茨木のり子の「詩のこころを読む」を読む/岸田衿子・誕生の風景
(前回からつづく)
岸田衿子(きしだえりこ)は
劇作家・岸田国士(きしだくにお)の長女として1929年1月5日に生まれました。
国士が訳したジュール・ルナールの「にんじん」は
国語の教科書で高校時代に親しんだ記憶をもっている人が
たくさん存在するのではないでしょうか。
衿子の母は秋子、
国士との間の第一子でした。
妹の今日子は1930年に生まれています。
◇
岸田衿子が誕生した1929年。
中原中也の年譜を見ていて
あっと驚く発見をしたので
ここにそれを記しておこうと思います。
◇
中原中也が
昭和3年(1928年)9月から翌4年(1929年)1月までの間
東京・下高井戸に住んでいた関口隆克、石田五郎の共同生活に参加したことは
中也の読者はよく知っていることでしょう。
この暮らしの中で
「みつばのおひたし」を得意げに作る詩人の姿を
鮮やかに焼き付けている人も多いことでしょう。
◇
関口隆克は後に東京・開成学園の校長になる教育畑の人物ですが
昭和3年春に
中原中也は音楽家の道を歩んでいた諸井三郎を通じて知り合い
二人して訪れた関口らの住居と暮らしぶりが気に入って
この年の9月に所帯道具一式を下高井戸の一軒家に運んで
関口、石田五郎との共同生活に仲間入りしたことは
関口の「北沢時代以後」などに詳しく書かれています。
◇
「北沢時代以後」(「文学界」昭和12年12月号初出)は
中原中也の追悼文として書かれました。
「みつばのしたし(おひたし)」が好物だったことや
「葱(ねぎ)お刻ざんだのを水に晒してソースをかけて食べる料理」を
中也が作って3人で食べたことなどが
楽しそうに懐かしそうに記録されていますが
この追悼文の書き出しは
諸井三郎が中也と議論しながら関口を訪れ
あいさつもそこそこに再び二人は議論を続けるために散歩に出かけたという印象的なシーンではじまっています。
二人の来客に相手にもされずに
この時病あがりだった関口が
中也から渡された「山羊の歌」の草稿は
関口を感激させるのに十分な代物(しろもの)でした。
「北沢時代以後」の書き出しの部分を読んでみましょう。
◇
昭和3年の春、僕は長い友達の石田五郎と二人で自炊生活をしていた北沢の家で、盲腸炎を患った。石田は朝早く出勤して了い、僕は唯一人仰臥して新宿から通って来る派出婦を待っていた。よく晴れた日で雲雀の声が聞え、庭つづきの道を、岸田国士氏がゆっくり行き帰りしていられる姿が見えた、門が開いたので派出婦かと思ったら、諸井三郎が見知らぬ客と這入って来た。それが中原であった。
(「新編中原中也全集・別巻<上>より。「新かな」に変えました。編者。)
◇
3人の共同生活は9月にはじまりますが
春3月に関口隆克と中原中也は初対面だったのです。
その印象が強烈であったこともあって
天高く雲雀(ひばり)がさえずり
菜の花が青空を染めるこの時期のことを
関口は生涯忘れることはなかったのでありましょう。
◇
春に訪れ
秋に共同生活に参じた。
この春こそ
昭和3年、1928年で
岸田衿子の生まれる前年でした。
国士は、
1927年に37歳(11月2日生まれ)で
村川秋子と結婚しました。
◇
北沢風景の中を散歩する岸田国士。
新妻の秋子のお腹には
新しい命が宿っていました。
その命こそ、衿子でした。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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