

ページをめくり返してみると

一度読んだ詩人が再び現れるというつくり(構造)がくっきりしてきたのです。

 

そこに茨木のり子の思い入れが

ないはずがありません。

 

すべての詩人がそうであるものではありませんから

そうと指摘できるのですが

本のページ順に従わないでも読めるのは

このような構成のためです。

 

この構成こそは茨木のり子のたくらみ(意図)にほかなりません。

 

 

「峠」では

石垣りん、永瀬清子の次に読むのは河上肇ですが

「別れ」では

石垣りん、永瀬清子の次には中原中也の「羊の歌」を読み

最後に岸田衿子の「アランブラ宮の壁に」を呼び出し

エンディングとします。

 

 

茨木のり子は中原中也の「羊の歌」をどう読んだか。

岸田衿子の「アランブラ宮の壁に」への流れを見るためにも

どうしてもそのところに触れないわけにはいきません。

 

 

「羊の歌」は

5節で構成される長詩ですが

茨木のり子が読むのは第1節に限ります。

 

ほかの節は駄作とし

一向に目をくれようともしません。


その第1節――。


羊の歌

        安原喜弘に

 

  祈 り

 

死の時には私が仰向(あおむ)かんことを!

この小さな顎(あご)が、小さい上にも小さくならんことを!

それよ、私は私が感じ得なかったことのために、

罰されて、死は来たるものと思うゆえ。

 

ああ、その時私の仰向かんことを!

せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

 

(「詩のこころを読む」より。「新かな」に変えました。編者。)

 

 

茨木のり子が

この詩の最終行

せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

――に終始目を向けるのは

「感受性の詩」を歌った詩人ならではのこだわりであり

ジャストミートです。

 

ここでその詩を思い出してみましょう。

 

 

自分の感受性くらい

 

ぱさぱさに乾いてゆく心を

ひとのせいにはするな

みずから水やりを怠っておいて

 

気難しくなってきたのを

友人のせいにはするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか

 

苛立つのを

近親のせいにはするな

なにもかも下手だったのはわたくし

 

初心消えかかるのを

暮らしのせいにはするな

そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

 

駄目なことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄

 

自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ

 

(ちくま文庫「茨木のり子集 言の葉2」より。)

 

 

「感じる」と「感受性」は同じことでしょうから

同じことに関心を寄せていた詩人が

ここで火花を散らすことになります。

 

 

途中ですが

今回はここまで。


2015年7月21日 (火)

茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む/岸田衿子・「別れ」の流れ

(前回からつづく)

 

「詩のこころを読む」の最終章「別れ」は

石垣りんの「幻の花」

永瀬清子の「悲しめる友よ」

中原中也の「羊の歌」

岸田衿子の「アランブラ宮の壁の」

――の4作を読んで

エンディングとしています。

 

この流れが

絶妙の選択であることは

読んでみればわかることですが

その絶妙さをここで説明することは

不可能ではなくても

過剰であり無用なことでしょう。

 

 

石垣りんから永瀬清子へ

永瀬清子から中原中也へ

中原中也から岸田衿子へ。

 

「別れ」の章を

ほかの詩人の詩を選んで書くことができたはずなのに

この4人の詩で締めくくったのには

茨木のり子の「死」への思いが特別に込められた表れと見ることができるでしょう。

 

茨木のり子にしか書けない「別れ」がここに書かれたのでしょうし

茨木のり子だから書ける「別れ」が書かれたのでしょうし

茨木のり子ですら書くことが難しい「別れ」が書こうとされたのでしょう。

――というほどに未知の領域である死についての

一人の詩人の体重がかかっているような章です。

 

わかりやすく言えば

自ら経験することのできない死について

詩人は想像力を総動員して

この件(くだり)を書いたに違いないということです。

 

生と死に関する思いのすべて(死生観)が

そこに表われることになるでしょう。

 

 

「詩のこころを読む」を書いた1979年に

茨木のり子は52歳。

 

他界したのは2006年でした。

 

茨木のり子がどのような死を迎えたかを

すでに知っている読者は

「別れ」の章を読みながら

幾重にも重なる「死」へのイマジネーションを追体験します。

 

死後に発見され広く知られることになった遺書の言葉と

詩作品の言葉が

あたかもクロスするようなたくまれざる仕掛けに驚かされもします。

 

 

茨木のり子が2002年に発表した「行方不明の時間」を

ここで読んでみましょう。

 

この詩は

「茨木のり子集 言の葉」(筑摩書房)の刊行に合わせて

書き下ろされたものです。

 

 

行方不明の時間

 

人間には

行方不明の時間が必要です

なぜかはわからないけれど

そんなふうに囁(ささや)くものがあるのです

 

三十分であれ 一時間であれ

ポワンと一人

なにものからも離れて

うたたねにしろ

瞑想にしろ

不埒(ふらち)なことをいたすにしろ

 

遠野物語の寒戸(さむと)の婆のような

ながい不明は困るけれど

ふっと自分の存在を掻き消す時間は必要です

 

所在 所業 時間帯

日々アリバイを作るいわれもないのに

着信音が鳴れば

ただちに携帯を取る

道を歩いているときも

バスや電車の中でさえ

<すぐに戻れ>や<今 どこ?>に

答えるために

 

遭難のとき助かる率は高いだろうが

電池が切れていたり圏外であったりすれば

絶望はさらに深まるだろう

シャツ一枚 打ち振るよりも

 

私は家に居てさえ

ときどき行方不明になる

ベルが鳴っても出ない

電話が鳴っても出ない

今は居ないのです

 

目には見えないけれど

この世のいたる所に

透明な回転ドアが設置されている

無気味でもあり 素敵でもある 回転ドア

うっかり押したり

あるいは

不意に吸いこまれたり

一回転すれば あっという間に

あの世へとさまよい出る仕掛け

さすれば

もはや完全なる行方不明

残された一つの愉しみでもあって

その折は

あらゆる約束ごとも

すべては

チャラよ

 

(ちくま文庫「茨木のり子集 言の葉3」より。)

 

 

今という今、2015年現在。

 

茨木のり子との「別れ」を終えてしまった読者は

そのことをダブらせながら

「別れ」の章を読もうとしているのですし

この本を読み終えようとしています。

 

 

このようにして

茨木のり子の死と出会い

詩(生)と出会うことにもなるのです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。


2015年7月15日 (水)

茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む/岸田衿子・誕生の風景その2

(前回からつづく)

 

関口隆克が「北沢時代以後」に記した共同生活については

関口自身が開成学園の生徒や教職員、父兄を前に話した講演でも触れられています。

同校の階段教室で1974年に行われたその講演が

録音されてあるのが幸いにも発見され

最近になってデジタル化されCDに収められています。

 

「関口隆克が語り歌う中原中也」とタイトルされたこのCDは

中原中也の終生の友人であった安原喜弘の子息・安原喜秀さんの編集で

日の目をみることになりました。

 

 

中也が関口らの住まいに引っ越してきた日のことが

面白おかしく懐かしく口述されている中に

岸田国士が散歩するシーンが語られるのですが

この散歩には国士の夫人が現れます。

 

「北沢時代以後」には現れなかった

国士の夫人・秋子(名前を持ち出しているものではありません)が

散歩に同道していたことが語られているのです。

 

1928年の春に

岸田国士が新妻とともに散歩している!

 

そこのところだけを

CDから起こしてみましょう。

 

 

(略)

それから奇妙な同棲生活がはじまった。ひばりが鳴くころでね、菜の花雲雀(ひばり)。

そういうような時期です。

岸田国士さんが奥さんと散歩しながら、しきりにフランス語の戯曲を日本語に直すという仕事とか、新しい戯曲を書いたりしてた。

灰田勝彦が、変な、ハワイ帰りなもんだから、変なウクレレなんか鳴らしちゃって、歌っているころです。

(略)

 

 

岸田国士は1927年に結婚。

 

衿子の誕生は1929年1月5日ですから

前年の、菜の花雲雀の季節には

新妻のお腹の中に新しい命が宿っていたことになり

それが衿子であることは確実でしょう。

 

 

さて――。

 

家の主である関口を残して

激論の続きに出かけた詩人と音楽家の卵二人の散歩は

もう一つの二人の散歩と鉢合わせすることはなかったのか?

 

 

音楽の音がどのように生成されるか。

 

諸井がとうとうと自説を述べると

中也は「名辞以前」を持ち出して応じ

果てしない議論を続ける二人の視界に

新妻の手を引く国士の姿が入る

 

しかし二人とも

男女がだれであるかを知る由もない

 

自ら吐き出す言葉にそそのかされるように

また言葉を紡ぎ出しては

相手に投げかける

 

見えている、聞こえている、のは

菜の花と雲雀。

 

――というようなことだったかもしれませんし

「スルヤ」発表演奏会にむけた段取りを練っていたのかもしれません。

 

 

中原中也は

菜の花や雲雀を好んで歌っています。

 

この散歩で目にした風景は

やがて「在りし日の歌」にある「春と赤ン坊」や「雲雀」へと結ばれていった

――ということも根も葉もないことではありません。

 

二つの詩に出てくる菜の花、雲雀は

どこでも見られる春の田園風景ですから

北沢周辺の武蔵野風景であっても不思議ではなく

中也がこれらを制作した時に

かつて刻んだそのイメージが混入したというのも自然なことのはずです。

 

 

春と赤ン坊

 

菜の花畑で眠っているのは……

菜の花畑で吹かれているのは……

赤ン坊ではないでしょうか?

 

いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です

ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です

菜の花畑に眠っているのは、赤ン坊ですけど

 

走ってゆくのは、自転車々々々

向(むこ)うの道を、走ってゆくのは

薄桃色(うすももいろ)の、風を切って……

 

薄桃色の、風を切って

走ってゆくのは菜の花畑や空の白雲(しろくも)

――赤ン坊を畑に置いて

 

 

雲雀

 

ひねもす空で鳴りますは

ああ 電線だ、電線だ

ひねもす空で啼(な)きますは

ああ 雲の子だ、雲雀奴(ひばりめ)だ

 

碧(あーお)い 碧い空の中

ぐるぐるぐると 潜りこみ

ピーチクチクと啼きますは

ああ 雲の子だ、雲雀奴だ

 

歩いてゆくのは菜の花畑

地平の方へ、地平の方へ

歩いてゆくのはあの山この山

あーおい あーおい空の下

 

眠っているのは、菜の花畑に

菜の花畑に、眠っているのは

菜の花畑で風に吹かれて

眠っているのは赤ん坊だ? 

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変えてあります。編者。)

 

 

岸田衿子・ゼロ歳の風景。

 

――といえばオーバーイメージになりますが

つながっているものは痕跡のようなものながら

感じられようものです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

 

2015年7月14日 (火)

茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む/岸田衿子・誕生の風景

(前回からつづく)

 

岸田衿子(きしだえりこ)は

劇作家・岸田国士(きしだくにお)の長女として1929年1月5日に生まれました。

 

国士が訳したジュール・ルナールの「にんじん」は

国語の教科書で高校時代に親しんだ記憶をもっている人が

たくさん存在するのではないでしょうか。

 

衿子の母は秋子、

国士との間の第一子でした。

 

妹の今日子は1930年に生まれています。

 

 

岸田衿子が誕生した1929年。

 

中原中也の年譜を見ていて

あっと驚く発見をしたので

ここにそれを記しておこうと思います。

 

 

中原中也が

昭和3年(1928年)9月から翌4年(1929年)1月までの間

東京・下高井戸に住んでいた関口隆克、石田五郎の共同生活に参加したことは

中也の読者はよく知っていることでしょう。

 

この暮らしの中で

「みつばのおひたし」を得意げに作る詩人の姿を

鮮やかに焼き付けている人も多いことでしょう。

 

 

関口隆克は後に東京・開成学園の校長になる教育畑の人物ですが

昭和3年春に

中原中也は音楽家の道を歩んでいた諸井三郎を通じて知り合い

二人して訪れた関口らの住居と暮らしぶりが気に入って

この年の9月に所帯道具一式を下高井戸の一軒家に運んで

関口、石田五郎との共同生活に仲間入りしたことは

関口の「北沢時代以後」などに詳しく書かれています。

 

 

「北沢時代以後」(「文学界」昭和12年12月号初出)は

中原中也の追悼文として書かれました。

 

「みつばのしたし(おひたし)」が好物だったことや

「葱(ねぎ)お刻ざんだのを水に晒してソースをかけて食べる料理」を

中也が作って3人で食べたことなどが

楽しそうに懐かしそうに記録されていますが

この追悼文の書き出しは

諸井三郎が中也と議論しながら関口を訪れ

あいさつもそこそこに再び二人は議論を続けるために散歩に出かけたという印象的なシーンではじまっています。

 

二人の来客に相手にもされずに

この時病あがりだった関口が

中也から渡された「山羊の歌」の草稿は

関口を感激させるのに十分な代物(しろもの)でした。

 

「北沢時代以後」の書き出しの部分を読んでみましょう。

 

 

昭和3年の春、僕は長い友達の石田五郎と二人で自炊生活をしていた北沢の家で、盲腸炎を患った。石田は朝早く出勤して了い、僕は唯一人仰臥して新宿から通って来る派出婦を待っていた。よく晴れた日で雲雀の声が聞え、庭つづきの道を、岸田国士氏がゆっくり行き帰りしていられる姿が見えた、門が開いたので派出婦かと思ったら、諸井三郎が見知らぬ客と這入って来た。それが中原であった。

 

(「新編中原中也全集・別巻<上>より。「新かな」に変えました。編者。)

 

 

3人の共同生活は9月にはじまりますが

春3月に関口隆克と中原中也は初対面だったのです。

 

その印象が強烈であったこともあって

天高く雲雀(ひばり)がさえずり

菜の花が青空を染めるこの時期のことを

関口は生涯忘れることはなかったのでありましょう。

 

 

春に訪れ

秋に共同生活に参じた。

この春こそ

昭和3年、1928年で

岸田衿子の生まれる前年でした。

 

国士は、

1927年に37歳(11月2日生まれ)で

村川秋子と結婚しました。

  

北沢風景の中を散歩する岸田国士。

新妻の秋子のお腹には

新しい命が宿っていました。

 

その命こそ、衿子でした。

  



途中ですが
今回はここまで。

 

 

 

 

2015年7月12日 (日)

茨木のり子「詩のこころを読む」を読む/岸田衿子のエキス

(前回からつづく)

 

小学校の椅子 

 

ながいながい一生のあいだに

みじかいみじかい一瞬に

だれでも いちどは

ここへ戻ってくる

みんながいなくなった教室

さわるとつめたい 木の椅子に

 

 

一生おなじ歌を 歌い続けるのは

 

一生おなじ歌を 歌い続けるのは

だいじなことです むずかしいことです

あの季節がやってくるたびに

おなじ歌しかうたわない 鳥のように

 

(岩波ジュニア新書「詩のこころを読む」より。)

 

 

茨木のり子は

「生きるじたばた」に続く「峠」の章で

まず岸田衿子(きしだえりこ)の二つの詩を

詩集「あかるい日の歌」から紹介し、

峠について案内します。

 

 

茨木のり子のいう峠とは、

 

汗をながしながらのぼってきて、うしろを振りかえると、過ぎこしかたが一望のもとにみえ、これから下ってゆく道もくっきり見える地点。

 

荷物をおろし、つかのま、どんな人も帽子をぬぎ顔などふいて一息いれるところ。

 

年でいうと、四十代、五十代にあたるでしょうか。

 

峠といっても、たった一つというわけではなく、人によっては三つも四つも越えてゆきます。

 

――ということです。

 

 

眺望がきく年代にさしかかった詩人の仕事を集める――。

 

その「峠」の冒頭に

岸田衿子を置いてイントロダクション(導入部)とし

同時に岸田衿子という詩人を

これほど短い言葉で鷲づかみにできるものかと唸(うな)らせるほど

簡単にズバリと案内してみせます。

 

いわく――

 

岸田衿子には自分だけの音符というものがはっきりあって、たえず独特の音楽が鳴っています。

 

本も新聞もおよそ読まない人ですが、知恵の木の実は、自然の野山から、人との交流から、ふんだんに採(と)っていて書斎派(しょさいは)とは無縁です。

 

子供を二人育てながら文筆で立っていますが、男の子の友達の、お父さんなる人が行商(ぎょうしょう)をやっているのについていって、道ばたでイカノスミトリ器やホーキーという掃除具を一緒に売りさばきながら岩手県をさすらっていたり、かと思うと、スイスの片田舎でパイをたべていたりします。

 

 

詳しい事実はわかりませんが

岸田衿子という詩人のエキスが詰め込められているような冴えを

ここに見る思いがしませんか?

 

「峠」の冒頭に岸田衿子を置いたのは

次の章であり最後の章である「別れ」の終わり(というのは、この本の巻末ということです)に

岸田衿子の詩「アランブラ宮の壁の」を置いた意図とつながっていきます。

 

「詩のこころを読む」の最後の最後に岸田衿子の詩を置いて

エンディング(結び)とした意図は

それを読んでみればわかるのですが

誰もがこの本を読んでよかったと思える感動の仕掛けになっています。

 

 

――ということにはいま突っ込みませんが

岸田衿子を紹介する茨木のり子の

ペン先の冴え(筆致)を

ここではじっくり味わっておくことにとどめましょう。

 

「櫂」同人としての長い付き合いは

プライベートな交流にも及んだからでしょうか。

 

岸田衿子という詩人が

どういう詩人なのか

短い案内のなかに

すべて(というのはオーバーか)が言い表されているかのようで

このような文の類例を他に見ることは容易ではありません。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2015年7月 3日 (金)

茨木のり子「詩のこころを読む」を読む/谷川俊太郎の「愛」へ・その5

(前回からつづく)

 

 

 

よく読めば

 

「愛」に示されたイマージュの例示はほかにもあります。

 

 

 

塹壕(ざんごう)を古い村々に

 

空を無知な鳥たちに

 

お伽話を小さな子らに

 

蜜を勤勉な蜂たちに

 

世界を名づけられぬものに

 

――という詩行ですが、これらが、

 

いつまでも

 

どこまでも、や

 

むすばれている

 

たちきられている、や

 

そんなに

 

――などのルフラン(繰り返し)の中に置かれ

 

連で分割されない全行を

 

ブレス(息継ぎ)のヒマもなく

 

一気に読むことになるために

 

詩の塊(かたまり)にぶつかるような

 

濃密な時間を味わう仕掛けになります。

 

 

 

一語一語、一行一行は難解ではないけれど

 

一つ一つの結合が緊密にできているからか

 

これらの例示が詩の中に溶け込んでいて

 

しっかり読まないとイマージュを見失いがちになるほど滑らかなのは

 

まるでクレーの絵の構成そのもので

 

これも意図された技法の一つのようです。

 

 

 

比喩、メタファー、象徴などが洗練され

 

都会的、都市的なイメージを作り出す

 

これも新しさの一つでした。

 

 

 

 

 

 

谷川俊太郎は

 

日本美のなかに吸収されてしまう詩人ではない存在として登場したことが

 

これらのことからも理解できるのですが

 

茨木のり子は、

 

新緑のころ、窓々をあけはなち、

 

家中に風を通わせるように、

 

詩の世界でつぎつぎ窓をひらいていった

 

――とその新しさに言及します。

 

 

 

攘夷(じょうい)の名分で閉じた島国を

 

開国したようなものだった、と。

 

 

 

 

 

 

こうしてようやく

 

「寂しさの歌」と「愛」という二つの詩が双子座であると

 

茨木のり子が指摘する意味はじわじわと見えてきます。

 

 

 

 

 

 

「かなしみ」から「芝生」へ。

 

「芝生」から「愛」へ。

 

 

 

「詩のこころを読む」は

 

若者に向けて今から30数年前に書かれたものであるけれど

 

これから現代詩・戦後詩を読もうとしているすべての読者への扉の役割を

 

ますます大きくしている位置にあって

 

たとえば谷川俊太郎のこの詩3作への案内だけでも

 

この詩人を真芯に受け止める正確さは比類するものがありません。

 

 

 

海のように広がる現代詩の領域へ

 

スムースに誘導されていくことになります。

 

 

 

現代詩・戦後詩へのとっかかりの発条(ばね)として

 

安定し安心できるのは

 

茨木のり子の目利きの選択が大きいからですが

 

その上、

 

「かなしみ」「芝生」を読みながら

 

「愛」へたどり着く道のりに「寂しさの歌」を置いて

 

そのつながりを通過した(読んだ)という

 

(ここは繰り返すようですが、)

 

構成(プロセス)の手際(わざ)が冴えわたっているからでもあります。

 

 

 

 

 

 

「愛」は

 

「生きるじたばた」の章に配置され

 

この章は、

 

 

 

岸田衿子

 

牟礼慶子

 

黒田三郎

 

川崎洋

 

大岡信

 

工藤直子 

 

濱口國雄

 

岩田宏

 

石川逸子

 

金子光晴

 

谷川俊太郎

 

――という詩人が登場します。

 

 

 

「生きるじたばた」は第3章にあたりますが

 

これまで読んできたのは

 

この第3章の金子光晴「寂しさの歌」を起点に

 

つづく「愛」を読むために

 

 第1章にあたる「生まれて」冒頭の谷川俊太郎(「かなしみ」「芝生」)へ目を向け

 

谷川俊太郎の3作を読むという流れでした。

 

 

 

谷川俊太郎はこの本「詩のこころを読む」のトップに登場していることを

 

ここにきて気づいて

 

はじめあっと驚くのですが

 

すぐに成程(なるほど)と合点することになります。

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

« 2015年6月 | トップページ | 2015年8月 »